
今回は久々に「ピクサー映画」を公開順に鑑賞していく「PIXER総チェック」企画を進めましょう!
ということで今回は、「ピクサーアニメーション」として6作品目の『Mr.インクレディブル』を評論していきたと思います。
ここがポイント
- ヒーローを誰が見張るのか?
実は深い「ヒーロー論」に追及する作品 - 本当にヴィランに対しての扱いは、あれで良いのか!?
目次
『Mr.インクレディブル』について
基本データ
基本データ
- 公開 2004年
- 監督・脚本 ブラッド・バード
- 声の出演 クレイグ・T・ネルソン/ホリー・ハンター ほか
あらすじ
かつて世界の危機を幾度も救ってきたスーパー・ヒーローたち。
しかし並外れた破壊力を持つ彼らは活動を禁止され、一般市民として暮らしていた。
そんな元ヒーローの1人であるMr. インクレディブルは、力を持て余し気味の妻や子供たちと共に普通の生活を送る。
一方、巷では行方不明事件が多発し、インクレディブル一家にも魔の手が迫る。
グーグルより引用
実は作家性が強い作品

「ピクサー」のこれまでを、振り返り
そもそも「ピクサー」は技術と題材が密接に関わっている。
初期の『トイ・ストーリー』はそもそも「3DCG」黎明期ということもあってか、「おもちゃ」という題材は「プラスチック」の質感なら表現できるという、いわば「出来る限界」の中での題材を選んでいたのだ。
『バクズ・ライフ』もそうだ。
CGで昆虫の「表皮」ならば表現できるからこそ、「昆虫」を題材にした。
そこから『モンスターズ・インク』ではモンスターの毛並みや、質感の表現。
『ファインディング・ニモ』では水中の表現がしたいなど、「ピクサー」の初期映画は、今できる限界と、技術発展をさせたい方向で「映画の題材」を決めていったのだ。
そして5作品目にして、「ピクサー」は初めて「人間」をメインに据えた作品を作ることになったのだ。
これも、「現実的」な人間ではないという注意書きは必要だが、それでも画期的な挑戦であると言えるのだ。
まずこの点にだけ言及しておくと、初期の『トイ・ストーリー』のアンディやシドなどの人間の不自然さと比べると、今作はかなり良くなってきている。
しかしあくまで「スーパーパワー」を持つという点や、過度なアニメ的デフォルメを加えたキャラ造形になっている点は留意しなければならない。
それこそ最新作の『私ときどきレッサーパンダ』などと比べると、拙い点も非常に多いのだ。
だが、繰り返すが、これは「ピクサー」にとって「人間」をメインに据える初めての試みであり、大きな前身にもなったと言えるのだ。
ブラッド・バード監督作品であるということ
さて、もしも僕が2004年時点でこの作品の評論をしていると、おそらく「この方向から」の深掘りはしないが、やはり2022年という時勢から振り返っている以上、この点には触れねばならない。
それが「監督ブラッド・バード」についてだ。
彼はウォルト・ディズニーが出資した「カリフォルニア芸術大学」でジョン・ラセターと同期だったが、ディズニーに入ることはできずに、「ワーナー・ブラザーズ」で『アイアン・ジャイアント』などアニメを制作していた。
その中で実は「ヒーロー映画」制作のアイデアを彼は暖めていたが、結局頓挫。
彼は自分自身がアニメーターとして「どう生きるのか?」
「映画監督」として生きていけるのか?
