
さて、今日から【PIXAR総チェック】を始めたいと思います。
こちらも【ディズニー総チェック】と同じく「公開順」に「評論」をしていきたいと思います。
ということで、最初はやはり説明不要の名作映画『トイ・ストーリー』を深堀りしたいと思います。
この作品のポイント
- 素人集団の起こした奇跡。
- 世界初の偉業に挑戦!!
- 申し分ない「PIXAR史上」最高傑作。
こちらの放送は「前段階」の予備知識となりますので、よければ聞いてみてくださいませ!
目次
『トイ・ストーリー』について
基本データ
基本データ
- 公開 1995年
- 監督 ジョン・ラセター
- 脚本 ジョス・ウィードン/アンドリュー・スタントン/ジョエル・コーエン/アレック・ソコロウ
- 製作総指揮 エドウィン・キャットマル/スティーブ・ジョブズ
- 声の出演 トム・ハンクス/ティム・アレン ほか
あらすじ
「トイ・ストーリー」は、子供たちが留守の間に動き出す、おもちゃたちが主人公のワクワクするファンタジー。
カウボーイ人形のウッディ(トム・ハンクス)と、宇宙ヒーローのアクションフィギュア、バズ・ライトイヤー(ティム・アレン)はライバル同士。
2人は張り合いながらも、それぞれのいいところを学んでいく。
そんな2人が持ち主のアンディとはぐれてしまうことに。
無事にアンディの元に戻るためには力を合わせて頑張るしかない。
ウッディとバズの大冒険が今始まる!
ディズニープラスより引用
不可能に挑戦せよ!

まさに「プロジェクトX」
今では当たり前だが、この『トイ・ストーリー』以前には、「長編3DCGアニメーション」というものは、存在していなかった。
それこそ1937年にウォルト・ディズニーが『白雪姫』を制作してから、「アニメ」とは「手描き」が主流だった。
だが、今作はそんな「アニメ制作」の方法論を全て変化させるきっかけになる作品となる。
今となってはポピュラーな手法になりつつある「3DCGアニメーション」
現在では手描きアニメの第一人者である「ディズニー」も「手描きアニメ」を完全やめ「CGアニメ」の制作に移行した。
そのため「CGアニメ」は今では当たり前なのだが、この作品が生まれるまでに多くの困難があった。
もともと「PIXAR」は「ルーカス・フィルム」の一部門である「コンピュータ・アニメ部門」を「スティーブ・ジョブズ」が買収して立ち上がった会社だ。
しかも「PIXAR」は会社設立当時、「アニメ会社」ではなく、政府や企業に「ピクサー・イメージ・コンピュータ」というCG制作用の専用コンピュータを売ることを念頭においていた。
つまり「PIXAR」はハードウェアとCG用のソフトを開発、販売する会社としてスタートしたのだ。
その顧客の一つが「ディズニー」だったのだ。
そして「PIXAR」は「ディズニー」と共同で「CAPS」というソフトを開発するために手を結んだのだ。
『リトル・マーメイド』『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え』『美女と野獣』でこの技術はふんだんに使用されている。
(詳しくは「ディズニー総チェック」の当該記事に譲る)
【まとめ記事】ディズニー総チェック一覧
だが、それでも「ピクサー・イメージ・コンピューター」は売上が伸びず、「PIXAR」の業績は悪化した。
そこで、「PIXAR」は自社製品の売上を伸ばすために「短編アニメ」を制作していたのだ。
その中心人物が「ジョン・ラセター」である。
彼はずっと「長編アニメ」を「CG」で制作したいと考えていたのだ。
しかし、それはジョブズの意に反することだ。
あくまで彼は「ピクサー・イメージ・コンピューター」や「ソフト」を売ることを第一としていたのだ。
これは、彼自身を追放した「Apple」への復讐心でもある。
つまりこの当時「PIXAR」は2つの考え方に別れていた
- あくまで「ハードウエア」「ソフトウェア」を売りたいジョブズ
- アニメ製作をしたいラセターたち
だがラセターたちは、ジョブズを無視することは出来なかった。
その都度、理由をつけて、何とかジョブズを説得するしかなかったのだ。
なぜなら彼のポケットマネーで、「PIXAR」は会社の体裁をなしていたからだ。
そこから駆け引きがあり、「ディズニー」から、共同で「長編CGアニメ」を作りたいという申し出があり、なんとか『トイ・ストーリー』制作にこぎつける事ができたのだ。
しかしこれは「世界初」の試みであり、様々な困難にぶち当たるのだ。
- 金銭面のトラブル
- ディズニーとの交渉
- 二転三転する物語
- ジョブズの気分で制作中止の危機(「PIXAR」を「マイクロソフト」に売却しようとするなど)
- 突然ジョブズが「PIXAR」を「上場する」宣言
上げればキリが無いほどのトラブル、困難が待ち受けていたのだ。
今『トイ・ストーリー』というものが当たり前に存在しているが、様々な面で大きな困難に直面し制作された「奇跡」のような作品なのだ。
なぜ、おもちゃが題材なのか?
