
基本データ
- 公開 2023年
- 監督監督 ホアキン・ドス・サントス/ケンプ・パワーズ/ジャスティン・K・トンプソン
- 脚本 デヴィッド・カラハム/フィル・ロード/クリス・ミラー
- 声の出演 シャメイク・ムーア/ヘイリー・スタインフェルド/ブライアン・タイリー・ヘンリー/オスカー・アイザック 他
今回は、世界的に大ヒットをしているアニメ作品『スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース 』を評論したいと思います。
前作は2018年にアカデミー賞長編アニメーション部門も獲得したということも記憶に新しいのでは?
そしてやはり日本での「マーベルヒーロー」の中で、スパイダーマンの知名度も抜群なのではないでしょうか?
ということで、まずは作品の解説から!
ピーター・パーカーの遺志を継いだ少年マイルス・モラレスを主人公に新たなスパイダーマンの誕生を描き、アカデミー長編アニメーション賞を受賞した2018年製作のアニメーション映画「スパイダーマン スパイダーバース」の続編。
マルチバースを自由に移動できるようになった世界。
マイルスは久々に姿を現したグウェンに導かれ、あるユニバースを訪れる。
そこにはスパイダーマン2099ことミゲル・オハラやピーター・B・パーカーら、さまざまなユニバースから選ばれたスパイダーマンたちが集結していた。
愛する人と世界を同時に救うことができないというスパイダーマンの哀しき運命を突きつけられるマイルスだったが、それでも両方を守り抜くことを誓う。
しかし運命を変えようとする彼の前に無数のスパイダーマンが立ちはだかり、スパイダーマン同士の戦いが幕を開ける。
オリジナル英語版ではシャメイク・ムーアが主人公マイルス、ヘイリー・スタインフェルドがグウェン、オスカー・アイザックがミゲルの声を担当。
目次
アニメの歴史を変えた作品!!
前作の衝撃!
アニメの歴史において重要な作品はいくつもある。
詳しく語るとキリがないのだが、世界初のアニメーション映画は1906年に生まれた。
それがスチュアート・ブラックトンの『愉快な役面相』という作品だ。
そこから約30年後の1937年ウォルト・ディズニーが、世界初の長編アニメーション『白雪姫』を生み出し、アニメという表現は世界的に大きく広まっていくことになる。
そこからアニメは作られ続け、1995年ゲームチェンジャーとなる作品が現れる、それが「ピクサー」が制作した『トイ・ストーリー』だ。
これは世界初のフルCGアニメーションであり、従来「アニメは手描き」が一般的であったが、それが覆った作品である。
その後のアニメの歴史を見ていくと、例えば「ドリームワークス」「イルミネーション」、そして「手描きアニメの祖」のような存在であった「ディズニー」までもが「CGアニメ」を制作公開をしている。
もちろん日本では「ジブリ」など手書きアニメが主流だが、世界ビックバジェットアニメはたいていが「CGアニメ」となっている。
その証拠に2002年に新設された「アカデミー賞長編アニメ部門」を獲得している作品のほとんどがCGアニメだ。
そんな中で2018年に公開された『スパイダーマン:スパイダーバース』
この作品は、そんなCGアニメ時代に一石を投じ、その後のアニメのあり方を大きく変えた「転換点」ともいうべき作品だ。
というのも、ここまでCGアニメというのは(特にディズニー、ピクサー)はキャラクターはデフォルメしつつ「リアル化」を志向したケースが多かった。
例えば大ヒットして鑑賞した方も多い『トイ・ストーリー』シリーズ。
なぜ「おもちゃ」がテーマだったかといえば、「プラスチックの質感であれば、リアルに描くことが可能だった」からだ。
つまり、これまでの「CGアニメ」はどんどん「リアル化」への道を進み続けていたということだ。
さて、そんな中で『スパイダーマン:スパイダーバース』はCGアニメというものを、全く違うアプローチで描いた。
