
さて、今回も「長編ディズニーアニメーション」を公開順に鑑賞し、批評する「ディズニー総チェック」をやっていきたいと思います!
ということで今日は通算55作品目の『ズートピア』を取り上げます。
とにかく「パーフェクト」「非の打ち所がない」作品なので、語るのが大変ですが、今日も頑張って深堀りしていきたいと思います。
今作のポイント
- 過去のディズニー作品の「負」を精算する作品。
- ストーリー、物語構成、テーマ、全てが素晴らしい!
- 「新生ディズニー」の到達点!
目次
『ズートピア』について
基本データ
基本データ
- 公開 2016年
- 監督 リッチ・ムーア/バイロン・ハワード/ジャレド・ブッシュ(共同監督)
- 脚本 ジャレド・ブッシュ/フィル・ジョンストン
- 声の出演 ジニファー・グッドウィン/ジェイソン・ベイトマン
あらすじ
動物たちが暮らす大都会ズートピアで繰り広げられる、ディズニーのコメディ・アドベンチャー。
豪華なサハラ・スクエアのすぐ隣に、凍える寒さのツンドラ・タウンが広がるこの世界では、様々な動物が一緒に暮らしている。
ここでは巨大なゾウから小さなネズミまで、だれでも何にでもなれるのだ。
しかしいつでも前向きなジュディ・ホップスは、この大都会で壁にぶち当たることになる。
大きくて強い動物たちに混じって、ウサギ初の警察官として認められるのはそう簡単なことではなさそうだ。自分の力を証明するため、舞い込んできたチャンスに飛びついたジュディ。
ディズニープラスより引用
口の達者な詐欺師のキツネ、ニック・ワイルドと手を組み、事件の解決に挑む!
ディズニーが積み上げた歴史に潜む「負」を精算せよ

今作が目指したもの
ここまで1937年の『白雪姫』から、「ディズニー長編アニメーション」を順番に鑑賞・評論してきた。
その長い歴史で、これは仕方のないことだが、「現代にそぐわない価値観」「描写」の数々が作品内に描かれてきた、という点は折に触れて語ってきた。
その一つが「プリンセス像」だ。
「女性の幸せとは、男性に見いだされること」
そんな単純な構図は、現代の社会では通用する価値観ではなくなった。
だからこそ2006年以降の「新生ディズニー」は『プリンセスと魔法のキス』『塔の上のラプンツェル』『アナと雪の女王』という「新時代に相応しいプリンセス像」を再提示するに至ったのだ。
そして、このような「現代では通じない価値観」の描写の数々は、やはりディズニーの過去作では、様々なところで散見されている。
今作はそんな「ディズニー」が提示してしまった「現代では通用しない価値観」「偏見」「差別的」とも言える描写の数々を、自ら否定する構図になっている。
すなわち、これまで「長い歴史」で「偏見」を振りまく側であった過去の精算だとも言えるのだ。
その中でも特徴的なのは「キツネ」のキャラクター「ニック」だ。
元々、ディズニーの過去作『ピノキオ』において「ファウルフェロー」というキツネのヴィランを登場させた。
そのことで、ある種「キツネ」は「ずる賢い」というイメージをディズニーは振りまいたのだ。
ただし、過去作では「キツネ」を主役にした『ロビン・フッド』や『きつねと猟犬』
など、キツネをフューチャーしている作品は制作している。
しかし、いかんせん知名度が低いのだ・・・。
今作は、このように過去の精算という側面が非常に強いのが、まず第一の特徴だといえるのだ。
「差別」と「偏見」
そして今作のメインテーマはズバリ「差別」と「偏見」だ。
「草食動物」「肉食動物」が共存する世界。
その中心地である、ある種の理想郷「ズートピア」
そこに田舎から「警察官」になりたいという夢を持って飛び出してくる、「ウサギ」の主人公「ジュディ」
彼女は、物語の冒頭「警察官になりたい」という夢をイジメっ子のキツネ「ギデオン」に笑われる。
ちなみに「ギデオン」という名前は、『ピノキオ』のヴィランである「ファウルフェロー」の子分である「ネコ」の名前と同じだ。
「ウサギだから無理」
「小さい・弱いから無理」
ギデオンは鋭い爪でジュディをいじめ、夢を否定するのだ。
しかし、それはなにもギデオンだけではない。
ジュディの両親もそうだ。
もちろん娘のためを思ってだが、「夢を見ることはわるいことじゃない」でも「堅実に生きるべきだ」と、遠回しに「夢を追いかけること」を諦めるように諭すのだ。
これはある意味で「夢は呪いの側面がある」
つまり「夢破れ傷つくこと」「夢が叶わないと、それが呪いのように尾を引く」
そんなことに娘になってほしくない、そんな親心なのだ。
つまり、冒頭で「夢」に対して2つの「否定」が提示される。
1つ目は「差別的」な面。
2つ目は「親心的」な面だ。
