
「アナと雪の女王2」の「ノーサルドラの民」
「ミッドサマー 」での「ホルガ村」など。
最近、北欧モチーフで話題になる作品が多いので、そこに対する理解を深めましょう!
ということで今日は「サーミの血」についてのご紹介。
「ノーサルドラ」「ホルガ村」のモチーフになっている「サーミ人」について描かれている映画だよ
こんな方にオススメの映画
- 「アナ雪2」「ミッドサマー 」について理解を深めたい方
- 「サーミ人」について知らない方
- 「多様性」ある社会について考えたい方
この記事を読むと
✅「多様性」というが、その言葉の捉え方が変化する
✅「伝統」を捨てる選択が「悪い」ことなのか? 考えてしまう
✅好奇心・差別が表裏一体なことがわかる
目次
「サーミの血」について
基本データ
- 公開 2016年
- 監督・脚本 アマンダ・シェーネ
- 出演 レーネ=セシリア・スパルロク/ミーア=エリーカ・スパルロク ほか
▼あらすじ▼
忍び込んだ夏祭りで、あなたに恋をした―私を連れ出して
1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。
サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。
そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。
トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――。
UPLINK渋谷HPより抜粋(https://shibuya.uplink.co.jp/movie/2020/55662)
「サーミ」との決別と再開

「サーミ人」と距離をとる「サーミ人のエレ」
今作は主人公である「エレ」が妹「ニェンナ」の葬儀に参列のために息子と孫娘と「ラップ・ランド」に帰郷する場面から始まる。
妹が死んだ。
というのにも関わらず、エレは「嫌々」で乗り気ではない、むしろ行きたくないと告げる。
車の中でも「サーミ人」への愚痴や、故郷の音楽への拒否感などただ事ではない。
葬儀の場でも献花もサッとすますなど、明らかに様子がおかしいのだ。
周囲の参列者もエレの姿を見てひそひそ話をする。
祭司から、ニェンナはずっと「あなたのことを思って、トナカイをマーキングしていた」と告げられても、無関心を装うのだ。
明らかに過去に何かあった。
そのことが冒頭示される。
そこからホテルで、一人親族たちと離れて宿泊するエレ。
ふと窓の外を見ると「サーミ人」が放牧をしているのを目にする。
「野蛮」など、様々な言葉でホテルの宿泊者は「サーミ人」を差別する。
だがエレも「サーミ人」だ。
その言葉を聞いて過去の出来事をやるせない表情で回顧する。
本作品は、どうしてエレが「サーミ人」とここまで距離をとるのか、その謎に迫ることになる。
差別を受けるエレたち
時代はエレとが14歳の頃、1930年代にまで戻る。
ここでエレがニェンナにトナカイのマーキングをしてあげている。
マーキングはトナカイの耳に切れ込みを入れることなんだ
サーミ人はトナカイを放牧し生きている。
そしてテントぐらしだ。
姉妹は他のサーミ人と同じように「寄宿舎」に通うことになる。
「サーミ人」だけのコミュニティから、外の世界に出た二人には「差別」が待っていた。
まずは放牧しているという生活スタイルのために「匂い」のこと。
「清潔感」のことなど様々だ。
「捕まえたら賞金が出る」など中傷されながら学校に向かう。
しかし学校では「サーミ語」禁止という、アイデンティティまで剥ぎ取られるのだ。
「スウェーデン語を喋りなさい」という教え。
僕は、ここで「サーミ人の文化」を捨てさせ「スウェーデン文化」に同化の強要を、させようとしているのかと思ったのだが、それは違った。
それはサーミ人たちの「頭」を計測するシーンで明らかになる。
ポイント
✅「スウェーデン語」の強要で「サミー人文化」を絶滅させ、民族同化を図るのかと思いきや、それよりも「非道」な仕打ちが待っていた
頭蓋骨を測定し、非科学的差別される「サーミ人」
身体測定などと同じように「サーミ人」に対して行われる「頭骨計測」
側頭部、前頭部から後頭部。
眉間の間など、くまなく測定されるエレ達。
そして服を全て脱がされ写真撮影される。
このシーンの少し前に、エレの先生であるクリスティーナが「人種に関しての本」を読んでいたが、おそらくその資料作りのためだろう。
