
今回は1971年放送開始の特撮テレビドラマ「仮面ライダー」
この作品を「シン・エヴァンゲリオン劇場版」「シン・ゴジラ」の庵野秀明が監督・脚本を手がけて新たに現代風にアレンジして映画化した、『シン・仮面ライダー』を評論したいと思います。
目次
『シン・仮面ライダー』について
基本データ
基本データト
- 公開 2023年
- 監督・脚本庵野秀明
- 原作 石ノ森章太郎
- 出演者 池松壮亮/浜辺美波/柄本佑 ほか
あらすじ
頭脳明晰・スポーツ万能。
だがコミュ障の無職だった本郷猛はショッカーにさらわれて改造手術を受ける。
だが完全な改造を受ける直前、ショッカー団員で緑川博士の娘・ルリ子に助けられた。
本郷たちはショッカーの戦闘員やクモオーグに追われ、道でバイクが吹き飛ばされてしまう。
その最中、本郷はベルトに風圧を受けて仮面ライダー(バッタオーグ)に変身した。
本郷は殴っただけで戦闘員を殺せるパワーと、バッタと融合した人外の姿に本郷は絶望を隠せない。
そんな彼にルリ子は赤いマフラーを巻いた。
ルリ子と緑川博士は本郷にショッカーによる人類の支配を止めるために協力してほしいと願いでる。
そこへクモオーグが現れて…。
庵野監督が描きたい「当時の時代感覚」
この作品を見て真っ先に思ったことは、明らかに現代の技術を持ってすれば、もっと良くなるであろうシーンが多いことだ。
人によってはこれを「過去作」つまりTV版『仮面ライダー』のリスペクトと捉えるだろうし、逆に「しょぼい」と悪く捉えるかも知れない。
そもそも「リメイク」「作り直し」と聞くと、多くの方は「現代技術」で、当時は出来なかったクオリティのものを生み出すものだと考えるに違いない。
昨今でも過去作のリメイクはハリウッドなどでも多く制作されているが、その作品はどれもスケールアップしている。
だが今作の監督を務めた庵野秀明は、作品を見ればスケールアップはもちろんしている部分もあるが、明らかに彼は『仮面ライダー』放映当時(1971年)へのリスペクトが非常に高いことが伺える。
つまり、意図的に「しょぼく」「不自然」に演出しているのだ。
例えばこれはクエンティン・タランティーノの映画作りにも見受けられる思考「サンプリング」の感覚だと言える。
狙いとしては、当時リアルタイムで『仮面ライダー』を見ていた観客はもちろん、その当時を知らない世代にも当時の時代感を感じてもらいたいというのではないだろうか。
この感覚は過去の「シンシリーズ」通ずる点ところもある。
ここで「シンシリーズ」全体を思い出して欲しい。
最初の作品『シン・ゴジラ』(2016年)はどちらかといえば、当時の時代感演出というのは音楽面演出に留まっていた。
むしろ作品としては現代にゴジラが現れたらどうなるのか?