これらは、ニュアンスは異なるが、でも結局は「諦めろ」という結論を強要しているのだ。
そんな周囲の声にも負けずジュディは「夢」を叶えることになる。
だけど、今作はそれでも彼女は「差別」という壁にぶつかることになるのだ。
「肉食動物」「草食動物」という「生物学的」な明確にある「区別」
それが「差別」になるのだ。
これは「人間」にも置き換え可能な構図だ。
仮にこの作品を「人間社会」で置き換えて描いたなら、とても「見てられない」ほどに辛い描写が目白押しなはずだ。
今作品は「擬人化」された「動物」の世界での「偏見・差別」をストレートに描いていく。
その中でジュディは、相棒となるニックと共に、その「差別・偏見」に打ち勝っていくのだ。
この事件解決の一連の流れは「クライム・サスペンス」「タイムリミットもの」として非常に秀逸で、見応えバッチリ!
そして中盤、ついにジュディとニックは事件を解決する。
つまり、その「差別・偏見」に見事勝利をするという、普通ならばここで「大団円」となっても”いいはず”の展開が描かれるのだ。
今作が秀逸なのは実はここからだ。
これまでジュディは幼少期、そして成長してから。
警察官になってからも、ずっと「差別」されて「偏見」の目で見られていた。
いわば彼女は社会の歪みの被害者だったのだ。
だけど、事件解決の記者会見の席で一転する。
ジュディの「”生物学的”に肉食動物が凶暴化」するという言葉で、今度は彼女が「加害者」となり「差別・偏見」を「ズートピア」に広めてしまうのだ。
そしてジュディは相棒であり、理解者でもあるニックと袂を分かつことになり、失意で警察官を辞職することになる。
今作はこれまでの「ディズニー作品」ならば「差別・偏見」に苦しむ主人公が、それに打ち勝つ。
その瞬間をゴールに設定していたはずだ。
だが、今作はそこから大きく踏み出していく。
つまり、これまで「被害者」だった側、それが「加害者」になることは、往々にしてある。
そのことにも踏み込んでいくことになるのだ。
これも現実社会で往々にしてあることだ。
サッカーフランス代表の選手が「日本人に対して差別てき発言」をしたというニュースは記憶に新しい。
その一人は黒人で、彼は「BLM」という「黒人差別に反対」という主張をしていた。
だが、所変われば、「差別発言」をしていた。
こうしてジュディの何気ない発言で、「ズートピア」では肉食動物に対して草食動物が「差別」をするということになっていくのだ。
理想がジュデイを立ち直らせる
そんな、失意のジュディを立ち直らせるものは「理想」だ。
故郷で傷心で過ごすジュディ。
そこで、幼少期分かり合えなかったジャイアン気質のキツネ「ギデオン」と再会する。
彼も元々は「ウサギ」を下に見ていたが、そのことを猛省しジュディの両親と仕事を共にしていたのだ。
そしてジュディは、ギデオンと和解する。
ここで彼女は再び「ズートピア」を、自分とギデオンのように。
「草食動物」「肉食動物」の垣根のない、動物たちの「理想の街」を取り戻したいという思いを抱くのだ。
さらには事件解決の鍵を故郷の農場で見つけ、「再び理想実現」のために「ズートピア」に戻り、ニックと和解する。

ということで、今作は見事に「差別・偏見」というものを「オモテとウラ」から描いているのが特徴だ。
最初は「差別・偏見」を受けるジュディが、それに立ち向かう構図だった。
普通であれば、逆境に立ち向かい「自己実現する」そのことで、物語の完結としてもいいはずだ。
だが終盤は、「自分でしでかしたこと」それに対して、きちんと向き合うという構図になっている。
これは、ある意味で現実を描いているといえる。
我々は「ただ被害者」になる、それだけではなく「加害者」にもなり得るのだ。
そうした危険は、現実にいくらでもころがっている。
深堀りポイント
さらにこの映画のフェアな点は、草食動物のコミュニティであろうとも、そこの中でも差別は生じているという点だ。
「差別されている」側でも、その内部では「差別している」ことが描かれる。
警察でもボゴ所長は「水牛」で草食動物だ、だが彼も最初は「ジュディ」に「偏見」を持っているし、「ニック」に対してもそうだ。
このように、差別・偏見はどこにでも生じるということを、この作品はフェアに描いている。
そしてそれは、僕らの世界でも全く同じだのだ。
今作は、そんな点をきちんと描くのだ。
確かに「起きたこと」それは変えることは出来ない、でもジュディは「勇気」で「間違いを認め」
そして、力を尽くし見事に「ズートピア」に平穏を取り戻す。
この流れは、ホント素晴らしいとしか言いようがない・・・。
ちなみに・・・
今作品を見たジブリの鈴木敏夫プロデューサーが、宮崎駿さんに「すごいの見ちゃった」と報告しにいくって微笑ましいエピソードもGOOD!
