
さて、今日も「長編ディズニーアニメーション」を公開順に鑑賞し、評論していく「ディズニー総チェック」です!
今回は、ついに2021年公開の最新作ということで、この企画の最終回となる『ラーヤと龍の王国』を深堀り解説していきたいと思います。

この作品のポイント
- 「ジョン・ラセター」去ったディズニーの行方は?
- 「映画」とは「時代」を反映する。
- 「理想論」を「現実」に変えるため・・・。
目次
『ラーヤと龍の王国』について
基本データ
基本データ
- 公開 2021年
- 監督 ポール・ブリッグス/ディーン・ウェリンズ
- 脚本 クイ・グエン/アデル・リム
- 声の出演 ケリー・マリー・トラン/オークワフィナ 他
ラーヤ役の「ケリー・マリー・トラン」は「SWシィクエル」のローズ役でも有名ですね!
あらすじ
『アナと雪の女王』のディズニー最新作は、<邪悪な魔物>によって“信じあう心”を失った<龍の王国>をめぐる、壮大なスペクタクル・ファンタジー。
自分だけを信じ、ひとりぼっちで生きてきた王国の“最後の希望”ラーヤは、伝説の“最後の龍”シスーの力によって、バラバラになった世界を再び一つにしようとする。
だが、ようやく見つけ出したシスーは他人を信じすぎてしまう性格で、しかも肝心の魔法の力を失っていた。魔法を取り戻す力を持つ5つの<龍の石>を探すため、シスーと共に旅に出たラーヤ。
そこには未知の世界と、新しい仲間、そして、さらなる脅威が待ち受けていた。
魔法を蘇らせ、仲間を信じることで、ラーヤは世界を取り戻すことができるのか?
ディズニープラスより引用
内容の前に語りたいこと!

さらば「ジョン・ラセター」
2006年以降の「総チェック」では、折りに触れ「ジョン・ラセター」という人物を超重要人物として、語ってきた。
もともと彼は「PIXAR」出身で、「トイ・ストーリー」の成功で、一躍名を上げた人物だった。
そんな彼が率いる「PIXAR」は2000年代アニメ業界を席巻したのは、記憶に新しいことだ。
逆にこの時期「ディズニー」は「暗黒期」と呼ばれる、不遇の時間を過ごしていた。
そんな、進退窮まったディズニーは、ジョン・ラセターに「ディズニー再建」を託すことを決意するのだ。
そのため、2006年「ディズニー」は「PIXAR」を買収することになる。
もともと、ジョン・ラセターは「ウォルト・ディズニー」が出資した「カリフォルニア芸術大学=カルアーツ」出身で、『きつねと猟犬』などでアニメーターとして参加している。
しかし、彼は「ディズニー」で居場所をつかめず、「PIXAR」に参加。
つまり、元サヤに収まったとも言える。
すると2006年以降「ディズニー」は「傑作」連発をしていく。
- プリンセスと魔法のキス
- 塔の上のラプンツェル
- アナと雪の女王
- ズートピア
などなど、歴史を振り返っても、かつてないほどの充実した「黄金期」をディズニーは迎えたのだ。
しかし、そんな「ジョン・ラセター」は2017年に自身が犯した「セクハラ」で一年間の職務停止処分。
翌2018年に「ディズニー」「PIXAR」を去ることになったのだ。
つまり、今回取り上げる『ラーヤと龍の王国』は「ディズニー中興の祖」ともいうべき「ジョン・ラセター」が関わらない、最初の作品なのだ。
ここまで、彼の圧倒的手腕に支えられた「ディズニー」
それは誰もが否定できない。
その彼を失って「ディズニーは大丈夫なのか?」
そんな、懐疑的な目が『ラーヤと龍の王国』に向けられていたのだ。
ちなみにジョン・ラセターは「PIXAR」でも製作総指揮を任されていることも多く、こちらも同様の心配はされていた。
しかし、そんな心配を他所に、あとを継いだ「ピート・ドクター」
彼のもとで制作された『二分の一の魔法』『ソウルフル・ワールド』は同時に「アカデミー賞長編アニメーション部門」ノミネートという快挙。
後者は「アニメーション部門」獲得という結果を残し、「PIXARに陰りなし」と圧倒的手堅さを世界に見せつけた。
そういう事もあって「PIXARは大丈夫だけど、ディズニーはどうなんだい?」という点でも『ラーヤと龍の王国』は注目されたのだ。
映画とは「時代の産物」

