
今週は映画館にて新作映画を見てきましたので、作品についての感想・評論をしたいと思います。
ということで、今回紹介する作品は、世界中でファッショニスタとして、今なお愛される存在、ダイアナ元妃を題材にした作品。
『スペンサー ダイアナの決意』
こちらを鑑賞してきましので、紹介したいと思います。
この作品のポイント
- プリンセスになったが故の苦しみ
- 歴史上の「王」「女王」として評価される恐ろしさ
- 「伝統」の本質的なおかしさが描かれる
目次
『スペンサー ダイアナの決意』について
作品データ
基本データ
- 公開 2022年
- 監督 パブロ・ラライン
- 脚本 スティーヴン・ナイト
- 出演者 クリステン・スチュワート/ティモシー・スポール 他
あらすじ
1991年、クリスマス。英国ロイヤルファミリーの人々は、いつものようにエリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウスに集まったが、例年とは全く違う空気が流れていた。
ダイアナ妃とチャールズ皇太子の仲が冷え切り、不倫や離婚の噂が飛び交う中、世界中がプリンセスの動向に注目していたのだ。
ダイアナにとって、二人の息子たちと過ごすひと時だけが、本来の自分らしくいられる時間だった。
息がつまるような王室のしきたりと、スキャンダルを避けるための厳しい監視体制の中、身も心も追い詰められてゆくダイアナは、幸せな子供時代を過ごした故郷でもあるこの地で、人生を劇的に変える一大決心をする 。
公式サイトより引用
プリンセスは大変だ!

ダイアナとは?
この作品は現在のイギリス国王チャールズ3世の元妻である「ダイアナ元妃」を主役にした作品である。
しかし史実に基づいた作品ではあるが、作品冒頭に「実際の悲劇を基にした寓話」だと宣言しているように、完全なノンフィクション作品ではないので、その点は留意しなければならない。
さて、映画の話をする前に、このダイアナという女性の生涯を振り返ろうと思う。
ダイアナは現イギリス国王のチャールズ3世と1981年に結婚。
そしてチャールズ3世との間に、皇太子であるウィリアムと、王子であるヘンリーをもうけた。
日本には1986年、1990年、95年に来日。
特に86年の来日時には、「ダイアナフィーバー」呼ばれる社会現象を巻き起こすほど人気があった。
またファッションにも相当気を遣っており、彼女はファッショニスタとして世界中でも注目を集めた。
彼女のファッションセンスは、英国王室にも影響を与え、いつも決まりきった服装しかしない、王室メンバーの服装に革命をもたらすなど、後世に影響を及ぼすほどの人物だった。
しかし、1980年代半ばからチャールズ3世との関係は冷めきったこと、チャールズ3世と元恋人カミラ(イギリス王妃)との関係が結婚後も継続していたこと、世間からの注目や王室生活のストレス。
私生活がメディアに晒されるなど、重圧によって過食症に苦しむようになる。
(映画では描かれないが、実はダイアナも5年間不倫をしていた相手もいる)
そして1992年12月からは、チャールズ3世とは完全な別居状態に突入。
93年にはカミラとチャールズ3世の愛を囁きあうテープが流出。
94年にはチャールズ3世が「カミラが人生の中心だ」と公表するなど、関係は悪化。
ついに、1996年8月に離婚することになる。
しかし翌97年に悲劇が突然起きる。
ダイアナは97年8月30日、フランスのパリにて交通事故で事故死するのだ。
この死に関しても陰謀論などが巻き起こるが、現在では否定されている。
このように、あまりにも注目された人物だったからこそ、その死にも注目され続けているのだといえる。
そんなダイアナを主役にしたのが、今作『スペンサー ダイアナの決意』だ。
