
さて、今日も「長編ディズニーアニメーション」を公開順に鑑賞し評論する「ディズニー総チェック」
今回は通算49作品目の『プリンセスと魔法のキス』を評論します。
「新生ディズニー」の健在をアピールした前作『ボルト』
そこから、今回「ディズニー」は、いよいよ「伝家の宝刀」である「プリンセスもの」を復活させる。
いよいよ大勝負に打って出ることになるのだが、果たして結果はどうだったのか?
そのあたりを深堀り解説!!
今作のポイント
- 外的要因で「プリンセスもの」が作れなかった、その理由とは?
- 今作で「ディズニー」は、自分たちの過去を「ぶっ壊す」ことになる。
- 伝説を塗り替えることに挑戦する。
目次
『プリンセスと魔法のキス』について
基本データ
基本データ
- 公開 2009年
- 監督 ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ
- 脚本 ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ/ロブ・エドワーズ
- 声の出演 アニカ・ノニ・ローズ/ブルーノ・カンバス ほか
監督は「リトル・マーメイド」や「アラジン」で知られる「ジョン・マスカー」と「ロン・クレメンツ」
という「黄金期コンビ」!
あらすじ
おとぎ話に現代風のひとひねりを加えた物語。
主人公は美しい少女ティアナと人間に戻りたがっているカエルの王子様(ナヴィーン)。
運命のキスを交わした2人は、ルイジアナ州の不思議な水辺の冒険に旅立つが、その後をブードゥーの魔術師ファシリエが追っていた。
ディズニープラスより引用
2000年代のディズニーの状況をおさらい

2000年代、ディズニーが暗黒期になった理由とは?
この「ディズニー総チェック」でも話したが『ダイナソー』から『ルイスと未来泥棒』まで、ディズニーは「暗黒期」だった。
深堀りポイント
この「暗黒期」をいつまでとするのか?
それを議論すると面倒であるのだが、僕としては2006年の「ディズニー」による「PIXAR」買収。
そこからジョン・ラセターが「ディズニーのアニメ部門」のトップになり、作品の制作から携わるようになった時点。
その時点で「暗黒期の終わり」とライン引きするのが適当だと考えている。
つまり『ルイスと未来泥棒』までが「暗黒期」であるというのが、一番わかり易い区切りだと言える。
そんな中でジョン・ラセターがディズニーに加入。
企画から全て携わった『ボルト』が対外的にも高評価を獲得し、なんとか「暗黒期」を抜けることが出来た。
だけど、そもそも「なぜ、ディズニーは暗黒期」になったのか?
この点について考えなければならない。
それは、ここまで「ディズニー」を象徴してきた「プリンセスもの」が2000年代に制作出来なかったからだ。
その理由は2001年に「ドリーム・ワークス」の『シュレック』が大ヒット。
その後、新設された「アカデミー賞長編アニメーション部門」を獲得するという快挙を成し遂げたからだ。
この「シュレック」はいわば「アンチ・美女と野獣」「アンチ・ディズニー」という側面を持つ、まさに「ディズニー殺しの剣」とでも言うべき作品だ。
今まで「ディズニー」が作り上げてきた「プリンセスもの」を切り捨てた、この作品が対外的に評価された。
その事によって、「ディズニー」は「プリンセスもの」を作ることが出来なくなったのだ。
このあたりの解説は詳しくは、「美女と野獣」評論で言及してるので、ぜひ読んでくださいね。
そのため2000年代の「ディズニー」は新たな試みとして「冒険もの」「SF」「コメディ」など、様々なジャンルに挑戦した。
そのそれぞれに、「意図」「狙い」があり、「試行錯誤」している点も見受けられ、かなり苦労しているのが見て取れる。

鑑賞していて楽しめましたが。
だが、そんな苦労をしたにも関わらず、2000年代はヒット作に恵まれない。
そのため「ディズニーオワコン」と言われる時期が続くことになるのだ。
その大きな要因は、魅力的なキャラクターが作れなかったことだ。
(逆に唯一『リロ・アンド・スティッチ』は「スティッチ」という人気キャラを作れたのでヒットしたともいえる。)
そのためジョン・ラセターは、彼の哲学を『ボルト』から徹底的に「ディズニー」に植え付けようとするのだ。
深堀りポイント
「魔法の映画はこうして生まれる〜ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション」(NHK2014年11月24日放送)
そこでジョン・ラセターが語った「ヒット映画三原則」は次の通り。
- 観客が夢中になるような予測のつかない物語を作り上げること
- 登場人物が魅力的である 悪役であっても魅力的にすること
- ストーリーもキャラクターにも真実味があること
こうして「ディズニー」は「再建への道」を歩む、その中で「プリンセスと魔法のキス」は生まれたのだ。
伝家の宝刀をついに抜く!