「家族とどう向き合えば良いのか?」
それを悩みに悩み続けた。
今作を見た方ならわかるが、まさにこの悩みは作中での「Mr. インクレディブル」つまり「ボブ・パー」の悩みと重なるのだ。
そんな中でバードは、旧知の仲ということで「ピクサー」の「ジョン・ラセター」にこの企画を持ち込み、制作が決定した。
バードは、「ピクサー」でも独自の理論を持ち込んだ。
通常「ピクサー」の作品作りは多くの人間がアイデアを出し合って進めていくのだが、バードはワンマンで物事を推し進めていく手法をとった。
それは、まさに彼の中に溜まっていた「鬱憤」「悩み」などがこの映画の礎だったからだ。
だからこそ彼は異例とも言える「ワンマン」で今作を制作した。
さて、繰り返しになるが、今作は「ピクサー」として初めての「人間主体」の作品だ。
これが今作の制作に困難さをもたらした。
例えば『モンスターズ・インク』のブーは、当時の技術では「髪の毛」を描写するのがどうしても上手くいかず、「おさげ」にしてもらうというある種の妥協でこの問題を乗り越えた。
しかし、一家の長女ヴァイオレットの長髪は「彼女のパーソナルの一部」だとしてバードは譲ることなく、一切の妥協を許さない姿勢をとり続けたのだ。
このように彼にとって、まさに「私的」な事情も含めて今作は実は、かなり作家性が前面に出ているのが特徴だと言えるのだ。
ポイント
この無理難題を「ピクサー」は乗り越えるために「表面下散乱」の技術を生み出しながら、完全にリアルな人間に近づけない。
いわゆる「不気味の谷」を超えない技術を確立した。
このバードの出した、無理難題に挑んだことが「ピクサー」のレベルをもう一段階上に引き上げたのだ。

それほど、彼はワンマンな手腕を発揮した
このようにバードは自身の作家性、つまり私的な部分を作中に入れ込み、そしてスタッフに無理難題を押し付け、そして一本の映画を作り上げたのだ。
そういう意味で、彼の制作する作品は、これ以降のものも含めて、大変「私的」つまり「作家性」が見え隠れするという特徴があるのだ。
才能を活かす場所がない苦悩、才能なき者の苦悩
さて、そろそろ内容に触れていこう。
今作は冒頭に「Mr. インクレディブル」たちのヒーロー時代の活躍が描かれるものの、その力の危険性に政府が「ヒーロー活動を禁じる」という法案を提出するところから物語が始まる。
この構図、例えば後年実写化されたアラン・ムーア原作の『ウォッチ・メン』や、「MCU」での『キャプテン・アメリカ 』の3作品目に当たる『シビル・ウォー』
「DC」の『バットマンVスーパーマン』など。
これらの作品でも描かれていたテーマとも共通するのだが、要は「誰がスーパーヒーロー」を見張るのかというのが描かれているのも興味深い。
つまりこれは、「ヒーロー論」としても非常に今日深いテーマを描いているとも言えるのだ。
現実問題として「スーパーヒーロー」たちが、ヴィランと戦う、平和のために戦うという動機はあるにせよ、その後に広がるのは「犠牲」と「破壊」なのだ。
しかも彼らはたいていの場合、ある種法律などを無視した存在でもあるので、それを規制するという流れはある意味で自然だ。
しかし、それが原因で今作のキャラクター、特にボブは自分の才能を発揮できる場所を失い鬱屈した日々を過ごしていた。
繰り返しになるが、これはブラッド・バード自身のキャリアとも重なる。
そこから15年後も鬱屈した日々を過ごし、ある意味で気力を失った男がヒーローとしての「スーパーパワー」を出せる場所を得て、大きな陰謀に巻き込まれていく。
そしてヘレン、ヴァイオレット、ダッシュたち家族も巻き込んでの一大バトルが繰り広げられていく。
今作の特徴としては監督自身が大好きな「スパイアクション」のオマージュが随所に描かれる。
ヒーローたちの駆使するガジェットや、途中のボブを探すヘレンの一連のシーンなど、ヒーロー映画というよりは「007」的なガジェットの数々など、まさに彼の大好きな60年代の流行が取り入れられている。
なので今作のメインテーマが実は「ヒーロー的」であるよりも「スパイアクション的」つまり「007」のオマージュなのはこうした理由があるからだ。
ポイント
そう考えるとヴィランであるシンドロームの秘書であるミラージュ。
彼女の立ち位置が、主人を裏切るという構図は、まさに「ボンドガール」的だとも言える。
さて、ここまで関係ない話もだいぶしたが、要は今作のボブは「自分の才能を発揮できる場所がない男」だ。
そして、その境遇に苦しんでいるとも言える。
ではヴィランはどうか?