特に今作は1991年の12月24日〜12月の26日という限定的な時間だけを切り取り、彼女が別居・離婚を決意する物語となっている。
さて、ここから映画の内容を評していきたと思います。
サイコ味溢れる食事シーン
今作の物語開始の時点で、ダイアナは英国王室でのしきたり。
旦那と元恋人カミラが親密にしていること。
また、そのスキャンダラスな事件をマスコミに嗅ぎ付けられていることで、執拗なパパラッチに追われるなど、心身ともに疲弊している状態で物語が始まる。
特に英国王室の面々がクリスマス休暇を過ごす「サンドリンガム・ハウス」に向かうシーンでもそれは顕著だ。
1カット目で、物々しく軍隊が宮殿内の安全を確認、すべての安全を確認した後に、料理人たちに厨房を明け渡す。
そこで、これから王室の面々のために料理をするのだという、並々ならぬ重圧と決意が描かれる。
それと同時にこのシーンで、軍用車が「首のない鳥」の死体を踏むか踏まないかのシーンが描かれるなど、実に不穏な演出もされている。
そして場面は、道に迷ったダイアナを映す。
このサンドリガム・ハウスはダイアナの地元でもあるが、何もかも様変わりしていたのだ。
実にうまい演出だ。
何もかも様変わりしているのは地元の風景だけではない、ダイアナ自身もそうなのだ。
彼女は王室に嫁いだことで、ただの「ダイアナ・スペンサー」ではなく、未来の「王妃」(ダイアナ プリンセス・オブ・ウェールズ)となったことで、すっかり周囲の人間からの視線が変わってしまっているのだ。
そして、それが彼女を最も苦しめいてることなのだ。
そんな中、彼女はボロボロになり立ち入り禁止になった生家の近くに、カカシを見つける。
そしてそのカカシが父のジャケットを着ていることに気づいて、それを回収するのだ。
そして、それでもサンドリガム・ハウスに行きたくないと、かつての知人との再会などで、なんとか時間を遅らせようとする様子が描かれる。
これは、例えば嫌なことがあり会社・学校に行きたくないなど、そんな出来事が我々にも一度はあっただろうが、それと同じだということだ。
つまり、ダイアナはあまりにも、我々に近い人物として今作では描かれるのだが、それを最初に提示しているのだ。
そんな彼女にとって一番の苦痛な時間は、王室メンバーと過ごす時間だ。
エリザベス女王や、旦那のチャーチル3世とその兄弟。
夫婦としての関係が冷え切っている中で、明らかに白い目で見られているのがわかる。
そんな時間は拷問以外の何物でもない。
特に今作は、あまりにも冷え切った、苦痛の塊のような食事シーンが印象的だ。
冒頭、腕利きのシェフが手によりをかけて調理するシーンなど、料理が「美味しそう」に描写されるが、ダイアナの目の前に出てきた料理は、いかにも「不味そう」にしか見えない。
実はこの時点で彼女は過食と、それによる「吐き戻し」という「摂食障害」を患っている。
しかも、あまりにも冷え切った空気で家族集まっての食事は、あまりにもプレッシャーでしかないのだ。
女王がスープを口にして、食事が始まる中、ダイアナだけは食事を口にしない。
本当は美しい旋律で食事を彩る弦楽器による演奏も、彼女には不協和音にしか聞こえないのだ。
さらにチャールズ3世から贈られ、身に付けさせられた真珠の首飾りがダイアナを苦しめる。
彼は気づいてないが、彼はこれと同じものを「カミラ」にも渡している、そのことが余計に彼女を苦しめていたのだ。
そして、彼女が首飾りを引きちぎり、スープに真珠が落ちる。
それを口にして飲み込むという、あまりに愕然とするシーンが描かれ、スクリーンに目が釘つけにされてしまう。
もちろんこれは現実に起きたことではない。
あまりの居心地の悪さ・プレッシャーに、ダイアナが見た幻覚なのだ。
そして、この幻覚描写が以後何度も描かれるが、その全てがホラー感満載なのも今作の魅力の一つだ。
そして、この食事ということは、何度も居心地の悪いことの象徴として、印象的に描かれる。
