
今日は「プライムビデオ」で見ることのできる映画をご紹介。
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」について語っていきたいと思います。
今作を見ると「幸せ」とは?
という点について考えさせられること、間違いありません。
この記事を読んでわかること
- 「夢の国」である「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」
そのすぐ近くには貧困があると言うこと。 - 「子育てには、最悪な環境」そこから救う行為。
それ自体がある種の「暴力性」を孕んでいる、という視点から世界を知ることができる。
一度でいいから行ってみたい「ディズニー・ワールド」
でも、その外の現実も知っておくべき!!
目次
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」について
基本データ
- 公開 2017年(日本 2018年)
- 監督 ショーン・ベイカー
- 脚本 ショーン・ベイカー/クリス・バーゴッチ
- 出演者 ブルックリン・プリンス/ウィレム・デフォー/ブリア・ヴィネイト ほか
あらすじ
6歳のムーニーと母親のヘイリーは定住する家を失い、“世界最大の夢の国”フロリダ・ディズニー・ワールドのすぐ外側にある安モーテルで、その日暮らしの生活を送っている。
シングルマザーで職なしのヘイリーは厳しい現実に苦しむも、ムーニーから見た世界はいつもキラキラと輝いていて、モーテルで暮らす子供たちと冒険に満ちた楽しい毎日を過ごしている。
しかし、ある出来事がきっかけとなり、いつまでも続くと思っていたムーニーの夢のような日々に現実が影を落としていく—
Klockworx VOD 説明文より抜粋
「幸せ」であることとは?

「夢の国」と「貧困」
今作品の舞台はフロリダの「ディズニ・リゾート」の近くにある「安モーテル」だ。
定住できない貧しい者たちが、その安モーテルに泊まり。
なんとかそこに宿泊する賃金を稼ぎ生きている。
まさに「その日ぐらし」と言う状態だ。
ちなみに今作のタイトルである「プロジェクト」という言葉。
これは「低所得者向け公営住宅」を指している。
プロジェクト=低所得者向け公営住宅
だが、あくまで今作品の「プロジェクト」というのは、「公営」ですらない、「安モーテル」だ。
今作品の登場人物は、そういうところにも入れないような境遇の人々なのである。
皮肉にも、そんな場所が「夢の国」「ディズニー・リゾート」(余裕のある人々が過ごす場所)の近くに存在している。
この点に関しては、中盤のシーンで「ボビー」というモーテルの管理人がタバコを吹かしている時、花火の音がなるが、その風景を見せない。
そのことで距離的には近いのだが、そこは遥かに遠い場所である。というように演出されている。
2つの世界は近くにありながらも、そこには大きな壁が存在しているのだ。
そんな「安モーテル」で生活する母ヘイリー、娘ムーニーの何気ない日常。
その中にある「貧困」という影の部分をあくまで「ポップな色使い」そして、決して「同情的になりすぎず」に今作は描いている。
「貧困」だけど「幸せ」「楽しさ」に溢れた世界
今作の主人公である6歳の少女ムーニー。
そして20歳ほどの若い母親ヘイリー。
特にこのヘイリーの、確かに本質はいい人だけど、あまりにも生活力皆無な生き方。
そして迷惑行為の数々など。(火災現場で記念撮影など)
正直いって同情の余地がないほどにひどい。
そして娘のムーニーも近所の子供たちとつるんでは、車に唾を吐きかける遊びをしたり、空き家に忍び込んで物を破損させたり。
さらにはアイスクリームほしさに、店頭に訪れた大人にお金をせびるなどしている。
ヘイリーと、バッタもんの香水を観光客に売りつけるなどなど。
我々の目から見れば、これは「子供」にとってよくない環境である。
だが、今作は子供たちの境遇を「良い」「悪い」という描き方をしない。あくまでフェアに切り取っているのだ。
ムーニーは不自由な生活をしている。
そう我々の目から見れば見えるが、彼女にとっては友達と遊ぶこと。(褒められた遊びではないが)
アイスクリーム欲しさに「お金をせびること」
そしてたった1本のアイスをみんなで回し食べすること。
話は前後するが、ヘイリーが盗んだ「ディズニー・リゾート」のチケットを転売した際に得たお金で買い物していた瞬間。
手口は最悪だが、それでもその瞬間は親子にとって掛け替えのない「時間」がそこにあった。
それら全てが「幸せ」なのだ。
それを視覚的に具現化するように、今作品は非常に「ポップ」な画面作りがされている。
これは、ムーニーにとっては、この「貧困」の場所/状況も、世界の全てであり、幸せな場所。ということのあらわれなのだ。
外の視点から見れば「最悪」な状況、でもそこで生きている者にとっては「幸せ」な場所である。
こういう視点で描かれた作品として、真っ先に「ルーム」の序盤のジャックの無邪気さを思い出してしまった。
こういう描写を丁寧に積み上げることで、今作のクライマックスに起こる出来事が「正しい」ことなのか?