さらに深堀り! 動物界を見てみると・・・?

食べられる者、食べる者
現実の自然界を見ると動物は、2つのグループに分類されている。
- 「食べる側」=「肉食」
- 「食べられる側」=「草食」
こんなことは、誰もが知っていることだ。
さて、今作の監督を勤めたリッチ・ムーアー。
彼はインタビュー資料こんな発言している。
今作を作る為、自然公園で動物観察を行ったところ、「”食べる側”より”食べられる側”の方が実は圧倒的に多かった事に驚いた」と。
恥ずかしながらこの発言を読んで自分も驚いたうちの一人だ。
だが、よく考えれば確かにそれは事実だ。
我々は「力が強いから」という理由で、自然界を支配しているのは「食べる側」だと思いがちだ。
しかし、実は逆で「食べられる側」が世界では多数派であるのだ。
その事実が今作でも描かれている。
この作品で登場する多くの生き物は、草食動物で、少数の肉食動物に本能的に恐れを抱いているのだ。
ジュディが相棒であるニックと仲を深めた工程を描いた後も、ずっとキツネ除けを持っている。
視線が時折、ニックの爪を見ていたりするのも、その現れだ。
しかし作中の事件で「価値観」が全てがひっくり返るのだ。
本来「ズートピア」は「平等」であると社会が謳っておきながら、実は肉食動物たちを草食動物たちは本能では恐れている。
そして、肉食動物は、それを利用しているのだ。
ライオンハート市長(ライオン)に対してのベルウェザー(羊)がまさにそうだ。
彼は自身の政権支持率を草食系にまで伸ばして、盤石な政権を築くため、羊を副市長において、表立っては「より良い平等」を宣言しつつ、裏ではベルウェザーに雑務などを押し付ける。
それは副市長と言うよりも、奴隷のように扱いだ。
そんな状況が、蔓延している街で起こる怪奇事件。
原因がわからぬまま「肉食系」のみが野生化して同胞たちに牙をむくという事件が明るみになると、自身の政権崩壊を招くことを恐れた市長。
彼は暴走した動物を隔離病棟に閉じ込め事件を公表しなかった。
だが結果としてこの事件をジュディ達が解決してしまう事でもう一つの大事件が起きた。
弱き草食動物たちが一斉に立ち上がり、肉食動物を社会から締め出そうとしたのだ。
この作品の凄いのは一気に価値観の変化を描いたところである。
恐怖に駆られ差別が始まる。
今まで潜在的に「肉食動物」を恐れていた「草食動物」が、今度は、隣にいる「肉食動物」がいつ暴走するかわからぬ恐怖に駆られ、差別を始めたのだ。
案内係のおデブなチーター、クロウハウザーが、左遷され地下室勤務を強いられるようになったと落ち込む姿は、胸に詰まるものがあった。
そしてそんな揺れ動く社会にジュディは一度は絶望したが、紆余曲折ありながらもこの事件の首謀者がベルウェザーだったということを突き止める。
ベルウェザーは少数の肉食動物に差別される草食動物を救うために立ち上がり、肉食動物を野生回帰させていたのだ。
そして恐怖に駆られた草食動物を先導して肉食動物を消し去ろうとしていたのだ。
ライオンハートも自身の保身のために隠蔽していたのだが、恐らく自分たちの立場がいかに脆い上に成り立っていたのか知っていたのだ。
少数の肉食動物に対し、大多数の草食動物が襲いかかってきたら、勝ち目がないことを・・・。
草食動物に対して共通の敵を作り、恐怖に駆られた彼らを利用しての革命という恐ろしい真相・・・
でもそれは、今まで抑圧されていた現実を変えたいという願いともいえる。
このような「種の本能」として「草食」が「肉食」を恐れるという前提で出来上がった世界。
しかし実は、恐れている側の数が大多数だというアンバランスな世界。
そして「弱きもの」が「強き者」を打ち倒すのに必要な団結を煽る為、肉食動物を野生に回帰させる。
その上、同胞を襲わせ、肉食動物が突然襲い掛かって来るかも知れないという「偏見」を植え込ませる。
これだけ見ると、何とも陰鬱な展開だが、この展開を楽しい活劇として落とし込んでいるのも今作のポイントだといえるし、凄さなのだ。
それでも「違い」は素晴らしい!
