
さて、今日も「長編ディズニーアニメーション」を公開順に鑑賞し、評論していく「ディズニー総チェック」
今回は通算57作品目となる『シュガー・ラッシュ:オンライン』について、深堀り解説していきたいと思います。

この作品のポイント
- 『モアナと伝説の海』と共通する弱点がある。
- 「ディズニー」が巨大化したことを象徴する、描写の数々。
- 「前作」の素晴らしさはすべて失われた・・・。
目次
『シュガー・ラッシュ:オンライン』について
基本データ
基本データ
- 公開 2018年
- 監督 リッチ・ムーア/フィル・ジョンストン
- 脚本 フィル・ジョンストン/パメラ・リボン
- 声の出演 ジョン・C・ライリー/サラ・シルバーマン ほか
あらすじ
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオがお贈りするアクション満載のアドベンチャーで、ラルフがインターネットの世界を騒がせる。
ラルフとヴァネロペのでこぼこコンビは、ゲームのパーツを手に入れてシュガー・ラッシュを救うため、危険を承知でインターネットの世界に繰り出す。
難しいミッションに頭を抱えるふたりが助けを求めたのは、人気動画サイト「バズチューブ」のアルゴリズムであり流行の最先端をいくイエスや、治安が悪いオンラインカーレースゲーム「スローターレース」の筋金入りのレーサーであるシャンクなど、インターネットの住人たちだった
ディズニープラスより引用
結論:個人的には好きではない・・・。

前作の良さは「死んだ」
まず『シュガー・ラッシュ:オンライン』という作品について、僕なりの結論ですが・・・。
正直「好きにはなれない」
「これなら続編を作らなくて良かった」と言わざるをえない。
ということで、ここから先は結構この作品に対して「厳しい」ことをメチャクチャいいますので、「好きな方」はもうね、この先読まなくて大丈夫なので・・・。
ぜひその辺り、よろしくお願いしますね。笑

深堀りしていきますよ!!
まず今作の前作にあたる『シュガー・ラッシュ』についてだが、詳しくはこちらで語っていますが、一応振り返っておきたい。
この作品は「悪役だから」という理由で、自身の住む世界から爪弾きにされた男「ラルフ」
「不具合=バグ」があるからという理由で、こちらも自分の住む世界で居場所のない少女「ヴァネロペ」
そんな似たもの同士の2人が、自分の居場所を見つけ、そして「親友」という存在を手に入れる物語だ。
さらに個人的には『シュガー・ラッシュ』で描かれていた、「なりたい自分」と「現実の自分」
という、悩みの中でもがいたラルフが、最終的に「自分の居場所」というものを、自分の中で折り合いをつけ、手に入れる姿に感動させられた。
そして、ささやかながら「ヴァネロペ」の「ヒーローになる」という、本当にささやかな「自己実現」する姿に勇気づけられた。
だからこそ、今こうして「総チェック」してきた中でも『シュガー・ラッシュ』という作品は、かなり高い評価をしているんですが・・・。
そんな僕がこの『シュガー・ラッシュ:オンライン』を見て、こうした前作の「良さ」の大部分は失われてしまったと言わざるを得ないのは、本当に悲しいことで。
で、誰もが議論したくなる今作の結末の話をいきなりすると、この作品はヴァネロペは「自分の夢のために、新天地へ行く」
そして「親友とも、時間の経過とともに別れることもある」という決断をする。
この決断は、2006年以降の「ジョン・ラセター体制」の「ディズニー作品」としては、芯の通ったものだといえるし、理解はできる。
ヴァネロペという「シュガー・ラッシュ」というゲームで生まれた存在が、外の世界で「生きたい」と願う。
そしてその夢を叶える。
何度も言うが、この決断そのものは理解できる。
それこそ『アナ雪』に通ずる「ありのままで」というメッセージだとも言える。
だが、それを『シュガー・ラッシュ』という作品シリーズでやって欲しくなかったというのが正直なところで・・・。
なぜなら、前作の良さとは、まさに「この逆」だったからだ。
ラルフという男が「理想の自分」と「現実の自分」の間で、悩み、そして苦しむ。
その中で、「自分なりに折り合い」をつけて、そして「今いる場所の見方を変えて生きる」
そんなラストが前作最大の良さだったはずだ。
深堀りポイント
これは『仮面ライダーカブト』という作品で主人公の天道総司のセリフだが、
「自分の為に世界を変えるんじゃない…。自分が変われば、世界が変わる!」
というように、ラルフは、自分で「世界の見方を変えた」ことで、今いる「世界が変わった」といえる。
それが良さだったはず・・・。
そして、さらに前作のヴィランである「ターボ=キャンディ大王」はある意味でラルフと鏡写しの存在だった。
ターボは「自分のために、世界を変えた男」だ。
それは、ある意味でラルフのダークサイドとも言える存在だった。
前作では、それに打ち勝つラルフ達、という構図も相まって、最終的には大きな感動につながったのだ。
だけど『シュガー・ラッシュ:オンライン』のラスト。
何度も言うが、「新生ディズニー」の掲げたい理念は、十分に理解できるが、だけどヴァネロペの決断は、いうなれば「ターボ」しているのと同義だ。
それは前作で打倒した、それもヴァネロペを最も苦しめた張本人と、同じ決断をしているように見えてならないのだ。
しかも彼女は「シュガー・ラッシュ」という世界で、もはや人気のキャラクターだ。
彼女がこの「シュガー・ラッシュ」という世界を去ることで、例えば「ゲーム人気」がなくなれば、この世界に住む住人は居場所を失う可能性だってあるのだ。
要はこのオチだと、それ自体は「正しい」と思える決断も「他人のことを鑑みないワガママ」と捉えかねないのだ。
どう考えても、このヴァネロペの「生き方」が正しいものに思えない。
そして、それはまさしく「前作」と真逆の行動に見えるからこそ、僕は今作が全く評価できないのだ。

