
今回は、以前評論した『アナスタシア』に引き続き、元ディズニーアニメーターのドン・ブルースが生み出した作品を評論。
ということで『おやゆび姫 サンベリーナ』を評論したいと思います。
ポイント
- ドン・ブルースってどんな人?
- 前半はかなりいい!
- サンベリーナ視点で描く徹底ぶり
目次
『おやゆび姫 サンベリーナ』について
作品データ
基本データ
- 公開 1994年
- 監督 ドン・ブルース/ゲイリー・ゴールドマン
- 脚本 ドン・ブルース
- 声の出演 ジョディ・ベンソン 他
花の中から生まれた、親指ほどに小さいけれど美しい少女サンベリーナ。
街の人気ものだけれども、みんなと違うことにさびしさを感じていました。
そんなある日、同じく親指ほどの大きさしかない妖精の谷の王子コーネリアスと出会い、二人は恋に落ちます。
結婚を約束したふたりですが、サンベリーナは、彼女に一目惚れしたヒキガエルに誘拐されてしまいます。
森の虫たちの助けを借りてヒキガエルから逃れるサンベリーナ。
王子との再会に向けて、冒険の旅が始まる
Googleより引用
実は悪くない!!

ディズニーを脱退した男!
ドン・ブルースについては前回の『アナスタシア』でも触れたが、今回ももう一度触れておこうかと思います。
というのも今では考えられないが、1970年代から1980年代にかけて、ディズニーはかつてない低迷期を迎えた。
これは1966年にウォルト、1971年に兄のロイが亡くなる。
そして、ディズニーアニメを支えてきた「ナインオールドメン」が1981年に『きつねと猟犬』を制作した後に一線を退いたこと。
さらに、ドン・ブルースが優柔なアニメータを引き連れてディズニーを脱退したことが大きな原因だと言える。
この低迷期間にディズニーは『コルドロン(1985年)』というどうしようもない駄作を生み出して、ディズニーブランドは完全に地に落ちることになる。
これによってディズニーは「アニメ制作部門」自体の解体を考えるに至るまでに落ちぶれてしまうのだ。
ということで、ここまでが大体のディズニーとアニメ業界の流れになるる。
ここから今日は、ディズニーに大損害をもたらしたドン・ブルースが制作し、1994年に公開された『おやゆび姫 サンベリーナ』について語っていきたい。
ちなみに1994年となるとディズニーは劇的な時期を迎えている。
1989年『リトル・マーメイド』から始まった「ルネッサンス期」の真っ只中で、一時の低迷が嘘のように傑作・名作を連発している時期なのだ。
つまり、その時期に裏被りしてしまっているという前提で今日の評論については考えてもらいたい。
映画は「絶対評価」or「相対評価」!?
さて、『おやゆび姫 サンベリーナ』だが、この作品は世間的評価は非常に低い。
不名誉な記録だが、「ゴールデンラズベリー賞」の最低歌唱賞を受賞。
アニメ作品が同賞を受賞するのは、2014年まで約20年間で唯一という、まさに不名誉極まりない歴史を作ったとも言える。
ただ、本当に箸にも棒にも引っかからないような駄作は、そもそも同賞にノミネートすらされないので、これはこれで「評価」されているとも言い換えは可能だ。
ただ、個人的に全体を見ての結論は、そこまで「悪く」ないし、むしろ所々は「光る」ところもある、味わい深い作品だと感じたし、同監督の『アナスタシア』とは違う魅力もあった。
どう考えても、これよりも悪いアニメ映画なんて沢山ある。
いわば不当に低く評価されている作品だと言えるのだ。
それはなぜか?