「分断」の時代
『ラーヤと龍の王国』は、この時代だからこそ生まれた作品だ。
今作は物語が実にシンプルなのが特徴だ。
「分断」され、5カ国に別れた世界。
国家は互いに対立しているが、人々がそれを乗り越え「信頼」して「クマンドラ」(伝説の統一国家)再生を成し遂げる。
基本的には「それだけ」の物語だと言える。
それに伴い、物語の流れもラーヤが旅して各国を巡る。
そこで「龍の石」を手に入れる。
仲間を増やして、次の国へ行く。

その中で「対立」していた国々の人々と「信頼」を築き、そして「分断」を乗り越えていく。
本当にシンプルな構造で今作は出来ているのだ。

2006年以降の「新生ディズニー」では、少なからず「過去作のディズニー作品」を「相対化」するという面が少なからず含まれていた。
(「プリンセスもの」はその典型)
だが、今作はその色が薄いと言える。
それはなぜか?
その答えは2017年から2021年までアメリカ大統領だった「ドナルド・トランプ」の数々の発言・行動への危機感があったからだ。
「メキシコとの国境に”壁”を作る」
アフリカ諸国に対する「肥溜め」発言。
「白人至上主義団体」への賛同などなど・・・。
枚挙に暇のない数々の「分断」を意識させる、発言があったのだ。
まして、これが「アメリカ大統領」の言葉であるが故、世界に与える影響は計り知れないものがある。
こうして2010年代の後半の世界は、「人種」「宗教」「国」など、様々な面で「分断」が強調される時代だったのだ。
そして、「分断の時代」はトランプの去ったあとも変わらない。
そんな時代だからこそ「ディズニー」は「分断」を乗り越えようとする作品を、このタイミングで公開したのだ。
ちなみに、この「分断」に対して声を上げたのは「ディズニー」だけではない。
例えば「ハリウッド全体」をみても、「アカデミー賞作品賞受賞作品」だけを見ても顕著だと言える。
- 2017年『ムーンライト』
- 2018年『シェイプ・オブ・ウォーター』
- 2019年『グリーン・ブック』
- 2020年『パラサイト 半地下の家族』
- 2021年『ノマドランド』
これらの作品には、「分断」というものが、少なからずメッセージとして込められている。
そして、これは「アカデミー賞作品賞獲得作品」に限らずともだ。
深堀りポイント
例えば「ディズニー」傘下の「MCU」の『ブラック・パンサー』
この作品は作品賞を『グリーン・ブック』と争ったが、これも「分断」とそれを「乗り越える」ことを描いた作品だった。
だからこそ、このタイミングで「ディズニー」が「分断」を乗り越えようというメッセージに振り切った作品を公開したのは、時代の流れから見れば「当然」なのだ。
切っても切り離せない「時代感」
このように「映画」とは、いや「映画」に限らず「創作物」は、制作された時代と切っても切り離せない「時代感」を孕む。
これまで「ディズニー総チェック」をしてきて感じたが、「ディズニー」作品は、本来「おとぎ話」として永遠に語り継ぎたいという狙いを持って作られている。
だが、それでも「時代感」は作品ごとに、やはり作品に残っているのだ。
そういう意味で、それぞれの作品を深く理解するには、当然制作された時期のこと、つまり「歴史」を知らなければ理解できないという面もある。
例えば『白雪姫』だが、典型的な「女性は、男性に、見いだされることで幸せとなる」という結末。
これは、その当時の「時代感」の現れだ。
そして、その「時代感」が、現代では「間違えた価値観」だということで、その刷新を近年の「ディズニー」は行っている。
深堀りポイント
「刷新」という面でいうと、なぜ「過去作」の「長編アニメ」を「実写化リメイク」しているのか?
例えば実写リメイクされた、『シンデレラ』は、「継母」が悪人となった理由が描かれる。
これは、「悪人が悪人になった、理由がある」という点。
つまり「他者」を慮ることも、この時代に必要だという視点で「リメイク」をしている。
