
今回はバスケットボール漫画・スポーツ漫画。
いや、少年漫画史に残る金字塔のアニメ化作品。
『THE FIRST SLAM DUNK』を評論したいと思います。
この作品のポイント
- なぜ今「スラムダンク」なのか?
- 原作との距離感で評価が変わる
目次
『THE FIRST SLAM DUNK』について
『THE FIRST SLAM DUNK』基本データ
基本データ
- 監督 脚本 原作 井上雄彦
- 出演者 仲村宗悟/笠間淳/神尾晋一郎/木村昴/三宅健太
作品紹介
週刊少年ジャンプで1990年から1996年に連載され高い人気を誇る井上雄彦の『SLAM DUNK』を基にオリジナル映画化。
バスケットボールに熱狂する高校生たちの青春を描く。監督・脚本を原作者の井上雄彦が務める。
Googleより引用
注意
ネタバレを含むので、注意してください!!
なぜ、今「スラムダンク」なのか?

賛否両論のアレンジ
正直今回の『スラムダンク』のアニメ化に際しては、賛否両論になりそうな予感がしている。
この記事を書いているのは公開から間もないタイミングなのだが、時間がたてば様々な意見が噴出しているだろう。
現にSNSでは、評価も分かれ始めている。
なぜ、こんなにも評価が分かれるのか?
そこを今回は考えていきたい。
そもそも今作品は、非常に特殊な作劇になっている。
というのも、今作は原作のクライマックスに当たる湘北高校VS山王工業を描いているからだ。
しかも、今作では大胆にもそこだけで『スラムダンク』という作品を語り切ろうとしているのだ。
これがどれだけ、無茶苦茶な改変かは言わずもがなだ。
そもそも原作は1990年から96年まで連載され、全276話にものぼる。
原作における山王戦は、足掛け6年をかけて描かれ続けた末に辿り着くクライマックスなのだ。
今までのチームメイトのいざこざ、ここまでの道のり、それらが全ての結実を迎える。
だからこそ、ここが『スラムダンク』の最高潮という人も多いのだ。
何度も繰り返すが、このクライマックスだけを切り取り、今作は『スラムダンク』という物語を語り切ろうとする。
しかも、これも大胆なのだが主人公を「桜木花道」から「宮城リョータ」に変更をするというアレンジも見せるのだ。
そして、この試合の展開でのドラマ部分も、ほぼ宮城リョータに集中。
他のメンバーや山王高校のキャラクターは、ほぼフォーカスしないのだ。
このアレンジに乗れるか、乗れないか。
ここが、今作の評価分かれるポイントになっているのだ。
宮城リョータが主人公たる理由
個人的にはこの改変は大いに納得できている。
だからこそ、今作を一定の評価をしているのだが、その理由を語っていきたい。
そもそも、今作は何が描きたいのか?
それは明白だ。
天才と比較され続けた宮城リョータのコンプレックスと、そこからの解放を今作は描いている。
そして、それがなぜ「山王戦」なのか?
それは、彼らが才能・天才の集まりだからだ。
彼らに宮城リョータが打ち勝つことが、天才と比較されつづけた男の解放になりえるのだ。
だったら原作のまま「桜木花道」を主人公にしても、成り立つだろう。
そう思われる方も多いかもしれない。
実際原作は、彼が努力で強敵に勝ち、成長する物語だからだ。
しかし、実際に桜木花道は真の意味で「凡人」たり得ない。
例えば屈強な肉体、恵まれた運動神経。
そして、隠された天才性の開花。
実は原作は花道が「自身の天才性」を開花させ、「天才」に近づいていく物語だからだ。
だからこそ、山王戦も「天才」と「開花する天才」の戦いにしかならないのだ。
そして、それは三井、赤城、流川も変わらない。
彼らもまた、「天才性」「恵まれた体躯」を持っているからだ。
今作は明確にそこを「天才」と「凡人」の戦いにシフトしたいという意図が明確に表れている。
だからこそ、宮城リョータが主人公なのだ。