今作のヴィランであるシンドロームは、ある意味で「特殊な力」を持たない存在だ。
ボブに付き纏うも、「ヒーローになれない」と否定されて、その復讐心からヴィランになる。
しかし、彼は初登場の時点で「技術力」を持っており、単独で空を飛ぶ能力などを「スーパーパワー」の無さを「技術」で補っている存在だ。
実はその時点で才能はあるのだが、しかしそれを一つも認められずに闇に落ちたのだ。
彼の存在を監督は「パー家のあり方を元に戻す存在」と述べているのだが、ここにも少し彼の作家性が見え隠れする。
つまり「能力がありながら周囲に認められない」
そんな存在が「悪」になることで、ボブが再び自己実現をする。
そのためのシンドロームは糧であるということだ。
これはどういうことか?
つまり、自分の活躍の場は欲しいが、今作の場合ボブだが。
「夢」を否定された人間、あるいは「才能なき人間」は、その犠牲になっても構わないということだ。
これが後年に彼が作る作品『トゥモロー・ランド』でさらに「嫌味」な形で出てしまい、作品の評価は大きく下げることになる。
その「芽」がこの時点で少なからず出ていたということだ。
そういう意味で、どんな題材にせよ作中に必ず棘がある、それがブラッド・バード監督の特徴だとも言える。
シンドロームをただ倒すだけに見える、疑問
今作はヴィランであるシンドロームを「ピクサー」いや「ディズニー」としては珍しく、明確に「殺す」という結末を描いている。
ここにも若干疑問が残るといえば、残る。
もちろん「ヴィランの死」
それ自体は、何ら問題はない。
問題はそこに至るまでにボブがシンドロームを、少なくとも「説得」するような場面がないのが疑問だということだ。
要は「ヒーローの力」これを世間で認めてもらえないボブの挫折と、シンドロームの「否定される」という挫折。
これは同じものだ。
だからこそ、その部分の掘り下げがないことに若干の疑問が残る。
同じ経験をしたからこそのメッセージのやり取りなどが描けなかったのか?
それをボブの成長としても描けるチャンスだったはずだ。
だが、今作はあくまでシンドロームをただの「身勝手なヴィラン」として処理をする。
確かに勧善懲悪としてはこれでいいが、今の視点で見直すと、ここに大きな疑問があったことだけは指摘しておこう。
とここまで、割と辛口と思われるかもしれないが、個人的に今作は展開なども含めて非常に楽しめたし、満足できる作品だった。
特にヘレンの能力を使っての戦闘が「覚醒ルフィ」っぽくて好きだし、今後「ONE PIECE」でのルフィがもしかしたらヘレンのような描写がありそうだな、と思って見たりしていた。
スパイ映画好きというところもあって、敵のアシジ侵入なども見応えバッチリ。
最終決戦も家族の「スーパーパワー」を発揮するなど、おおむね満足できる映画だったといえる。
ただ、やはり「ブラッド・バード」の作家性が強いなと感じた次第だ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!
ブラッド・バードはやっぱり「くせ」が強いんじゃ!
最近はこの癖も好きになりつつあるよ!
まとめ
やはりというか、何というか。
2022年という時勢から振り返ると、やはりブラッド・バード作品には、彼の考えがよく現れると言える。
2004年の時点でもしもこの企画をしていれば、もしかしたらこの感想は出ないかもしれないが、しかしそれも「振り返る」面白さなのだ。
ただ色々言ってきたが、僕はこの作品を面白いと思っているし、やはり「ピクサー」がこの時点でできる「人間描写」の限界に挑戦するという意味で、非常に貴重な作品だったとも言えるのだ。
さらにはワンマンで制作されるという、「ピクサー」にとって珍しい手法で作られたのも見逃せないポイントだ。
今作は多くの評論家の大絶賛を受けて2年連続で「アカデミー長編アニメーション部門」を「ピクサー」が獲得。
「ディズニー」からアニメ界の覇権を完全に奪いとることに成功した。
こうした流れがで「ディズニー」と「ピクサー」の合流のきっかけの一つになったことも、歴史の流れが変わる大きなターニングポイントだったのかもしれない。
さて、次回の総チェックは『カーズ』
この作品も実はなぜ「車」なのか?
題材と技術の関連が深い映画でもあるので、ぜひお楽しみに。
まとめ
- 監督の作家性に注目すると面白い!
- ピクサーの歴史にとって重要な一本であることは間違いない。