それを口伝えで説明するのは非常に難しいので「ぜひ映画を見てくれ」としか言えないが、この映画は「絵が動く」ことの面白さに溢れた作品だ。
そもそも「アニメ」とは「絵が動く」ことが本質だったはずだ。
それが徐々に「リアル化路線」になっていったのだが、この作品はそもそものアプローチが違う。
「アメコミの絵が動くことの気持ちよさ」「面白さ」を追求し続けたのだ。
しかもこの作品は設定上「様々な世界のスパイダーマン」がクロスオーバーするという作劇だ。
これはアメコミの特徴だが、様々な作家が「スパイダーマン」という同一のキャラクターを使い、自由に世界観を創造して膨らませており、絵のタッチ、作品のテイストなどもバラバラ。
そんなバラバラな画風をあえて統一せずに、同一の画面で同居させる。
結果何が起こるかというと、キャラクターの動きの「コマ数」の違いで、違和感が出まくるのだ。
しかしそんな違和感すらも作品の魅力に昇華させている。

あのテイストは明らかに「スパイダーバース」の影響を受け「井上雄彦」のイラストを動かすことに特化した作品だ
さて、先ほどディズニーアニメの『白雪姫』について言及したが、この作品はアニメのルールを明確に定義した。
それは「統一性」は担保せよ、というものだ。
つまり、アニメ作品内の「世界観表現」は「統一性」という縛りがあるということだ。
キャラクターデザイン、背景からの世界観。
それらは、それぞれの作品世界の「統一性」を重んじて制作される。
それが「アニメ映画」であり、誰もそのことに疑いを持たなかった。
しかし、『スパイダーマン:スパイダーバース』はそんな「統一性」という「アニメ」における縛りを過去のものとする。
そういう意味で革新的な作品だったのだ。
ちなみに、そういう意味で「統一性」からの脱却に関していうと、ウォルトは『ファンタジア』その後の『メイク・マイン・ミュージック』などで実験的とはいえ、そこに着手しようとしていたと、逆説的に考えることは可能かもしれない。
今作はより、進化している!!
ということで、前作の「革新性」の話を中心に述べたが、やはり今作も物語云々を語る前に、「革新性」について触れておきたい。
今作、誰もが驚くのはグウェンのバースで、描かれる他バースとの交流だ。
ヴィランのヴァルチャーが他次元から登場するのだが、その姿は「レオナルド・ダヴィンチ」のイラストが動いている・・・。
自分で説明していて何を言っているのか、意味がわからないのだが、とにかくそんなヴィランが襲いかかってくるのだ。
襲われるグウェン側の世界は水墨画的パステルな色味に溢れていて、そこに登場するヴァルチャー。
彼は明らかに「異次元のものが混ざっている」「異質物」の登場というものを、説明なしに画面だけで説明している。
しかも今作の何が恐ろしいかといえば、いよいよ「アニメ」という制限からも解き放たれているということだ。
途中さらっと、さも当然のように実写映像が挿入され、「これも多次元宇宙の一つなので」となんでおもありの世界観を構築する今作品。
そうかと思えば「レゴ」世界での「スパイダーマン」が登場するなど、自分で説明していてなんだが、全くのカオスな展開がとめどなく続くのだ。
つまりこの作品もはや「スパイダーマン」と名のつくものなら、なんでもかんでも登場する。
それを一つの画面に同居させ、それぞれの「世界観」の魅力を担保し続ける。
全くもって常人では「しようとしない」ことに平然とチャレンジして、それを一本の映画として描き切っているのだ。
正直この「画面づくり」の話は、口でいくら説明しても説明のしようもないので、ぜひ映画館で鑑賞してほしいとしか言いようがない。
前作をひっくり返す
さて、ここまでいかに「スパイダーバースシリーズ」がアニメ映画として革新的かという話をしてきたが、ここから物語の本質について語っていきたい。
というのも今作品は個人的には「前作のテーマのひっくり返し」が描かれていたのではないだろうか?
