
今回は久しぶりの「ピクサー総チェック」進めていきたいと思います。
ということでピクサー作品としては、通算11作品目となる『トイ・ストーリー3』
こちらを今日は評していきたいと思います。
この作品のポイント
- 2作目の抱えていた問題点とは?
- おもちゃの幸福とは一体?
- 「おもちゃ」としての物語の完結編
目次
『トイ・ストーリー3」について
作品情報
基本データ
- 公開 2010年
- 監督 リー・アンクリッチ
- 脚本 マイケル・アーント
- 出演者 トム・ハンクス/ティム・アレン 他
あらすじ
おもちゃの世界で再び繰り広げられるのは、いつまでも忘れられない心温まる愉快な物語。
新しい冒険に繰り出すのはウッディ、バズ・ライトイヤーをはじめとしたおなじみのキャラクターたちと、バービーの恋人ケン、サスペンダー付きズボンをはいたハリネズミのミスター・プリックルパンツ、イチゴのにおいがするテディベアのロッツォなど、プラスチックや布でできた初登場のおもちゃたち。
大学に行くため準備を始めたアンディ。ウッディやバズ、ジェシーをはじめとしたアンディのお気に入りのおもちゃたちは、自分たちの今後を案じていた。
そんなある日、ウッディたちは手違いでサニーサイド保育園に寄付されてしまう。
初めて会うおもちゃたちに囲まれたウッディたちに、新たな冒険が始まりを告げた。
YouTubeより引用
忸怩たる思いの前作から・・・。

不完全燃焼の前作(シリーズの振り返り)
この「ピクサー総チェック」という企画において、最も重要なのは、やはり「トイ・ストーリー」シリーズだろう。
総チェックでもここまでシリーズを扱ってきて、そこでも指摘していたが、特に2作品目は作り手にとって忸怩たる思いがある作品だ。
詳しくは前作、前々作の評論にゆずるが、特に2作目の制作時ディズニーとピクサー間の配給交渉での揉め事。
そもそも、当時のディズニーの最高経営責任者アイズナーは、1990年から2000年代にかけて行った愚策の極み「ビデオスルー展開」の一環として制作を指示した経緯がある。

しかしその指示にジョン・ラセターたちは首を縦に振らず、超短期間で製作し直したのだ。
ちなみに当時からラセターと信仰の深い宮崎駿は『トイ・ストーリー2』に対しては、作品の内容を評することなかった。
あくまでラセターたちクリエイターの「映画人」としての心意気を称賛していた。
今にして思うと、これが全てだ言える。

これは前作、前々作の評論の繰り返しになるが、そもそも『トイ・ストーリー』一作目で語られていたのは「おもちゃとは”大切”にしてくれる人といることが幸せ」だということだ。
だからこそ、”大切”におもちゃを扱わないシドにウッディたち「おもちゃ」はルールを破り、彼に反撃をした。
だが、2作品目ではこの大事なテーマが実はすり替えられてしまう。
これは作品を見た人なら知っていることだが、この2作目では「おもちゃは”子供”と遊ぶのが幸せ」だとウッディたちはヴィランであるプロスペクターに解く。
これは「小さくない」改変だ。
つまり「遊ばれること」を「幸せ」と定義するのなら、そもそもシドに反撃する必要すらない。
プロスペクターに、あの女の子は化粧をするなどと言っていたが、それは彼にとって幸せでもなんでもない。
でも「遊ばれている」ことには変わりない。
つまり不本意な遊び方をされても「それがおもちゃの幸せ」だと、ウッディたちは思想を押し付けているようにしか見えないのだ。
この「おもちゃ」の「幸せ」とは何か?
