
今日は「Netflix」で配信中の作品をご紹介します。
それは「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」です!
この記事を読んでわかること
- 「弱さ」を見せ合える仲間の大切さ。
- 変わりたいけれど勇気が出せない、そんな時に背中を押してくれる仲間の大切さ。
- 僕独自の解釈。
当ブログでも紹介している「WALKING MAN」と合わせて見てもらいたい作品だね
目次
「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」について
基本データ
- 公開 2018年
- 監督 湯浅弘章
- 原作 押見修造(漫画)
- 出演 南沙良/蒔田彩珠/萩原利久 ほか
あらすじ
高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。
ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。
音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。
文化祭へ向けて猛練習が始まった。
そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。
公式サイトより抜粋(http://www.bitters.co.jp/shinochan/)
「弱み」を見せれるのが「本当の友達」

「友達」の定義ってなんだろうか?
ふと考えると、わからなくなる。
「気が合う」「一緒にいて居心地がいい」
定義づけしようとすれば、いくらでも出てくる。
でも本当は「弱み」を見せ合うことができる存在の事を「友達」と言うのかもしれない。
今作品は「弱さ」を抱えた2人の少女が「弱さ」と向き合い、そして乗り越えていく。
その姿を「丁寧」に描いているのだ。
冒頭のシーンに「共感」
今作の主人公である「大島志乃」は人前でうまく話せない「吃音」を患っている。
冒頭、高校入学してクラスメイトの顔合わせでの「自己紹介」
彼女にとって「地獄」のような試練だ。
「自己紹介苦手派」として、ここは大きな共感をしてしまった。
僕は「吃音」というようなものを抱えているわけではないのだが、「自己紹介」というのが苦手、むしろ嫌いだ。
あまり本論と関係ないのだが、苗字がそれなりに「珍しい」僕は、いつも「??」という顔をされてきた。
もちろんこれは自分が、周りにそう思われていると勝手に感じているだけなのかもしれないが・・・。
そういう反応をされるのが苦手だった。
「普通の苗字」がいいな。と思ったことが何度もある。
だからこそ、自己紹介の前はちょっと気分が落ち込むし、できれば避けて通りたいと思う。
そう思い生きてきた、だからこそ、冒頭の「自己紹介」というものへ志乃が抱く感情はすごく共感できた。
もちろん、本作の志乃と比較すると、僕の「苦手意識」なんか「軽い」けどね。
おそらく志乃はこれまで「吃音」のことを揶揄われてきた。
だからこそ、なんとかうまく話そうとして、それがプレッシャーになり、「吃音」が強くなる。
周りの反応もそれを「面白がり」さらに志乃はうまく話せなくなる。
この「負のスパイラル」に陥り、一瞬にしてクラスメイトから「おかしなヤツ」というレッテルを貼られることになってしまうのだ。
そしてクラスメイトになった菊池というお調子者キャラに、そのことをいきなり揶揄われてしまう。
もちろん菊池は「イジメ」というよりも、「イジリ」という感覚で行っているのだが、やられた志乃はたまったものではない。
教員免許を持っている者として、「イジメ」「イジリ」には言いたいことがある!!