アン・ブーリンの警告
精神的にも疲弊し、王室の儀式など、満足な公務をこなせないダイアナ。
彼女は唯一王室内で心の拠り所にしていた衣装係マギーとも離され、さらに警護責任者ダレンに監視されるなど、追い詰められていく。
そんな中でダイアナが自室に帰ると「アン・ブーリン」の書籍が置かれていた。
このアン・ブーリンは、悲劇的な運命を辿った16世紀初頭のイングランド王妃だ。
この人物もまた、スキャンダラスな事件に事欠かない人物であり、略奪愛から王妃になったが、やがて政治的に失墜。
浮気などの嫌疑をかけられて、イギリス王室の品位を落としたとして、斬首されたのだ。
この首を失うというのは、冒頭の首のない鳥の死骸ともリンクしている。
このアン・ブーリンの死に方をダイアナは知り、精神的に追い詰められていくのだ。
このアン・ブーリンも随所にダイアナの幻影の中で作中登場する。
しかも、この16世紀的な服装・服飾で現れるので、なんともゴシックホラーな姿も相まって、サイコティクな演出に輪をかけているのも、面白いポイント。
最初は、死に神のように、つまり「私もこのままでは、アン・ブーリンのように王室に殺される」という恐怖を与える存在だ。
サンドリガム・ハウスでダイアナをまるで追いかけるように現れるアン・ブーリン。
その幻影を見て精神的に参っているところでのチャールズ3世との会話もまた、今作の見どころだ。
確かにダイアナの嫁いだ先は英国王室という普通の場所ではない。
人からも注目されるし、羨望の目で見られる。
常にマスコミにも晒される。
王室の仕来たり、文化も尊重しなければならない。
チャールズ3世は、ダイアナに「公人として生きるように諭す」
これも一見すると正しいが、だがダイアナは「公人」である前に「私人」であり、チャールズ3世と幸せな夫婦関係を築きたいと思っていたのだ。
だが、あまりにも大きすぎる価値観のすれ違いが、ここでもまた顕著になるのだ。
そんなダイアナにとって唯一の幸せは、二人の息子との時間だ。
ここでダイアナは「二人の母親だ」と告げるセリフがある。
自分がこの世界に生きている理由を、息子と共にいることだと自覚していくのだ。
そこで彼女は徐々に「ダイアナ皇太子妃」としてではなく「ダイアナ」として生きることを考え始めるのだ。
そして、彼女は破棄され侵入禁止となった生家を訪れることになる。
真珠の首飾りからの解放/伝統行事のくだらなさ
生家を訪れたダイアナは、そこで「ダイアナ・スペンサー」として自由に生きていた頃を思い出す。
だが、そこにもアン・ブーリンの影が迫る。
だがここでダイアナは、アン・ブーリンが何故現れるのか?
その真意に気づくのだ。
アン・ブーリンはダイアナを自分と同じ運命に誘う存在ではなかった。
ダイアナが身につけている真珠の首飾り、それを取り払えと彼女に告げる存在だったのだ。
そもそも、カミラという夫の元恋人と同じものである首飾り。
それを身につけろということに象徴される、公務での衣装全てを管理される苦しさ。
さまざまな因縁が、首飾りに染み付いていたのだ。
彼女は自らで、それを引きちぎることで、ダイアナという一人間に戻る決断をするのだ。
そして、彼女は12月26日、ついに行動をする。
戻ってきたマギーと二人でドライブして海辺を駆け回るなど、王室の人間としては絶対に外に見せられないこと、つまり私人として伸び伸びと謳歌することで、決心を固めることになる。
そして、長男ウィリアムが嫌がっていたサギ狩りを中断させるべく行動をする。
このサギ狩りは英国王室の伝統行事だが、ダイアナの目から見れば全くもってバカバカしい風習で、無理やりさせる必要性すら感じてないのだ。
だが、王室の面々は、この行事をなんの迷いなく、大真面目に遂行している。
そもそも、サギを撃つことになんの意味があるのだろうか?
