
さて今日も「ディズニー総チェック」を進めましょう!
ということで、今回取り上げるのは「ノートルダムの鐘」です。

記憶に新しいところでは無いでしょうか?
この作品のポイント
- 何を「切り口」にするにせよ、異色作であることは間違いなし!
- 本質的には、1人の女性を巡る、3人の男の争いである。
- 物語の推進力「フロロー」の歪んだ「性欲」が鍵。
目次
「ノートルダムの鐘」について
基本データ
基本データ
- 公開 1996年
- 監督 ゲイリー・トルースデール/カーク・ワイズ
- 脚本 タブ・マーフィ/アイリーン・メッキ/ボブ・ツディカー
ノニ・ホワイト/ジョナサン・ロバーツ - 原作 ヴィクトル・ユーゴー 『NOTRE-DAME DE PARIS』
- 声の出演 トム・ハルス/デミー・ムーア ほか
あらすじ
ヴィクトル・ユーゴーの名作に着想を得て作られた、ノートルダム大聖堂の心優しき孤独な鐘つき男カジモドの冒険物語。
仲良しのガーゴイルのユーゴ、ヴィクトル、ラヴァーンに励まされ、だれも訪れることのない安全な鐘楼の外に飛び出したカジモドは、美しいジプシーのエスメラルダと出会い、初めて本当の友情を知る。
その後エスメラルダは逮捕されそうになり大聖堂に軟禁状態となるがカジモドに助け出され、そのお礼にジプシーの隠れ家を示した秘密の地図を渡す。
隠れ家に危険が迫った時、ヒーローとはほど遠かったカジモドが、愛する人々と街を守るため戦いに挑む。その姿に人々は、人を見た目ではなく中身で判断することの大切さを知るのだった。
ディズニープラスより引用
何を切り口にしようとも、異色作であることは間違いない

主な切り口は3つ
今作はとにかく「ディズニー総チェック」をしてきた中でも異例の作品である。
というのも、どこを切り口に物語を紐解いても、これまでの「ディズニー作品」とは、ハッキリと一線を画する作りになっているからだ。

1つ目に、これまで幾度となく「総チェック」でも指摘してきた「見た目より中身」というテーマ性を持つという点だ。
2つ目にあげられるのは、今作は「カジモド」「フロロー」「フィーバス」という3人の男が、ヒロインである「エスメラルダ」を巡る、「恋の鞘当て」要素を持っているということ。
最後に「フロロー」というヴィランの原動力が、明らかな「性的欲求」に基づいているという点だ。
今回は「ノートルダムの鐘」という作品を、この3つの「切り口」から紐解いていきたいと思う。
「見た目よりも、中身」が大切である
これまでの「総チェック」の中で、幾度となく語られてきた「見た目より、中身が大切」というテーマ。
特にこのテーマは「美女と野獣」以降の「黄金期」に形を変えて語られてきたという点は、過去に評論した通りだ。
ただ、ここを少しだけ振り返ろうと思う。
まずは「美女と野獣」だ。
まさにこのテーマの典型例とも言うべき作品だと言える。
この作品は、人を見た目で判断した「王子」が魔法をかけられ「野獣」にされ、そこでもがく姿を描く。
そしてベルとの邂逅で、「見た目よりも中身が大切だ」というのを観客に伝える作品になっている。
(ただし、個人的に小さくない矛盾を孕んだ作劇になっていると、過去の評論では指摘した)
次に「アラジン」
この作品では直接的に、このテーマは描かれているわけではないが、実は若干切り口を変えて描かれている。
それは「ジャスミン」に対して、「アラジン」が、「偽りの姿のままでいるのか?」それとも「真実の姿をみせるのか?」という葛藤に現れている。
そして前作にあたる「ポカホンタス」
ここでは「人種」つまり「見た目」の違う種族がいがみ合う中で、ポカホンタスとジョン・スミスは、互いに相互理解をする。
「姿」「言葉」は違っても、相手の「中身」を知ろうとすれば、理解しあえるし、愛し合えることを描いている。
その姿をみて両陣営が、和解するという作品になっている。
このように「黄金期」は特にこのテーマを繰り返し、そして切り口を変えて語っているのだが、今作はそれらとも、ハッキリと一線を画す。
それは、「カジモド」の姿は「野獣」のように「魔法」をかけられた姿ではないという点。
そして、これらは「見た目よりも中身」という問いかけを超えた先に、一応の「恋の成就」というゴールが用意されている。
だが、今作ではそれは叶わないという点だ。
まずカジモドの姿だが、ハッキリとこれまでの「ディズニー作品」と毛色の違うデザインになっている。
背骨が湾曲し、背中の一部が丸く突出しており、右目の上にはコブ。
歯並びの悪さ、足を引きずる仕草など、非常に醜い姿で描かれているのだ。
ちなみに原作では、さらに「難聴」を患っており、「ディズニー版」では、これでもかなりハンディキャップは軽く描かれているといえる。
しかも名前である「カジモド」は「出来損ない」の意味でもある。
このような姿であるカジモドは、外の世界に憧れを抱いてはいるものの、自分の姿を他人は受け入れてくれないと、引きこもって生きてきたことが冒頭で示される。