今作はこれまでの「ディズニー」の「擬人化した動物」の物語と異なる点がある。
これまでのディズニー作品では、このような動物キャラの頭身を揃えるのが主流だった。
それこそ典型的なのは「ミッキー」たちだ。
彼らは基本的に投身が揃えられ、キャラ造形されている。
だが今作はそうではない。
「象」は大きいし、「キリン」も大きい。
でも「ネズミ」は小さくて、「ウサギ」も小さい。
要は「どうぶつの森」的なキャクター造形のアプローチをしていないのだ。
これは今作のメッセージでもある。
つまり、「差別・偏見」はダメだ。
でも「違い」「個性」は素晴らしいということを伝えているのだ。
だからこそ「ズートピア」の街全体のギミックや、例えば駅での通勤体系の多彩さなど、動物の個性に合わせた街の情景が描かれている。
この描写は「違い」があることの素晴らしさを、いきいきと描いていることにほかならない。
「違い」がある世界は、こんなにも「豊か」なんだ。
ジュディが駅から「ズートピア」を見回すシーンが冒頭用意されているが、このシーンに漂う高揚感は、そんなメッセージを我々に教えてくれている。
この街の描写からみても、今作の素晴らしさが伝わってくるのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
どこをとっても、完璧すぎる!!
ありえないクオリティ。
完全無欠なのがむしろ弱点!!
まとめ
マジで欠点のない、この作品はクライマックスの大オチも風通しがいいことも最後に触れたい。
誰しもの記憶に残る、ナマケモノのフラッシュは愛されるキャラだ。
何をしても遅いという特徴で爆笑をかっさらう「運転免許所」での一件は、当時の劇場内でも笑いが上がった。
この作品はテーマが重いが、そこに対する返答。
クライマックスのジュディの演説でもあるように、それに「正しい」答え。
正直「正しすぎる答え」を用意している。
だが、そこにフラッシュのオチを持ってくることで、「正しすぎなく」しているのだ。
「正しすぎること」は説教臭く聞こえてしまう危険もあるのだが、このオチがあることで、そこに一定の茶化しを入れている。
そのことで、その危険も取り除いている周到ぶり見事なものだ。
「差別」「偏見」というテーマを主題にしながら、それを茶化す「ユーモア」センス。
「個性」がある「違い」があることは、素晴らしいと伝えるバランス感覚。
全てにおいて際立っているクオリティの高さ。
何度も繰り返すが「完璧なバランス」で「スキがない」のが憎たらしい。
途中の「ゴッド・ファーザー」パロもすばらしく、ギャグのクオリティもかなりのものだ。
今回記事作成のために久しぶりに見たが、やはり「傑作」だと思い知らされた。
そして「理由なき恐怖にかられパニックになる」描写が、昨年のコロナ禍の日常で、現実にある光景として感じられてしまい、既視感が生じた。
時節柄、さらに評価が上がってしまったのだ。
全く恐ろしい映画だった。
そして「素晴らしい映画だった」
それ以上の言葉が見つからない。
まとめ
- 非の打ち所がないとは、まさに今作のこと!
- 「正しくしすぎない」のも見事!!