
今回は過去の名作映画『ローマの休日』を評論していきたいと思います。
名作映画としてタイトルは聞いたことがあるかも知れませんが、意外と見たこと無い方も多いのでは無いでしょうか?
そんな、過去の名作を今回は紹介していきましょう!
この作品のポイント
- 果たして今作は、恋愛映画なのか?
- アン王女の学び、それこそがメインテーマ
- 映画としても非常に面白い
目次
『ローマの休日』について
基本データ
基本データ
- 公開 1953年(日本 1954年)
- 監督 ウィリアム・ワイラー
- 脚本 ダルトン・トランボ/ジョン・ダイトン
- 出演 グレゴリー・ペック/オードリー・ヘプバーン 他
あらすじ
ヨーロッパ最古の王室の王位継承者、アン王女は、公務に縛られた毎日にうんざりして、親善旅行で訪れたローマの宮殿から脱走を図る。
そんな彼女にたまたま出会ったアメリカ人の新聞記者ジョーは、突如転がり込んだ大スクープのチャンスに俄然興奮。
王女と知らないふりをしてローマのガイド役を買って出た彼は、市外観光にはしゃぐアンの姿を同僚のカメラマン、アービングにこっそりと撮影させる。
束の間の自由とスリルを満喫するうちにアンとジョーの間い強い恋心が芽生えるが・・・。
YouTubeムービーより抜粋
「少女」が「王女」になる物語

「叶わぬ恋」を描いた「恋愛映画」であるということは否定はしないが・・・。
この作品で「恋愛」は大きなテーマである。
某国の王女というアンと、アメリカ人新聞記者ジョー。
彼らは身分が異なりすぎていて、いくら二人が男女としての距離が近くなろうとも、そこには「報われない恋」「叶わぬ恋」という「悲劇性」という側面を常に「孕み」続けている。
「悲劇性」や「報われない恋」であるが故に、胸を掻き立てられる。
確かにそういうものを見て心を動かされることはおおいにある。
「ローマの休日」という作品は、だからこそ「恋愛映画の大傑作」として紹介され続けている。

物語として「主流ジャンル」に押し上げたのが今作品だと言われているよ!
このような面から見ると、確かに『ローマの休日』は「恋愛映画」であるという紹介は間違ってはいない。
しかし、僕はこの映画はそれ以上に「普遍的」なテーマを描いていると思っている。
アン王女の変化こそが「本筋」
今作のメインテーマはズバリ「アン王女」の変化だ。
正確には、彼女が「王女」としての「生きる意義」を見つけるという点にあると言える。
今作冒頭の「アン王女」は「王女」という立場。
日々の公務に嫌気が差し、ついには「ローマ」にてヒステリーを起こしてしまうのだ。
そして、そこから家出ならぬ脱走を企て、見事成功させるのだ。

モゾモゾ面倒くさそうにするシーン、この気持ちはすぐわかる!
そこでジョー・ブラッドレーとアン王女は出会うことになる。
そして、アン王女は日々の激務から開放され、文字通り「ローマの休日」を謳歌することになるのだ。
最初は「スクープ」記事を書くために、友人でありカメラマンのアービングに「王女」の姿を撮影させ「特ダネ」の為に、アン王女とローマを巡るジョー。
だが次第に二人の相手に淡い恋心が芽生えていくのだ。
しかし、前述したように、これは「身分違い」であり、実ることのない恋だ。
そういった「恋」の美しさを今作は確かに描いている。
しかし、今作が一番描いているのは、実は「アン王女」の変化だ。
そのきっかけになるのが「願いの壁(媒体によっては「祈りの壁」)」でのやりとりだ。
疑問ポイント
今作は、ここまで実在の場所で撮影されてきたが、この場所だけは「架空の場所」である。わざわざ、「架空の場所」を物語に登場させた意図とは?
「戦争中、ここに逃げてきて、何とか死から免れることができた」という逸話。
この「壁」は戦争の記憶を伝える場所として、作中では、ここだけが「戦争」という痛ましい記憶を伝えるシーンになっている。
そもそも、この作品の時代設定は「第二次世界大戦」の傷跡が残る頃だ。
さらに、アン王女は「EU=ヨーロッパ連合」(物語内で組織名などの言及はされていないが)の設立に尽力するために、ヨーロッパ諸国の訪問をしている。