そのため今作は非常に特殊な作りになっている。
それが現代「山王戦」と、宮城リョータの過去のエピソードが交互に描かれる展開だ。
ここが、山王戦というバスケの試合自体の面白さを停滞させている感も否めないという弱点については、後述するが。
今作が描きたいのが、あくまで宮城リョータのドラマだとするならば、この作りも大変理にかなっている。
例えば冒頭、リョータの兄ソータ、彼との1on1が描かれる。
そこで兄の才能の豊かさが描かれるも、その後海難事故で死亡することが描かれていく。
そこから、故人の偉大さに押しつぶされそうになるリョータが描かれる。
ちなみにこの兄のエピソードは、井上雄彦の短編「ピアス」からの流入だと思われる。
その後、時勢は一気に飛び現代の山王戦が描かれる。
冒頭は順調に互角な試合を見せるが、ハイプレスを仕掛けられ、手も脚もでないリョータの姿を描き、また時勢が過去に飛ぶ。
つまり、試合内容と過去のエピソードは常に「天才」に負けるリョータを描き続けるのだ。
さらに、今作は原作にはない、母とリョータの関係が深掘りされていく。
コンプレックス乗り越えて
今作は宮城リョータの過去が赤裸々に描かれる。
中でも父と兄の死は彼に大きな喪失をもたらすことになる。
その喪失を埋めるために、打ち込むバスケットボール。
しかし、兄との比較に苦しみ、少しずつリョータは周囲に対して態度を硬化させていく。
さらに父の死後、映画冒頭の場面で兄は母に寄り添った。
だが次に兄が死んだ際、リョータ自身は母に寄り添うことができなかった。
この後悔も描かれていく。
バスケでは兄の幻影に、私生活では母への申し訳なさの気持ち。
これらがリョータを追い詰めていくのだ。
そして不良連中に目をつけられトラブルを起こしてしまい、どうして自分が「生きているのか?」と考えてしまうようになるのだ。
そこまで追い詰められながらも、リョータが自分を保てているのは、バスケットボールがあるからだ。
しかし現実には、そこでも自分よりも格上の「天才」集団である山王に追い込まれていく。
だがリョータは今は一人ではなかった。
仲間と共に山王に立ち向かい、活路を見出していくことで、少しずつ過去のコンプレックスを打ち破ることになるのだ。
ここで、湘北メンバーとの出会いも回想される。
だが、あくまでメインはリョータなので、彼らのエピソードも基本的にはリョータの物語に帰結していくことになる。
なので繰り返しになるが今作はリョータ視点の山王戦とも言えるので、それぞれのメンバーの見せ場も、リョータ視点から見える出来事となっている。
つまり、過度なドラマ性はなく、あくまで「出来事」の一つなのだ。
個人的には一人の人間に絞って描くのに、このアレンジは大胆ながら的は得ていると考えている。
そしてこの改変自体にはドラマ性、意味もきちんとあり、よく考えられているのではないか?
というのが素直な印象だ。
ただし問題もある
ただし、バスケットボールの試合を描くという意味で、「過去」「現代」の行き来は、試合の連続性を壊している。
試合そのものの展開の面白さが「山王戦」の魅力の大きな点だったとも言えるので、ここを削いだのは原作派から批判はやむなしだろう。

個人的にも、行き来が少々多かったという印象は受けた。
ただ、もっと気になったのはCGアニメであるという点だ。
確かに「井上雄彦の漫画をアニメ化する」という意味でこのアプローチは間違っていない。
実際メインキャラの描写は素晴らしいし、最後の逆転劇の描写も原作のスピード感を表現している。
ただし、ここにも言いたいことがある。
それは原作の通り花道が決勝点を挙げたという点だ。
今作はリョータにドラマを集約させているので、花道のシュートが「カタルシス」に全く繋がらないのだ。
(原作では努力の末の結末になっているので、ここで爆発するような感動がある)
今作で最後に「カタルシス」を持ってくるには、リョータが試合を決めるしかないのだ。
ここまでやり切れば、完璧だったので、ここは非常に惜しいポイントだろう。
話を戻すが、CGの何が問題だったのか?
それは、モブキャラの描写があまりにもしょぼい点だ。
特に応援団の手抜きっぷりは前半、映画に慣れるまで非常にノイズになった。
もう少し動きをバラつかせるか、いっそ観客は描かない方がマシなレベルに酷かった。

あとは、これも物語構成の問題なのだが、あくまでリョータの物語なのだから主人公サイドの他のキャラの描写はこれでいい。
逆に山王サイドの描写はいっそなくても良かったのではないか?
そこに時間をかけたことで映画のスピード感が、より鈍足に見えたのでここも思い切り割り切って欲しかったところだ。
あと、公開前に批判されまくった声優問題。
個人的にはアニメ版にもそこまで思い入れはないので、全然気になりませんでした。
まとめ
ということで、問題はあるし、いろいろ言ってきたが、個人的にはこの大胆なアレンジは良かったと思う。
今更「スラムダンク」をするのであれば、やはり「天才」と「凡人」の対比を深掘りして描くのは大いに意味がある。
原作通りの主人公花道ではこの構図にはならない。
だからこそリョータが主人公であることに大きな意味を感じた。
ある意味で「普通」にやれば「絶賛」される、「間違いない題材」を、原作者自らが監督して大胆アレンジをした今作。
この企画にGOを出した作り手たちの判断を、僕は大いに評価したい。
きちんと他媒体で描きなおす意味もきちんと持ち合わせた「挑戦的な意欲作」としての姿勢を今回は評価したいと僕は思いました。
ぜひ皆さんも鑑賞してみてはいかがでしょうか??
主題歌がバリバリカッケーんす!!