
今回はピクサー映画を公開順に鑑賞し、評論していく「ピクサー総チェック」
今回は9作品目となる『ウォーリー』
こちらを鑑賞しましたので、深掘り評論して行きましょう!
この作品のポイント
- なぜ『ハロー・ドーリー!』なのか?
- CGの人間と、実写の人間描写の謎
- 間違いなく傑作!
目次
『ウォーリー』について
基本データ
基本データ
- 公開 2008年
- 監督 アンドリュー・スタントン
- 脚本 アンドリュー・スタントン/ジム・リードン
- 出演 ベン・バート(サウンドデザイン)
あらすじ
生真面目なロボット、ウォーリーが奮闘する宇宙アドベンチャー。
何百年もの間たった独りで生きてきた、好奇心旺盛で愛らしいロボット、ウォーリー。
彼は、真っ白に輝くロボット、イヴと出会い新たな人生の目的を見つける。
ロボットや陽気な登場人物たちと一緒に、壮大な宇宙へ冒険に出よう!
ディズニープラスより引用
全ての描写に意味のある作品

なぜ『ハロー・ドーリー!』なのか?
この作品は前半が所謂「ディストピアSF」
後半が「宇宙空間でのSF」というように、舞台が大きく変化するのが特徴だ。
設定としては西暦2805年を舞台にしており、作中の冒頭で理由は明かされないが地球に人類は住んでいないこと。
ゴミだけが残され、破棄された都市部で摩天楼よりも大きなゴミのタワーなどが残されているなど、かなり荒廃した地球が描かれる。
ちなみにディズニー・ピクサーという括りでここまで「ゴキブリ(HAL)」フューチャーの作品も珍しい。
まさに「ディズトピア」的な世界観が提示される。
ディストピアとは?
文明や人類が死に絶える様を描いたり、あるいは文明が死に絶えた後の世界を描くもの。
そんな荒廃した世界で、今作の主人公であるゴミ処理ロボットWALL・E(ウォーリー)。
彼が一人(一台)寂しくゴミを処理しながら、失われた人類文明のカケラのような物を集めて生活していることが描かれる。
このあまりにも侘しい雰囲気が、今作の「ディストピア」的な面白さを際立たせる要因にもなっている。
さて今作を見進めていくと、「ピクサー」作品として異例の演出がある。
それが「実写映画」がそのまま使用されていることと、人間の「実写描写」だ。
この二つの「実写描写」は今作では大きな意味がある。
ということで、まずは「実写映画」の方から深掘りしていこう。
今作でウォーリーが住んでいる家があるのだが、ここで彼がお気に入りの映像を見ているのだが、これが1969年のアメリカ公開の映画『ハロー・ドーリー!』という作品だ。
作中でもウォーリーが『ハロー・ドーリー!』の傘を使ってのダンスシーンが特にお気に入りで、何度か繰り返し描写されるので、印象に残っている方も多いのではないか?
実はこの『ハロー・ドーリー!』という作品がウォーリーのお気に入りということには、作品テーマと密接な関係がある。
今作は人類が地球を捨て、宇宙で生活をしているという、古い世界からの旅立ち後の世界を描いている。
この『ハロー・ドーリー!』は豪華な配役に、かつてのニューヨークを再現したセットなど評価は高かったが、大コケしてしまった。
実はこの作品の大コケで大予算を組んでの、所謂昔ながらの「ミュージカル映画」ブームは下火になり、これから映画業界は「ニューシネマ時代」に移り変わっていく。
つまり古い時代から、新しい時代に映画業界がシフトしていく。
古き良きハリウッド時代の終焉。
それを象徴をする作品が『ハロー・ドーリー!』なのだ。
つまり、この作品のテーマである古い世界から、新しい世界に旅立った後の世界を描くのに、他の「ミュージカル映画」ではなく『ハロー・ドーリー!』だったことには意味がある。
というか、『ハロー・ドーリー!」でしか成立しないとも言えるのだ。
ポイント
- 古き時代の終焉を意味する『ハロー・ドーリー!』であることに意味がある!