前作、前々作で実は大きく異なる答えを出したことを、ずっと作り手は忸怩たる思いだったに違いない。
だらこそこの3作目は、そこにもう一度着目する作劇になっている。
つまるところ、実質2作目の語り直し的要素があるのだ。
不本意な”遊び”は不幸になる
今作はシリーズ1作目から10年後を描いている。
アンディも17歳になり、大学進学のために実家を離れる、つまり完全に「おもちゃ遊び」から卒業してしまった時代を描く物語だ。
ちなみに1作目が1995年、2作目が1999年。
今作が2010年と、2作目から11年と、かなりの時間を要しての続編だ。
これは今作が当時『トイ・ストーリー』を見てくれた人々をターゲットにしているということもあり、作中時間経過と現実時間の経過をリンクさせているのだ。
さて、今作では手違いによりウッディたちが「サニーサイド保育園」に寄付されるところから物語が大きく展開していく。
誰かの所有物である限り「おもちゃ」は持ち主が成長すると、遊ばれなくなり、捨てられてしまう。
それが宿命だ。
だが、保育園では「園児」が変わるがわるやってきて、「遊ばれなくなる」ことはない、つまり「楽園」だとも言える。
だが、それは「偽り」だ。
バズたちが送り込まれた「イモムシ組」は年少の子供たちのクラスで、ここで乱暴に遊ばれて、ボロボロになってしまう。

ここで描かれるのは「子供に”遊ばれる”ことが”幸せ”」なのではない、「大切」にしてくれない「子供」との遊びは地獄であるということだ。
反対にウッディはひょんなことからボニーの家で「遊ばれる」
こちらはボニーが「おもちゃ」を「大切にする子供」だからこそ「幸せ」に満ちている。
これはまさに前作のテーマの語り直しだ。
つまり「遊ばれる」ことは「おもちゃ」にとり、幸せなんてものではない。
「大切」にしてくれる人との出会いこそが「幸せ」だと描き直しているのだ。
今作は基本的にこの主題を軸にしてウッディたちが、また「大切」にしてくれるご主人に巡り合う話なのだ。
ノワールチックな物語展開
さて、ここまで「テーマ」についての語り直しとして今作を見てきたが、もちろん映画のストーリー自体も非常に見応えがバッチリだ。
これまでのシリーズ同様、今作も物語の「基本形」である「行って・帰ってくる」物語だ。
おもちゃにとって「楽園」と信じられていた「サニーサイド保育園」
だが、そこはピンク色のテディベア「ロッツォ」に支配された、「地獄」だったのだ。
前述したが、そこでボロボロにされるバズたち。
ボニーの家に連れて行かれて幸せな時間を過ごすウッディ。
一度物語がが二分割されて、合流していく流れ。
しかも時間制限があるという物語の構造も、実は過去2作と共通している。
さて、今作の特徴としては、夜の場面が多いことは特筆すべきだ。
これはピクサーがここまで積み上げてきたCG技術の向上で、どんなシーンも自由自在に描けることで実現したとも言える。
バズが保育園の事実を知る際の自販機の上での場面。
牢獄での描写。
そして脱走時の夜の場面も非常など、まるで闇社会に迫っていくかのような「フィルムノワール」的なシーンが多い。
この辺りのスリル感も見事だし、特に闇夜で月を見上げるビックベイビーが恐ろしいことこの上ない。
この辺りの抜かりないホラーテイストも今作の見どころの一つだろう。
そしてロッツォとビックベイビーの関係もまた興味深い。
元々同じ持ち主のところにいたが、迷子になりロッツォは自分に変わりがいたことで絶望。
チャックルズ、ビックベイビーを心理的に支配し、そして保育園を恐怖で牛耳ることになる。
しかし、本当の事実をビックベイビーが知ることで、ロッツォはゴミ箱に投げ捨てられてしまう。
これはまさにSWの「ジェダイの帰還」のオマージュだ。
しかも、前作の「パロディ」ではなく、これはきちんと意味としても通ずるものがある。
そもそも元ネタのSWでは「ダース・ヴェイダー」が「ダース・シディアス」に心理的支配をされていたが、良心に目覚め彼を投げ落とす。
これは元々「フランケンシュタイン」が博士を殺すのと同じだ。