そもそも「映画」とは「絶対評価」されるべきものだ。
- 「絶対評価」
個別にそれぞれに評価すること - 「相対評価」
他と比較して評価すること
普通は「映画」とは一本で独立した作品だからこそ、その作品を個別に評価するべきだ。
だが、人間とは何かと「比べたがる」もの。
つまり『サンベリーナ』は他の作品と比較されて、低く評価された節がある。
その比較対象はおそらく「ディズニー」だ。
先ほども述べたが、1994年は「ディズニールネサンス」の真っ只中。
同年は『ライオン・キング』の公開年でもある。
この作品と『ライオン・キング』を比較すると、正直アニメとしての「画面」でレベルに大きく差があることに気づくだろう。
正直「画面」だけの比較をすると、『サンベリーナ』はディズニーの水準から10年ほど遅れている。
そして作劇も面白みはあるものの、少し弱い点も目立つのも確かだ。
そういう点で、『サンベリーナ』は「ディズニー」と「比較」されて「低く評価」されているという点も留意しなければならない。
文句なしの前半
今作品は冒頭「絵本」が開く、そして「昔々」と始まる、いわゆる初期のディズニー作品と同じ「おとぎ話」として始まる。
ちなみにジャキモが空からパリの街並みに滑空していくシーンは、明らかにCG技術を使用しているなど、この時代の最先端技術を用いている。
ここから、人間の親指ほどの大きさしかないサンベリーナの普段の生活。
そしてコーネリアス王子の登場まで、15分程度で描き、最初の逢瀬が描かれる。
ここでお約束的にコーネリアスにサンベリーナは恋に落ちる。
正直この展開「単純」すぎるだろうと思う方も多いかも知れぬが、サンベリーナ自身、自分と同じサイズの存在と出会うことはなかった。
つまり、異性を知らないという以上に、同族を知らない存在だ。
だからこそ、異性に惹きつけられる以上の、魅力を感じてもおかしくはないだろう。
つまり、同条件のプリンセス以上に、「切実さ」が強いのは指摘しておかなければならない。
ちなみにそこから5分足らずで、サンベリーナがカエルのヴィランに拉致されるなど、展開自体は目まぐるしく、少なくとも飽きにくい作劇なのは、非常に素晴らしいと言える。
個人的にはこのカエルたちは高く評価したい。
というのもサンベリーナは、とはいえ出会ってすぐコーネリアスに惚れて、結婚をすると決意している。
それに対して、カエルのママは「結婚は最悪だ」と主張をする。
このシーンでは、彼女が恐らく女手一つで3人の息子を育てたことが示唆され、相当な苦労もしたに違いにないことも容易に想像できる。
つまり「結婚」によって、大きな人生の「苦労」を感じた存在だと言える。
そして、その存在が結婚をという行為そのものを否定して、結婚が全てと考えるサンベリーナを誘惑するのは、非常に上手い対比なのだ。
そしてサンベリーナもそこで一瞬心揺らぐシーンも描かれる。
この作品の特徴として、サンベリーナが「迷う」性格であるのも非常に印象的だ。
さてこのシーンだが、ここにもう一つ上手い仕掛けがある。
それが、「結婚」というものを、ママが利用する点だ。
前述したが、恐らく「結婚」という手段でママは苦しんだ、その自分を苦しめた「もの」を使って、今度は自分が富を得ようと画策するのだ。
ママはサンベリーナをサーカスのスターにする為に自分の息子と、無理やり結婚させようとする。
つまり自分が苦しんだ「手段」を人に背負わせて「利用」しようとしている。
この身勝手極まりない思考で、このヴィランの心底意地汚さが表現されているのだ。
この辺りの構図は非常に面白く。
個人的には前半は、テンポの良さも相まってかなり楽しむことができた。
そして、この危機的状況のサンベリーナを、これまで狂言回しだったジャキモが助けに来るのだが・・・。
原作がそうだから、仕方ないかもしれないが・・・。
物語はジャキモや虫たちがサンベリーナを助けるのだが、またも間髪入れずにサンベリーナはコガネムシに拉致される。
正直10分経たず、先ほどのカエルとの展開と似た様相を呈していく。
そしてここでも、またミュージカルシーン。
楽曲は悪くないのだが、「ミュージカル」をやりたいが為の展開にしか見えず、「ミュージカル」をすることを「目的」にしすぎている感がいよいよ目立ってくる。
しかも、またもサンベリーナが迷いのようなものを見せる。
そこから脱出したサンベリーナのもとへまたジャキモが来るという、非常にデジャブ感の強い似た展開を繰り返すので、見ていて「またか?」という気持ちにもさせられるのだ。
そして今作最大のびっくりポイントは、実はこの話の裏でコーネリアス王子がサンベリーナを探している途中、水に落下し凍りついてしまう。
そんな出来事があり、その話をサンベリーナは耳にするのだが、「事故に遭ったのね・・・」とヤケにあっさり王子の死を受け入れてしまうという。
もっとそこは、感情的になれよ!