「イジメ」と「イジリ」について
『「イジリ」は「イジメ」ではない』
と主張する者がいるが、それは全く持って違う。
「イジリ」だろうが「相手が傷つけば」それは「イジメ」と同じであるある。
「イジリ」という言葉は「イジメ」をカジュアルなものにしてしまった。
だが、この二つの言葉に「大きな意味の差はない」ということを肝に銘じなければならない。
ポイント
✅ 志乃にとって「普通」に「自分の名前」をいうのは困難。
✅ うまく話そうと思うほどに、うまくいかない。周囲の目を意識して、もっとうまくいかなくなる。「負のスパイラル」に陥っている。
✅ だからこそ、傷つかないために、人前で話そうとしない。
全く理解の足りない「先生」
今作の担任の「小川先生」の志乃への対応も酷いものがある。
会話の描写を表面だけなぞると「理解がある」ように見えるのだが、先生は本質を何も理解していない。
「クラスメイトと馴染めるれば喋れる」
そもそも「喋れない」から「馴染めていない」ということに理解が及んでいない。
「挑戦すれば、できるようになる」
もうすでに何度も挑戦して、努力している。
このように、一見すると理解のありそうな「セリフ」だが、そこには「無理解」「無責任」が透けて見えてくるのだ。
そしてこの部分に「リアル」さを僕は感じてしまった。
「弱さ」を見せ合える存在との出会い
今作でそんな志乃と友情を築くのが「音痴」という「弱さ」を抱えるクラスメイトの加代だ。
彼女は音楽が大好きだが「音痴」だ。
それが原因で中学時代にイジメられてきたという過去を持つ。
一度、その歌声を聞いた志乃はあまりの「音痴」さを笑ってしまい、加代に激怒されてしまう。
志乃は自分が今も最も苦しんでいる「弱さ」を笑われるという行為。
それを自分もしてしまったという後悔に涙するのだ。
そして何とか謝罪しようと加代を追いかけていた。
そのため加代が「一人カラオケ」で「歌の練習」をしようとしていた時、中学時代の友人と出会ってしまう場面に志乃は立ち会うことになる。
「下手くそ」「笑える」など過去の傷を掘り返される加代の姿は、見てはならないものを見ているという気にさせられる。
しかもそれが「カラオケ店」の前だというのが、さらにその場面の居心地の悪さを強調する。
それを救ったのは志乃だ。
志乃は加代のために間に割って入り「つたない言葉」で彼女を救う。
加代の味方をしたのは「弱さ」そして、それを持つがために「イジメ」られていた志乃なのだ。
本来ならば見られたくない姿かもしれない、でも「同じ弱さ」を持つ者。
そして、その弱さを期せずして見せ合ってしまうことで、2人は深くわかり合うことができたのだ。
ポイント
✅ 「弱さ」を露見し合うことで、2人の間に深い友情が生まれる
「歌」で自分を変えようとする2人
「しゃべることができない志乃」
「歌うことができない加代」
2人は「歌うこと」を通じて自分を変えようとする。
そして「学園祭」で「しのかよ」というデュオで出場しようと夏休みの特訓に励む。
人前で最初は拙いながらに路上練習を重ねて、少しずつだが「人前」になれた志乃
彼女の「吃音」は少しだけ解消されていく。
この場面で主に描かれるのは「歌う」ことの特訓。
しかし同時に節目で挿入されるシーンは、2人にとって掛け替えのない「最高の夏休み」
それを切り取ったものになっている。
志乃が夢見た「友達」との日々はここで実は「叶っている」のだ。
「叶っている」これがポイントだね!!
もう1人「弱さ」を持っていた者
さて本作では、もう1人「弱さ」を抱えたものが出てくる。
それは志乃を何度も辛かった菊池だ。
夏休みの終盤で路上ライブを行う志乃と加代を見て、からかうような言動を行う菊池。
この場面だけ見れば、やはり最悪なことをしているのだが、本人は悪気がないのだ。
それが元で志乃はまた人前で話すことが下手になってしまう。
夏休み明けのクラスでもまた菊池に「路上ライブをやっている2人を見た」などと話題にされた志乃と加代。
普段ならここでクラスメイトは彼に反応をしめすのだが、誰も彼の声に耳を傾けない。
菊池は「夏休み明け」急にクラスメイトにハブられてしまうのだ。
理由としては彼の「空気を読めない」発言にみんなが「愛想を尽かした」のだ。
「うざい」「黙れ」など冷たい反応を受けた菊池は一気にクラスの中心から底辺に転落する。