それを鉤括弧付きではあるが、リアリティあるものとして描くことに尽力していた。

次の『シン・エヴァンゲリオン』(2021年)
これは唯一のリメイクではない、庵野監督のオリジナル作品だが(旧劇、旧TV版のリメイクといえばそうかも知れないが)、ここでも中盤から終盤の展開で明らかに「古き良きミニチュア・特撮」の技法をふんだんに取り入れている。
特にモーションキャプチャという方法で、実際の役者の動きをアニメに落とし込んでいるということを考えれば、ある意味で特撮的技法で作られたアニメだとも言える。
そして2022年の『シン・ウルトラマン』
設定や画面は現代的アレンジになっているがウルトラマンの飛行シーンや、回転している時の動きは明らかにTV版の演出を行なっていた。
これは明らかに他のシーンと比べても間抜けに見えるほど変な落差になってしまっている。
映画全体のクオリティを考えれば、これらの「当時の感覚」を再現する演出は逆効果に転ずる場合が多い。
だが、そこにこそ「特撮」の面白さが詰まっていると庵野監督は考えており、それを当時のファンや、今の観客に味わってもらいたいという思いが詰まっているのだ。
だからこそ、映画全体のバランスを崩すことになったとしても、そこは譲らないのだ。
むしろ「これをやりたい」という思いが強いのかも知れない。
ただしこの違和感、奇妙な映像的バランス感覚が強くて、観客の中には「ノレない」「つまらない」と感じる層が一定数いるのも事実だ。
そしてこの奇妙なバランスが過去の「シンシリーズ」の中で最も強いというのも今作の特徴だ。
例えば戦闘シーン。
序盤の「オーグ」との戦いつまり怪人との戦闘なのだが、彼らのデザインこそ現代風にアレンジされてはいる、さらに今作の特徴として仮面ライダーの戦闘力が増しているなどはある。
だがバックに流れるBGMが「レッツゴーライダーキック」のインストだったり、TV版を踏襲している。
さらに一見すると不自然なカット割り、明らかにTV版の拙い感じを再現している点も多く見受けられる。
あとはハチオーグ戦。
高速描写を「過去の技術で再現したらどうなるのか?」という実験だったようにも見えるが、見ている側は「拙さ」を強く感じてしまう。
中盤の「ショッカーライダー」との戦いも、TV版での彼らとの戦いがどこか「真剣だが」「面白み」に溢れていた点をよく再現はしている。
これらが比較的展開としては重たい中盤以降の作品の空気感と大きく乖離しているのも違和感として残ってしまう。
ただ、この空気読めない感じがかつての「仮面ライダー」だったといえばそうだし、それを再現したいというのが監督にはあるのだから、作劇としては何も間違っていないのだ。
この監督の「空気感を見せたい」という情熱が「シンシリーズ」で最も強いのが今作だ。
それはこの作品のキャッチコピーにも強く反映されている。
「変わるモノ。変わらないモノ。そして、変えたくないモノ。」
時代は変わっても普遍の「昭和特撮」の香り。
それを今でも語り継ぎたい。
そんな願いが詰まった作品だ。
だからこそ、評価が賛否分かれているのだ。
「シンシリーズ」の描くのは「人間讃歌」だ
さて、そんなある奇妙なバランス感覚を持つ今作品は、バランスとしては「TV版」をベースにしつつ、そこに「石ノ森章太郎」の原作『仮面ライダー」のイズム。
そして「庵野秀明イズム」を混ぜ合わせたものになっている。
例えば怪人オーグのデザインはTV版を踏襲。
しかし、物語のラストの流れは漫画版の展開を下敷きとしている。
そこに「庵野的=エヴァ的」な用語の数々を釣瓶打ちするセリフや世界観で構成されている。
特に「ショッカー」の中でも「チョウオーグ=緑川ケンイチ」の狙いが、後述するが「人類補完計画的」であり、それを阻止する構図はまさしく「エヴァ」だ。
この展開から見えてきたのは「シンシリーズ」の全体像だ。
これらはどれも争点は形を変えど結局「人類補完計画的」なものに「NO」を突きつける話だということだ。
端的にいえば「人間」は「助け合わないと生きていけない」つまり「群れ」でないといけない「不完全な存在」である。
そのため生じる「軋轢」「確執」によって引き起こされる様々な問題。
こうした事があろうとも、「群れ」である、「助け合うしかない人間」こそが「美しい」と言う「人間讃歌」を描いているのだ。