ちなみに、今作と似た構図を持つ作品で「PIXAR」の『トイ・ストーリー4』があるが、僕はこちらの作品は高く評価している。
詳しくは後の「PIXAR総チェック」の評論に譲るが、あちらは再度「フォーキー」に「ウッディ」が「おもちゃとは?」
というのを再度解くシーンから始まる。
そして、ウッディの中にある「生命」として「どう生きるのか?」という点をキチンと悩ませているのだ。
しかも、そこまでシリーズを積み上げてきた「重さ」があるので、見ている側も納得させられた。
「ラルフ」の扱い方について
さらに、今作を輪をかけて「悪く見える」要因に「ラルフ」が挙げられる。
彼は前作で「一人ぼっち」だったが、最後には仲間や「ヴァネロペ」という親友を手に入れる。
それが故に「親友」を失うことに、強烈な「不安」を抱いているのだ。
彼の行動そのものは、前作と同じく「他者」への、ある種の「依存」「承認欲求」的な面から来ている。
だが、今回は特に「依存」という面が「強烈」に描かれすぎているので、正直見ていて「気持ち悪い」レベルに昇華しているのだ。
その最たるものが増殖した「ラルフ」だろう。
今作はある意味で、「依存」から脱却する、つまり「ラルフ」の心にある「不安」を打ち破ることでラルフの成長を描いている。
だから、この構図事態は理解できるのだ。
だけど、それにしたって「気持ち悪い」という感情が勝ってしまう・・・。
ここがキツイ。
さらに気になる点が今作にはある。
それは「変わらないこと」をラルフは求めている。
対してヴァネロペは「変わりたい」という思いを持っている点だ。
今作は「変わること」に重きをおいているので、ラルフの「変わりたくない」という思いが軽く扱われている感も否めない。
確かに「自分の新しい世界」を求めて「変わろうとする」
それ自体は、正しい価値観だ。
だけど、それに対して「変わりたくない」という思いを持つことが、果たして「悪い事」なのか?
そこはすごく疑問が残る。
なんにせよ、とにかく「ラルフ」が非常に「気持ち悪く」見えてしまう点は、少々やりすぎと言わざるを得ない。
そして、この点が非常に今作を見づらいものにしているのも事実なのだ。
実は『モアナと伝説の海』と「問題点」は共有している
さて、この間評論した『モアナと伝説の海』
この評で、僕は伝えたいメッセージについて、「確かに理解できる」が「すこし嫌な部分が滲んでいる」と述べた。
具体的には「恋愛をしない”プリンセス”」
それは、「新しい価値観」として理解できるが、あまりに『モアナ』は「その部分を強調しすぎている」ということだ。
要は「恋愛」とは、そこまで「否定」されて然るべきモノなのか? ということだ。
2006年以降の「ディズニー」は、過去の価値観を刷新することで「名作・傑作」を連発してきた。
いわゆる新時代に語りたい「おとぎ話」として、作品を作っているのだ。
それ自体は、素晴らしい。
だけど『モアナ』は、「新時代のプリンセス像」として、やろうとしていることは理解できるが、強引な点が目立つのだ。
それは『シュガー・ラッシュ:オンライン』も同じだ。
今作は最終的な結論として「ありのままで」という点を、さらに突き詰めたメッセージを語る作品だと言える。
だけど今作の描き方は「ありのままで」という価値観の抱える、「負」の部分がどうしても目立ってしまうのだ。
つまり、このような描き方だと「ありのままで」生きることは、「わがまま」と捉えかねないのだ。
何故『アナ雪』の「ありのままで」は世界で受け入れられたのか?
それは、エルサが「一人」になる、「孤独」に身を落とすことで、「ようやく安住の地を手に入れられる」
その様子を「ありのままで」のシーンで彼女は歌にしていた。
確かに「ありのままで」のシーンで、彼女は「望んだ世界」を手に入れた。
だけど、それは非常に悲しい「孤独」への入り口だったのだ。
そんなエルサが、最終的に自分を受け入れてくれる「世界」を見つける。
そこまでの苦悩をキチンと描いているからこそ、『アナ雪』の「ありのままで」は受け入れられたのだ。
つまり、『モアナ』と今作は「メッセージ」に含まれる「悪い部分」「強調しすぎると嫌味になる点」が、浮き彫りになる作品になっているのだ。
これが、この二作品の評価がパックリと割れてしまう点ではないだろうか?
ただし「面白い」点もある!!
ここまで主に「ダメな部分」を論じてきたが、もちろん今作にも面白さはある。
それは、やはり「ディズニー」の世界を、「ディズニーアニメ」で描いた点ではないだろうか?
以前の『ベイマックス』評論で、「ボブ・アイガー」は「ディズニー」という言葉の「最大化」を狙っていると述べた。
今作のインターネット世界での「ディズニー世界」は、まさにそれを象徴しているシーンだ。
「S・Wシリーズ」のマシンが「ディズニーキャッスル」をバックに空を飛び交い、さらに「マーベルヒーロー」「PIXARキャラ」の登場。
「ディズニーキャラ」の出演。
ちなみに「帝国のマーチ」などBGMも使用するなど、抜かりないのだ。
さらに「ディズニー・プリンセス」勢揃い。