ある日カジモドは、今まで眺めているだけであった「祭り」に参加するために大聖堂を飛び出すことになる。
ここでカジモドに勇気を出すように進言する3つの石像が出てくるのだが、彼らは他人にはただの石像にしか見えない「イマジナリーフレンド」であるのも特徴だと言える。
ポイント
イマジナリーフレンドについては、過去記事でも評しているので、そちらもチェックされたし。
ここで重要なのは、彼らのセリフは全てカジモドの「心の声」であるという点だ。
つまり「フロロー」の言いつけを破れというセリフや、後に出てくる「エスメラルダ」についてカジモドを茶化すセリフ。
上げればキリがないが、これらは、すべてカジモドの隠れた本心なのだ。
ある意味で、カジモドは自分の「心の声」に基づいて「大聖堂」を飛び出したといえる。
そこでカジモドは「エスメラルダ」と出会うことになる。
このシーンで重要なのは、彼女はカジモドに対して、びっくりするのではなく、自然に彼に接するという点だ。

彼は初めて「人間」として接してもらったのだと言える。
ちなみにエスメラルダは、「ジプシー」であるという理由で、街でも人間扱いされず、ひどい仕打ちを受けており、ある意味でカジモドと同じ「痛み」を抱えている存在でもあるのだ。
だが、最高な思い出も儚く終わる。
最初は「醜い」ということで祭りでは主役の扱いを受けるものの、心無い観衆にトマトをぶつけられ、集団リンチのような目に合ってしまう。
彼はそんな現実に絶望することになるのだ。
深堀りポイント
ここで壮絶なリンチにあうカジモド。
彼を聴衆は「化け物」と気味悪がり、とはいえ最初は馬鹿にするニュアンスで、ひどい言葉をぶつける。
だが、次第に行為は「物を投げつける」「ロープで身体を縛る」などエスカレートしていく。
ここで考えなければならないのは、カジモドを「化け物」として、ひたすら暴力的行為をする聴衆こそ「化け物」といえる点だ。
これは何もフィクションだけのことに限らない。
現実でも起こり得るし、起こっていることだ。
人間は誰しも「暴力的側面」「他人を攻撃しよう」という悪意を抱いているものだ。
つまり、誰しもがこうした行為に走る可能性がある。
そのことから目を背けてはならない。
そこからエスメラルダとの交流を通じて、自分に対しても分け隔てなく接する彼女に心惹かれていくのだ。
そこにフィーバスの登場や、後述するがフロローの歪んだ「愛憎」入り混じったエスメラルダへの「思い・執念」と対立していくことになる。
今までの「ディズニー作品」ならば、恋のライバルが現れようと、そこにどんなヴィランが立ちふさがろうとて、最終的には「結ばれる」ことで幕を閉じる作品が多い。
今作で言えば、カジモドとエスメラルダが結ばれるのが妥当といえばそうだ。
だが、そうはならない。
エスメラルダは結局カジモドではなく。フィーバスをを選ぶのだ。
この点を指摘して、今作を「ハッピーエンド」ではないという指摘をする声も多い。
確かに「恋愛の成就」こそを「ハッピー」とするならば、確かにこの作品は、その定義に当てはまらない。