ということで、当然この『ラーヤと龍の王国』も、この制作された時代背景、つまり現代社会と照らし合わせて見ることが必須であると言えるのだ。
確かに、今作は「単調」だ。
例えば『アナと雪の女王』のように、奇跡的な魅力には欠けるかも知れない。
「理想論」の押し付けと感じる声があるのも、それは十二分に理解できる。
でも、「この時代」、「分断」が顕になった現代社会に対して、「理想論」のような物語を「ディズニー」が送りだしたのは、まさに、「こんな時代だから」なのだ。
そして、何とか「分断」を終わらせたいという願いなのだ。
「理想論」だけど・・・
繰り返しになるが、「分断の時代」に語られる今作は、非常に「単純」な構図をしている。
かつて一度は友達になった「ナマーリ」に裏切られた「ラーヤ」は、他者を信用することが出来ない。
そんな彼女が、他者をすぐに信じる、龍の「シスー」と出会うことで、「信じる心」を再び取り戻すことになる。
それにより、世界にはびこる闇「ドルーン」に打ち勝ち、かつての「理想郷 クマンドラ」を再び築く一歩を踏み出すことで幕を下ろす。
確かに、この結末は「理想論」の押し付けに感じる人もいるだろう。
「そんなにうまくいくわけがない」と感じる人もいるだろう。
だが「理想論」を追い求めてきたからこそ、実現してきたものも、この世界には多い。
「理想」があるから「現実」は良くなる、そのことを今回声を大にしていいたい。
そして、理想を求めて現実を変えようと努力する。
例えそれらが、「綺麗事」「現実的ではない」と言われようとも、「綺麗事」を求める。
それが世界をよくしてきたのではないか?
「基本的人権」だってそうだ。
まだまだ足りないが「黒人問題」だってそう。
もっと「よくしなければならない」と思ったからこそ、声を上げた人々がいたからこそ、少しずつ改善の兆しは見えているのだ。
「手を取り合い世界をよくしたい」と思ったからこそ、世界は少しずつ良くなってきたし、これからもそうなるのだ。
そして、これこそが『ラーヤと龍の王国』に込めた「ディズニー」の思いなのだ。
2020年代最初に「ディズニー」は、これからの時代を生きる子どもたちや、我々大人に「分断」のない世界を目指そう。
そんなメッセージを、新時代の「おとぎ話」として送りだしたのだ。
そして、いずれこの『ラーヤと龍の王国』での出来事が、「おとぎ話」ではなく「現実」になることを願いが詰まっているのだ
結論:さすがディズニー!
ということで、『ラーヤと龍の王国』ですが、作品背景など考えると、やはり「素晴らしい作品」であることは否定できないが、正直なところ「物語」の単調さが気になるのも事実だ。
各国で「龍の石」の欠片を集めていく。
その過程が割と簡単に描かれていたり、ていうか物語を構成している要素は、すべて「どこかでみたような・・・」
つまり革新的な面がないとも言える。
そして一つ気になるのは「ナマーリ」の母「ヴィラーナ」とラーヤたちの交流が描かれない点だ。
特に「ヴィラーナ」は「自国の利益最優先」という、国民のことを思いつつも、利己的な思考をしている人物だ。
そして、これは現実にある問題だ。
例えば「トランプ」の行った分断の一つとして「アメリカ第一主義」というものがあるが、まさにヴィラーナは「自国第一主義」を貫いた。
いわば現代社会の抱える「分断」の象徴ともいうべき存在だった。
そんな人物が終盤、石にされて物語からフェードアウトしているのは、今作のテーマから見ると、非常にもったいないと思えてしまう。
例えば、ラーヤとナマーリが彼女を説得するなど、きちんとヴィラーナと「向き合うシーン」は必要だったように思える。
結果、最終的に彼女も理想の「クマンドラ」実現のために行動するシーンが描かれるが、「トング」たちと違い、ラーヤとの絡みもないので、取ってつけた感が否めないのも事実だ。
このように、正直不満ポイントが今作に対して、無いわけではない。
ただし、冒険ものとしては『モアナと伝説の海』よりも格段によくなっているし、逆にここまで「みたことある物語」をよくぞ高レベルな水準に持っていったな、と関心させられたのも事実だ。

