
さて、今日も「ディズニー総チェック」を進めていきましょう!
ということで「王様の剣」について話していきたいとおもいます。

この作品のポイント
- オチと、そこに至る展開が全く一致しない作劇。
- いよいよ「ウォルト」がこの世を去る。
目次
「王様の剣」について
基本データ
基本データ
- 公開 1963年
- 監督 ウォルフガング・ライザーマン
- 脚本 ビル・ピート
- 原作 T・H・ホワイト『永遠の王(The Once and Future King)』(第1部「石に刺さった剣」)
- 声の出演 リッキー・ソレンセン ほか
あらすじ
伝説によれば、岩に突き立てられた剣を引き抜くことができる誠実で心の強き者が、次のイギリスの王になれるという。
多くの勇敢な騎士たちも引き抜くことができなかったこの剣を、少年ワートが引き抜くのはとても無理な話…
しかし魔法使いマーリンの導きと陽気な仲間たちの助け、そして真の強さがあれば、ワートは偉大なる王になれるかもしれない
ディズニープラスより引用
これからの時代は「頭脳=知識だ」

非常にもったいない作品
この作品「王様の剣」を一言で表すなら「もったいない」
この一言に尽きると思う。
正直、そう思っている方も多いのではないだろうか?
「ディズニー作品」として非常に影の薄い今作品。
「ラテン・アメリカの旅」などの「オムニバス期」作品を除くと、今作が好きな方には申し訳ないが、「王様の剣」はぶっちぎりで過去ワースト作品だ、と僕は思う。
ということで今日は、何故この作品がウケなかったのか?
その問題点を探っていきたいと思う。
テーマ設定は「良い」
この「王様の剣」
原作は、アーサー王の少年時代を描いたT・H・ホワイトの小説『永遠の王(The Once and Future King)』の第1部「石に刺さった剣」である。
これは、「アーサー王と円卓の騎士」など、現代でも、様々なファンタジー作品などで、手垢の付きまくった有名な物語だ。
なので、なんとなく物語の筋などご存知の方も多いのではないだろうか?
ちなみにこの、T・Hホワイトの描いた「永遠の王」も『アーサー王の死』(トマス・マロリー著)という、15世紀後半に書かれた作品を原作にしている。
当時から二次創作で、何度も引用・語り直しがされてきた題材だとも言えるのだ。

そんな作品を「ディズニー」は、どう料理するのか?
という点にかなり注目して見たのだが、テイストはかなりポップなコメディ。
恐らくこの作風も「評価」されない理由だと思うのだが、ひとまずそこには触れないでおこう。
ただ、この「料理方法」自体は、決し「間違えていない」と思う。
というのもこの作品は、身分の低い「ワート」が、師匠となる「マーリン」とひょんな出会いをして、成長をする。
もちろん、原作を知っているからこそ、その成長の先には「王様の剣」を抜いて「王」になるというゴールがある。
今作は、そのための「学び」の過程を描いていると言えるのだ。
このワートに「学び」の重要性を解くのが、「師匠・先生」であるマーリンだ。
彼の設定に今作最大の面白みがある。
というのも原作でも、「アーサー王」関連の物語でも、彼は「魔法使い」だ。
今作の舞台となる年代は、彼が実在したとするならば、という前提で提示すると5世紀から6世紀頃だ。
だが、マーリンはすでに「電気」「水道」「飛行機」「蒸気機関」などを知っている、何度も未来を見ているという設定になっている。

