
今日も「長編ディズニーアニメーション」を公開順に評論する「ディズニー総チェック」
今回は、通算50作品目となる『塔の上のラプンツェル』を深堀り解説していきたいと思います。
前作『プリンセスと魔法のキス』で「プリンセスもの」というジャンルを一新。
そこから続けて「プリンセスもの」を世に送り出してきた「ディズニー」
果たして、その意図とは何なのか?
探っていきたいと思います!!
今作のポイント
- 前作からの流れで見ることで、理解出来る「意図」
- 「りんご」をなぜ強調するのか?
- 「夢」の次には「夢」がある。
目次
『塔の上のラプンツェル』について
基本データ
基本データ
- 公開 2010年
- 監督 バイロン・ハワード/ネイサン・グレノ
- 脚本 ダン・フォーゲルマン
- 原作 『ラプンツェル』(グリム童話)
- 声の出演 マンディ・ムーア/ザッカリー・リーヴァイ
あらすじ
お尋ね者で魅力的な大泥棒フリン・ライダーは塔に忍び込み、ラプンツェルに捕まってしまう。
21メートルの金色に輝く髪を持つ少女ラプンツェルは、長い間、塔に閉じ込められていた。
好奇心旺盛で外の世界に憧れているラプンツェルは、塔から出るためにハンサムなフリンと取引をする。
警護隊長の馬マキシマスと頼もしいカメレオンのパスカル、そして酒場の荒くれ者たちの力も借りて、ラプンツェルとフリンの大脱出が始まる!
ディズニープラスより引用
二作連続で「プリンセスもの」を送り出した意味とは?

全てを壊した前作から、仕切り直し
『塔の上のラプンツェル』の前作にあたる『プリンセスと魔法のキス』は、作品そのものが非常に特徴的であったことは、前回の評論で触れたとおりだ。
これまでの「プリンセスもの」のスタンダードを作り続けてきた「ディズニー」
その張本人が、過去の「プリンセスもの」を一度破壊。
そして「新時代」にふさわしい「プリンセスもの」を作り上げた。
それが『プリンセスと魔法のキス』だった。
この作品は、時代設定が従来の「プリンセスもの」とは違う。
現実にも起きた「第一次大戦後」に設定している。
そして、舞台も「ニューオリンズ」で、現実にかなり近い「リアリティライン」を設けていた。
つまり「むかし、むかし、あるところに」という、いわゆる「御伽話」スタイルを一度完全に崩していたのだ。
それは「プリンセスもの」という「型」を完全に崩して見せたともいえるし、究極的なことを言えば、「いくとこまで、いってしまった」ともいえるのだ。
だからこそ、『プリンセスと魔法のキス』の後に、再び「プリンセスもの」をやることには大きな意味がある。
いうなれば、一度「型から外れた」ものを、再び「型にはめ直す」作業なくして、「プリンセスもの」は継続出来ないのだ。
だからこそ『塔の上のラプンツェル』は、従来の「プリンセスもの」に近い設定を持っている。
今作の原作は「グリム童話」の『ラプンツェル(長髪姫)』だし、物語の舞台も明示していない。
いわゆる『白雪姫』『シンデレラ』『リトル・マーメイド』系統だ。
つまり「従来」のスタイル、「御伽話」に戻しているといえる。
ただし、やはり『プリンセスと魔法のキス』以降ということで、「単純なプリンセスストーリー」とはまた違う。
「新時代」にふさわしい価値観を織り交ぜているのも『塔の上のラプンツェル』の特徴なのだ。
新時代の『白雪姫』を狙ったのか?