それは庵野秀明という人間の私小説でもある「エヴァ」でずっと語られてきたことでもある。
他人がいるから、他人を傷つけるし、傷つけられる。
みんなの意思が一つになれば、そんなことは無くなる。
それを良しとするかどうかを常に庵野秀明は模索してきたのだ。

『シン・ゴジラ』では、ゴジラは「完成された個体生物」だった。
そんな存在に「群れ」しかもそこに「不安定さ」「危うさ」を持つ「人間」が勝利する物語だ。
『シン・エヴァンゲリオン」では「人間を完全な個体にする計画」つまり「人類補完計画」で愛する人に会いたいゲンドウをシンジが打ち破る話になっている。
しかもそれは人間が「群れ」ではなく「一つの生命体に」なることで、分かり合えるという幻想がバックボーンにある。
それをシンジは否定し、「群れ」であることの意味を説く。
ある種、庵野秀明という人間が、悩み続けたこの問いかけに確固たる答えを出した作品だとも言える。
『シン・ウルトラマン』では「完成された生命体であるウルトラマン」が「助け合わないと行動できない不完全な生命体である人間」と行動することで、「不完全さ」を愛してしまう作品になっている。
そして『シン・仮面ライダー』でもそのテーマは同じだ。
作中で仮面ライダー最大の敵として立ちはだかる仮面ライダー第0号/チョウオーグ=緑川イチロー。
彼は幼少期に母親を通り魔によって殺害されており、理不尽な暴力に憤りを感じ、「暴力の無い世界を作りたい」と願っていた。
その為に彼が考え出した全人類をハビタット世界へと送る「ハビタット計画」なるものが描かれる。
「ハビタット世界」は「プラーナ」すなわち「人間の精神=魂」だけが存在する世界だ。
自分を包み隠す事なく全てをさらけ出せるし、人が他者を完全に理解できる世界である。
しかし、それは人間が自我を保てない地獄だともルリ子は作中で言及をしている。
つまるところこの「シンシリーズ」は結局「完全な個体生物」を望むか?
それとも「不完全な群れ」を愛するのか? という選択の物語なのだ。
ただ今回の作品が面白いのは、それを「仮面ライダー」という媒体で描いている点だ。
映画として目立つブサイクな点
「仮面ライダー」はある意味で「理不尽」に改造人間にされた本郷猛が、自分の身体の変化に怯えながらも世界の平和のために拳を振るう物語だからだ。
ライダーのマスクの複眼の下には「黒いライン」
これは、彼らがマスクの下で「改造されて人間でなくなってしまったこと」
自分が自分でなくなってしまったことに恐怖しながらも、その力を振るって敵を倒す(今作では殴るだけで殺せるほどに改造されてましたが)ことに矛盾を感じ「涙」していることを表している。

それがライダーの本質だ。
今作の本郷猛を演じた池松壮亮は、TV版で同役を演じた藤岡弘、とは全く異なる性質を持つ役者だ。
明らかに「弱い」「繊細さ」を描くにはうってつけのキャスティングだ。
今作では特に説明もなく本郷は改造人間「オーグメント」にされており、それを急に現実として突きつけられている存在だ。
この「意味もわからず改造人間にされた」という戸惑い。
仮面の下やグローブの下の「怪人化した手」の描写などは非常に素晴らしく、自分が人間ではない存在になってしまったという衝撃の描き方はうまく描けていたのではないか。
この「改造人間にされた戸惑い」は例えば序盤の戦闘シーンで、殴るだけで相手を殺せてしまうほどの力描写で恐れ慄くシーンでもうまく表現できている。
まさに作品の出だしとして上々なのだ。
しかし、この後に緑川博士と娘のルリ子の「ぼんやりとした説明」で「ショッカー」という組織と戦わなければならないことを告げられ、それに協力しろと告げられるシーンに移行する。
ここで余りにも「悩んでいる感じ」が無さすぎて、「戦うことの葛藤」というテーマが蔑ろにされている感はどうしても否めないのだ。
言葉を選ばずにいえば、あまりにもずさんな点が多いのだ。
ちなみに今作のショッカーは漫画版の設定をアレンジしており、とある大富豪が作り上げた「スーパーコンピューター」が黒幕として描かれている。
このスパコンが「人類を幸福にする」という計画を実行するために「ショッカー」を組織し、人類を改造・洗脳することで「幸福」をもたらそうとしているということも描かれるのだ。