までは見えていないが、彼が歴史で重要な役目を担うということは分かっている!
未来を見ているからこそ、マーリンは「学ぶ」ことの重要さを知っているのだ。
つまり、この後(と言っても数千年後だが)の時代は、「腕っぷし」よりも「頭脳」こそが時代を切り開くことになる。
そのことを理解しているのだ。
だからこそ、ワートの頭脳を鍛えることにするのだ。
その上でマーリンがワートに「学び」を伝える方法。
それは彼を動物に変身させることだ。
「魚」になることで「泳ぐメカニズム」
「リス」になることで、「森での生き方」ただしこの件で色々議論の的になる「メスリス」とのエピソードについては後述する。
そして「鳥」になることで「飛行のメカニズム」
など、様々な学びをけ経験するワート。
ちなみにこれが、何に役立つのか?
それは、今作を見終えても、よくわからないが、とにかく様々なことを学んで成長をしていくのだ。
ここで並行して描かれるエクター卿の息子「ケイ」の物語だ。
彼は原作では「円卓の騎士」の一人だ。
つまりワートの部下になる人物なのだが、今作ではワートを召使い扱いしている。
彼は今作品で、マッチョな間抜けとして描かれるが、とにかく彼は次の「王」を決める「馬上槍試合」のために鍛錬をするのだ。
この「王」になるために行う「努力」
それが対として今作では、描かれるのだ。
ガリガリでひ弱なワートは「頭脳」を鍛えるし、筋肉マッチョ、いわゆる恵体であるケイは「肉体」を鍛える。
そう考えると、実は「対」の要素を伸ばして、どちらが「王」なり得るののか?
という点がしっかり描かれており、今作品の描こうとしている「物語」そのものは、非常に興味深いのだ。
だが、今作品はこの要素が結局「死んでしまっている」という残念な結末を迎えることになる。

これまでのテーマを台無しにする結末
前述したように、今作品は「王になる素質」
その違いをワートとケイという、キャラとしても対になる関係の2人を通じて描いており、それ自体は非常に興味深いのだ。
だが、この作品はラスト10分で、その全てが有耶無耶にされてしまうのだ。
というのもロンドンで行われる「馬上槍試合」
ここでの勝者がイギリスの「王」になるという展開。