個人的には『塔の上のラプンツェル』という作品から、「新時代の『白雪姫』」を作りたいという意思が見て取れた。
個々、作品の細かい話は後述するが、『白雪姫』との類似点を最初に指摘しておきたい。
今作のヴィラン「ゴーテル」は「老い」を恐れ「若さ」に固執する存在だ。
これは、『白雪姫』における継母と全く同じ存在だと言える。
しかも彼女は「ラプンツェル」にとっては「偽りの母」でもある。
本当の「母」ではない存在に、搾取され続ける構図は「白雪姫」と「ラプンツェル」に共通する点でもある。
旅の途中で立ち寄る「かわいいアヒルの子」という酒場での、一癖も二癖もある愛すべき「バカ」とも言うべき荒くれ者たちも、見ようによっては「七人のこびと」的な愛くるしさも持ち合わせている。
さらに、クライマックスで「助けに来てくれる」という展開も実は同様だ。
さらに今作随所に「りんご」をフューチャーするシーンが描かれる。
これは別に「りんご」でなくても成立するのにも関わらず、あえて「りんご」を使っているのだ。
ポイント
さらにゴーテルの死の間際の姿、その死に方にも注目してほしい!
『白雪姫』と比較すると、非常に興味深いといえる。
このように『塔の上のラプンツェル』では随所に『白雪姫』の要素を作中で織り交ぜているのだ。
これは、恐らく作り手の「新時代の『白雪姫』」つまり、この時代にふさわしい「新しい”御伽話”」を作りたいという思いが込められている証拠だといえる。

「夢」の先には「夢」がある

外界を知らぬラプンツェル
今作の主人公「ラプンツェル」は「外界」を知らない女性だ。
彼女の髪の毛に宿る「魔法の力」
それを独り占めしたいゴーテルによって「塔の上」に幽閉されている。
「外界には、ラプンツェルの魔法の力を奪いたい」
そんな存在がいて、危険だ。
嘘ばかりを吹き込まれているが、ラプンツェルには、それを確認する術などないのだ。
だが、彼女には「夢」がある。
それは自分の誕生日に必ず空に舞う「灯り」
その「灯り」を見たいというものだ。
だが、当然ゴーテルにそれを反対される。
そして、ラプンツェルもそれに渋々従おうとするのだ。
深堀りポイント
この構図をうがった見方をすれば、ある意味で「毒親」と「子供」との構図でもあるといえる。
ある意味で「自己愛」だけで、ラプンツェルを利用しているゴーテル。
その「自己愛」のためにラプンツェルは、一切外界を知らないというのは、なんとも不憫なものだ。
だが、そんな彼女を外界に連れ出す存在が現れる。
それが「フリン・ライダー」という盗賊だ。
これは従来の「プリンセスもの」には中々ない設定だ。
『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』などで、ある種「幽閉」された世界からプリンセスを救うのは「王子」だった。
だが、今作ではいよいよ、「王子」という存在も出てこないのだ。
ポイント
過去作『アラジン』における「アラジン」という存在も「こそ泥」ということで、
ディズニー史上では、何度か、描かれている要素ではある。
ということで、今作ではそんなフリンがラプンツェルの「夢」を叶えるために、旅をするのがメインストーリーとして描かれるのだ。
一つの「夢」が叶う時。
さて、今作で描かれる「夢」
当然ラプンツェルにとっては「空に舞う灯り=ランタン」を見るということだ。
その道中の「髪の毛」を活かしたアクションや、派手なシーン。
特にダムの決壊シーンなどは、かなり「盛り盛り」の見せ場となっているのだ。
このように過去の「プリンセスもの」にはなかった魅力が多いのも今作の特徴だ。
ちなみ今作では旅の道中で徐々に2人は惹かれ合っていく。
ラプンツェルはフリン(ユージーン)に、「外界」、つまり自分の知らない「未知の世界」を重ねることで惹かれていく。
これは『眠れる森の美女』などにも近い理由付けだ。
一方のユージーンは、「本当の自分=ユージーン」として自分を見てくれるラプンツェルに惹かれていくのだ。