スクラップ&ビルド精神
今作の最大にポイントは、「過去のディズニー作品を、自ら否定する」という点だろう。
『シュレック』という外からの「ディズニー批判」で、窮地に立たされた「ディズニー」
そんな彼らが、自ら「ディズニー批評」をやるという、大博打に打って出たのだ。
これは映画の開始した瞬間から顕著だ。
そもそも、ディズニーの有名なアバンタイトル。
「星に願いを」のBGMに合わせて、「ディズニーキャッスル」が描かれ、「ティンカー・ベル」が光の粉のアーチを架ける。
まさにディズニーを象徴する三要素だといえる。
- 「星に願いを」叶えてもらう「御伽話」
- お城という、夢の形。
- 魔法の力。
今作は、この三要素を全てに「疑問」を投げかける作品だ。
今作の冒頭では、幼少期の「ティアナ」「シャーロット」がお伽噺である「カエルと王様」を読み聞かせてもらっているシーンが描かれる。
その物語は、いわゆるこれまでの「ディズニープリンセスもの」で描かれてきた、「夢のような話」だ。
シャーロットは無邪気に、この御伽話に胸踊らせるが、ティアナはこんな話はくだらないと一蹴する。
そして「星に願いを」叶えてもらうこと、それが大切ではない。
夢は自分の手で掴むものだという、ティアナは非常に現実的な考え方をしているのだ。

それをいきなり否定から始まるのも特徴だろう
このように、まず今作は「ディズニー」が『ピノキオ』から幾度なく語ってきた「星に願いを」否定する。
さらに冒頭のティアナとシャーロットのやり取りもみると明らかなように、ティアナは”そもそも”、「星に願いを」叶えてもらうことも 、「王子との結婚」を夢見ているわけではない。
むしろシャーロットの方が、無垢に純粋に「王子との結婚」を夢見ている方が、従来の「ディズニープリンセスもの」の定石だったのだ。
この2人の構図というのは、実は「現実」にも置き換えることが出来る、つまり「メタ視点」になっている。
これまでの「ディズニープリンセスもの」というのは、「王子との結婚」を夢見る少女が、その夢を掴むものと、世間一般では思われてきた。
正確には、『眠れる森の美女』以降は単純にその構図には当てはまらない。
だが世間一般の「ディズニープリンセスもの」へのイメージはやはり「王子との結婚」を夢見る女性の物語だと思われてきた。
だが、今回はそんな世間一般のイメージの覆しを冒頭から見せてくる。
つまり「現実」の我々が思う「ディズニープリンセスもの」とは、今回は一味違うのだ、と我々に冒頭から宣言しているも同義なのだ。
さらに話が前後するが、今作で「お城」という「夢の場所」は出てこない。
ラストでオープンするティアナのレストラン。
この店名が「ティアナなのお城」とはなっているが、それだけだ。
むしろ今作は「お城」は用意されるのではなく、自分で築くのだ。
もっというと、「夢の場所」を努力で手に入れようとするのも特徴だ。
さらに、今作で「魔法の力」のようなものを操る、ヴィラン「ファシリエ」が登場する。
ある意味で、これは『シンデレラ』における「フェアリー・ゴットマザー」をそのまま「悪役」に転換させているともいえるのだ。
つまり、今作で「夢を叶える」
そんな「力」を扱える存在こそ「悪」としている。
すなわち「魔法」で「望み」を叶えることは「悪=だめ」だと宣言しているのだ。
このように今作の作中、これまで「ディズニー」を象徴する要素を全て「否定」して、新しいものを作ろうとしている。
つまり「新時代のプリンセスもの」のスタンダードを構築しようとしているのだ。
そして、この動きこそ前述した、まさに「ディズニー自身」が「過去のディズニー」を批評していることにほかならないのである。
王子もどんどん「ダメ人間化」する
これは、「ディズニー」作品を観ていて、数を重ねるごとに感じたことだが、どんどん「王子」がダメ人間化しているのも大きな特徴だといえる。
例えば『美女と野獣』の野獣。
彼も、人を見かけで判断する人間で、恐らく作中では描かれないが、相当「わがまま」な男だったに違いないことは容易に想像できる。
さらに『アラジン』で、最終的に王子になる、アラジンその人も頼りない部分も多い。
だが、初期の『白雪姫』『シンデレラ』の「王子」はそうではない。
彼らは理想化された「夢の王子様」であり、完全無欠だ。
つまり、「ディズニープリンセス」に登場する「王子」は、回を重ねるごとに完全無欠の存在ではなくなっているのだ。
そしてこの流れはいよいよ今作以降、もっと顕著になる。
今作の王子「ナヴィーン」は親に勘当され一文無し。
自由に生きる財を手にするために、「ニューオリンズ」の金持ち名家の出身の者と結婚を画策しようとするなど、人間としては「ダメ人間」だといえる。
ちなみに今作以降、例えば『塔の上のラプンツェル』では、そもそも「王子」は出てこない。
『アナと雪の女王』でも、「ハンス」はミスリードに使われている。
このように『プリンセスと魔法のキス』以降は、「王子」はそもそも登場すらしなくなるのだ。
これは、ある意味で「男」への呆れみたいな世相を反映しているのか?
