
今回は『君の名は。』『天気の子』とヒット作を連発している、新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』
こちらの作品ついて今日は深堀りをしていきたいと思います。
この作品のポイント
- 過去作を踏まえた上での『すずめの戸締まり』
- 意図は理解できるのだが・・・。
- 天災の扱い方に疑問
目次
『すずめの戸締まり』について
作品について
基本データ
- 公開 2022年
- 監督/脚本 新海誠
- 出演者 原菜乃華/松村北斗 ほか
あらすじ
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。
扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。
すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。「すずめ すき」「おまえは じゃま」
ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―!
それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、すずめは慌てて追いかける。
やがて、日本各地で次々に開き始める扉。不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。
公式サイトより引用
旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所で、すずめを待っていたのは、忘れられてしまったある真実だった。
本当にこれが「いい作品」なのか??

過去作との関連性
この『すずめの戸締まり』を本当の意味で理解するには、過去に新海誠監督の作った作品について知らなければならない。
特に『君の名は。』『天気の子』
この2作品はキチンと踏まえておく必要がある。
それはストーリーが直接繋がっているという意味や、MCUのように世界観を共有しているという意味ではない。
過去2作品の新海誠監督なりの反省点が修正されているのが『すずめの戸締まり』ということだ。
それはどういうことか。
今作は明確に「現実に起きた災害」
それも日本という国の在り方を変えてしまった2011年の3月11日。
東日本大震災を直接的に描いているということだ。
2016年に公開された『君の名は。』
この作品ではティアマト彗星が糸守町に直撃する災害が描かれている。
これは監督が東日本大震災の被災地を訪れた際に、「もしもここにいた人が自分だったら」と思い、着想を得たのだ。
そのため『君の名は。』は未来を知る瀧と、過去の彗星被害で亡くなった三葉のタイムリープを含んだ入れ替わりを描く作品になったのだ。
結果としてこの作品は大ヒットするが、批判も集まることになる。
それが「東日本大震災」という震災後に「安易に人が生き返る話」「歴史修正の話」「ご都合主義」だという批判だ。

エンタメだからこそ辛い出来事を回避することに意義はあると思うのだが・・・。
ちなみにこの2016年は、同じく震災、ただしこちらは「原発」のメタファーであるゴジラを扱った『シン・ゴジラ』も公開された。
このように「震災の比喩としての怪獣・天災」を描いた作品の公開の重なったのが2016年だ。
さて、この「安易に人が生き得る話」「歴史修正」と批判された『君の名は。』
この作品の次に新海監督が制作したのが『天気の子』だ。
2019年に公開されたこの作品では、新海監督は、前作に怒った人をさらに「怒らせる」ことを目的にこの作品を作ったのだ。
この作品では主人公の帆高は陽菜を救うために、彼の行動は全て社会のモラルに反する。
最終的には東京という町一つを犠牲にして、彼女を救うことになるのだ。
これは『君の名は。』で出た、「人が生き返る」「歴史修正主義」「ご都合主義」といった反発に対して、「一人の命を救うために、多数を犠牲にしよう」という意図を明確に描いているとも言える。
個人的にはこの作品は「言いたいこと」「意図」が前面に出過ぎていて、映画としては「説明不足」な部分も多いと思った。
というより、「より怒らせたい」というのが出過ぎた作品だったと言える。
そして結果、今度は「一人の命と街を天秤にかける結果」に対して賛否が分かれることになるのだ。
このように『君の名は。』での批判に応えた『天気の子』も結果「水害」という天災を描くことになり、また様々な反発を喰らう新海誠監督。
そして彼はついに、実際に起きた「3.11」を直接描くという決断に至ったのだ。
震災を描くという意味
新海誠監督は今作『すずめの戸締まり』でもやはり、天災を描く。
そして前述したが、ここ最近はずっと天災をテーマにしているのだ。