まさにこの「豊かなキャラクター」を一同に介することができるのは、すべてが「ディズニーの手中」にあるからだ。
このワンシーンでは、「ディズニー」という意味が、肥大化していることを象徴しているのだ。
つまり「ボブ・アイガー」の狙いの具現化とも言うべきシーンに仕上がっている。
これぞ、まさに「ディズニー」が「エンタメ界」の覇権を握っていることの証明なのだ。
そして、これは単なる「ファンサービス」にとどまらない。
これまで「新生ディズニー」は「新時代の価値観」を描く方向にシフトしてきたことは、これまで何度も述べてきたが、今作はいよいよ「そのことを」直接「プリンセス」に語らせるのだ。
良くも悪くも「ディズニー・プリンセス」は「夢と希望」そして「偏見」を振りまいてきた存在だ。
そんな「プリンセス」の口を通じて「男がいないと何もできない、と思われてない?」
など、これまでの「価値観」をメタ視点で指摘するのは画期的だ。
つまり、これからのディズニーは「過去の価値観」を刷新していくということを、公式に言及した形になっている。
そんな「宣言」を「プリンセス」にさせるのが、この映画の革新的な点だと言える。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
面白い作品ではあるんですが・・・、前作が好きな身としては複雑!!
語っているテーマも悪くはないんですが・・・。
まとめ
今作と『モアナ』は共通している「問題点」がある。
それは「メッセージ」の本質は「素晴らしい」にもかかわらず、その「メッセージ」が抱える「負」の側面が、浮き彫りになってしまっている点だ。
「ありのままで」というのは、ある一線を超えると、それは「ただのわがまま」と思われかねない。
今作は、その一線を超えているのだ。
しかも、今作の結末は「前作」の「良かった点」を、僕はことごとく壊しているようにしか見えない。
今作のヴァネロペの結末が、前作のヴィランを肯定しかねない点は、どうしたって評価することは、申し訳ないができない。
もちろん面白いと感じる点はあるが、僕は今作のダメな点が目についてしまった・・・。
ということで、僕は今作は2006年以降「ディズニー作品」でワーストと言わざるを得ない。
まとめ
- 新生ディズニーの投げかける「メッセージ」は素晴らしいが、一歩間違えると「負」の部分が浮き彫りになる。
- 「プリンセス」に新しい価値観について発言させるなど、革新的な面もある。