ということで、ここは僕を含めて、頑張ろう「男性たちよ!」という、エールなのかなと思ったりもしてるんですがね(笑)!
ということで、結構話が横道にそれましたが、今作はそんな「ダメ王子」であるナヴィーンが、ファシリエに「カエル」に変えられてしまい、そこから元の姿に戻るために奮闘する話だと言える。
つまり、これもいわゆる「ダメ男」が「反省」して、元の姿も取り戻す物語。
ここまで何度も描かれてきた『美女と野獣』『ラマになった王様』『ブラザー・ベア』の流れを汲む作品だと言えるのだ。
だが従来の同類作品と今作が違うのが、ヒロインもまた「カエル」になるという点だ。
しかも、本来「呪いを解く」はずの「キス」で、「呪い」が「感染」するのも特徴だと言える。
この構図を穿った見方をすれば、これまでの「プリンセスもの」の「キス」は、ただ単に「キス」という行為をすれば、それが「愛」の証と描かれる傾向にあった。
(『白雪姫』などはその典型)
だが、今作はキチンと「愛」を深めてからの「キス」こそが「愛の証」という風に描かれている。
このあたりも過去作からのアップデートとして、非常に面白い要素でもある。
そして、ティアナもまた「人為らざる姿」にされたことで、互いの「心」を知り、「愛を育む」
ある意味で、僕が何度も指摘してきた『美女と野獣』の問題点。
さらに、その問題点を突き崩した『シュレック』
これらに対する「新生ディズニー」の回答だともいえるのだ。
考えすぎかも知れないが「すいません、『美女と野獣』はたしかに、ちょっと変なとこありました」という弁明だともいえると感じた。
本来『美女と野獣』で描かなければならないテーマ。
「人を見た目で判断する」王子の更生を描くなら、彼が「野獣」になるのではなく、彼が「野獣」の姿をした「女性」を愛さなければならないのだ。
それを描くには、「ベル」こそ野獣にならなければならないということだ。
ただ、今作ではカエルになった2人の冒険を魅力的に描くことが出来ている。
そのため、これまでの「プリンセスもの」とは違い、「アクション」「ギャグ」などを小気味よく配せている。
つまり「映画」としての見どころが増えているのも特徴だといえるのだ。
「星に願いを」の先に・・・。
今作でカエルにされたティアナとナヴィーン。
そんな2人と冒険をするワニの「ルイス」とホタルの「レイ(レイモンド)」
彼らも非常に魅力的なキャラクターをしている。
そもそも今作はディズニー作品として久しぶりの「ミュージカル」だ。
しかも「ジャズ」をテーマにしている。
2000年代ディズニーは、作品を観ていると「脱ミュージカル路線」を進もうとしていた。
これも、低迷に拍車をかけてきたのだ。
というのも、やはり「ディズニー」の良さの一つは、その歴史で紡がれてきた「名曲」の数々だ。
それらを生み出すことが出来なかった、それはすなわち「ディズニーらしさ」がないということになる。
つまり今作は、「プリンセスもの」の語り直しであり、「ディズニーらしさ」とは「ミュージカルだ」と世間に宣言しているも同義だと言える。
そして、以後再び「ディズニー音楽」は世を席巻することになる。
それは、ご存知のとおりだ。
話がそれたが、特にこのルイス、レイの歌う楽曲には、凄まじい魅力がある。
「もうすぐ人間だ」「ぼくのエヴァンジェリーン」
特に後者の楽曲はレイのことを慮ると、非常に泣ける楽曲にもなっている。
このレイは今作を見た方ならば、誰もが思い入れてしまうキャラクターだ。
「星」をホタルだと思いこんで片思いをする。
いくら「恋愛成就」を「星に願っても」叶うはずのない思い。
だけど、それでも最後に彼はその夢を叶えるのだ。
確かに今作は「星に願いを」叶えてもらう。
それで「幸せ」になれないと宣言した。
だけど、それでも「奇跡」が起こること、その尊さもまた描いているのだ。
ある意味で、現実の「厳しさ」を描きながら、それでも「奇跡」のすばらしさ、それを再度最後に描く。
そんな、周到すぎる結末が今作には用意されている。
このあたりもぜひ未鑑賞の方は、今作を見てほしいと思うポイントだ。
「夢」とは?
