
今回は全国の映画館で再上映もされている過去作品を紹介。
ということで、2009年に公開され、今となっては夏休み映画の定番『サマーウォーズ』
こちらの作品を今日は語っていきたいと思います。
目次
『サマーウォーズ』について
あらすじ
ひょんなことから田舎の一族と夏休みを過ごすことになった17歳の高校生 健二が、
仮想空間に端を発した世界崩壊の危機に立ち向かう姿を、
家族の絆を軸に迫力のアクション満載で描くアニメ映画。
ネット空間に現れた人工知能「ラブマシーン」がネットの世界のみならず、現実世界に対しても多大な混乱を巻き起こす。
それに立ち向かうのは高校生の健二、夏希と陣内家一族。
人工知能という強敵を相手に、健二たちは混乱を収めることができるのか!?
基本データ
基本データ
- 監督 細田守
- 脚本 奥寺佐渡子
- 出演者 神木隆之介/桜庭ななみ/谷村美月
やはり細田守監督作で「最高傑作」ではないか?
細田守監督の足跡
映画を語る前に、細田守監督という人物のフィルモグラフィ・足跡と共に振り返ってみたい。
そもそもキャリアのスタートで「東映アニメーション」に入社した細田守。
彼のキャリアのスタートは1999年に公開された『劇場版 デジモンアドベンチャー』だ。
これは同年に放映されるアニメ『デジモンアドベンチャー』の前日譚として描かれているのだが、たった20分の短編作品だが、そのクオリティは各所から絶賛されることになる。
しかし、これ以上に「細田守」の名前を世に知らしめたのは2000年に公開された『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』だ。

この作品の先進性、表現の幅の広さ、そしてたった40分で巧みなストーリテリング。
自分も当時小学四年生、劇場でこの作品を見たが、その面白さの衝撃がいまだに忘れられない。
その後、この作品のクオリティの高さが評価され、2003年ルイ・ヴィトンのプロモーション映像を制作するなど、活躍の場を広げることになる。
ただ、一般層に認知されたのは、やはり東映アニメから独立後に制作した2006年の映画『時をかける少女』だろう。
ちなみにこの2000年から2006年の間に、細田守は「ジブリ」に招聘され本来は『ハウルの動く城』を監督することになっていた。
だが制作過程の都合で断念するなど、挫折も味わうことになる。
一度はアニメ監督を辞めようとまで思い悩んだのだが、転機が訪れる。
完全に独立して制作した『時をかける少女』が大ヒットしたのだ。
話は逸れるが、この2006年の夏は「アニメ映画」の大作が多く公開された。
スタジオジブリの『ゲド戦記』、人気小説家宮部みゆき原作の『ブレイブ・ストーリー』
大金を投じて告知・番宣を行なわれたこの2本に対して、『時をかける少女』は上映数も少なかったが、どんどん口コミで評価を上げていく。
結果40週間にも及ぶロングラン作品となった。
そして今から振り返ると『ゲド戦記』は駄作の烙印を、『ブレイブ・ストーリー』は見る影もないという結果に終わったのだ。
こうして世間にも名前を認知されるようになった細田守。
そんな彼が大ヒット作の後、つまり前作がフロックでは無かったことを証明するための勝負の二作品目が『サマー・ウォーズ』なのだ。
『ぼくらのウォーゲーム』のリメイクであり、進化!