こういう急に「自分の地位」が揺らぐということは人間のコミュニティでは時折見受けられるね
そして実は「菊池」は元々中学時代は「ウザキャラ」「KY」としてクラスメイトからイジメを受けていた。
そんな自分を変えたくて自分のほかに「弱さ」を抱える者を「笑いもの」「イジって」何とか地位の確保をしようとしていたのだ。
彼も手段は間違えてはいたが、何とか「弱さ」を克服して、自分を変えようと努力していたのだ。
ただ結果は「高校デビュー失敗」となったのだ。
そして、そのショックで校舎の裏でトラウマが蘇りゲロを吐くまでに追い詰められることになる。
そんな彼を加代は放ってはおけず、彼を仲間に誘うことになる。
この菊池を誘うという展開自体、彼が志乃に対して行った仕打ちを考えると、正直飲み込みづらい点ではある。
思春期特有のめんどくさい「気持ち」
ここからはある意味当然ではあるが、3人での活動はうまくいかなくなってゆく。
志乃は菊池にイジメられた傷を抱えているので当然だが、それ以上に菊池が加代と仲良くなっていることに傷つくのだ。
これは実は志乃にとって「友達とすごす」という一つの目標がすでに達成されているからであり、それを菊池が入ることで失ってしまうことに耐えられなくなるのだ。
この面倒な感情というのは、理解できなくもない。「嫉妬心」に近いものかもしれない。
ある意味では「めんどくさい」気持ちの機微、その描き方が本作品は非常にうまいのだ。
そのことに気づかず加代は「菊池は歌がうまい」とか「菊池と相談した」などと、彼女が志乃よりも先に菊池に話していることが多くなっていたのだ。
いずれ自分がいなくてもいい存在になる。
それには耐えられない。という感情を抱いた志乃は、自ら「音楽活動」を辞めるといい飛び出していく。
「菊池が原因なの?」と追いかける加代。
これはある意味で「正解」だが「間違えている」
「菊池にいじめられた記憶が蘇り辛いからいやだ」ではない。
「菊池がいることで加代を取られるのがいや」が正解だろう。
この出来事で志乃は再び冒頭、いや冒頭よりもより深い闇を抱えてしまうことになる。
ポイント
✅ 加代にいずれ捨てられるかもしれない、それならば自ら「捨てる」を選択してしまう志乃。
ちゃんと「歌いたい」「喋りたい」

変わりたいけれど勇気が出せない
この作品の後半は、2人がとことんすれ違っていく。
せっかく「幸せ」を手に入れていた志乃だが、傷つき、そしてさらに酷い「吃音」に陥り不登校になる。
ここで母親がまた「催眠療法で吃音が治る」などと言い出すのだが、これも前述した先生と同じで「理解が足らない」言葉だ。
「気持ちの問題」
などと軽々しくいうが、そんな問題ではない。
だけどこう言ってしまう「母親」の心情も理解できる。
そんな中で菊池とであった志乃は、彼からの謝罪、そしてもう一度加代と音楽をするべきという励ましを受けるが拒絶。
加代との邂逅でも「だんまり」を決め込んでしまう。
本当は変わりたい、でもその殻を破れない、勇気が持てない志乃。
これまで多くの「弱さ」を克服する作品を見てきたが、ここまで「勇気」が持てない作品も珍しい。
だがよく考えると、これもまた現実だと言える。
世の中にいる人物の全てが「勇気」を持ち行動できるわけではない、「WALKING MAN」のアトムのように「する」を選べるものだけではない。
これもまた事実だ。
もっというと、やはり現実は志乃のように「わかっている」「変わりたい」けれど勇気が出せない、そんな人間の方が多い。
そのことを強く意識させられてしまう。
ポイント
✅ 変わりたい、でも勇気が出せない人間もいる、現実はむしろこの方が多い。そのことを強く意識させられてしまう。
背中を押すのは加代の勇気
学園祭本番、いよいよ「しのかよ」初お披露目。その瞬間にも志乃は現れなかった。
そして加代は1人で舞台で歌うことになる。
そこで演奏される曲「魔法」、それは加代が「自分と志乃の弱さ」を綴った歌だった。
「うまく話せない/歌えない」
2人の「弱さ」を隠すことなく歌う加代。
お世辞にも、うまいとは言えない歌声を披露し、必死に勇気を持って声を出し続ける。
オーディエンスの反応は微妙だ。
だけどその「勇気」は確実に1人の人間には届いた。