恥じらいを持つ少女達はカメラを向けられ写真をとられること、そのことがどれだけ屈辱的なことか・・・。
そしてそれを見ていた近所の悪ガキ達に「動物のようだ」と蔑まされる。
ここでエレは勇敢に立ち向かうけれど、耳に痛々しい傷を負うのだ
「サーミ人」であるが故に受ける「差別」のことば。
次第にエレにとって「サーミの血」そのものに憎しみを覚えることになる。
「どうしてこんな目に合わなければならない?」
そんな思いから、彼女は次第に進学をして、「サーミの血」を捨てる覚悟を決めるのだ。
そしてある日、エレは、ひょんなことから出向いたパーティーで出会うスウェーデン人青年のニクラスに一目惚れをする。
ここで彼女の覚悟はより強いものに変わった。
「進学して”サミー”には戻らない」「教師になりたい」と。
しかし「”スウェーデン人”と比べて”サーミ人”は脳が小さい」
エレが進学したいと先生に告げた時、そんな非科学的な返答に彼女は、ショックを受けるのだ。
そして「サーミ」を捨てる決意をする。
ポイント
✅「サーミの血」が流れているからこそ受ける「差別」にエレは次第に「サーミ」を捨てて行きたいと願う
✅しかし「頭蓋骨」が小さく「脳容量」が小さい。と非科学的な差別に一度は屈しかけるが、それでも諦めない姿
✅「サーミ人」は劣っている、だからこそ「サーミ」としての生活をすべき。というスウェーデン人からの悪意ある差別
一人、旅立つエレの苦難
ついに「サーミの血」を捨てることを決意した彼女は、単身で町へ出ることを決意する。
そこで止めにきた妹に、これまで自分が浴びせられた差別的な言葉を浴びせ、自分はもう「サーミ」ではない。
と告げ決別する。
そしてニクラスを頼り町に出て、彼と再開し身体の関係を結んだ。
しかし彼女が「サーミ人」だとわかる途端に追い出されてしまう。
ここで淡い初恋も終わるんだ
「あなたには、あなたの居場所がある」
その言葉が彼女にのしかかる。
その後、野宿などでなんとかしのぎ、たどり着いた学校。
そこで初めての体育の授業は、これも見ていて辛かった。
周りはキチンと一糸乱れぬ動きで体操をするのに、彼女はそれについていけない。
そればかりか、これは作り手が意図してのことだろう。
エラ以外の少女たちの体型はスラっとしており、余計に彼女は「映像的」にも浮いてしまっているのだ。
そこで「いつサーミだとバレるのか」彼女は自分のルーツにまつわる、そして父の形見である「ナイフ」を必死に隠すのだ。
その後当然学費が必要になるが、頼るあてもないエレは再びニクラスに「金を貸してほしい」と頼みに行く。
個人的にはこの展開がもっとも居心地の悪いシーンだったね
ニクラスの誕生日パーティに参加することになったエレ。
周囲は(おそらくニクラスが言ったのだろう)、彼女が「サーミ」であると知っていた。
そしてある少女が「少数民族史について研究をしている」とエレに告げたのだ。
「サーミの伝統の”ヨーク”」を歌って欲しいとせがむのだ。
”ヨーク”とは!?
「サーミ人」が放牧の時に歌う伝統的な歌唱法。
「アナと雪の女王」の冒頭で流れる歌の元ネタ。
彼女には悪気はない。
「サーミ」という少数の文化を守るために研究をしているのだ、だからこそ「良かれ」と思っているのだ。
少なくとも、彼女は表面的には「サーミ」を差別していない
だがエレはここで周りから好奇の目に晒され、そして「憎んでいる”サーミ”」的な歌唱をさせられる屈辱。
悔しさなど、様々な感情が入り混じりワンフレーズ歌い、そして飛び出してしまう。
ポイント
✅必死にルーツを隠そうとするエレ
✅”ヨーク”を歌うようにせがまれ、「サーミの血」への「憎しみ」
好奇の目で見られる「悔しさ」など、様々な感情が入り混じり涙するエレの姿
✅少数文化の「保護/研究」という考え方も、差別が含まれている
サーミとの決別、そして帰還
彼女はその後、故郷に帰り、金の工面のために父の遺品を渡すように家族に迫るのだ。
ここで彼女はもう「サーミ」を完全に捨てる決意、家族を捨てる決意をする。
ここでの、姉妹水入らずの時間。
妹は姉とまた暮らせることを信じているのだ。
しかしエレの決意は硬かった。
放牧していたトナカイを殺した姿を見た母は、彼女に遺品を渡した。
それは完全な縁切りを意味していた。
そして、おそらくそれから一度も「ラップ・ランド」には帰らず人生の晩年に差し掛かったのだろう。
物語は現代に戻ってくるのだ。