おそらくこれは『君の名は。』の批判へのアンサーを『天気の子』で行うために、天災を描くことになった。
そしてこの『天気の子』でも出た批判へのアンサーをするために、今回もまた天災を描くことになる。
最近の監督の映画作りにおけるテーマ設定は前作の批判に対するアンサーという形が続いているのだ。
これは作り手として正しい姿勢かどうかはわからないが、とにかく真面目な人であることは見受けられる。
ただし前2作はが、とはいえ架空の「天災」を描いた。
だが今作は、明確に「3.11」を描くことに踏み込むのだ。
これが最大に是非が問われるポイントだ。
今作の描きたいテーマは「そこにあったはずの命を忘れない」ことだ。
そして、今は廃れてしまった「場所を悼みたい」というテーマがそこに付随している。
これは人口減などで廃村になった場所、遊園地の跡地、温泉街、学校。
そしてやはり震災で瓦礫となった被災地に思いを馳せた際、この場所に本来あったはずの人々の生活や、根付いた思いを鎮魂したいという監督の思いから来ている。
それは前作『天気の子』で失われた「東京という街」
そこにあったはずの「命」と向き合うということに他ならないのだ。
そして、そのことに最も、そして真正面から向き合える出来事は、やはり「東日本大震災」しかあり得ないのだ。
だからこそ、今作は明確にこの出来事を描写することになる。
この作品は公式のアナウンスにもあるが「緊急地震速報」「津波速報」の注意喚起のアナウンスや警報音を、かなりの頻度で使用している。
そのため、この震災にトラウマのある人は、注意しなければならない。
そうした心の傷を持つ人がいる出来事を、可能な限りリアルに描くこと。
これは、真正面から「震災」と向き合うという意味で、他の震災を扱っている作品以上に覚悟をしていることは見て取れる。
そういう意味では「覚悟」を持っている作品だとは言えるかもしれない。
よくぞここまで描いた、というような評価も理解できなくはない。
だが、肝心の物語での「震災」の扱いに、正直僕は「ふざけるな」という激しい嫌悪感を覚えた。
というのもこの作品では「地震」は廃墟にある「後ろ戸」から「ミミズ」と呼ばれるものが出てくることで、引き起こされるものと定義されている。
そして「閉じ師」はその「ミミズ」を封じること、イコール「扉を閉めること」で、それを防ぐことができるのだ。
つまりこの世界観では「地震」とは「防ぐことができる」ものとして定義されている。
もちろん今作でも冒頭に描かれるが、そのことに失敗した際は、「地震」が起きるのだが・・・。
この点にそもそも疑問を感じるのだ。
本来「地震」や「天災」とは、人間の力ではどうすることも出来ない出来事だ。
それは突然始まり、場所も命も奪うものだ。
だからこそ、生きている者も、死んだもの総じて「無念」の気持ちを抱くし、「無力さ」を感じるのだ。
もっと生きたかった、もっと死んだ貴方と生きたかった、あの生活を続けたかった・・・。
そんな「無念」の気持ちに、あの日、日本列島は包まれたのだ。
監督のいう「魂の鎮魂」はまさしく、この「無念」の気持ちを晴らすことに他ならないはずだ。
しかし、今作は確かに「困難な場合」もあるとは言われているが、少なくとも地震という現象は、人間の手で回避可能なものとして定義つけられている。
では、現実に残った遺族は仮に大切な人を失った際、それも天災で失った際、どうしようもない悲壮感に襲われるのではないか?
でもそれを「ある意味仕方ないこと」として、悲しみを受け入れて、それでも前を向いていく。
ただ、これを「回避可能」な出来事として描くと、それは誰かが防いでくれたのかも知れない、と思えてしまう。
それは遺族心理としては、いたたまれないし、ある意味で「冒涜」に近しい行為だとも言えるのだ。
もっと突っ込んで言うと、「あの震災防げたかも知れません」と言うメッセージを、どうしたって内包してしまっていると言える。
このように「地震」を描くことが、果たして「鎮魂」になるのか?
今作の監督の考え方には、正直1ミリも、全く理解も同意もできないのだ。
そもそも個人的には『君の名は。』で生じた「ご都合主義」と言うような批判に反応して、『天気の子』『すずめの戸締まり』と批判へのアンサー続けた。
これが、そもそもの間違いだったのではないか? とさえ思えた。
とはいえ、過去2作品は、とはいえ「東日本大震災」を彷彿とはさせるが、それでも架空の天災を描いていた。
だからこそ、「やりたいようにやればいい」と言うのがある程度、許容されていたのだ。
しかし東日本大震災を「リアル」に描くと、そこにどうしても「許せない」ものが生じてしまうのだ。
確かに「覚悟」を持って今作で「震災」を描いたのかも知れないが、そこに大きな「無神経さ」と「考えの至らなさ」が、僕には疑問のように残ってしまった。
そもそも、映画としての「質」が悪くないか??