この作品はとにかく「エンタメ」で勝負する映画だ。
ネット世界での危機に端を発し、そして世界の危機に直面し、立ち向かう主人公健二、そしてヒロインの夏希。
さらには個性豊かな長野県上田の名家陣内家の面々。
そして勝利するというカタルシス。
エンタメ映画としてこれ以上ない満足感が得られるのがこの作品の特徴だ。
さて、この作品は実は細田守の名を世界に轟かせた2000年の作品『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』の語り直しだと言える。

彼自身の考え方に「映画とは現代を描くもの」というものがあり、彼自身「リメイク」「語り直し」に大きな意味があるというものがあるが、まさにこの部分が大きな違いがある。
それがネットと我々の距離感だ。
2000年当時の現代とネットの関係を描いた『ぼくらのウォーゲーム』
この作品での登場人物にヤマト、タケルという人物がいるが、彼らはこの作中「島根県」に帰省をしているのだが、ここで今では考えられないセリフを吐く。
「島根にパソコンなんかあるわけないだろ」
ただ、これは当時はまだパソコンやネットが一般的でなく、今では信じられないが一定のリアリティを持っていたセリフなのだ。
しかも、田舎ではまだまだ都心に比べてはるかにパソコンの普及が遅れていたのだ。
(自分の過去を振り返っても、当時は家にパソコンがまだなかったし、ケータイ電話も必ず持っているものではなかった)
逆にその程度の普及率だった2000年当時にある意味で「暴走するAI」とネット内で対決する娯楽アニメが流行ったのも、やはり先見性があったと言わざるを得ない。
それから10年もしないうちに恐るべき速さでネットの利用の増加。
パソコン、ケータイの普及、作中ではiPhoneも登場するが、これらは革新的な進化をしていくのだ。
だからこそ、この作品は「田舎」を舞台にすることができた。
2000年当時では、まだ都会であろうとも、一家に一台のパソコン。
ましてやネットに繋がる端末を1人一台持つなど、あり得ないことだった。
つまり「島根にパソコンなんかあるわけない」というのは、2000年当時の僕らからしても、ある程度のリアリティのあるセリフだったのだ。
今作は『ぼくらのウォーゲーム』のヤマトパートと同じく、つまり「田舎(長野県上田市)」を舞台にしている。
しかしあれから9年経ち、当然前述したようにネットやPCの普及によって、どこにいても誰とでも繋がることができる時代がやってきたのだ。
つまり、舞台をどこにすればいいのか、という制限がなくなったのだ。
そのため現在から見ても少々「オーバーテクノロジー」と思える「OZ」というシステムを作中でメインの舞台として導入していても、違和感は起こりにくいのだ。
ちなみに、この後に細田守作品『竜とそばかすの姫』(2021年)は、『ぼくらのウォーゲーム』を発展させた『サマー・ウォーズ』
それをさらに発展をさせた作品となっている。
そして今作の舞台がいわゆる「田舎」であることにも意味がある。
というのも、この作品は進んだインターネット社会、そこを混乱に陥れるのも「人工知能:ラブマシーン」であり、要は最先端技術の結晶なわけだ。
無論最初は世界は大混乱に陥るが、それを打破する栄おばあちゃんの、なんともアナログな「電話」という手段で、一度はその危機が回避される。
さらに栄おばちゃんの死後は、その子供たちと健二たちが一丸となって人工知能に勝負を挑む。
ある意味で「どこでも繋がれる社会」だからこそ、ある地点で一緒にいるという、これまた時代を逆行する構図としても面白いと言える。
さらにこの作品、基本的に健二が長野の陣内家に着いてから、一度も家の外に出ない(一度逮捕された時だけ出ていく)のも特徴だ。
これも『ぼくらのウォーゲーム』と同じで、世界の危機を家の中で救うという、ネット世界だからこそのアイデアである。
ちなみに2021年公開の『竜とそばかすの姫』は今作の発展系なのだが、主人公が事件の後、実際に現実社会にて行動を起こすという展開もある。
おそらくこれは、監督の考え方で、やはり現実にて行動することも、ネットがこれ以上に進んだ世界になれば必要なのかも知れないというメッセージだと言える。
そういう意味で、彼のネットに対する考え方がアップデートされるたびに、「ネットを舞台」にした作品が作り直されているのだ。
ちなみに、『サマー・ウォーズ』での終盤、夏希のアバターの進化シーン。
これは完全に『ぼくらのウォーゲーム』でのオメガモンへの進化シーンと同じなのだが、細田監督の考えが非常によく現れているシーンだ。
というのも、作中で何度か敵に負けた際、それを「嘲笑うコメント」を主人公たちが目にするという描写が両作にあるが、最後はそれでもみんなの声が「奇跡」に繋がるという展開がある。
これはネット世界で「誹謗中傷」などネガティブな面が多く取り上げられることもある。
それでも奇跡のような瞬間も、あり得るんだというメッセージなのだ。
我々の生活はもはやネットやSNSとは切っても切れない。
だからこそ、そこには大いにポジティブな面もある、そのことを見せたいという思いの現れなのかも知れない。
この作品から約10年後2021年に、今作の語り直しともいうべき『竜とそばかすの姫』を生み出した監督。
2030年ごろのネット世界がどうなっているかは想像がつかないが、世界とネットの関わり方が変わるタイミングに、彼はまた物語を語りなおすのだろう。
それを楽しみに待ちたいと思わされる限りだ。