その問いかけが、非常にずしりとくる宿題のように我々にのしかかってくるのだ。
「見ているだけしかできない」存在を通じて見る世界

管理人ボビーの視点
今作品を語る上でウィレム・デフォーの演じたボビーの存在を忘れてはいけない。
ある意味で彼は「我々」と同じ視点でこの世界を見ているのだ。
モーテルに泊まることしかできない人々は一癖も二癖もある存在だ。
ヘイリーも本当に言葉遣いを悪ければ、金払いも悪い。
だが、そんな彼女がムーニーに愛を注いでいることは理解している。
それは他の住人に対してもそうだ。
だからこそ、この状況をどうにかしてあげたい、でも実際には何もできない。
そういうもどかしい感情を抱いている。
これは我々の視点と完全にリンクする。
だからこそ、せめて物思いとしてボビーはモーテルの内部で起こるトラブルから住人を守るのだ。
それは子供たちに対してもだ。
子供たちが遊んでいるところに近づく老人。
一見すると近所の老人が子供に声をかけているだけにしか見えない。
だが、そこにボビーが近づいてきて老人を怒鳴り散らして追い出すのだ。
この老人は「変質者」だったのだ。
せめてここにいる人々の安全だけは守ってあげたい。
そういう思いからの行動なのだろう。
だが、同時にこ「人情味」溢れる「いい人」がいるだけでは、この「貧困」という状況は変えることができないのだ。
そして、非常に虚しい思いにさせられてしまう。
そんな現実をボビーを通じて我々に今作品は突きつけてくるのだ。
相反する感情渦巻くクライマックス

子育て環境としては「最悪」に思えるのだが・・・
さて、今作では物語の途中からモーテルの宿泊代を稼ぐために、ヘイリーが何をしているのか?
そのことが、ムーニーが1人でお風呂に入る際に大音量で音楽を流していることの答えになっている。
ヘイリーは客が来るとムーニーを1人で風呂に入れ、音が聞こえないように大音量の音楽を流し、部屋で売春をして宿泊代を稼いでいたのだ。
これは、考えるだに子供にとって「いい環境」だと思えない、「最悪」なもの。
だが、その売春をするための写真もムーニーと一緒に水着でのファッションショーのように写真を撮りあうこと。それもまた母娘の「幸せ」な時間なのだ。
- 香水の母娘での押し売り(バッタもん)
- 娘のいる家で売春
- 遊び感覚でアイスクリーム代をせびる
➡︎普通であれば子育てにとっていい環境ではない、しかしムーニーにとってはこの環境にも「幸せ」が満ちている。
先ほどからしつこいように繰り返しているが、今作品は「貧困」での暮らしに「幸せ」「不幸」というどちらかの視点に肩入れして見せることをしていない。
あくまでフェアにこの「貧困」での暮らしを描いているのだ。
「児童相談所」の介入
このような生活は永遠に続くことはない、周囲の住人に売春の件がバレたり、少しずつ暗い影が落ちてくる。
そして「児童相談所」が母娘の間に介入してくるのだ。
先ほどから述べているが、普通ならばこれは「良きこと」なのだと思える出来事。
だが、ここまで物語を見てきた我々にはこの出来事は「良きこと」とは思えなくなってしまっている。
果たして「母娘」を引き離すことが、特に「ムーニーにとって良いこと」なのか?