今まではあくまで、作品を通じて生まれた「疑問」「飲み込めなさ」を語ったが、そもそも論の話をしたい。
今作は主人公の岩戸 鈴芽が「閉じ師」である宗像 草太と出会い、この二人が九州・四国・近畿・関東・東北と日本を縦断していくロードムービーだ。
ことの発端としては鈴芽が要石の封印をといてしまい、白い猫が復活。
この白い猫はダイジンと呼ばれるのだが、彼によって草太が母の形見の「いす」へと姿を変えられてしまう。
このダイジンを再び封印するため、そして草太を元の姿に戻すために旅に出ることになる。
このダイジンは今作のヴィラン的存在だ。
「震災」の原因となる「後ろ戸」が開いた場所に現れ、鈴芽たちを翻弄していく。
見ている観客はダイジンを捕まえ、封印することが物語の解決の鍵と考えるのは、当然と思う描写が続くのだ。
ただ、これが中盤以降一転する。
ダイジンが急に味方になるのだ。
正直、この作品を見ていた最大のノイズは、この心変わりの理由が全くわからないことだ。
正確にいえば、もともと彼は「ヴィラン」ではないのだが、それでも彼の行動理由が全く理解できない。
自分が何か見落としたのか?
そう思えるほどに、意味がわからないのだ。
さらに、鈴芽が旅の途中、親代わりであり保護者の環との会話のシーンの唐突な展開も首を捻らざるを得ない。
血のつながりだけで姉の子、鈴芽を引き取ったこと、そこで女性としての幸せを失った。
その後悔と怒りをぶちまけるシーンなのだが、これが「サダイジン」と言うぽっと出てきたキャラクターに悪影響を受けて発していたのだが、「いつ憑かれたのか?」
急展開すぎてポカン感が強いものになっている。
この環の苦しみは、これはこれで切実なものだっただろうに、それも薄くなってしまう展開には唖然とした。
ていうか、そもそもこの「サダイジン」に関しては登場の脈絡がなさすぎて、もうノイズもいいとこだ。
正直先ほどテーマが受け付けないと述べたが、今作はそもそも映画として・物語として、最低限の体裁を保ってすらない。
これ本当に納得できる人がいるのか?
映画としても相当質が悪いと思えた。
少なくとも『君の名は。』『天気の子』と比べても、ひどい作品だと言わざるを得ない。
もちろん「言いたいこと」はわかる
もちろん、今作が「言いたいこと」はわかる。
前述したが「そこにあったはずの命を忘れない」ことだ、今は廃れてしまった「場所を悼みたい」と言う点。
だが、繰り返すが、僕は「地震」の描き方に納得できず、これは上手くいっていないと考えている。
そして「生きているものと震災の向き合い方」
これをクライマックスの盛り上がりで、描こうとしている。
流石にここは音楽・演出を含めて今作一番の見せ場だろう。
幼い頃鈴芽は3.11で被災、そこで母と死別。
全てを失い絶望の淵にいた鈴芽。
特に絵日記が、その日以降黒塗りされている演出は、記憶から消したい過去というの表現するのに、的確だったと言える。
そんな絶望の彼女を救ったのが「未来」の自分と言う展開。
ここでの「あなたはちゃんと大きくなる」「私はあなたの明日」と言うセリフ。
これによって、深い悲しみも絶望も、「生きていけば希望にいつか変わる」
そんな未来が到来する予感を描く展開は見事だった。
ここも監督曰く、誰もが救いの手を差し伸べてもらえるわけではない。
自分を救えるのは「自分」ということを描いているとのこと。
つまり過去の辛い経験は「自分との対話」で乗り越えるものだと語っている。
この辺りもメッセージとしては非常に納得度は高いものにはなっている。
そういう意味で「映画」として「言いたいこと」はわかるし。
最後の展開に落涙する人続出しているのも理解はできる。
結局のところ「映画」の何を「いい」「悪い」と捉えるかの違いで、総評としての評価は決まるということだ。
今回は「悪い」と思ってしまう展開が多かったので、辛めの批評になってしまった。
今回は前2作品よりも、RADWIMPSとのコラボ色は薄めでしたね!
まとめ
最後に軽くまとめておく。
- 「地震」というものの描き方に疑問を感じる
→本当に魂の鎮魂になり得るのか疑問 - ダイジンという、作品の流れを生み出すキャラクターの行動の意図が見えない
→映画に乗れないし、展開が唐突に思える - クライマックスのメッセージはいい
これらの点を総合しても、今回はあまりいただけないというのが僕の評価だ。
もちろん美麗なイラスト、リアリティのある街風景の描写。
シュールなギャグなど見どころは多い。
だが、それでも「いい」ところよりも致命的な「悪い部分」が僕の目には多く見えてしまった。
真摯に「地震」「震災」と向き合うとは、こういうことではない。
そう言わざるを得ない作品だった。