これはある意味で「世間に知られる姿=盗賊のフリン」ではない、押し隠してきた「本当の自分」を見てくれて、そして認めてくれたからだ。
ポイント
- ラプンツェルは「広い世界」をユージーンに重ね、惹かれる。
- 逆にユージーンは「世界に知られる自分」ではない、「本当の自分」をラプンツェルが認めてくれたからこそ惹かれていく。
そしてラプンツェルは、2人で「灯り」を見ることで、一つの「夢」を叶える。
だが、ここでもう一つの「夢」を見つけるのだ。
ここが今作の最大のポイントだ。
これまでの「プリンセスもの」では「夢」を叶える、その時がピークにして物語は終わっていた。
だが、今作では一つの「夢」が叶うと、また「夢」が見つかるということを描いている、つまり「夢」の後が描かれるのだ。
これは前作『プリンセスと魔法のキス』とも共通している。
つまり「夢」とは決して「ゴール」ではないということだ。
「夢」とは「人生を幸せ」にしてくれるもので、そこに辿り着いたとしても、まだ「人生」は続くのだ。
ラプンツェルも「空の灯り」を見たことで、今度はまた新しい「夢」
つまりユージーンと生きていきたい。
そんな「夢」を持つようになるのだ。
これこそまさに「新時代のプリンセス像」だ。
過去の「プリンセスもの」は「王子との結婚」というゴールだけを追い求めすぎていた。
そのために、徐々に成熟していく時代に着いていくことが出来なくなった。
だけど現代はそういう時代ではない。
「結婚」はたしかに一つの「幸せ」への道かも知れないが、その先に別の「夢」を追い求めてもいいのだ。
「夢」とはあくまで「幸せ」への道であり、その「夢」が叶う時。
それは確かに尊い瞬間ではある。
だけど、その先も「人生」は続いていくのだ。
だからこそ、ラプンツェルは「夢」の先に「夢」を見つけた。
そして、ラストにはユージーンのナレーションで「結婚」したことが描かれる。
だけど、それも「ゴール」ではない。
きっと2人は、また別の「夢」を見つけるのだ。
人生が続く限り。
音楽も「アラン・メンケン」起用で、本当に素晴らしい!
聴き応えバッチリ!!
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!!
もう一度「プリンセスもの」を「御伽話」にするための作品。
『プリンセスと魔法のキス』からの軌道修正としても完璧。
新時代の「御伽話」としても完璧!!
まとめ
『塔の上のラプンツェル』は、再び「プリンセスもの」を「御伽話」というレールに戻すために必要な作品だった。
前作『プリンセスと魔法のキス』が全てを壊した、過去を批評する視点で成立した作品だったのに対して、今作は「過去の要素を拾いつつ、アップデート」
そして「新時代の御伽話」として成立させる。
まさに「軌道修正」というに相応しい作品だった。
そして興行面でも前作以上のヒットを飛ばし、ついに「ディズニー完全復調」を対外的にアピールする作品にもなったのだ。
だが、作中での物語も非常に魅力的だ。
特に単調になりがちな道中も、スリリングなアクションをはじめ、魅力的なシーンも多い。
さらに「マキシマス」とユージーンの奇妙な友情も楽しいポイントでしたね。

余りにも美しい美麗な世界観は勿論。
もはや違和感ない「CGアニメ」技術。
人物にも命が宿っている様子は圧巻そのもの。
ただ、よくも悪くもなのだが・・・、
次作の「くまのプーさん(2011年)」以降、
ディズニーは再び「手描きアニメ」から撤退。
今作は「新時代」の「御伽話」としての「プリンセス像」を新たに提示しただけではない。
そもそも、作品そのものも面白いのだ。
ここにきてまた、ディズニーはさらに「高み」に登ってしまった。
まさに「あっぱれ」というほかない。
まとめ
- 新時代の「御伽話」として「プリンセス像」を提示。
- 「夢」は「幸せ」への道だと言える。
- 『白雪姫』との類似点を見るのも面白い!!