この時代では「腕っぷし」が何においても重視されるということを示している
その裏で、ワートが「石に刺さっている剣」を抜く。
これが裏で行われることになるのだが、結局のところ、それがこれまでの「学び」と何一つ関係しないのだ。
そもそも、何故ワートが、そもそもロンドンに行くことが出来たのか?
それは、彼が「学び」それを認められ、ケイの家来として帯同を許されたわけでもない。
予定していた家来が「おたふく風邪」を発症し、仕方なく許されたにすぎないのだ。
つまり、この作品の終盤では、ワートが、これまでに学んできた様々なこと。
それらが、何かひとつでも役にたっていたり、そんな様子は一切、描かれないのだ。
ワートが、ロンドンに来れたのも偶然。
そして、ワートはうっかりミスでにケイの「剣」を宿に置き忘れ、それを取りに行くも、宿の店主は不在。
たまたま「石に刺さった剣」を見つけて、それを抜く。
その「剣」を抜けるというシーンでも、彼のこれまでの「学び」が活かされたということは一切ない。
なんなら、マーリンの授業無くとも、ここに来て、同じシチュエーションが来たなら、恐らく抜けたのではなかろうか?
と思わさる淡白な描写。
そしていざ「王」になったとて、そこに全く喜びはなく、最後には「これからどうしよう?」と泣き言で締めくくられる今作品。
ちなみにここまで「学び」というプロセスを描いてきたのだが、基本的にワートは向上心も少なく、「ケイの家来」でも構わないという、かなりマイナス思考男だ。
その辺りを鑑みると、このオチも理解出来なくはない気持ちにはさせられる。
でもやはり、これが「ドラえもん」なら、のび太がドラに泣きついてって締めくくりも理解できるが・・・。ひとつの独立した作品のオチとしては理解に苦しむ。
例えば「家来」という低い身分から、「王」になる。
そこに、サクセスストーリー的な「カタルシス」も無い。
つまりこの作品は、70分のうち、60分で描かれてきた要素が、ラスト10分で何一つ回収されずに物語が完結するのだ。
深堀りポイント
なぜ映画に「クライマックス」、終盤の「盛り上げ」が必要なのか?
映画とは「時間経過」で見せる「時間芸術」だ。
正直序盤が退屈でも、終盤に大見せ場があれば、「いい作品」「面白い」と印象に残りやすいといえる。
だからこそ、映画とは「クライマックス」つまり終盤に「見せ場」を用意するのだ。
だがそれは、逆の解釈も可能だ。
序盤・中盤が良くても「終盤」が失速、そこに観客の感情を乗せられないと、「面白くない」という印象をもたれてしまう。
今作品は、「終盤」の見せ場のなさが評価を著しく下げているのだ。
奇妙な描写も「マイナス」か?
この作品は、結局のところワートの学びが一切活かされない、それが問題だ。
と指摘してきたが、それ以外にも、ちょこちょこ理解できない展開も見受けられる。
それは多くの方がも指摘するが「リス」に変身したエピソードだ。
ここでワートはリスになり「森の生き物」について学ぶ。
そこで彼は、野生の「メスリス」に一目惚れされてしまい、強烈なアプローチを受けるのだが、とにかくその描写が長い。
長いし、なぜか妙に生々しいというか・・・。
作品全体のバランスから考えると浮いているシーンになっている。
さらにマダム・ミムという魔女が登場して、マーリンと戦うエピソードもあるのだが、とにかく彼女のキャラクターが非常に個性的なのだ。
目は完全にイッちゃってるし、着ている服の色合わせも毒々しい。
ただ、このマーリンとミムの決闘そのものは、「力ではなく工夫」という、マーリンがワートに伝えたい「大切なこと」をキチンと描いているので、意味があるといえる。
とはいえ決着の付け方が非常に悪趣味なのが特徴だと言える。
というのもこの決闘で、マーリンは病気に変身。
ミムの体内に侵入し、発病させる。
すると彼女の全身に発疹が出てくるなど、なかなか描写が悪趣味なのだ。
これも、人気が出にくい要因ではないだろうか?
このように、今作は奇妙な描写も多いのも特徴であり、そこが人気を分ける要因になっていると考えられる。
ウォルトが見届けた最後の作品
この作品は、生前「ウォルト・ディズニー」が劇場公開を見届けた、長編アニメ作品である。
この作品は「眠れる森の美女」が莫大な制作費を投じたにも関わらず、興行面で苦戦したということもあり、前作の「101匹わんちゃん」と同様「節約」して作るというのを念頭にして作られている。
さらに、この時期は、ウォルトの興味が「アニメ」にはなく、「ディズニーランド」や「実写」作品を作るのに力を注いでいたからだというのも、大きく影響している。
それに伴い、「ディズニー」は会社としても、屋台骨であった「アニメ」を軽視するようになっていく。
この辺りの「興味」の移ろいの早さこそ、ウォルトの良さのひとつでもあるのだが・・・。
それに伴い作品の公開までのペースが著しく低下し、ここからいわゆる「暗黒期」という低迷期を迎えることになる。
(とはいえ「くまのプーさん」など人気作品も生み出している)
ちなみに、時制は若干前後するが、1980年代の「ディズニー」は、様々な手法を用いて「ポパイ」「トロン」「オズ」など意欲的な実写作品を作る。
だが、どれも「意欲作」であることは間違いないが、興行面で失敗するなど、こちらも「迷走」していく。
「ウォルト」という強烈な船頭を失った「ディズニー」
彼らは、「アニメ」よりも重視した「実写作品」でも「迷走」をしていくのだ。
「王様の剣」は、最悪の時代の到来を予期させる作品なのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
修行の成果を見せてくれ!!
努力はしたけど、それが全く活きなてない!!
その作劇が非常に不味い!!
まとめ
とにかく今作品は、「努力」が「結果」に何ら結びつかない。
なんなら「努力」する意味が無かったのでは?
とさえ感じさせられてしまう。
その「オチ」がいただけない作品だ。
今作の「力」こそが全てという時代に「頭脳」で立ち向かうという構図は非常に興味深い。
そういう意味で、もったいない、という印象を抱かずにはいられない。
さらに作品から浮いてるとさえ感じさせる「リス」「ミム」のエピソード。
それらがこの作品の印象をマイナスにしているともいえる。
ということで、やはり少々辛口にはなるが、ここまでの「総チェック」で「ワースト」が来てしまったと言わざるを得ない。
だが、「総チェック的」には、この作品の後「ウォルト」が亡くなるという重大な転換期になるので、そういう意味では重要な作品だと言える。
まとめ
- 「努力」が「結末」に関与しないのが、作劇としてマイナス。
- 「ディズニー」の「暗黒期」を予見させられる作品。
ということで、「暗黒期」に差し掛かる「総チェック」
これからも、変わらず読んでくださいね!
今回も読了ありがとうございました!!