この作品は「おもちゃ」が題材だ。
それはひとえに、この時点での技術的限界があったからだ。
これも今の基準で考えると信じられない、それこそ近年のディズニー・PIXAR作品の「CG表現」は「不可能がない」と思えるほどに熟練されている。
だが、この時点では、例えば「人間描写」などが不可能だったのだ。

つまり、この時点の技術では「人間」を主軸に映画作りは到底行えなかった。
この時点で「挑戦」して「成立する」のは「プラスチックの質感」や「布の質感」が限界だったのだ。
だからこそ「おもちゃの物語」を描いたと言える。
ポイント
話は少々ずれるが、「PIXAR」の初期作品は技術の進歩と映画の題材がリンクしている。
- 『モンスターズ・インク』は「モンスター」の毛並み表現。
- 『ファインディング・ニモ』は「水中表現」
- 『カーズ』は「重力表現」
このように、「技術」の発展と、作品の「題材」が密接に関わっているのだ。
ちなみに、『バグズ・ライフ』『トイ・ストーリー2』までは、とはいえ「CGアニメ」の再現性を念頭に制作されている。
なので、『PIXAR』初期作品に顕著なのは「技術の進歩」によって、描かれる「題材」が選定されているということだ。
「アンディのおもちゃ」だからこそ幸せ

「アイデンティティ」喪失
この物語は主人公のカーボーイ人形「ウッディ」が、理想の場所から追い出され、そんな彼が追放された場所から「成長」して戻ってくる物語だ。
余談
初期構想ではウッディは「腹話術人形」だったが、怖すぎてやめたという経緯がある。
基本的にシリーズは全てこの体裁をなしている。
いわゆる「行って帰ってくる話」だと言える。
今作において「理想郷の追放」は、「アンディ」という理想の持ち主との場所からの追放だと言える。
そして、彼は「おもちゃ」にとって地獄とも言える「シド」の部屋に連れて行かれることになるのだ。
もう一つは「アンディ」の「お気に入りの座」からの追放だとも言える。
この二重苦をウッディは今作では味わうのだ。
その直接的影響は「バズ・ライトイヤー」の存在だ。
彼は人気のTVアニメキャラクターの「おもちゃ」で、自分自身を「スペースレンジャー」の「バズ・ライトイヤー」だと信じている。
彼は、ウッディのように旧式の「おもちゃ」とは違い、超合金のようなクオリティ、翼のギミック。
音声、発光など「おもちゃ」としては非常にスペックの高い存在なのだ。
だが、彼は頑なに「おもちゃ」であることを認めようとしない。
ポイント
ただし、彼は「アンディ」や「人間」の前では「動かない」という、
「おもちゃ」としての「領分」は犯していない。
つまり、本質的に己が何者なのかは理解していたとも言える。
そして、そんな「自己の存在」を「おもちゃ」だと認めないバズが「アンディ」のお気入りになること、それが許せない「ウッディ」
彼はあろうことか、事故ではあるが、バズを窓際から叩き落としてしまうのだ。
余談
初期構想では、このシーンは「事故」ではなく「故意」にバズを落としている。
さらに極めつけに「この世は食うか、食われるか」というセリフがあった。
さらに、スリンキーに「俺がいないと、アンディはお前なんかに目もくれない」など、クズ発言のオンパレード。
まさに畜生の極みだったと言える。
当初の予定では、ウッディを「嫌われ者」にしてストーリーを展開しようとしていたが、彼らは、後にこれが間違いだと気づいたのだ。
もちろんこれはウッディが最終的に「無私無欲」になる物語である。
というアイデアからきていて、筋は通るが、そのせいで「ディズニー」は「こんなもの誰も見たくないだろう」と激怒。
