
「長編ディズニー映画」を公開順に評論していく「ディズニー総チェック」
いよいよ1900年代最後の作品にして「黄金期」最後の作品「ターザン」を紹介したいと思います!

この作品のポイント
- 「ポカホンタス」と対になる要素が多い。
- 「人間」と「動物」に敵を用意する作劇。
- 「カーラ」と「ターザン」が「何故親子になるのか?」
その見せ方が秀逸!
目次
「ターザン」について
基本データ
基本データ
- 公開 1999年
- 監督 ケヴィン・リマ クリス・バック
- 脚本 タブ・マーフィ ボブ・ツディカー ノニ・ホワイト
- 原作 エドガー・ライス・バローズ 『ターザン』
- 声の出演 トニー・ゴールドウィン ほか
あらすじ
エドガー・ライス・バローズの小説を、ディズニーが壮大なアニメーションに映画化。
舞台はジャングルの奥深く。
両親を失った赤ちゃんのターザンがゴリラの家族に育てられることに。毛がない奇妙な生き物だという理由でリーダーには認められないターザンだったが、仲間たちからは一員として受け入れられ成長する。
冗談好きな仲間のタークと心配性なゾウのタントーと共に、ターザンは木々の間をスイングし通り抜けていく方法を身につける。
やがて人間たちと出会うことで、ターザンの中で2つの世界がぶつかる。
美しい女性ジェーンがいる文明社会か、愛するゴリラの家族との慣れ親しんだ生活か、ターザンは選択を迫られる。
ディズニープラスより引用
2つの世界、どちらを選ぶか・・・。

原作について
この作品は、エドガー・ライス・バローズの小説『ターザン』を元に製作された。
そもそも、この「ターザン」を見て思うことの一つに、1967年にディズニーが公開した「ジャングル・ブック」と非常に似ているという件がある。
それは、当たり前だ。
なぜなら、この「ターザン」の原作は「ジャングル・ブック」を元にしているからだ。
そして意外なことに、原作は「SF」要素を持っており「アトランティス」など伝説の場所が登場する。
そんな原作を大幅に再構成したのが、ディズニー版「ターザン」だといえる。
根っこの「ターザン」がゴリラの「カーラ」に育てられて成長し、人間と出会うというプロットは踏襲しつつ、原作にあった「文明批判」という要素は抑えるというバランスになっている。
その結果ターザンという人物も、わりと単純な「野生児」というバランスで描かれる。
ちなみに原作で「カーラ」たちは「ゴリラ」ではなく、どちらかといえば「猿人」に近い存在とされており、この辺りの「SF設定」もこのディズニー版では完全にオミットされている。
もっと突っ込んで言うと、原作のターザンは知能が非常に高く、いくつもの言語を取得し操っている。
いわば「天才」という部類のキャラ付がされているが、もちろんこれも、今回はオミットされている。
さらに原作では「ターザン」の父親の名前が「ジョン・クレイトン」であり、ターザン本人もこの名前を受け継ぐことになる。
だが今作では「ジョン・クレイトン」は敵の名前として設定されている辺りも、非常に興味深い点だと言える。
上手い作劇
今作の作劇で非常近いのは「ジャングル・ブック」と「ポカホンタス」だと感じた。
前述したように「ジャングル・ブック」を元にして「ターザン」は書かれたのだから、似ているのは当たり前だ。
だから、今回その点を指摘することに意味はない。
そして「ポカホンタス」とキャラクターの構図が逆という点もあるが、それは後述したい。
その前に、簡単に「ターザン」の物語の流れを触れておこう。
冒頭、漂流する船から一家が島へ流される。
彼らは島に「ツリーハウス」を建て、一家3人で生活を始める。
同時にこの島にいる「ゴリラ」のエピソードが描かれ、ここでも一家3人で幸せな生活が描かれる。
だが「自然は恐ろしい」
豹である「サボー」がゴリラ一家の子どもを殺害。
そして島に住む人間の一家を襲うのだ。
息子を失ったゴリラの「カーラ」は、両親を失った赤ん坊の「ターザン」を発見し、息子にすることを決める。
ここで重要なのはターザンはサボーに親を、カーラはサボーに息子を殺される。
つまりターザンとカーラは共通の敵「サボー」に大切な存在を殺された者どうしということだ。
だからこそ、奇妙な縁で結ばれる。
これだけで、我々はターザンとカーラが「異種」でありながら「親子」になることを納得させられてしまうのだ。
そして物心がつく年齢まで成長したターザンに徐々にある悩みがつきまとう。
それが「自分がゴリラではない」という悩みだ。
明らかに他者と違う姿、それに戸惑うターザン。
水面に反射する自身の顔を見て、彼は深い悩みに襲われる「自分は、みんなと違う」と。