「願いの壁」では、戦没者の家族・恋人・友人が、壁に向かい手を合わせ、その死を悼んでいる。
そのことを目にしたことで「アン王女」は自分の使命に気づくのだ。
この「ローマ」でのひとときで、アンはジョーに惹かれていく、つまり初めて人を愛するという意味を知るのだ。
そして、ローマで出会った住人たちとの交流で、今まで知らない「王宮」の外の世界に、親しみを感じていくのだ。
だが同時に「願いの壁」での光景を目にし、「愛する者」を失う「悲しみ」を学ぶのだ。
そこで彼女は「自分に課された使命」に目覚めるのだ。
使命、つまり、それまで嫌で嫌で仕方がなかった公務が「EU」という「悲劇」を二度と生まない組織作りに「大きな影響」を与える、そのことに気づくのだ。
ポイント
この世界で生きる住人を守る事ができる。
自分はそうした役目を負っていることに気づくのだ。
それは他の誰にもできない、「王女」という自分にしかできないことだ。
他の誰でもない「アン」という存在だけがそれを成し遂げられる。
そのことに気づくのだ。
しかし、それは同時にジョーとの恋は叶わぬ物になるということでもある。
元々、「叶わぬ恋」だ。
だが、例えそうであっても割り切れぬ思いもある。
だが、自らの意思で「アン王女」として生きてくことを決めるのだ。
だからこそ「従者」に「自分の意志で戻ってきた」とアン王女は告げるのだ。
そこには「王女」という立場にふさわしい気品が備わっているのだ。
この演じ分けこそ「オードリー・ヘップバーン」最大の見せ場だと言える。
物語の冒頭、「イヤだ」とわがままをコネまわしたアン。
だがそのイヤな仕事こそが、「世界のため」になることに気づいた彼女は、自らその人生、つまり「王女」として生きること、を選び取るのだ。
そして、彼女は自らの意思で「自分の使命」を全うするために生きることを決意したのだ。
アン王女として・・・。
こうして、アンは、真の意味で少女から王女なる。
与えられた「王女」という役割から、自分が「王女」として出来ることに気づき、「王女」として生きることを選んだ。
ここでのオードリー・ヘプバーンの変貌ぶりは「見事」という他ない名演だ。
わがままをコネまわす序盤。
ジョーとのローマ市街散策では、まだまだあどけない少女の顔をしていた。
だが、この決意後の変貌ぶりには驚かされる。
そして物語のクライマックスとなる記者会見。
「王女」として会見に臨むアン
「新聞記者」として出席するジョー。
周りに悟られないように、赤の他人として最後の邂逅をする。
今生の別れを惜しむ二人。
そこでのジョーの態度はもう粋の一言につきる。
だが、この「別れ」すらもアンにとっては成長の糧でもあるのだ。
「別れ」というものを、そしてそれが「死」というものであってはならない、それを彼女は「ローマの休日」にて学んだのだ。
この映画のタイトルがなぜ「ローマの休日」なのか?
もうわかった方も多いのではないか。
この「休日」は文字通り「休み」
激務に疲れ果てたアンが、その縛りから解き放たれ、ささやかな「休日」を謳歌する。
そういうい意味だ。
だが、その「休日」で彼女は「恋」をして、そして「大きな学び」を得たのだ。
そしてそれを、自分の生きる使命だと理解するのだ。
人生で「何か学ぶ」時。それは不意に訪れる。
どういう経験が、それぞれ各人に「学び」を与えるのか、それはわからない。
今作品ではそれが「恋愛」から生じ、それが「人生」にとって大切な「学び」になった。
「休日」という時間。
そんな時間が「少女」を「王女」へと変えるキッカケになったのだ。
僕らの人生においても、こんな大恋愛は出来ないとしても「休日」に起こる出来事。
それが人生をより良くし、「生きる意味」を教えてくれるキッカケになるやもしれない。
そんなことも起こり得るということに、気づかせてくれる映画だと言えるのだ。
「赤狩り」の歴史

ハリウッドの負の歴史を背負う
今作の原案は「ダルトン・トランボ」
『ローマの休日』は公開当時、アカデミー賞「原案賞」を受賞したが、彼は死後の1993年までこの賞を受賞していなかった。
正確には彼の名は、この映画から消されていたのだ。
さらに、2011年12月19日、米脚本家組合が『ローマの休日』の原案者クレジットをハンターからトランボに変更。
ハンターとジョン・ダイトンの2人が記載されていた脚本クレジットにトランボの名前を追加したと発表した。
何故このような事が起きたのか?
今作が制作された1950年代アメリカでは「赤狩り」が行われていた。
それは「共産主義者」と思しき人物を要職から追放するとういう事が行われていた。
そして、その流れは「ハリウッド」にも来たのだ。
ハリウッドでも「ハリウッド・テン(共産主義者とされたリスト)」と呼ばれた人物たちが追放されていた。
本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが、本作の脚本にその名前をクレジットすることになり、ダルトンの名が『ローマの休日』で日の目を見ることは後年までなかったのだ。
だからこそ、今作のアン王女のラストの演説「永続を信じます。人と人の間の友情を信じるように」というセリフには深い意味が込められているように思われる。
この作品は、作品自体の「舞台・時代背景」そして、制作された現実のハリウッドで「分断」が起きていたことを考えると、そうしたものを乗り越えたいという意志が込められているとも言えるのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
「休日」で人生が変わることもある!
まとめ
この作品は少女の成長譚として、非常によく出来た作品だ。
そしてやはりオードリー・ヘプバーンの魅力にあふれている。
彼女無くしては成立しない作品であるし、彼女はモノクロであるにもかかわらず輝きに満ち溢れている。
まさしくスーパースター!
その凄みを十分味わえる作品だ。
主演のジョー演じる、グレゴリー・ペックの渋い魅力。
なんと言ってもクライマックスの粋な振る舞いは言わずもがな。
そしてその友人であるアーヴィング。彼も最後「スクープ」にして大金にするはずの「写真」を「ローマの思い出に」とアンに差し出すシーンでの人間味溢れるシーンが印象的だ。
演じるエディー・アルバート。初見時は「こいつはきっと、悪いやつだ」
とちょっと悪そうな顔を見て思っちゃいましたけど、いい人でしたね。
「サンタンジェロ城」での秘密警察とのアクションシーンもまた見応えバッチリ、そんな「映画」としての面白さも魅力だと言える。
そして「ローマ」という町。
そのものが魅力的に描かれており、観光映画としてもやはり「秀逸」な出来だと言える。
「ローマおいでよ一度はおいで」
そうローマから手招きされているようにも感じる。
このように、様々な面から、「長年愛される名作」であるということを、改めて思い知らされた。
まとめ
- 恋愛映画の決定版とされているが、実は「成長物語」である。
- オードリー・ヘップバーンの「変化」を是非味わっていただきたい。