何度も繰り返すが、今作は「ディズニーらしさ」というものに対して、意図的にそれを「否定」する構図になっている。
ティアナの友人シャーロットは「王子との結婚」という夢を、まさしく「星に願いを」叶えてもらう。
そんなことを夢見る少女だ。
だけどティアナは違う。
「夢」は自力で叶えるものだ、そのために努力を惜しまないのだ。
だが、今作は例えば「”星に願いを”叶えてもらうこと」「努力で夢を叶えること」
いずれかの方法で「夢を叶えても」それがすなわち「幸せ」だとは限らないと語るのだ。
ティアナと「ママ・オーディ」のシーンでもそれは語られる。
彼女に「重症だね」と告げるのは、まさにティアナが「夢を叶える=幸せ」と考えているからだ。
今作は「夢=幸せ」ではないとティアナに諭す物語でもある。
むしろ「夢」を叶えることは、あくまで「幸せ」になるための手段だ。
つまり「夢」は「ゴール」ではない、そこからまた「始まる」ということなのだ。
そして、また「その夢」に固執への警告も今作はしている。
本当のティアナの夢である「レストラン経営」
それが、終盤「カエルの呪い」が解けず、叶えられないという展開がまっている。
だけど、それでもティアナはその中で「幸せ」への道、つまり「別の夢」を見つけたのだ。
それが結果「呪い」を解くカギにもなった。
つまり、これは様々な映画の評論でも引用したことがあるが、『仮面ライダー555』での作中のセリフが言い表していることでもある。
「夢ってのは呪いと同じなんだよ。
『仮面ライダー555』海堂直也のセリフ
呪いを解くには夢を叶えなければ。
でも、途中で挫折した人間は、
ずっと呪われたままなんだよ」
つまり「夢」は破れると、それは「呪い」になる可能性を秘めている。
そんな危険性もあるのだ。
今作に込められている思いは、例えその「夢が破れた」としても、それはあくまで「幸せへの道」の一つ。
つまり「別の道」を探してもいいのだ、というメッセージなのだ。
これまでの「ディズニー」は「夢叶う」ことの美しさを描いてきた。
これは「アメリカンドリーム的」というか、「成功主義的」な側面が強いといえるのだ。
確かにそれは「美しい」
だけど、それが出来ない人間もいる。
むしろ、その数のほうが多い。
そんな人々に対して、今作は「ディズニー」なりの回答なのだといえる。
だからこそ、今作はこれまで「プリンセスもの」に懐疑的だった人々の心にも強く残る作品になったのだ。
これを傑作と言わずしてなんと言えば良いのか・・・。
この作品を境に「ディズニー」はいよいよ「ネクストレベル」に到達することになるのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
今作は「ディズニー史上」でも、最大のターニングポイント!!
今作がなければ、「ディズニー」の再興はなかったかも知れない!
まとめ
今作は何度も繰り返すが、過去のディズニー作品を相対化し、そしてそこから脱却。
まさしく過去をぶっ壊し、新時代到来を宣言する一本になったのだ。
ある意味で「ディズニー」というイメージが固まってしまったからこそ、彼らはそこから脱却できずに苦しんできた。
そこから脱するには、やはり一度「過去をぶっ壊す」行為は必要だったのだ。
それに見事に成功した。
そのことで、ディズニーは2010年代「再黄金期」を迎えることになる。
さて、これから「ディズニー総チェック」はそんな「再黄金期」を見ていくことになる。
ということで、今後も「ディズニー総チェック」お付き合いいただきたいと思います!!
まとめ
- 過去の「ディズニー」作品を相対化して、ぶっ壊す。
そして「再興」への道を歩む。 - ディズニー史上でも「最重要作」だと言える。