だが、カーラとのやり取りでターザンは立ち直り、いつかゴリラのボスであり、父「カーチャック」に認められたいと願うようになる。
人間との邂逅
そして青年になったターザンは両親の仇、カーラの息子の仇であるサボーと対峙する。
そして、見事に復讐を遂げることになる(この時点で彼は、サボーが両親を殺したことは知らない)
この作品の特徴
こうした作品にありがちな、「自然環境」を破壊しに来る「人間」だけを敵にするのではない、のがこの作品の特徴だ。
「自然界」にも「危険」な存在はいる。
こうした存在を描くのは、非常に「フェア」だと言える。
周囲のゴリラはターザンを祝福するが、ボスであるカーチャックは、それでも彼を認めようとしない。
当然「息子」としても認めないし、「ゴリラ」としてもだ。
ここでターザンに一つの不満が生まれる。
「自分は、いつ”ゴリラ”として認められるのか?」
そして、それは不安に変わる。
いや、本当は子どもの頃からずっと、彼を悩ませ続けた問題と再び向き合うことになると言ったほうが正確かも知れない。
「自分は、”何者”なのか?」という不安が彼を襲うのだ。
そのタイミングで、ジャングルに「人間」達がやってくるのだ。
ここで初めて「自分と同じ」
つまり「人間」と出会うことになるターザン。
そのなかでもゴリラの研究をする「アルキメデス教授」と、その娘「ジェーン」をヒヒの大群から救い、ターザンは彼女たちと交流を深めていく。
そして次第に「人間」という存在のことを深く知ることになるのだ。
それはターザン自身が、本当の自分の「正体」を知ることに他ならない。
彼は、これまで探し続けてきた、「自分の正体」と向き合うことになるのだ。
ここで彼はついに「自分は、”どう生きる”のか?」という選択を迫られることになる。
そしてカーラに連れられターザンの両親が作ったツリーハウスに赴く。
そこでついに「赤ん坊」の頃の写真を見つけ、そしてカーラの口から真実が告げられるのだ。
ターザンはいよいよ、「人間」としてジェーンたちとイギリスに渡ることを決めるのだ。
(正確には、ジェーン達をゴリラの寝床につれていくことで、裏切り者扱いされたのも決断に影響はしているのだが・・・)
ゴリラのリーダーとして
一度は「イギリス」に渡り人間として生きる決意をするターザンだが、クレイトンが本性を表し、ゴリラを生け捕りにして売りさばこうとする。
その計画のためにジェーン達と共に捕まるターザン。
だが、友達である象の「タントー」ゴリラの「ターク」に救出される。
そしてクレイトンと対峙・対決することになる。