と思わずツッコンでしまうシーンが描かれる。
その後サンベリーナはネズミに助けられ、このネズミも突然「モグラ」とサンベリーナを結婚させよとして、その礼金を貰おうとするのだ。
これはドン・ブルースが古巣のディズニーの看板キャラ「ミッキー」に対する恨み節ではないか? と思えるほど、親切なふりして意地汚いという、描写を見せてくる。
今作は中盤以降、このようにサンベリーナと結婚したい連中が次々出てくるのだ。
原作がそうだからと言われればそれまでだが、正直似た展開が続くのは正直飽きてしまうのも事実だ。
決着の行方は??
さて、そんな今作のラストはここまでのヴィランが全員集合し、コーネリアスと戦うことになる。
ただここから一連の演出は、良くも悪くも非常に興味深い。
というのも、基本的にラストまで、ここからはサンベリーナの見えない物は基本的に描かない。
彼女にのみフォーカスするのだ。
途中コーネリアスが崖から落下。
その間にサンベリーナとジャキモが脱出。
でも彼女はコーネリアスが死んだと思い込み涙する。
そして、実は生きてました。
という再会をして、結婚してエンドロールに突入する。
ただし、この演出、実際効果的かどうか考えてほしい。
そもそも、「ディズニー」が「プリンセスもの」をあらかた擦り倒している1994年。
ある程度、こういう毛色の作品が、どういう着地をするのか? わかっている時代。
つまりコーネリアスが死んだ、なんてことは、少なくとも観客は誰も思わないということだ。
すなわち、答えの出ている問題の解答を、焦らしている。
つまり、それは「退屈」だと言い換え可能だということだ。
これが原作が描かれた時代、1835年であれば、話は別だ。
こうした「物語のお約束」が世の中に浸透していない状態、それならばこの引っ張りも効果があるということだ。
しかし、1994年の時点でこの引っ張りはむしろ、逆効果とも言える。
それならば、あえてコーネリアスの奮闘の様子をアクションも交えて見せるべきだったのではないか?
少なくとも映像的迫力は担保できたはずだし、単調さも消すことができたはずだ。
ここから映画演出として「わかりきったこと」をどうにかして「面白くみせる」ことの重要さも垣間見えるのではないだろうか?
映画は時間芸術
さて、そろそろまとめに入るが、これまで何度か述べたこともあるが「映画とは時間芸術」だ。
つまり、ラストが面白いことが起きれば「評価は高くなる」傾向にある。
逆に序盤が面白くても、ラストが平々凡々なら、その逆の評価になる。
今作は「わかりきった引っ張り」をラストでしたことで、結局映画全体としては微妙な評価・感想になるという結果にならざるを得なかった。
個人的にも少なくとも序盤の展開は「面白い」と思ったが、尻すぼみになっていき、結局微妙な着地になったことは否定できない。
あと可哀想だが、公開当時1994年のことを考えても、やはり映像クオリティなどは「ディズニー」に遠く及んでいない。
この時点の「ディズニー」から見ても10年は遅れた映像に見えてしまう。
特に序盤のサンベリーナとコーネリアスのシーン。
ここは『アラジン』に似たシーンになっているが、ここで正直クオリティの差を見せつけられてしまっているのも、評価を落とす原因だろう。
個人的にドン・ブルースというアニメーターが現在活躍できない要因は、彼自身が「ディズニーに縛られている」ことが原因なのかもしれない。
ディズニーで優秀な仕事をしていた彼は、結局ディズニーアニメに支配され、そこから脱却できなかった。
そんな彼の悲しい運命も感じ取ることが作品だったと言える。
ただ、中盤以降は確かに尻すぼみになったが、それでもミュージカルなどは見応えはあるし、一定の水準の作品であるということは最後に述べておきたい。
これはこれで、研究の対象として見るべき一本ではないでしょうか?