
さて「ディズニー総チェック」を今日もやっていきましょう!
ということで、今日は「世界で最も有名なクマ」
「くまのプーさん」を語って生きたいと思います!

この作品のポイント
- 「くまのプーさん」は自ら「幼少期」と別れる話。
- 基本的には「ぬいぐるみ」で遊ぶ、ロビンの空想物語。
- 「なにもしない」という誓い。
目次
「くまのプーさん 完全保存版」について
基本データ
基本データ
- 公開 1977年
- 監督 ウォルフガング・ライザーマン/ジョン・ラウンズベリー
- 脚本 ラリー・クレモンズ/ケン・アンダーソン/ラルフ・ライト/エリック・クレワース
- 原作 A.A.ミルン 『クマのプーさん』
- 声の出演 スターリング・ホロウェイ ほか
日本初の劇場公開時の「プー」は「ルパン三世」でおなじみ、山田康雄さんだったのを初めて知りました
あらすじ
「くまのプーさん」長編第1作目の素敵な物語。
3つの短編には“100エーカーの森”の世界で繰り広げられる冒険が詰まっている。
プーさんとティガーの初めての出会いを描いたお話と、ハチミツを食べすぎたプーさんがラビットの家につっかえるお話、嵐がやってきてみんなで助け合うお話の3編。
挿入歌の「小さな雨雲」や「おなかグーグー」も、あらゆる世代が楽しめる。
プーさんのファンだけではなくすべての子供の心もつかむ3つのクラシックな物語。
ディズニープラスより引用
ちなみに今作は、バラバラに制作公開された、
3本の短編をまとめ、つなぎのシーンと、エンディングを追加した作品だよ
「プーさん」の本質とは?

子どもの空想を「物語」にする
今作品は、「くまのプーさん」という作品の持つ「本質」をうまく捉えている。
そもそも、原作者A.A.ミルンはこの作品を、実際にクマのぬいぐるみで遊ぶ息子をモチーフにして書いており、基本的には子どもの「ぬいぐるみ遊び」が原点なのだ。
だからこそ、このディズニー版「くまのプーさん」も、その「本質」をキチンと描いている。
この作品の冒頭、映し出されるのは現実の「クリストファー・ロビン」の部屋である。
そこには「プー」のぬいぐるみ、「イーヨ」「ピグレット」「カンガ」と「ルー」
そして、「オウル」「ティガ」などのぬいぐるみも置かれており、そして、この物語の端々で登場するアイテムなどが一通り映し出される。
つまり、この物語は「子どものぬいぐるみ遊び」を描いた物語である。
そのことをハッキリと冒頭で示しているのだ。
そして、話はかなり飛ぶが、今作品はエンディングでもう一度「現実」に帰ってくる。
そのことで、この物語の本質は「子どものぬいぐるみ遊び」ということを再強調することになるのだ。
それが「プーさん」が長年、こんなにも愛される理由だ。
つまりこの作品は、それこそ「トイ・ストーリー」のアンディのおもちゃ遊びのように、誰もが子どもの頃にやった「遊び」を描いている。
誰しもの心に「なつかしさ」を想起させる。
だからこそ、いつまでも「愛される」作品になっているのだ。
そうした子どもの「ぬいぐるみ遊び」の様子を描いている、それを明確にする「メタ視点」という構造を持つ今作品。
だが、特殊なことに、それと同時にこの作品は、とはいえ「絵本」が原作である。という点も同時に描いているのだ。
今までの「プリンセスもの」などでも「絵本」が開かれて、「おとぎ話ですよ」という体裁で作られるディズニー作品は数多くあった。
だが、ひとたび物語が始まれば、それは、ある程度のリアリティをキチンと担保しながら描かれてきた。
当然「プーさん」のように、ここまで「絵本」であるというギミックを全面に押し出すことはなかった。
例えば「絵本の地の文」の登場や、ナレーターが天の声として物語の進行をする。
ページ間移動というキテレツなギミック。
このように「くまのプーさん」という作品は、非常に特殊な「構造」を持っているのだ。
子どもの「空想」ならではの、物語の理不尽さ
そして、今作最大の見所は、なんと言っても物語の本編そのものだ。
子どもの考えた「遊び」という題材であるが故に繰り広げられる、非常に理不尽な展開なども見どころだ。
個人的には「ぷーさんと大あらし」でのピグレットの「家問題」は初見時には驚かされた。
「大嵐」でフクロウの「オウル」の家が破壊され、別の家を探す。
ここまでは理解できるが、理不尽にも「ピグレット」の家が、なぜかオウルの家になってしまう。
ここでピグレットが家を明け渡す。
このあまりの理不尽さには驚かされた。
確かに、その後プーがピグレットに「自分の家で一緒に住もう」と提案し、それを「英雄」的行為だとロビン達は褒め称えるが、よく考えれば「???」となる。
この子どもの空想の具現化、つまり少々の理不尽さは問題ないという世界観。
それこそが、これは「子どもの遊び」である、という事を描いているのだ。
そして、これも「プーさん」という物語の本質の的を得ているといえるのだ。
そして、それは時に少々「怖さ」すら感じさせられる台詞もある。
そのことから、「プーさん」をネットでは「畜生」などと揶揄する声もあるが、それも無理ない。
なぜなら「ハチは蜜を集める」「それはボクが食べるためなんだ」と無邪気にプーさんは恐ろしいセリフを発する。
これはある意味で「天然」ながら「お前のものは俺のもの=ジャイアニズム」を主張していると言っても過言ではないのだ。
さらに「ズオウとヒイタチ」という「単語の聞き間違い」で起こる妄想。
その余りにもキテレツな夢のシークエンスなど、センスのすさまじいシーンも多く描かる。
今作品は、「プーさん」を見たことない方がイメージしそうな「ほのぼのイメージ」とは程遠い、かなり「先鋭的」な映画だとも言えるのだ。

