
さて、今日も注目作品について語ります。
ということで「えんとつ町のプペル」を取り上げます。
この作品のポイント
- 良くも悪くも「メッセージ性」が強い。
- 語りたいこと、それが映画として「うまく」語られていたのか?
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目次
「えんとつ町のプペル」について
基本データ
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 廣田裕介
- 脚本 西野亮廣
- 原作 西野亮廣「えんとつ町のプペル」
- 製作総指揮 西野亮廣
- 出演者 窪田正孝 芦田愛菜 ほか
あらすじ
信じて、信じて、世界を変えろ。厚い煙に覆われた“えんとつ町”。煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった。
一年前、この町でただ一人、紙芝居に託して“星”を語っていたブルーノが突然消えてしまい、人々は海の怪物に食べられてしまったと噂した。
ブルーノの息子・ルビッチは、学校を辞めてえんとつ掃除屋として家計を助ける。
しかしその後も父の教えを守り“星”を信じ続けていたルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、彼の前に奇跡が起きた。ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、二人は友達となる。
そんなある日、巨大なゴミの怪物が海から浮かび上がる。
それは父の紙芝居に出てきた、閉ざされたこの世界には存在しないはずの“船”だった。
父の話に確信を得たルビッチは、プペルと「星を見つけに行こう」と決意する。
しかしこの町の治安を守る異端審問官が二人の計画を阻止するために立ちはだかる。
それでも父を信じて、互いを信じあって飛び出した二人が、大冒険の先に見た、えんとつ町に隠された驚きの秘密とは?
公式サイトより抜粋
良くも悪くも「メッセージ性」が強い!

同じ点を「どう捉えるか?」
まずはこの作品について、僕なりの総評を先に述べておくと・・・。
決して「悪い映画」とは思いませんし、ポテンシャルは高い。
映画館で「見た」という点において、また「プペル」という作品に触れたということに関しては、「よかった」と思います。
そういう意味では「いい映画でした」と言えると思います。
だが、この映画、正直作り手の「メッセージ性」が強すぎる、もちろん「作品で何を伝えたいのか?」
それが強いということは「良いこと」なのだが、それがあまりにも、不自然に際立っている。という印象を作品から感じてしまった。
ある意味でその「メッセージ性」に「乗れる」か「乗れないか」で、この作品に対する評価は大きく分かれると思います。
ここで勘違いしてほしくないのは、繰り返しだが「メッセージ性」が強い。
その事は「悪い」ことではないということだし、それがはっきりしているのは、それ自体は「良い」ことである。
その点は留意してこの後を読んでほしい。
「えんとつ町」になぞらえたもの
この作品は舞台の「えんとつ町」にはある種、原作者西野亮廣さんの「思い」が込められている。
この町では、常に煙突からの煙が世界を覆い隠しており、外の世界はないものだと信じられていた。
今作の主人公「ルビッチ」は、父「ブルーノ」が生前紙芝居で語っていた、「星」の話を信じていたが、町の人々はそれを信じない。
何なら「星」があるというだけで、変わり者扱いされて爪弾きにされるし、そもそもこうした「星」の存在を信じること自体が犯罪的行為なのだ。
それでもルビッチは「星」の存在を信じ続けていた。
そんな彼の前にゴミ人間「プペル」がやってきたことで物語は動き始めのだが・・・。
そもそもこの「星」の存在を語る、それだけで「異端扱い」「変わり者扱い」される。
それはまさに作者「西野亮廣」の挑戦、そしてその挑戦の過程で周りから言われたことと重なるのではないか?
元々「キングコング」というコンビとして人気絶頂だったが、いくつかの「炎上騒動」などで、2016年に「芸人引退宣言」
肩書を「絵本作家」にするなど、周囲の人間から見れば「迷走」ともいえるキャリアを送っていた。
その中で本格的に「絵本作家」としてキャリアを重ねる。
僕も「西野亮廣」のことについて詳しいわけではないが、この間に周りから「なにをやっているんだ」と変わり者扱いされたのだろう。
それは容易に想像できる。
この「周囲からの声」
つまり少しでも「変わったこと」をすると波風が立つ、そんな日本特有の空気感。
周囲との同化こそ「よきこと」とされる風潮に対して「ノー」を突きつける。
そんな思いでこの作品を作ったのではないか?
