
今週は「ピクサー」作品を公開順に鑑賞していく「ピクサー総チェック」を進めていきたいと思います。
ということで、今回はピクサー作品としては10作品目となる『カールじいさんの空飛ぶ家』を評論していきましょう!
この作品のポイント
- 開始10分で涙腺崩壊!
- 意外と賛否分かれる中盤からの展開
- 人生とは「苦さ込み」でもでも前進するもの!
目次
『カールじいさんの空飛ぶ家』について
基本データ
基本データ
- 公開 2009年
- 監督 ピート・ドクター/ボブ・ピーターソン
- 脚本 ボブ・ピーターソン/ロニー・デル・カルメン
- 声の出演 エドワード・アズナー
あらすじ
妻を亡くした78歳の老人は、思い出の詰まった小さな家にとじこもって暮らしていた。
開発地区にある彼の家の周囲では工事が進み、彼の住む区画だけが取り残されている。
やがて立ち退き要求を受け取った彼は、家にたくさんの風船をつけて人生最後の旅に出発。
いつか夫婦で行きたいと願っていた、地球上で最も美しいといわれる伝説の滝を目指す。
そんな彼の旅に、近所に住む好奇心旺盛な少年が乗り合わせてしまう。
Googleより引用
技術ありきから、映画ありきの時代へ

ピクサー新時代へ
ここまで「ピクサー総チェック」では、実はピクサーの技術の発展によって、作品テーマが決められていたという点を話してきた。
例えば『トイ・ストーリー』はそももそもCGアニメで長編絵アニメを描くという挑戦。
当時の技術では「おもちゃ」のプラスチック的な表現しか出来ないという理由で、題材が決定していた。
次作『バグズ・ライフ』では、昆虫の表皮ならば表現可能ということで、昆虫を題材にした。
毛並み表現のために怪物をテーマにした『モンスターズ・インク』
水中表現をできるようになった、だから『ファインディング・ニモ』
鉄の重量表現が可能になった、だから『カーズ』『ウォーリー』
このように、ここまでの歴史を辿るとピクサー作品は「技術」ありきで「物語」「題材」を決定していた傾向にあった。
つまり「技術」に「映画」が従属していたのだ。
しかし、今作は「ここが技術的ウリ」というポイントはあえてせず、2009年の時点でほぼ完成されきった「CG技術」を存分に使う。
どちらかといえば「物語」ありきで「技術」を使っている、つまり「映画」に「技術」が従属する関係に変化したのだ。
例えばカール・フレドリクセン、エリー、ラッセルはあえて三頭身デフォルメ強めで描かれるし、その他の人間も少なからずデフォルメされている。
つまり今作は実写的な造形アプローチをせず、あえて余裕を持って映画を作っているのだ。
これは実写映画でもそうだ。
例えば『アバター』もちょうど2009年の公開映画だが、この映画もCG技術を存分に使用された作品で、これ以降「CGでなんでも描ける」
つまり、映像単体のインパクトでは「驚けない」時代に入っていくのだ。
だからこそピクサーも、この辺りを境に「物語」を魅せていく方向にシフトしていくのだ。
涙腺を刺激する開始10分
今作最大の泣きポイントは、冒頭の10分であると言っても過言ではない。
ここでカールとエリーの子供時代の出会いから、そして結婚。
特徴は結婚後のエピソードは手際のいいサイレントで描かれるという点だ。
ここで彼らの40数年の時間経過を見つつ、子宝に恵まれなかった件。
そして、エリーが亡くなってしまい、カールが一人になってしまうという流れを一気に見せて、見ている側を引き込むのだ。
そして、そこから彼の置かれている「現実」を描くに至る。
なぜ、この感情移入が必要なのか?
それは、この先カールが「思い出」「過去」に強烈に縛られている存在であり、そこから解放される物語であるという展開のためというのが一番だ。
だが、もう一つの役割がある
もしもこの一連シーンないとカールという登場人物は、ただの偏屈じいさんでしかないからだ。
というのも、カールは古い家に住んでおり、周囲は再開発真っ只中。
立ち退き、地上げを要求されているが、頑なにこの地を離れようとしない。
その理由が冒頭に示されることで、なぜ彼が「この地」「この家」に執着するかが一目瞭然なのである。
ちなみにこの、回想シーンから続く一連のシーンは、まるで「夢」だったかのようなカールとエリーの幸せな日々から一転。
地上げ要求など、「現実」に直面するシーンになっている。
要は「夢」の日々を忘れられない、偏屈じいさん。
しかし現実には問題が山積しているが、そこには目を向けない。
最初のシーンがなければ、これは全く思い入れするのが難しいキャラクターだったと言えるだろう。
ちなみに、この映画、もちろん作品内「リアル」という言い方をさせてもらうが、明確な「死」を描き、そしてリアルな「血」を描写する。
これは、確かにデフォルメされたカール達だが、それでも血の通った人間だとして描いている証拠なのだ。
あと、あそこで「血」を鮮明に描くことで、中盤以降の荒唐無稽エピソードとのギャップをあえて生み出したとも言える。
中盤以降作劇が変化する
さて、この映画序盤はリアルに妻に先立たれた78歳の老人の味わうであろう孤独。
そして、現実の問題を描く。
だが、家が飛ぶという荒唐無稽な設定からもわかるように、物語は荒唐無稽な冒険映画にシフトしていく。
パラダイスフォールに行く。
果たせなかった妻との約束、幼少期からの約束を彼は一人で果たそうとするのだ。
しかしそこでラッセルという少年が偶然ついてきてしまったこと。
そしていざ滝間近に来ると、巨大な怪鳥ケヴィンが現れ、彼らとカールは共に旅をすることになる。
そしてしゃべる犬ダグと合流。
ここから彼らは、今作では過去に執着した男マンツに狙われるようになるのだ。
このマンツは、エリーとカールが幼少期に憧れた冒険家の一人だ。
彼は世間から元々は称賛をされていたが、ある冒険の成果を否定され、なんとか世間を見返してやりたいと、怪鳥の行方を追い続けていた。
今作で彼は過去に執着するという意味ではカールと鏡写の存在だ。
だからこそヴィランなのだが、彼の行動とカールの「家」に固執する冒険。
これは何一つ変わらない。
過去への執着の結果なのだ。
ただし二人には違いがあった。
それがエリー、ラッセルの存在だ。
ラッセルはカールがついぞ持てなかった息子がわりの存在のようになっていく。
ラッセルの過去を考えると、彼がケヴィンを家族の元へ返したい願いはわかる。
そのある種の純粋さは幼少期のカール、エリーに通ずるものがあるのだ。
そしてエリーの存在だ。
彼女が生涯大切にしていた「冒険ノート」に綴られていた一文。
これがある意味でカールが過去と決別する背中を押すきっかけになったのだ。