そもそも論だが、今作が「何を描こうとしていたのか?」を考えなければならない。
その答えは、カジモドが「外の世界に出ていく」そして、周囲の人間に「受け入れられたい」という願いを叶える。
そんな過程を描く物語だといえる。
今作での活躍を通じてカジモドは、確かに「見た目は醜い」だけど、正義感に満ちた英雄的行為でエスメラルダを助けた。
そして、真の「正しい心」を持った存在であることを示したのだ。
反対にフロローという、15世紀という時代において、人々から尊敬を集める存在。
神の教えに従い、「判事」という仕事に就いている、そんな彼が今作ではヴィランを努めている。
彼はこの時代において、いわばエリートとして生きてきた。
つまり、「外ウケのいい存在」だとも言える。
だが、彼こそが、最も醜い内面を持ち、「ジプシーの命を奪い」そして「パリ」を炎上させた。
今作はこのように「本当に”醜い内面”を持つのは誰か?」という問いかけを、作中のパリの住人、そして我々に投げかけてくる。
そして、最終的に「確かにカジモドは醜いが、彼は真の正しい心を持った存在だ」ということに気づく。
そしてカジモドは、当初の願いである「外の世界で周囲の人間に受け入れられる」という本懐を遂げるのだ。
(ただ、ここでパリの住人が、謝罪など一切なくカジモドを「いい人間だ」と持ち上げるのが、若干「いい気なもんだ感」があって・・・)

と思ったりもする
とにかく、これまでの「ディズニー作品」のように「恋愛の成就」にこそ「幸せ」がある。
とするならば、今作は確かに「ハッピーエンド」ではない。
だが、カジモドは周囲の人間に「外見は醜いが、中身は素晴らしい」と周囲の人間に理解され、受け入れられる、つまりもともとの願いは叶ったのだ。
だからこそ、彼にとっては、やはり「ハッピーエンド」だといえる結末を迎えるのだ。
「恋の鞘当て」要素
これは前述したが、今作ではカジモドとフロロー、フィーバスはいわゆる「恋敵」といえる。
カジモドはエスメラルダに優しくされて、恐らく今まで多くの人々に「怪物扱い」されてきたのだろう。
人間扱いされなかったのだろう。
それはエスメラルダもそうだ。
「ジプシーは悪だ」と差別され、スミに追いやられてきた。
だからこそ、彼女は分け隔てなく他人に接することができるのだ。
だからこそ、今回カジモドは「初めて他人(異性)に優しくされた」ことでエスメラルダに惹かれる。
この恋のきっかけも、実は「ディズニー作品」らしくない。
従来では「自分が求める世界で生きている、存在」に惹かれることが多かったが、今回はある意味で「切実さ」が増して見える。