今作のラスボス的存在である「チョウオーグ=緑川ケンイチ」は理不尽の暴力で母を失った存在だ。
彼は「理不尽なき世界」を作ろうと、ショッカーに入信した結果、周囲に「理不尽」「暴力」を振り撒く存在になっている。
対して主人公の本郷猛も、理不尽に「人間性」を奪われた存在で、この二人が「理不尽」を無くそうとしながら、「暴力」で戦うという構図になっているのだが、先ほども言ったように本郷側のエピソードが弱すぎて、ここが対比にきちんとなってないのは批判ポイントだ。
ただ、これは『シン・ウルトラマン』評でも指摘したが、元々がTVドラマで原作も豊富にある分、映画一本で回収できるものではないということだ。
そのエッセンスを一本の映画で表現するのは、やはり難しいと言わざるを得ない。
逆に『シン・ゴジラ』がうまくいったのは、ゴジラと監督の思い入れの差もあるかもしれないが、それ以上に『ゴジラ』は映画が原作だからだ。
つまり、なんでもありだった。
だが『ウルトラマン』『仮面ライダー』はやはり表現しないといけない点がキチンとあって、それを描くには「映画一本」では足らず、どうしても時間がなかったのだ。
あと序盤のクモ・コウモリ戦、そして2号ライダーとの「東映アニメ」的な戦闘は面白いのだが、ハチオーグ戦、ショッカーライダー戦、チョウオーグ戦。
後半の戦闘が暗闇での戦闘が多すぎて、正直見ていて意味がわからないシーンが多すぎたのも残念なところ。
特にショッカーライダー戦はTV版のように昼間に戦えばよかったと思うのだが、表現したい映像に技術レベルがついてこなかったのか、誤魔化しているようにしか見えなかったのも残念なところ。
このように今作は過去の「シンシリーズ」以上に庵野監督の癖の強さと、映像の見せ方、ストーリー展開がブサイクな点が多く賛否ガッツリ分かれた理由だと言える。
もちろんいい点もいっぱいある
ただ、個人的には『仮面ライダー』という作品・シリーズに思い入れがあり、そこは目を瞑ってもいいと思っているし、もちろんいい面も沢山あると思っている。
そもそも『シン・仮面ライダー』という作品がここまで多くの方に見られているという点は、やはり庵野秀明監督の知名度によるところが大きい。
ここまで注目されるのは「特撮業界」に非常にいい流れを呼び込んでいることは、評価しなければならない。
映画としても、今作のMVP浜辺美波の魅力が今作の評価を5割マシにしている。
あそこまで顔面力だけで持っていけるのは、彼女がルリ子を演じているからに他ならない。
2号ライダー、一文字隼人を演じた柄本佑もそうだ。
ここも映画としては賛否分かれるかもしれないが、「悲しみのヒーロー」本郷猛に対して、彼は「スパイダーマン」的な「文句言いながら戦うヒーロー」として映画に明るさをもたらしていた。
この絶妙な軽口感も、個人的には「理不尽に黙って耐える本郷」に対して「理不尽に文句を言う一文字」と言う真逆な二人はダブルライダーのバディ感・相棒感は絶妙なものがあった。
出番としては短いものの、存在感は抜群、最後の本郷とのやりとりでは少しうるっとする場面もありましたね。
そして池松壮亮演じる本郷猛。
TV版の藤岡弘、が「強さ」を醸し出しているのではれば、まるで違う「弱さ」と言う面が全体に出る分、「悲しみ」を醸し出す存在としてはうってつけ。
棒読み演技もコミュ障感が出ていて、でもルリ子最後のシーンは、そこに感情が加わるという圧巻の演技に拍手しかない。
あと、これは賛否分かれる点だが、変身後のアクションを今作品はスーツアクターを起用せずに役者たちが演じている点だ。
撮影前までは従来の特撮シリーズのようにスーツアクターによるアクションを構想していたようだが、可能な限り役者が演じることで、むしろ「素人臭さ」が演出できていた。
それこそまさに本郷たちが「一般人」だったにも関わらず突然改造されて、「わけもわからず戦っている」感覚を描けていた。
これがキレキレの動きとなると、アクションシーンとしての完成度は上がるかもしれないが、「突然改造された男」であると言う感覚が失われたに違いない。
このように言い尽くせぬほどに、キチンと見どころも用意されている今作品。
確かに癖やストーリーテリングに問題はありますが、それでも一見の価値ありな作品ではないでしょうか?
日本が誇る伝統的映像表現「特撮」
久しぶりに劇場で見てほしいと思います。