ダイアナは「伝統だから」という理由で続いてきた事柄に疑問を投げかけるのだ。

今作は王室のあり方に疑問を抱くダイアナの視点で描かれる。
つまり作り手たちは、王室の伝統というのもの自由度のなさ、融通の効かなさ、つまり硬直性や、本質的には非常にバカらしいことを真面目にやっているという点を、ある意味皮肉っているとも言えるのだ。

本当にバカなことしているなという視点で描かれている
ここは、それが極限に達したシーンだとも言える。
その後ダイアナは息子を連れて、ハンバーガーショップで俗世に混じって食事をするシーンが描かれ、ダイアナが公務で着ていた衣装をカカシがきている場面で締め括られる。
果たして、王室の伝統とはなんなのか?
それは、外からやってきた人間を不幸にしても守るべきなのか?
さまざまな投げかけをして今作は幕を下ろす。
この締め方ができるのは、今作が「史実に基づいた寓話」であると冒頭に宣言しているからであり、ある意味で逃げ方としてもうまいと思わされた。
本質的には我々が一生悩むことはない「悩み」
今作はある意味で普通の人間が王室に入ったことで、失ったものを取り返す話だ。
そして作り手は、ダイアナという人間を通じて、王室を王室たらしめている伝統や、ルール、権威などへの「本質的な疑問」を我々に投げかける「寓話」として、今作を作ったことはお分かりいただけたかと思う。
だが、ダイアナはただの一般庶民の出身ではない。
つまり「シンデレラ」ではないのだ。
彼女の「スペンサー家」もまた伝統のある貴族の家系だし、そもそもそういった出身のものしか、王室の人間とは結婚することはできない。
つまり、確かに今作の彼女の抱えた悩みは共感できるように、言い方を選ばなければ我々庶民にも共感できるように作られてはいるが、そもそも我々の大多数はこのような「悩み」を抱えることはないのだ。
今作で、ダイアナに「女王とは?」という問いかけがある。
そこで、出される答えは「兵が、あなたに命を捧げる」「忠誠を誓う」というものだった。
さらに仮に女王になった際、イギリスの王・女王は歴史上一言で敬称されるあだ名についても今作は論じられる。
例えばウィリアム1世は「征服王」だったり、エリザベス1世の「処女女王」
ロビン・フッドでヴィランとして描かれるジョン王は「失地王」など不名誉なものまである。
「私はなんと呼ばれるのか?」 とマギーに問いかけるシーンも描かれる。
これらが、ダイアナには重圧だったのだが、そもそも、我々はこんな重圧を感じることは恐らくない。
つまり映画としてダイアナに「共感」は出来るように、作品は作られている。
だが、そもそも我々「庶民」からすれば、彼女の「悩み」はどこか「別次元」のものだとも言えるのだ。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!
サイコ味も込みで、独特な魅力にあふれた作品!!
クリステン・スチュワートのダイアナっぷりも本当にすごい!!
まとめ
ということで『スペンサー ダイアナの決意』は彼女が人生最大の決断をする、3日という限られた時間を描いた点。
またホラー味する描写など、非常に割り切りの良い作劇で、好印象を持てる作品であった。
また、シャネルの手掛けた衣装が、あまりにも美しいこと。
それを着こなすクリステン・スチュワートの圧倒的存在感なども見逃せない。
作品も彼女の抱える悩みや、彼女を通じて「王室」の伝統は、本質として硬直的だし、その実は無意味であったりもするのでは?
という投げかけをしている点も好感を持てる。
ただ、この「悩み」や「王室の伝統」などは、我々庶民とは、本質的には無関係の問題だとうことも指摘しないといけない。
つまり、よく考えると我々は、どこか「異次元」の悩みについて見せられているとも言えるのだ。
そして、ダイアナもまた、貴族の出身であることも見逃せない。
だからこそ、この作劇を真の意味で成立させるには、それこそ貧しい出身の人間をメインに添えないと成立しないのだ。
しかし、現実は『シンデレラ』のようにはいかない、この「悩み」を抱えられるのもまた、「特別な人間」しかあり得ないのだ。
まとめ
- ホラー味ある演出などが素晴らしい!
- ダイアナの悩みを、本質的に我々は共感できない