この世界観、つまり様々な多次元に存在する「スパイダーマン」の誰しもが通らなければならない道「カノンポイント」というものが今作では描かれる。
例えば、メイおばさんの死や、身近な人の死。
『アメイジング・スパイダーマン』で描かれた最愛の存在(グウェン)の死。
様々な悲しみの出来事がスパイダーマンを襲う。
そして、その悲しみを乗り越えてヒーローとして成長をしていく、それが「スパイダーマン」を描く意義だった。
この悲劇の「カノンポイント」だが、仮にこのポイントがきちんと消化されない場合、つまり何かしらの手段で防いだ場合、時間軸的な秩序の乱れにより、その世界そのものが消滅してしまうということが今作で描かれる。
今作では様々なバースのスパイダーマンが合流し、時間軸の正しい運行。
つまり「カノンポイント」の運行を守るために行動する「スパイダー・ソサエティ」を組織。
それぞれの世界での「カノンポイント」発生を正しく行うことで、全ユニバースの治安を守っていることが明らかになる。

しかし主人公マイルスは、それは受け入れられないと父を死の運命から救うために行動。
結果、全世界のスパイダーマンと対立することになっていくのだ。
ここで考えなければならないのは、「運命」というものに対してのマイルスの行動の違いだ。
前作では「スパイダーマン」として生きる事の困難さに一度は心が折れるマイルスだったが、仲間たちのために立ち上がり、この世界を守るヒーローになるという運命を受け入れた。
しかも、マイルスは元々この世界に存在していたが死んでしまった「ピーター・パーカー=スパイダーマン」の意思を引き継いだのだ。
つまり前作は「ヒーロー=スパイダーマン」になる運命を受け入れる物語だったと言える。
さらに他のバースからやってきたそれぞれの「スパイダーマン」も、本当は世界にオンリーワンの存在であり、辛く苦しい出来事を乗り越え「スパイダーマン」を続けていた。
これは凄まじく孤独な行動だとも言える。
だが、他次元の「スパイダーマン」と出会い、ここではないどこかで、自分と同じように戦っている存在がいることを知り、励まされていく側面もあった。
今作で明らかになるが、前作のこの時点でマイルス以外の「スパイダーマン」は「カノンポイント」を経験していて、その辛い経験も分かち合っていたのだ。
だからこそ、彼らはある意味で、その運命は辛いが、今では分かち合う仲間がいる。
そして乗り越えることが出来る、だからマイルスもそれを受け入れるべきだと考えている。
しかし、マイルスはそれを受け入れることは到底できない。
彼は他次元のスパイダーマン全員を敵に回しても、「運命」を否定しようとするのだ。
つまり、今作はいわゆる前作のテーマをひっくり返す部類の「続編」だということだ。
今作はある意味で、これまで映像化されてきた「スパイダーマン」の本質である「大切なものを失い、それでも立ち上がること」それこそが「真のヒーロー」であるというテーマに疑問を呈す形の作品になっている。
というよりも大抵のヒーロー映画で「犠牲からの成長」というのは描かれており、それを「感動的な物語だ」とか「ヒーローのオリジンとして素晴らしい」
とかなんとか、我々は口にするのだが、本人からすればたまったものではない、というのもまた事実だと再確認させられる。
そもそも「ヒーローとは何か?」「悲しい運命を乗り越えることを良きこととしていいのか?」
まさしく「ヒーローとして生きる運命」についての問いかけを投げかけてくるのだ。
そういう意味では、現代「ヒーロー」が溢れている世界だからこそ、この問いかけに対して次作どういう答えを導き出すのか?
非常に難し問題提起を残して今作は幕を下ろす。
ただし、ストーリーとしては宙ぶらりんに終わるようにも見える今作品だが、実は上手いのは今作の語り部は「グウェン」だということだ。
マイルスの物語は、大ピンチの状況になっている。
しかしグウェンは自分の問題を乗り越えて、彼女も「運命」に立ち向かおうとするラストシーンが描かれているのだ。
これで大きな物語としては終わってないが、彼女の物語は綺麗に語りきられているのも見事だ。
ということで、作品としては次作に結末は持ち越しということで、これ以上語れないが、やはり映像の凄まじさは前作に引けを取らない。
今後のアニメ映像の進化系の先取りとも言える作品なので、ぜひ劇場で鑑賞して、未来の映画をきちんとこの目に焼き付ける大チャンスだと言える。
個人的に『白雪姫』をリアタイで観たくらいの衝撃は味わえると思うので、ぜひ劇場での鑑賞をオススメします!!