クレイトンとの戦いの末、彼が「死ぬ」間際を描いている。
しかしクレイトンの銃撃でカーチャックは瀕死。
彼はターザンが自らの命を顧みずに仲間を守る姿を見て、最期に彼を「ゴリラ」と認めることになるのだ。
そしてターザンもまた、「やはりゴリラ」として生きることを決意するに至る。
ラストはジェーンと別れることになると思いきや、なんとジェーンとその父アルキメデスが、なんと「野生」で生きる決意をするということになるのだが、ここは後述したいと思う。
とにかく「ターザン」という作品は、ターザンがひたすら「自分は何者か?」というのを探し、最後に答えを見つける作品だ。
その答えはある意味で「ジャングル・ブック」の「モーグリ」と対になるラストだとも言える。
だが、その出した答えが重要というよりも、この作品は「どうなりたいか?、それを決めるのは、自分なのだ」ということを我々に強く訴えかけている。
そういう意味では「ジェーン」もまた「人間」として生きるのではなく、「ゴリラ」たちと生きるのを「自分で選んだ」と言えるのだ。
「人間」と「ゴリラ」の間で揺れ動いたターザン。
彼はついに自らの「選択」で、自分が「何者なのか?」という問いかけに答えを出したのだ。
「黄金期」の終わりの予感
今作を見て感じた大きなこととして「ポカホンタス」との共通点の多さを感じた。
まずは主人公とヒロインの関係性が男女逆転してはいるものの、構図そのものはかなり似通っている。
そして、ターザンとジェーンは「言葉」が通じない。
これもポカホンタスとジョン・スミスの構図と同じ。
そして、2人が簡単な単語のやり取りで、少しずつ「心の内」を知り、惹かれ合う。
この流れも非常に似通っている。
そしてラストも、結果は真逆になるが、一瞬「二人の別れ」が描かれそうになるなど、実は構図事態はかなり似通っている。
ただ結果が真逆ということで、「ポカホンタス」は「バットエンド」という印象を強く与えるし、「ターザン」は逆に「ハッピーエンド」という匂いが強烈にする。
深堀りポイント
この「ハッピーエンド感」がある意味でこの作品は「強すぎる」のかも知れない。
それは「父親」をジャングルに残る、という点にあるのかも知れない。
というのも、このジェーンの決断は「人間を捨てる」という意味が込められてしかるべきだ。
決断としては「リトル・マーメイド」のアリエルと同様に「あまりにも大きな決断」であるべきなのだ。
だからこそ「リトル・マーメイド」では最終的に父がアリエルを人間に変化させることで、「親離れ」「子離れ」であることを強烈に意識させられる。
(人間の「親離れ」「子離れ」とはレベルが違う)
だが、無邪気にアルキメデス自身も、ジャングルに残る結末にすることで、この「大きな決断」が余りにも軽いものになっているのは否めない。
正直、ここまでするのは「やりすぎ」だと感じた。
そして、そもそも論。
今作のなかでジェーンと父親の「関係性」がほぼ描かれていないので、ここが余りにも唐突であるということも否めない。

この差がある種の「大人向け」と「子ども向け」という「空気感の差」によるものなのかも知れない。
そして、この微妙な空気感の差が、徐々に観客と制作陣の間で大きくなってきて、「2000年代」の「低迷期」を迎える要因になるのではないか?
そして、この先「子ども向け」であることと「子どもだまし」というのを「ディズニー」は履き違えることになる。
そんな一抹の不安がよぎる「ターザン」のラストシーンであったことは見逃せない。
そして個人的に「ターザン」という作品は「面白い」と感じたが、外部には既に「トイ・ストーリー」が存在し「ピクサー」の存在感が増してきたこと。
さらに今作の同年に「トイ・ストーリー2」があった事を考えると、正直見劣りすることは否めない。
このように「ターザン」はメッセージ性や、アニメの出来は素晴らしのだが、作品全体に、これからの「低迷期」を予感させる作品であったことは否めないのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
「自分が何者か、それを決めるのは”自分”である」というテーマは素晴らしいのだが・・・。
正直、大絶賛!
と言うには惜しい点もある作品
まとめ
今作品の「ターザン」は「ゴリラ」として生きるのか?
それとも「人間」として生きるのか?
それを悩む物語だ。

「ゴリラ」として生きる。
「人間」として生きる。
どちらを選ぼうと、彼には様々な苦労が待ち受けているのだ。
だが、それでも彼は、自分の意思で「ゴリラ」として生きる決意をする。
そして、それを決めたのは「誰でもない」「ターザン自身」なのだ。
「自分が”何者”か?」
それを決めるのは、誰でもない「自分自身」なのだと、この作品は教えてくれる。
こうした作品全体を通じて伝えたいテーマは素晴らしい。
さらに「ターザン」の木々を滑り落ちるアクションも疾走感があり、アニメとしてのクオリティは極まりつつある。
その点でも素晴らしいと言わなければならない。
だが、あまりにも「オールオッケー的」なオチの部分がどうしても引っかかってしまうのも事実だ。
この、空気感が2000年代の低迷期に何かしらの悪影響を与えたのかも知れない。
そんな一抹の不安を抱かされたのも事実だ。
なんにせよ「リトル・マーメイド」から続いた「黄金期」も終わり、ここから一気に崖から転落する「ディズニー」
そんな足跡をこれからも見ていきたいと思う。
まとめ
- 「何者」になるかを決めるのは「自分」というメッセージなど、全体として「悪く」ない作品ではある。
- ただし、ここまで「無邪気」な「オールオッケー」という作劇には一抹の不安を感じずにはいられない。
次回は、いよいよ「転落」の始まりを告げる「ファンタジア2000」
さて、一体どうなることやら・・・