そして個人的には、ラーヤとナマーリがシスーを巡って対立するシーンは忘れられない。
ボーガンをシスーに向けるナマーリ。
そんな彼女を信じられないラーヤは彼女に斬りかかる。
結果としてナマーリはシスーを撃ったが、もう少し待てば彼女はきっとシスーを撃つことはしなかっただろう。
だがラーヤの目には、彼女はシスーを撃つようにしか見えなかったのだ。
過去の出来事から、現在の相手を信じられない。
相手の行動を信じることができず、真意を汲み取れない。
これは、人間同士が「分断」される一番の要因だと言える。
その果てにラーヤとナマーリの一騎打ちもまた、見応えバッチリだ。
今作は、例え女性キャラ同士でも、顔面をどつきあうなど、過去作のディズニーではありえない描写に踏み込んでいる。
これも現代の「ジェンダー論」として正しい描写だと言える。
そこからラーヤがナマーリを信じて、自らを犠牲にする行動。
ここまで「疑心暗鬼」に陥った彼女が、他人を「信じる」瞬間として素晴らしい描写だと言える。

自ら「武器」を捨て、「アナキン」を信じるという名シーンを思い起こさせた
他者に大して「武器」を持ったままでは「信用」は出来ない。
自らそれを「捨てる」こと、その「勇気」が、他者との「信用」を勝ち得るために必要なのだ。
それは「武器」だけに限らない。
相手に対する「疑い」の感情も同じだ。
その感情を「勇気」で捨てること、そうすることで「分かり合う」こともできる。
繰り返しになるが、これは「甘っちょろい理想論だ」「頭お花畑な理想論だ」
だけど、そんな「理想」を追い求めるから「世界は少しずつ良くなる」
『ラーヤと龍の王国』は、世界に対して「理想論」を追い求める素晴らしさを解く、この時代に必要な「おとぎ話」なのだ。
そして「ディズニー」はきっと、今作が「おとぎ話」ではなく、それこそ作中のように「現実」になることを願っているのだ。
ということで、個人的に『ラーヤと龍の王国』は2020年に語られるべき作品だと思うし、この時代にこそ必要な作品だと思っている。
ぜひ未鑑賞の方は、ぜひ見ていただきたい一作なので、全力でオススメしますよ!!
今作を振り返って!!
ざっくり一言解説!!
新時代の幕開けに相応しい作品!!
とりあえず、「ジョン・ラセター」のいない「ディズニー」にも期待できるかな!!
まとめ
今作は正直100点満点の映画化と問われると、そうではないと言える作品かも知れない。
物語展開などで、賛否分かれる作品なのも十分理解できる。
だが、「ディズニー」が2020年代最初に、このような「綺麗事」の作品を持ってきたのは、時代背景を考えると十二分に理解できるし、それは一定の意味があることだと言える。
逆に、それほどまでに世界の分断に「危機感」を抱いている裏返しだとも言えるのだ。
そう考えると、映画とは作られた時代と「切っても切り離せない」ものなのだと言うことを、再度実感させられる。
その時代、時代が抱える闇のような部分、「時代感」を作品は抱えてしまうのだ。
今作は「理想論」だ。
それも究極的に「甘っちょろい理想論」だ。
だけど、その「理想論」を「おとぎ話」として、今を生きる我々に投げかけてくる背景には何があるのか?
今作を見るにあたって、ぜひ現代社会の抱える問題を念頭においてほしいと思う次第だ。
この「分断」の時代に「ディズニー」は、この「おとぎ話」を「現実」にしたいという願いを込めて今作を送りだした。
そして、その願いを叶えるのは、他ならぬ我々なのだ・・・。
まとめ
- 「分断の時代」だからこそ、生まれた作品。
- 作品の細かな点には不満がある。
- だが、それよりも「現代」に見る意義が、大いにある作品だと言える。