様々な思いを抱えて「サーミ」を捨てた。
だからこそエレは、この帰郷に全く乗り気ではなく、そして周りからも冷たい目で見られていたのだ。
ニェンナは二度と戻らないと知りながら、それでも姉をずっと思い続けていたんだ
「サーミ」との縁切りに心のどこかで負い目を感じていたエレは、最後に「ニェンナ」の遺体に寄り添う。
学校の寮で仲良く寝ていた頃のように顔を近づけ、語りかける。
「許して」と。
そして「サーミ」の集落に一人向かい、自分の捨てたものと再び向き合い物語は締め括られる。
ただ、彼女は単身で「スウェーデン」で生きて「夢」である「教師」になったのだ。
だからこそ、そこまで「負い目」は感じる必要もないと思うのだが・・・。
ポイント
✅「サーミ」を捨てたエレは心のどこかに「負い目」を感じ続けていた
✅人生の晩年に、自分が捨てたものにもう一度向き合うことになる
多様性というエゴ

少数民族を保護することについて
少数民族の伝統を守らなければならない。
これは日本では「アイヌ」の伝統だったり、世界にも様々な民族に対して言われることだ。
本作で描かれる、スウェーデン人の「サーミ人」への態度。
つまり「劣っている」(科学的根拠もない)からこそ、「少数民族として生きなさい」という考え方。
自分たちが優位であるという自己アイデンティティ確立のために「少数民族」を”残す”という思考は間違っている。
だが、もしもその民族達が「その民族性を捨てたい」と思っていればどうだろうか?
我々はしばし「多様性」という言葉をプラスの意味で言いがちだが、エレのように「少数民族とのくびきから出ていきたい」
それこそ「放牧」して生きていきたくない。という人がいるかも知れない、と考えない。
その民族は、その民族的伝統で生きていることが「幸せ」だ。
そう決めつけて、その上で「少数民族の保護」だ。「多様性」の社会だ、とのたまう。
それは「エゴ」でしかないのだ。
もちろん、その伝統を生きていきたい人々は、当然守る必要がある。
我々の文化に同化させようなど言語道断だ。
だけど、全員が全員そうなのか?
その視点が、今までなかったことを恥いるばかりだ。
そしてエレのような生き方。
それもまた「非難」されることではない。
人間は「自由」だ。
だからこそ「生き方」も自由だ。
「血筋」という生まれながら、どうしようも無いものに生き方を支配されて言いワケがない。
そこから「出る」「出ない」の選択をするのは、個人なのだ。
そして、これは肝に銘じておかなければならないが。
自分と違う存在、それを「非難」「差別」する権利など我々は持っていない。
文化、人種が違ど、我々は同じ人間という仲間なのだ。
だからこそ、違う伝統を生きている人間が同じコミュニティに存在してても、気にせず接する。
それこそが究極の「多様性な社会」ではないか。
だからこそ本当は「保護」などという言葉もおこがましいのかもしれない・・・。
ポイント
✅「多様」であることを押しつけて「多様性の社会」とのたまうことは、我々のエゴだ
今作を振り返って
ざっくり一言解説!
「多様性」について考えさせられる一本!
「少数民族保護」と一見正しい旗を振り上げて、「少数民族」でいることを押しつける、
それも「差別」で、その上で「多様性」とのたまうのは「エゴ」だ
まとめ
価値観が時々刷新させられることがある。
「少数民族」でいること、それ自体から抜け出したいと思う人間もいること、そんな当たり前の視点が欠けていた事、改めて認識が不足していたと思う。
「少数」であることを押しつける、そレモ「差別」なのだ。
本当の「多様性の社会」とは、何も気にせず、いろいろな文化が混ざり合うことなのかも知れない。
また本作のエレは勇気を持って「サーミ」としてではなく「スウェーデン人」として生きる道を選んだ、そのことに負い目を感じる必要はない。
妹のニェンナは「サーミ」として生きることを選んだ。
エレとは、二度と会えないとわかっていた、それでも姉を思い「マーキング」を続けていたのだ。
すれ違う姉妹が最後に再び寄り添う姿に胸を打たざるを得ない。
そして最後にエレが「捨てたもの」を見て何を思うのか、そのことを考えずにはいられない。
非常に深みのある素晴らしい作品だった。
今作の総括
✅根拠のない「差別」は言語道断
✅我々の「良かれ」と思う行為、言動が「差別」であることを考えなければならない
というわけで、読了お疲れ様でした
また次回の記事でお会いしましょう!