物語を作り直すことになるのだ。
こうした作業が何度も繰り返されたのだ。
後に脚本に参加した「ジョス・ウェドン」は「構造は素晴らしが、筋書きがダメだった」と述べている。
(後に『アベンジャーズ』『エイジ・オブ・ウルトロン』の監督となる)
こうしてウッディは安住の地を追われることになるのだ。
ここから「ウッディ」と「バズ」が「おもちゃとは?」というのに向き合っていく。
個人的に「バズ」が自分の「おもちゃ」のCMを見て「飛べないシーン」は、悲しい名シーンだ。
ここで彼は「スペースレンジャー」というアイデンティティを喪失することになるのだ。
そこから彼が再び「アイデンティティ」を取り戻していくまでが、今作の見どころだ。
ちなみに今作は随所にキャラクター描写をカバーするような「歌」が流れるが、これは「ディズニー側」から「ミュージカル要素を入れろ」という指示があったが、ジョン・ラセターが抵抗したからだ。
当時の「ディズニー」は「黄金期」で「ミュージカル全盛」だった。
だがジョン・ラセターは「おもちゃが生きている」という大きな今作の抱える大きな嘘に、「ミュージカル」という「非現実要素」は食い合わせが悪いと判断し、これを固辞。
最終的に「キャラの心情」をあくまで「挿入歌」とすることで、エモーショナルを掻き立てる作りにしたのだ。
それが最も「よく描けているシーン」だと言える。
「一般的、おもちゃの幸福論」を今作は描いていない。
実は『トイ・ストーリーシリーズ』で世間一般に考えられている。
この世界における「おもちゃ」の「幸せ」とは「子供に遊ばれてこそ」というものがある。
後年『トイ・ストーリー4』が批判されたのはそのためだ。
「おもちゃの幸せ」それは「子供に遊ばれること」と描いてきたシリーズで、「そのオチはないだろう」という具合の批判を公開当初、よく目にした。
だが、実際に蓋を開けてみると、それは『トイ・ストーリー2』でのみ語られていることだ。
これは、当該作品評論時に言及するが、この作品は制作に十分時間が取れず、不本意な形で世に送り出された作品なのだ。
つまり、内容的ブラッシュアップが出来ていなかった。
そのため、この作品の本来の「言いたいこと」とは違う、「一般的おもちゃの幸福論」を安易に提示してしまった。
だが、作品は大ヒットして、いつしか「おもちゃ」の「幸せ」
それは、「子供に遊ばれること」だと世間に浸透したのだ。
(詳しくは下記放送もお聞きください)
今作でアイデンティティを失ったバズに、ウッディが伝えたのは「おもちゃの幸福」についてではない。
正確には「アンディのおもちゃ」であることの幸せについてだ。
「取るに足らないおもちゃ」だとアイデンティティを喪失した失意の中バズは吐露する。
そこにウッディは「お前は最高だー」「ーそれはアンディのおもちゃだからだ」と返すのだ。
つまり、この作品でバズを立ち直らせるのは「アンディのおもちゃ」であるというアイデンティを再獲得するからだ。
だからこそ今作では「おもちゃ」をいじめる「シド」に対して、ウッディたちは反撃をする。
仮に「おもちゃは遊ばれること」が「幸福」だとするならば、シドの遊び方も「おもちゃ」にとっては幸せということになりかねない。
だがこの作品ではハッキリそこに「NO」を突きつけるのだ。
この作品でウッディがバズに説くのは、あくまで「アンディのおもちゃ」であること、それが「幸せ」だし、「素晴らしいことなのだ」という点である。
実はそれが後年のシリーズ作品と、大きく異なる点だと言えるのだ。
ささやかな自己実現