志乃は彼女が歌い終わりようやく姿を表す。
そこで志乃はようやく思いの丈を、世界に対して抱いていた不満。
うまく話せないことに対する怒り、そして自分への怒りをぶちまけるのだ。
「大島志乃」
今まで言えなかった自分の名前を叫んだ彼女は自分の心にある「本音」を叫ぶ。
「私を『笑っている』のは私」
彼女はここでようやく自分を一番「だめなやつ」と考えていたのが自分であったことに気づいた。
そのことを認める「勇気」をくれたのは、「音痴」という「弱さ」をさらけ出しながらも「勇気」を振り絞り歌った加代だった。
今作はその後、志乃と加代が一緒にいるシーンが描かれることなく幕を下ろす。
2人が「歌」「音楽」をまたやっているのかはわからない。
志乃はまだ「吃音」だ。
だけど最後。
「ありがとう」と、少し自信を持って話す姿は、まさに「37 Seconds」のラストと同じように、「自分がそうなったこと」それを「認め」「肯定」し生きていく。
その力強さに満ちていた。
ようやく志乃は少しだけ前に進むことができて、彼女の未来を想像させる余韻で物語は幕を下ろすのだ。
ポイント
✅ 自分1人では「変われない」、同じ「弱さ」を持つものがいたから志乃は変われた。
✅ 「吃音」という自分を最後には少しだけ「認める」ことができた志乃、そこにはまだ「吃音」は患ってはいるが、希望が見えている。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!
青春っていいなぁ!!
その時期特有の、めんどくささも描かれているね
まとめ
今作品は非常に「共感」できる部分が多い作品だった。
理由は全然、比較にならぬほど軽いのだが、「自己紹介」での反応という点で、割と自分も共感できてしまい、考えさせられてしまった。
そして本作品は「吃音」というものへの共感も深くできるのだが、それ以上に「友達」を奪われたくない「嫉妬」という「めんどくさい」感情。
こうした感情を思春期の頃は持っていたと思い出してしまう人も多いのではないだろうか?
そういう感情は「成長」とともに無くしていくものだ。
だけどよく考えると「そこまで独り占めしたいほど居心地のいい友達」なんて今、少なくとも僕にはいない。
そこまで深い人間関係を「大人」はもう築けない、ということなのかもしれない。
そして最後に「勇気」を1人では振り絞れない志乃は加代から勇気をもらって、自分の弱さを認めた。
1人ではできなかったが2人ならできたのだ。
「自分の名前が言えた」志乃、その姿に胸を打たれてしまった。
もう一つの解釈
僕は本作のラストで志乃が叫ぶシーンは、実は彼女の妄想で、現実にはその場に行ったものの、何も行動をしていない。というようにも捉えている。
もちろん加代の歌が志乃の心に届いたのは事実で、彼女の心を動かしたのも事実だろう。
だがあんなにも饒舌に話すことができるのか?
あれは実は自分の妄想で、だけど妄想だとしても、「自分を笑っていたのは自分」と心の中で認めていることは事実で、それを口にせず理解したということであっても、このシーンの意味は成立する。
なので物語の帰結として実は「叫んでいなくても」同じところに向かうと言える。
その後、志乃と加代は「疎遠」になってしまったような描写がある。
もし、現実にあの言葉を志乃が発したとして、この加代との距離感になってしまうだろうか?
あの場ではやはり叫べなかった「勇気」が持てなかった、でもやはり最後には少しだけ志乃は変わった。
この「叫べない」こと。
これは現実にもし同じ状況があって、僕らが取る行動としてもっとも近いものではないだろうか?
だからこそ、このシーンを「妄想」だと考えると、そこに現実感覚が生まれ、より感慨が深くなってしまう。
こんな風にラストを見てしまったのは、僕がひねくれているせいだからか・・・。
何にせよ、僕はこう思ったので、一応ここに書き記した。
皆さんはどう思われましたか??
今作の総括
- 「弱さ」を持つ者の勇気が志乃を変えた。
- 友達を独り占めしたいという「嫉妬」という、思春期特有の面倒な感情の機微が丁寧に描かれる。
ということで、読了ありがとうございました。
また近々お会いしましょう
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