個人的には「ティガ」という調子乗りのトラを、ラビットが懲らしめるためとはいえ、森に置き去りにしようという計画。
これは「遊びに誘って、どこかで置き去りにしよう」というイジメ的なものを想起させられ、「子どもの発想の恐ろしさ」を感じてしまった。
このように物語の端々にある、子どもの発想だからこそ、生じる「毒っ気」
それらも、またこの作品が持つ独特の魅力だし、中毒性だとも言える。
つまり何度も繰り返すが、この要素こそが、この作品の本質である「子どもの遊び」の具現化だという点を強く浮き彫りにするのだ。
子ども時代との別れを描く
今作品はそんな「子どもの遊び」を描きながら、最後「子ども時代との別れ」を描く。
そこにこそ、今作最大の感動があると言える。
それが、いつもの場所でプーとの「誓い」のシーンだ。
「何もしないができなくなる」と告げるロビン。
それは今までのようにプー達と無邪気に遊んでいる時期が終わること、つまり学校に行かなければならないことを意味している。
これは、ロビンが自ら「子ども期」の終わりを意識しているからこそなのだ。
その「幼少期」を象徴するプーや「100エーカーの森」の仲間たち。
それらと、自ら距離を置くことで、ロビンは「成長」の階段を一歩登ることになる。
これは、人生で最初の「成長」のための「通過儀礼」なのだ。

そして、この「通過儀礼」ともいうべきプー達との別れ。
それらは、実際に僕らも経験した「子ども期」との別れに通ずる点でもある。
ここまで自覚的ではないにせよ、いつの日からか、人形遊び、一人遊び、つまり妄想世界での遊びをしなくなった経験。
そんな経験が皆にあるのではないだろうか?
この作品でのロビンとプーとの別れは、そんな誰しもが経験する「成長」
そのために、失う「世界」がある。ということを描いている。
だからこそ、このシーンに我々は深い共感、感動をしてしまうのだ。
そして、ロビンが、プーと交わす「何もしないをキミには続けてほしい」という約束。
ここには、でも「思い出」だけはいつまでも忘れたくない。
いつか「プー」を通じて、子どもの頃の懐かしい日々を思い出したい。
そういう願いの表れでもあるのだ。
これは「ピーター・パン」のクライマックスでダーリング氏が、「自分も昔は『ピータ・パン』を信じていた、夢見ていた」と雲影を見ながら懐かしむ、構造にもよく似ている。
つまり成長の過程で、いつしか「遊ばなくなる」「信じなくなる」ことがある。
だけど、大人になった時や、時折それを思い返す。
その時に、当時の自分を懐かしむのが大切だというメッセージなのだ。
ウォルトはそんな「夢」を思い出すキッカケになれば。
その思い出「ディズニー作品」や「ディズニーランド」を創造したのではないだろうか?
この「プーさん」の最後の「誓い」には、「ディズニーの願い」が込められているのだ。
だからこそ、このシーンは我々の心に「グッ」と突き刺さる。
そして、その先に再び「現実」のロビンの部屋に戻ってくる。
そこで再び映される「プー」のぬいぐるみを見て、今度は「懐かしい」という感情が芽生えてしまう。
この辺りの物語運びが「くまのプーさん」は非常に巧みだといえる。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
とにかく未見の方は一度見るべし!!
最初「プーさん」ってこんな話なのか!
と驚いたのを今でも覚えてる。
まとめ
今作品は冒頭の「現実視点」を含むメタ構造。
そして、物語の本編での「理不尽」な物語性、考えると「恐ろしい」展開など、これら全てを含めて、本質は「子どもの遊び」を描いている。
それがうまく際立つ作りになっている。
ある意味で我々は「子どもの遊び」を覗き見ているとも言える構造になっている。
そして誰しもが涙する最後の「誓い」
そこに涙するのは、我々が経験した、成長にしたがい、いつの間にか「遠ざかっていったこと」
つまり「子ども期」を思い出してしまうからだ。
我々は自然と「ロビン」に自分の「子ども期」を重ねてしまっているのだ。
そしてプーとの約束。
「キミだけは何もしないを続けてほしい」
これは、いつの日かもう一度プーをみて、ロビンが「子ども期」を思い出したい、そういう願いの現れなのだ。
そしてそれは、「ディズニーの願い」でもあるのだ。
「夢」を思い出す、「夢見ていた頃」を思い出す。
そんなキッカケになりたい、という思い。
それは、今作公開時には鬼籍に入っている「ウォルト」の願いでもあるのではないだろうか?
このように「プー」には我々が思い入れてしまう様々な要素が散りばめられている。
そして、とはいえ、そんな綺麗事だけではない「理不尽」さマックスの、笑ってしまう展開も多い。
それも「くまのプーさん」の魅力のひとつだ。
決して「ほのぼの」というだけでない、奥深い「100エーカーの森」の癖のある世界観。
これを見逃す手はないでしょう!
そして、この「癖」の要素を強化した「くまのプーさん(2011年)」も併せて鑑賞してみてはいかがでしょうか?
まとめ
- すべての要素が「子どもの遊び」という点をうまく表している。
- 「プー」との誓いは、我々の過去の経験を想起させる、だから感動する。
今日も読了ありがとうございました!
また次回の記事でお会いしましょう!