実写の人間と、CGの人間
さて、今作の序盤や中盤で今作は、今までの「ピクサー」作品にはない描写をしている。
それがこの作中では過去の人物たちを「実写」の人間を使い表現していることだ。
これは製作陣によれば『ハロー・ドーリー!』を過去の映像として使用したため、そこに合わせて過去の人物を実写にしているという説明があるが、それ以上の意味が込められているのではないか?
それこそが、作中の現代の人間との差を描くためだ。
今作の時間軸で現代の人間は地球を捨て世代宇宙船「アクシオム」に乗って、地球の環境が改善するまで、数世代を宇宙空間を航行している。
そして重力のない宇宙空間で生きているために、世代を超えてどんどん肉体は変化していき、自立して立てず「デブ」になってしまったのだ。
メモ
ちなみにSF的観点でいうと「地球環境改善まで宇宙で過ごす」というのは、例えば『逆襲のシャア』のシャアの理論の具体化であったり、『ガンダム 閃光のハサウェイ』における「マフティー・ナビーユ・エリン」の主張そのものだったり、割とSFでは散見される設定ではある。
この人間の変化のビフォーアフターを描くのにこの描き分けは十分インパクトのあるものになっているのだが、実はこの効果だけを狙った演出でない。
実はこの未来の人間はどこまでも「ばか」なのだ。
地球を飛び去り700年以上も経ち、人間は機械である「AUTO」に完全にコントロールされていて、何から何まで管理され、自分たちで考えることを完全に辞めているのだ。
これは現代の問題でもあるのだが、理論もわからずに、ボタン一つで何かができる。
そういう時代になりつつある。
つまり「どうしてそれが可能か?」を考えず、結果「ボタンを押すと、できる」と物事を単純化して考えてしまうのだ。
すると人間はどんどん「思考」することをやめてしまう。
こうした状況が極限に達したのが「アクシオム」の住人であり、船長なのだ。
つまり、このCGでいかにも薄っぺらい表情。
そしてデブなのに、いかにも軽そうな質感は、まさに「考えなし」で「人工知能」に家畜化されていることを描いていることに他ならないのだ。
ちなみに先ほど世代宇宙船という話をしたが、これも「SFあるある」なのだが、地球から遠く離れて数世代を重ねながら航行する世代宇宙船の乗組員たちが、地球人としてのアイデンティティや、第1世代の持っていた目的意識と記憶を継承できないこと。
世代を重ねるうちに自分たちが宇宙船に乗っていることが忘れられてしまい、外の世界の存在を知らないまま飛び続けるなど、こうした問題が今作でも降り掛かってくる。
その際たる存在がB. マックリー艦長だ。
彼はEVEの持ち帰った「植物」を見ても、それが何かわからないし、そもそも「地球に帰るまでが計画」だったのに「地球」のことすら知らないのだ。
つまり、なぜ「宇宙船」にいるのか?