このシーンも序盤の流れがあったからこそ、活きる演出になってもいる。
要は話そのものは荒唐無稽な冒険活劇になっては行くものの、序盤から提示された、過去に縛られているカール。
その際たる象徴、家を手放して、ここから再スタートを切るという、過去の縛りからの解放の物語として実は一貫しているのだ。
そしてBGM。
こちらも序盤と冒険活劇シーンで実はメロディは同じものを使っている。
実はBGMを映画全体に一本線として通していると言えるのだ。
ある意味で白昼夢のような荒唐無稽な冒険だが、そこでカールは過去に囚われるではなく、そこから一歩踏み出し、新しい冒険に踏み出していく。
この作品は人生とは常に、苦さ込みで前進し続けるものだと語っているのだ。
考えれば過去のエリーとの「夢のような」、でも過ぎ去った日々。
そして、それを失って現れた、直視したくない「現実」
そんな「現実」から、さらに荒唐無稽さの増した「夢」のような冒険で、結局カールは「現実」を直視できるようになったとも言える。
そして、それができない存在はマンツのように破滅するかも知れない。
そんなメッセージが一貫して語られている。
非常にうまい映画だったとも言えるのだ。
あと、最後にラッセルについて触れておく。
彼は自然探検隊としてのランクアップ目指して「高齢者を助ける」ことを目的にカールに近づいて、とんでもない冒険に巻き込まれていく。
最初はそれが目的かと思われていたが、彼の真意は「ランクアップ」した際の表彰式で父親と会話したいということが明らかにされる。
彼の「父」に会いたい思いというのは、怪鳥ケヴィンを「家族の元へ送り届けたい」という思いと同じだ。
そんな彼が無茶を犯してマンツの飛空艇に潜入する、そんな姿を見てカールは彼の純真さに、おそらくエリーと出会った頃の過去を重ねた。
だからこそ「家=過去」を捨ててでも「彼=現在」を選ぶことができたのだ。
ラッセルの純粋さが、カールを変えたと言っても過言ではないし、ラッセルもまた、ついぞ現れなかった父親の影をカールに重ねることになる。

そしてカールもまた、持つことのできなかった「子供」の存在をラッセルから感じ取ることができたのだ。
そういう意味では、ラッセルの純粋さは、カールを変える大きな要因だったとも言える。
あと追加で言うならば「犬」の存在も見逃せない。
今作の犬は特殊な首輪で「話すことができる」のだが、あまりにも賢すぎる行動に笑ってしまう。
しかし「犬」が「犬らしさ」で敗北するという展開も非常に面白く、魅力的な犬映画的な側面もあるので、見どころがしっかりと用意されていたのも特徴だ。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!!
一本の映画として一貫している!
個人的には非常に完成度の高い作品だと感じた!
まとめ
今作はやはりサイレントでの泣かせの描写で、一気にカールに観客の心を感情移入させ、その後どうしようもない、色褪せた現実を描く。
その「現実」にまた彼が向き合うのは、ある種、荒唐無稽の「夢」のような旅の果てだ。
この映画は「夢」のような日々を忘れられないカールが、「現実」に打ちひしがれ、そこから「夢」のような冒険を経て「現実」と向き合う、一貫した作劇になっている。
このギャップに乗れるか、乗れないかで評価が大きく分かれるのだが、僕自身は納得の出来だったので大満足な一本だったと言わざるを得ない。
また、この作品以降「技術」ありきで「題材」を決めるのではなく「題材」ありきで「技術」を使う時代に変化していくのも見逃せない点だ。
いよいよ今作以降「ピクサー」は新時代を迎えるのだ。
まとめ
- 「技術」で「題材」を決める時代から、「題材」で「技術」を決める時代へ変化していく
- 作劇としてもカールが「現実」に再び向き合う過程をうまく描いている