こうして「おもちゃ」の敵シドに反撃し、見事に反省をさせた「ウッディ」と「バズ」
彼らは引っ越しをする「アンディ」を追いかけることになる。
余談だが、ジョン・ラセターは今作を作る上で、古典的な映画作品や、カーチェイスなど含んだアクション映画をスタッフで鑑賞する、勉強会を開いていた。
(今作のストーリーラインは基本的に物語の「原典」ともいうべき「行って・帰る」話だ。)
このような「泥臭い努力の姿勢」は「PIXAR」の「自分たちで自分たちの作品を厳しく批評し合う姿勢」に繋がっていったのかも知れない。
このアクションシーンの見どころはは「バズ」のささやかな自己実現である「空を飛ぶ」点だ。
この作品では物語冒頭、中盤、終盤。
三度彼の「飛ぶシーン」を描く。
最初は偶然「飛ぶ」事ができた。
それをウッディが「カッコつけて、落ちている」と称していた。
二度目は無情にも落下し、「おもちゃ」である現実を突きつけられる。
そして三度目は、おもちゃであることを認めたが、飛ぶことが出来た。
ここでは彼は自分自身で「カッコつけて、落ちているだけ」と認める。
このシーンでバズは「おもちゃ」であることを認めた、だが彼が夢見ていた「空を飛ぶ」という願望を叶えるのだ。
そのささやかな自己実現が非常に泣かせる展開になっている。
そして最後、アンディたちの新居で迎えるクリスマス。
ここで「犬」がプレゼントされたことを知った、ウッディとバズの表情で映画は締めくくられる。
ここは、本来は「犬の鳴き声」で終わるはずだったが、マイケル・アイズナーが「鳴き声を受けた上でのリアクションで物語を閉じろ」というアドバイスをしたのだ。
これによって、二人から「大人の余裕」のようなものが垣間見え、物語全体を通じて、彼らが成長したことを伺わせる事ができるのだ。
まさに、ナイス改変だったとも言える。
深堀りポイント
アイズナーは、2000年代「ディズニー低迷期」の諸悪の権化とされ、「ロイ・E・ディズニー」の起こした「セーブ・ザ・ディズニー運動」を経て追放される。
だが、彼も元々「パラマウト社」を再生した手腕があり、このアドバイスには、やはり「やり手」な部分が見て取れる。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
まさに奇跡の一本!!
もしも、初期構想のまま突き進んだら、目も当てられない作品になったかも・・・
まとめ
今作は、この評論でも一部紹介したが、前途多難、紆余曲折の末に生まれた作品だ。
もしも初期構想のままのウッディだったら、もしもミュージカル要素が入っていたら・・・。
など考えると、ゾッとする。
そういう意味でも「奇跡」のバランスで作られた映画なのだ。
しかも「PIXAR」にとってこの映画は、ただ作るだけではダメだった。
「映画」を制作した上で「大ヒット」させ無ければならなかったのだ。
そんな社運をかけ、大プレッシャーの中で、今作は「ホームラン」となる。
こうして今作は、表現の歴史に「CGアニメ」という新たなページを刻み込むことが出来たのだ。
そして「アニメ」という表現の方法を大きく変えてしまう「エポックメイキング」な作品となった。
まさに歴史を変えた映画だといっても過言ではないのである。
そしてそれは「ディズニー」を戦慄させることになる。
「アニメはディズニーを中心にしている」と思われてきた。
「PIXAR」は今作の成功で、世界の常識とも思われてきた、この価値観を崩すことになるのだ。
まとめ
- 映画が成立した経緯も「奇跡」
- この映画が「アニメ表現」を変えてしまった。
- 実は「一般的おもちゃ論」は語っていない。