この作品もルビッチが最後に「星」を見つける。
今まで笑われていた存在が、最後には「新しい景色」を町のみんなに見せるという帰結をする。
この物語は、そういう意味で「西野亮廣」の世界に対するメッセージが強烈に描かれている作品だと言える。
それを強烈意識させられるのが、舞台挨拶での彼の発言だ。
「挑戦者が笑われる世界を終わらせに来た」
これは作中で「えんとつ町」の「夜」を終わらせるというテーマと呼応する。
そこに、「乗れる」か「乗れない」で、この作品に対する評価は大きく分かれるのだと思うが、その「理由」というのは僕なりに考えてみたが、それは後述する。
だがこの時点で声を大にして言っておきたいのは、「メッセージ性」つまり「映画を通じて何を語りたいのか?」
それがはっきりとしており、それがキチンと描かれているということは、ただ漠然と作られた映画よりも立派だと言える。
そしてこのメッセージそのものも、僕は素晴らしいものではある、それは認めざるを得ない。

何一つ疑問はないですよ
深堀りポイント
実はこの「えんとつ町」の出来る経緯は「経済学」的な「お金論」が根っこにはある。
「お金」を溜め込まず皆が使えば「景気」は良くなる、そのために作られた「エル」と呼ばれるお金。
その独自のお金を使うために、「えんとつ町」は外界との接点をすべて断ち切り、出来上がった世界なのだ。
このあたりのエピソードを見ると、実はこの作品は「お金の話」だとも言える。
西野亮廣さんがお金についてどう考えているのか?
という点が透けて見えたりする。
この世界観などから「大人も泣ける絵本」というのが売りの「えんとつ町のプペル」だが、実はハナからターゲットは「子ども」ではなく「大人」をそもそも狙っていたとしか思えない・・・。
自身を「ゴミ人間」と称する男が生み出した「ゴミ人間プペル」
この作品の舞台「えんとつ町」
これは西野さん自身が見た、ある種「終わらせたい世界」でもある、現実の写し鏡と言える。
そのような舞台をもつ作品内において、彼の役目は何なのか?
彼は自分を、皮肉を込めて「ゴミ人間」と称し、著書も出版している。
そしてこの作品には、まさしく「ゴミ人間」が登場する。
恐らく彼は自身の現実の活動の投影として「プペル」というキャラクターを生み出したのではないか?
「夢を笑われたからこそ、夢を笑われた者を助けたい」
そういう思いが込められた「プペル」の存在。
そこには現実で「サロン経営」をして「夢持つものの背中を押す」
彼自身の現実での活動がどうしても重なって見える。
他人から「ゴミ」だと冷ややかな目で見られ、社会の爪弾きにされるプペル。
そんな彼は誰よりも純粋だ。
だからこそルビッチの夢を笑わないし、その夢をともに追いかけようとする。
この物語で「えんとつ町」の住人が「星」の存在を知ることが出来たのは、プペルの存在無くしては語れない。
恐らく願わくば西野亮廣は、この現実で「プペル」になりたいのではないか?
「ルビッチ」のように「夢笑われる存在」の背中を押し続けたいのではないか?
そんな彼のここに至るまでの経緯が込められているプペルという存在。
まさにプペルは西野亮廣自身なのだといえる。
「映画作品」として、どうなのか?

強すぎる「メッセージ性」の功罪
さてここまで、この作品には作り手「西野亮廣」の強烈なメッセージが随所に詰まっているという点を中心に語ったが、ここからは、それも含めて「映画作品としてどうだったのか?」
という点からこの作品を紐解いていきたい。
何度も繰り返すが、「メッセージ性」が強いこと、それは「映画で何を語りたいのか?」という軸がしっかりしているということ。
それは「良いこと」だと繰り返しているが、ただ僕は「映画」としてこの作品を見て、あまりにも「メッセージ性」が映画から「浮き出ている」
つまり「不自然」だと思わずにはいられなかった。
正直、ここを見て「評価できない」という声があるのも、正直理解できる・・・。

ということで、じゃあ僕がどうして「メッセージ性」が「不自然」だと思ったのか?