という疑問が頭の中に湧いてくるのだ。
ヘイリーは隣人には暴力を奮ったり、やはり褒められる生き方をしているとは言えない。
だけどムーニーには愛情を注いでいるし、「売春」という行為も究極的には2人で生活するための手段なのだ。
そこにやってくる児相の職員。
彼らはムーニーを里親に預けようとやってきたのだ。
彼らが親子を引き離そうとする、その瞬間。
我々は「正しい」でも「やめてほしい」と思うしかないのだ。
そして、2人を引き離そうとするその手にこそ、ヘイリーからムーニーには決して感じなかった「暴力性」を見てしまうのだ。
児相の職員は、これが「良きこと」だと考えているが、実際に子供たちがどう思っているのか?
その気持ちには、寄り添えていないのかもしれない。
だけど、やはりこの環境から「離れる」こともは良きことだと思ってしまう。
でもムーニーをヘイリーと引き離さないでほしいとも思ってしまう。
まさに「アンビバレント」な感情に陥ってしまうシーンだ。
この相反する2つの感情に揺さぶられ、最後にはムーニーが走った先に広がる景色。
そこにいる多くの「家族連れ」
一見すれば「家族でディズニーランド」を楽しむ。
それは「幸せ」な時間であることは間違いない。
だが、ムーニーから見れば、その「家族連れ」はある意味で「作り物」のようにも見える。
ムーニーにとっての幸せは、ヘイリーとの日々だ。
だからこそ、本当の親と引き離されて、仮にこの「家族連れ」のような環境にいったとしても、きっと彼女は幸せにはなれないのではないか?
と解釈することができる。
だが、このような未来がムーニーには開けているのかもしれない。という風にも汲み取れるバランスにもなっている。
そういう2つのニュアンスを含めたシーンで本作は締め括られる。
最後に作品内リアリティを超越した映像表現。
これは、ぜひ本作をご覧になって確認していただきたい。
子役たちの自然な演技が花を添える
今作の子供たちの演技。
鑑賞した方なら、お分かりだろうと思うが演技と思えぬほど「自然」で「見事」というほかないだろう。
日本の作品では「子役」というと過剰な演技で鼻につくことも多いのだが、今作は現実の光景を自然に切り取っているのか?
と錯覚させられるほどに見事だ。
そんな中でもムーニーを演じたブルックリン・プリンスの演技はすごい。
彼女の自然な言葉の中に含まれるニュアンスなどをしっかりと演じ切っている。
「大人が泣く時がわかるの」
「この木は倒れながらに成長している、だから好き」
このさりげないように思えたセリフが、実は重要な意味を持っている。
そしてその言葉を発する時の表情、それがこの物語内では直接描かれない余白をきちんと表現しているのだ。
もちろん、この情報をこの段階で見せる。
そう言った順序立ての脚本も相当にうまいのだが、それをさらに彼女の演技が魅力を5割増しに見せてくれている。
今作をこんなにも魅力に溢れる作品たらしめるのは、間違いなく彼女を含めた子役陣だ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説
「幸福」「不幸」をジャッジしない、あくまで、その問題に寄り添う作品!
ヘイリーとムーニーの関係を見て、どうすればいいのか?
それがわからなくなってしまった・・・。
まとめ
普通ならば、作中のような環境で過ごす子供たちは、「児相」などに引き取られた方が幸せなのでは?
と思ってしまう。
だけど、その行為は、本当に「子供」の「本音」に寄り添えているのか?
我々が「良い」「悪い」をジャッジしていい問題なのか、それがわからなくなった。
少なくとも今作はそこを「フェア」に描いている。
どちらに肩入れするわけでもなければ、答えを出しているわけでもない。
ただ、こういう問題がこの世界にはある。ということを描くのだ。
そこに、ただ寄り添う。
そういう作品だ。
だが、ボビーのように「優しい人間」がいるだけではどうにもならない問題。
つまり「優しさ」だけではどうにもならない、という現実も描いている。
どうすればいいのか?
今作は、そんな重たい宿題を我々に投げかける作品とも言える。
ということで、読了お疲れ様でした。
また次回の記事でお会いしましょう。