つまり、自分を作ったり、支配されたものを自ら倒すことで「正義の目覚め」や「成長」したことを意味しているのだ。
そこからウッディたちはゴミ捨て場に追い詰められ、文字通りの「死」の寸前を描くシーンに突入していく。
これまでのシリーズでも薄々「おもちゃ」の「死」めいたものは示唆されてはいたが、全ての「おもちゃ」がいずれはここに来るのだという場所。
つまり「死の淵」を明確に描き、さらには彼ら全員が「死を覚悟」するところまで描く。
実はこれも意味がある。
それこそまさに2作目で否定された「プロスペクター」の夢だ。
彼は、おもちゃはいずれは「壊され」「死ぬ」ことを悟っており、そうならないために「博物館」での生活を夢見ていた。
展示される限り「死ぬ」ことはない。
それは、それで切実な思いだったはずだ。
今作で「いずれ訪れる死」を明確にすることで、2作目で否定したプロスペクターの夢が「本当に否定されるべき」なのか我々に問いかけてくるのだ。
無機物のおもちゃとして幸せを描く
さて、今作の凄さはまだある。
それが最後にボニーとアンディが「おもちゃ」で遊ぶシーンだ。
これまで、このシリーズ最大の面白さは「無機物」である「おもちゃ」が「生命」として生きているという点だった。
だが、このラストシーンで「おもちゃたち」は、文字通り「おもちゃ」なのだ。
しかしここでははっきりと「おもちゃの幸せ」が描かれる。
つまり、保育園での「遊び」とは違う、本当に大切にしてくれる人との出会いこそが「おもちゃ」の幸せだと、ここできちんと提示して見せるのだ。
そうすることで、やはり前作では「ぼんやり」とした「概念」でしかなかった「おもちゃの幸せ論」に一つの堂々とした答えを示す。
ここまですることで、プロスペクターの考えに対して「子供と遊ぶのもいいもんだぞ」と言えるのだ。
だからこそ今作品は、2作目の語り直しであり、そしてその先に進む作品だったと結論づけることが可能なのだ。
そして今作は最後にウッディがアンディと完全に決別をして幕を下ろすのだ。
まさに見事な作品だったという他ない。
さて、2010年当時は、今作でシリーズ完結だと思っていたが、2019年に続編が公開となる。
そのことで、今作は「おもちゃ論」としては話が完結している。
だがもう一つのテーマ「生命体論」としての話は実は解決していないことが浮き彫りになるのだ。
だからこそ『トイ・ストーリー4』の結末が、ああいうものだったというのは必然だったと言える。
それはまた次の機会に話すことにしましょう・・・。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説
まごうことなき傑作!!
文句なし!
ピクサー史上でも類を見ない傑作!
まとめ
今作は前作の欠点を修正して、さらにその先に進む、大変ない意欲作だったと言える。
ピクサーの技術もいよいよ、極めた感じもあり、例えば使い古したおもちゃの質感表現。
これらも見事だ。
ピクサーの技術が進歩したからこそ、この作品の説得力が増したとも言える。
さらにラストシーン。
ウッディたちが「無機物」として「おもちゃの幸せ」を体現するシーンは涙なしでは語れない。
だが、そこには「無機物」なんだけど「命」がある。
そう思わせるピクサーの実力たるや・・・。
これこそまさに「命なきものに命を与える」「アニメの本質」を突き詰めたとも言えるのだ。
そういう意味ではピクサーは何よりも、どこよりも「アニメ」に真摯に向き合っているのだ。
そして実はこれで終わりと当時思っていたが、4作目が公開されたことで、このシリーズはあえて不問にしていた、もう一つの課題に正面からぶち当たることになる。
それが「おもちゃ」として生きている「命」は「おもちゃ」としてしか「生きることができないのか?」という点だ。
作り手の中でシリーズはまだ何も終わっていない。
まだ語るべき大きな課題があるのだ。
それは、また総チェックを進めてから評論したいと思います!
ポイント
- 前作の修正をする作品
- 今作は「おもちゃ論」としてのシリーズ完結編!
- 文句なしの傑作!