その点から突き詰めようと思うんですけど・・・。
説明的すぎという問題点
その一つに「説明しすぎ」という問題がある。
個人的には「伝えたいこと」それを「伝えたい」という思いが強すぎるからこそだと思います。
それが顕著なのがクライマックスだ。
この作品、プペルの「脳」になるゴミが、「ブルーノ」由来のブレスレット、それが核になっているからこそ、それはわかります。
だからこそルビッチが煙の雲を吹き飛ばし、町のみんなに星を見せる。
「今まで笑われた男が、不可能を可能にした」その瞬間に最高潮の感動を持っていく、それはわかるんですけど・・・。
そこでブルーノの紙芝居をナレーションにしてダメ押ししてくる・・・。
正直そこが「説明的」というか何というか。
情緒過多すぎるといえばいいのか?
そこをクドく感じてしまいましたね。
そしてそこがクドく感じる。
つまり「映画」から「不自然」に迫り出していると思ってしまいました。
個人的にはこの時点でこのシーンに込められた「メッセージ」は十二分に僕は受け取っていたし、あそこで満点の星空を見せるだけで十分だったのでは?
と感じざるを得ない。
そして説明的といえばプペルの声が、最後に「窪田正孝」からブルーノを演じる「立川志の輔」に変わるんですよね。
先程、ナレーションもブルーノだったにも関わらず、またさらにブルーノが感動のダメ押しと言わんばかりに登場する。
理屈はわかります。
ですが、ここを安易に「プペル」を「ブルーノ」として描きすぎることで、2人の「友情」の終わりという点が薄まる。
この作品はあくまで「プペル」と「ルビッチ」の友情を中心に据えるべきだったのではないか?
もちろん理屈はわかります。
プペルとブルーノはほぼ「同義」なんです、でもね・・・。
ここもあくまでプペルがブルーノらしい仕草をする、それで十分こちらには事情が伝わる、にも関わらずダメ押ししてしまう。
そのことで「ここが伝えたいんだ」
つまりブルーノの紙芝居こそ、観客に伝えたいんだ!
という作り手の思いが、過剰に映画から漏れてしまう。
つまり、「やりすぎ」と感じる観客がいる。
そのメッセージ性の強さに「拒否感」を持つ人が現れてしまう。
それもやはり「無理ない」ことだと言える。
深堀りポイント
「説明的」というのは、ある意味で我々が「理解できていないのでは?」という作り手側の配慮からきたものではないか?
最近のテレビで何事にも「テロップ」を入れる、お笑いのネタにすら入る。
そういうのは、あちら側から我々が「ここ笑うところ」という配慮から来ている。
言い方が悪いが「子供扱い」されてるとも言える。
映画とは「集中」度合いがテレビとはまるで違う、いつもよりも気合が入っている。
その状態で「配慮」とも言える、説明的なナレーションは、不自然にメッセージ性を際立たせてしまう危険性があるのだ。
中盤の弛緩した物語展開
そして、「映画」としても、今作品は問題点があると思います。
この作品の序盤、「プペル」の誕生、そしてハロウィンパーティでのダンスシーン、ルビッチとの出会い。
そしてトロッコでの迫力たっぷりのアクションなど、すごく「素晴らしい」幕開けをする今作品。

ただ、そこから中盤の展開が正直、あまり大きな展開がないんですよね・・・。
プペルとルビッチの喧嘩、そして仲直り、そして「船」がおびき寄せられる。
そこまでが、あまりにも起伏がない展開で、少し中だるみを感じてしまった。
そういう中だるみがあるにも関わらず、ルビッチが「町のみんなに星を見せる」
その計画を遂行する手際などを、わりとあっさり簡単に済ませてしまう。
特に「ドロシー」とルビッチ・プペルの関係性とか、よくわからない。
「スコップ」が協力してくれるのは良くわかるんですが、これは「サロン」で説明されているのか?