そして今作ではエスメラルダはただの一度もカジモドに恋心を抱いていない。
あくまで「仲間・友達意識」として、彼に関心を抱いているし、信頼をするのだ。
だからこそ、ある種このカジモドの可愛そうな不憫さが増すのだ。
その後、フィーバスの男気を見て、エスメラルダは彼に惚れるのだが、そんな彼が傷ついた際にエスメラルダが、カジモドを頼る。
そして、彼を看病しながらエスメラルダがキスをする。
それをカジモドは目の当たりにするのだが、彼の心境を推し量ると辛いものがある。
ここも重要なのだが、本来の「ディズニー作品」で恋愛の過程は「美しい」ものとして描かれる。
だが、今作はそれをカジモドの心理から見る作りになっていて、実は「恋愛の過程」を見るのが、非常に辛い作りになっている。
これも今作の特殊な点だと言える。
だが、最終的にはカジモドとフィーバスは死地を乗り越え、友情を深める。
愛する人を一緒に助けるという、行動を共にすることで、フィーバスを認め、エスメラルダと彼の間を祝福する。
ちなみにフィーバスもカジモドを最初に見た際、差別的なセリフは言わなかったし、「祭り」では彼を助けようとした。
だからこそ2人が友情を深めるのも、妥当だと言える。
確かに今作で。カジモドはエスメラルダとは恋人にはなれなかった。
だが、彼には最終的にフィーバスとエスメラルダという親友を手に入れたのだと言える。
この点も先程の内容とも少しかぶるがカジモドの「恋愛」は叶わなかった。
だけどカジモドに初めて、外の世界で親友ができたのだ。
外の世界に出るからこそ「恋の幸せ」「痛み」を学び、「大切な友情」を手に入れることができた。
カジモドの人生にとって、この経験は尊いものだと言えるのではないだろうか?
フロローの行動原理が「性的欲求」である点
今作で最も異例なのはフロローの行動原理が「性的欲求」に基づいているという点だ。
フロローは「ああマリア様」と歌い出すように、熱心なキリスト教徒だと言える。
自身を「正しい」と肯定するのは、自分自身が最も忠実に「神の教え」を守っているという、その自信からきているのだ。
「キリスト教」の教えでは、「性的欲求」などは、良きこととはされていない。
フロローは当然自分自身を「正しいキリスト教徒」だと信じているからこそ、そもそも「自分に性欲がある」とは考えていないのだ。
(自分の「正当性」を疑わないからこそ「ジプシー狩り」を正義と信じている)
だけどフロローは、エスメラルダの姿に「ムラムラ」してしまったのだ。
だが、彼は自分は「正しいキリスト教徒」だと信じており、「性欲」とは無縁だと信じている。
だからこそ「自分に性欲を植え付けたのは彼女だ」と考えることになるのだ。
これは普通に考えると「???」となるが、ある意味でフロローの中では最も腑に落ちる思考なのだ。
そこで歌唱される「罪の炎」という楽曲。
抑えられない性欲に襲われる。
そんな私が「悪いのか?」と自身の心に問いかける歌となっている。
まさに「ムラムラ」して「メラメラ」しているといえる。
その結果彼は、彼女をどうしても殺したい、もしくは神の意志に背いてでも、彼女を手に入れたいと、執拗な執念を燃やすことになるのだ。

ある種「キリスト教」的な教えを最も忠実に守った男が、この作品では「悪人」として描かれる。
そもそもこの構図が、特殊だと言える今作品。
そして、「悪人」の行動原理が「性的欲求」に基づいている。
これもまた、今までにないアプローチの作品だと言える。
これらの点をキチンと理解するには、ある程度の年齢を生きなければならないし、そういう意味で「ノートルダムの鐘」は「大人向け」と言っても過言ではない作品だと言える。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説
色んな意味で異色作であることは間違いない!
でも、考える余地が多くて、おもしろいんだけどね!
まとめ
今回は「ノートルダムの鐘」を3つの切り口で異例作だと語ってきた。
特に個人的にはフロローの行動原理。
この点が思いっきり攻めていると感じたし、この部分をキチンと説明するには、ある程度の年齢が必要だといえ、そういう意味で「大人向け」な作品だと言っても過言ではないだろう。
そして「恋の過程」がここまで辛く描かれるのも、今作の特徴ではないだろうか?
カジモド目線では、胸が張り裂けそうになること必至だ。
それでもカジモドは最終的にはパリの住人に受け入れられるようになる。
彼は、周囲の人間からの見方を変えさせたのだ、それは彼自身の勇気の賜物でもある。
そんな勇気の物語の着地として、今作はやはり感動的だとも言える。
ただし、パリの住民は彼に、一度は謝罪すべきとは思うのだが・・・。
しかしながら、「ポカホンタス」と「ノートルダムの鐘」
ここにきて、またガラリと作風を変えてきた「ディズニー」
今後、どのような作品が待っているのか、注目して「総チェック」を進めていきたい!
まとめ
- 今作は、とにかく「ディズニー作品」の中でも異色作だといえる。
- 本当の意味で「大人向け」といえる。
さて、今回も読了ありがとうございました!
次回は「ヘラクレス」を取り上げます!