それすらも考えないほどに「ばか」になってしまっているのだ。
もちろん今作は子供向けだから、とはいえ「人間」にも希望を見出す作劇にはなっているが、かなりハードな問題を描いているとも言える。
そしてその問題は現代の我々にも降り掛かろうとしている問題なのだ。
ポイント
- 実写の人間、CGの人間の描き分けに「意図」がある
- CGの軽みで人間を描くのは、「家畜化」された象徴
ウォーリーの活躍、立ち上がる人類
今作は荒廃した地球で植物を探しにきたEVEとウォーリーの恋物語だ。
(機械だから性別とかないんだけど)
ずっと一人だったウォーリーがEVEと出会い、追いかけ続ける健気な姿に我々は感動させられる。
そして彼らが宇宙船「アクシオム」に合流してからは、チェイスものの様相を呈していく。
ちなみにその道中で「ロボットの精神科」のような場所から、虐げられた存在を解放していく様子は、「脱走もの」的な面白さある。

そしてその最中、心を通わせウォーリーとEVE。
二人の様子を見て人間が「人間性」を取り戻す様子が描かれるのも、脚本が非常にうまい点だ。
ここで最初にウォーリーに接触した人間、ジョン、メアリーは彼らの姿から「愛」という感情を取り戻すシーンもあり、ここも人間の「人間性」を取り戻す描写としてうまく機能している。
さらにB. マックリー艦長が立ち上がり「AUTO」に立ち向かう展開。
ここでリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が鳴り響くなど、『2001年宇宙の旅』の猿人類とモノリスの出会いのパロディを描くなど、過去のSF映画へのリスペクトを欠かさないなど、膝を打つ演出も多い。
この演出も、『2001年宇宙の旅』では人類の進化の一歩として描かれるが、今作でも人類が再び立ち上がる、再起の一歩として描かれるために、笑えるほどくだらないパロシーンだが、意味はきちんと抑えており見事だと言わざる得ない。
さらに今回のサウンドデザインで起用されているベン・バート。
彼は「スターウォーズシリーズ」でライトセーバーの起動音やR2-D2の電子音、ダース・ヴェイダーの呼吸音などを手がけるなど、SF映画のサウンド面での発展に大きく貢献した人物だ。
そんな彼を起用する判断もSF映画の進化の歴史という観点で見ると、これまた意味があるのだ。
まさに人員起用や演出、全てにSF的文脈の意味があるのが『ウォーリー』最大の特徴だと言える。
ポイント
- 演出、起用、すべてSF的意味がある
アニメとは?
最後にこの作品は「アニメ」として素晴らしいという話をしたい。
この作中の登場人物は全てロボットだ。
いわば鉄の塊なのだが、例えばゴミや自動的に動くロボットとウォーリーをきちんと演出し、あたかも感情を持ってウォーリーが動いているように見せる手腕は素晴らしいと言わざるを得ない。
さらに一度故障して全てのメモリを失ったウォーリーと、これまでのウォーリー。
明らかに「何かを失った」ことをきちんと明確に描いており、このうまさにも舌を巻かざるを得ない。
そしてそこに再び「心」が宿る。
まさに「命なきものに命があるように見せる」
これは「アニメの本質」なのだということを見せつけられるのだ。
「ディズニー総チェック」の『白雪姫』でも話したが、「アニメ」とはラテン語の「アニマ」が語源だ。
「アニマ」とは、ラテン語で「生命」「魂」 をさす言葉で「アニメ」とは、無の空間に命を持たない絵を描き、そこに生命を吹き込み、生き生きと動かして見せる技術である。
まさに命なき物に命を吹き込む、それが「アニメ」の本質なのだ。
今作はただのロボットであるウォーリーに宿るはずのない命を吹き込み、魅力的に描く。
まさに「アニメ」の真髄を描いた作品なのだ。
そういう意味では真の意味で「ピクサー」は「アニメクリエイト集団」なのだ。
ポイント
- 命なき物に「命を吹き込む」、「アニメ」の本質に触れた作品
今作を振り返って
ざっくり一言解説!
奇を衒った演出にも意味がある、SF映画史観からみても優秀な作品!
もちろん「アニメ」としても高品質の映画!
まとめ
今作は様々な演出に意味がある。
考えられて作られた作品だと感じた。
そして魅力的なキャラクターの右往左往に心奪われる。
アニマの本質とは何か?
という点を考え抜かれた作劇だとも言える。
さらにこの作品は、意地悪な側面も持っている。
エンドロールを最後まで見ると「ディズニー」「ピクサー」のロゴが出た後に「BNL(バイン・アンド・ラージ社)」のロゴがドンと現れる。
作中では、人間を家畜化させた張本人なのだが、このロゴが最後に出ることで「この映画でいろいろ考えた人は家畜になるかもよ」という意地悪な演出をしている。
どこまでも観客をおちょくる姿勢に、今作の設定が秘めている「悪趣味さ」を最後に味合わせてくれる。
いい意味で「やりやがったな」と言いたくなる切れ味も素敵な作品だった。
ということで、最後まで見逃せない『ウォーリー』
見たことない方は、ぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか?
まとめ
- 演出全てに意味・意図がある
- 隠された意地悪さが、素晴らしい!