とは思うんですけど、中だるみした時間があるなら、もう少し「ドロシー」について語るべきだったのではないか?
あとアントニオも実は「星を信じていたけど」でも周囲の顔色を忖度して「それをやめた」
だからこそ「星」を信じ続けたルビッチを疎ましく思う。
非常に味わい深いキャラだ。
だが、彼の真相をもったいぶり過ぎてる。
ここは真相を先に提示しておく、そしてその上で「葛藤」を見せて、最終的に協力する。
という風に見せたほうが良かったのではないだろうか?
今作品は「絵本」が原作だ。
「絵本」のテンポ感だと、ある種、中盤をすべてふっ飛ばしても物語は成立するのだろう。
そして終盤の急展開もある程度、飲み込みやすい。
だが、映画に置き換えた際、無理やり中盤を作った、だからこそこのような「弛緩」した展開になったし、急展開が「飲み込みにくい」物になったのではないか?
ということで「映画」として見た際、「説明的展開」それによって物語で伝えたい「メッセージ性」が不自然に作品から「浮き上がる」という問題点が生じた。
そして「物語の展開」としても、「中だるみ」「明らかな描写不足」という、「映画作品」としての問題点も生じている、そこは指摘しなければならない。
アニメクオリティは保証する「凄さ」
ただ、この作品について「賛否」述べてきたが、作劇の凄さ、迫力。
描きこまれた世界観、これは「賛否」どちらとて、「凄さ」は、これはどちらの意見だとしても、評価出来るポイントではないか?
そこに関してはさすが「スタジオ4℃」と思わされた、さすがのお手並みといったとこ。
さらに、町並みの無国籍な感覚は「ブレードランナー」を彷彿とさせられるし、世界観の作り込みは凄まじい力の入り方を感じた。
そういう点で「アニメ」としてはハイクオリティだし、そういう点では見る価値は十二分にある作品だと思う。
声優陣も同スタジオ作品の「海獣の子ども」から引き続き主役のルビッチを演じる芦田愛菜、プペル演じる窪田正孝。
彼らの演技は素晴らしい。
この辺りを目当てに言っても十二分にお釣りが来る。
そういう意味でも、アニメ作品としてのクオリティの高さは、誰もが認める水準にある。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
良くも悪くも、メッセージ性が強い!!
この点を「どう捉えるか」で作品評価が、大きく変わるね!
まとめ
ここまで触れてこなかったが、今作品は挿入歌が豪華だ。
そこに対して「挿入歌」で伝えすぎという指摘もあるにはあるが・・・。
ただどの歌も素晴らしくて、そこは素晴らしいし、この作品に彩りを与えていたと思う。
中でも特にEDテーマ。
ロザリーナの「えんとつ町のプペル」は素晴らしい曲で、鑑賞後にリピートするのは必至だろう。
ただ、作品として「賛否」分かれるのも無理ないだろう。
その西野亮廣の強い「メッセージ」をどう捉えるか?
その点で評価が分かれる。
ある意味でそれは凄いことなのだ。
ある意味でそれは彼自身望んだことではないか?
話題になる、その時点である意味で大成功だと思っているのではないか?
僕自身は「メッセージ性」が「不自然」に際立っている点が気になる、映画としてうまくないと思う作品ではある。
だけどその「メッセージ」はちゃんと受け止めたつもりだ。
「見る価値」ないとか、そういう風に言われる作品ではないと思うので、いい作品だったということは、最後にもう一度念を推しておきたい。
まとめ
- 「メッセージ性」を際立たせすぎ、それをどう捉えるかで評価が変わる。
- 個人的には「説明しすぎ」という点が気になった。
- 映画の展開にも疑問が残る。
ということで、読了ありがとうございます。
また次回の記事で会いましょう!