
今日は「ディズニー総チェック」
ということで「ピーター・パン」について語っていきます!!

今作品のポイント
- 描かれるテーマは、実は「ふしぎの国のアリス」から通ずる。
目次
「ピーター・パン」について
基本データ
基本データ
- 公開 1953年
- 監督 ウィルフレッド・ジャクソン/ハミルトン・ラスク/クライド・ジェロニミ
- 脚本 テッド・シアーズ/アードマン・ペナー/ビル・ピート/ウィンストン・ヒブラー ほか
- 声の出演 ボビー・ドリスコール ほか
あらすじ
ウェンディと2人の弟のもとに、大好きな物語の主人公ピーター・パンが現れた。
ピーター・パンとヤキモチやきのティンカー・ベルのあとを追って「右から2番目の星に向かって朝まで飛ぶ」と、そこはネバーランドだった。
子供たちはロストボーイズたちと一緒に、島やピーター・パンの隠れ家を探検したり、悪名高いフック船長率いる荒くれ者の海賊たちと戦いを繰り広げたりして、夢のような冒険をする。
ディズニープラスより引用
描かれているテーマ

「何を」切り口とするのか?
「ピータ・パン」という作品は思い出の作品だ。
子供の頃、家にVHSがあり。
何度も見た記憶があるし、「ディズニーといえば!」と問われれば、まず脳裏に浮かぶと言っても良いほど印象に残っている作品だと言える。
ただしここまで何度も、それもVHSが擦り切れるほど鑑賞したこの作品を、どういう切り口から評すればいいのか・・・。
それが全くわからなかったのも事実だ。
例えば「インディアン」という点から、現代では「受け入れられない価値観」を描いているというところを指摘するのか?
そこで描かれるウェンディに対する、「男尊女卑」的な点を指摘すれば良いのか?
原作にあった「残酷」な部分を「ディズニファイ」している。その点から切り込めば良いのか?
でもそんな観点からはいくらでも「語り尽くされている」ということを考えて、見るまで「評しづらい」とはっきり思っていた今作品。
だが、この「総チェック」という「制作・公開順」という流れで見てきた際、この作品にはっきりと語らねばならない要素があることに気付かされた。
これは意図的であると考えるが今作品。
実は前作に当たる「ふしぎの国のアリス」と実は同じテーマを語っているのだ。
理想としてきたものが、目の前に現れたとして・・・。
今作の主人公である「ウェンディ」(彼女を今作の主人公であると考えるのは、議論の余地があるが・・・)
彼女はおとぎ話である「ピータ・パン」の存在を信じており、彼と会いたいと願う少女だ。
だが物語の冒頭で父ダーリング氏から「いつまでも夢想やめろ」ということで、子どもを卒業する。
つまり弟たちと同じ部屋での生活をやめ「大人」として生きることを強制される。
そこに憧れの存在ピータ・パンが現れ、彼の誘いで「ネバー・ランド」行きを決意することになる。
この作品でウェンディはずっと「ピーター・パン」の存在を信じていた。
そして「大人になりたくない」と考えていた。
そんな彼女がピーターと出会い、そして「永遠の子供時代」を謳歌できる「ネバー・ランド」に赴くことになる。
これはいわば、彼女が理想の存在・場所に赴くということだ。
これは前作の「ふしぎの国のアリス」でのアリスのいう「でたらめな世界」こそ素晴らしい。
そして実際に彼女はそのデタラメの世界でひどい目に会い、そうした世界に「理想」を求めなくなるというのと、実は同じだと言える。
事実今作でもウェンディはネバー・ランドに行き、そして最終的には自ら「大人」になることを選ぶ。
実際に彼女が目にした「永遠の子ども時代を謳歌する場所」はある意味で「無秩序」で「残酷」な世界だった。
ウェンディは、嫉妬に駆られたティンカー・ベルの命令を受けたロスト・ボーイズに撃墜され危うく命を落としかける。
弟のジョン、マイケルは今なら大問題になる描写満載の「インディアン狩り」と称してロスト・ボーイズとインディアンを探して冒険に出る。

その後もピーターとフックの髑髏岩でのやり取り。
ピーターにとっては遊び感覚なのだろうが、明らかな命のやり取り。
それを「楽しんでいる」ことにウェンディは明らかな拒否感を覚える。
まさに「おとぎ話」であるならば許容できた、ある種のコミカルさ込みのやり取りだとしたとて、現実にその光景を目にした際、その異常性についていけなくなるのだ。
さらに当時の現実、つまりロンドンでも(ピーター・パン2の出来事が第二次大戦中、1940年だとして、逆算すると1930年位だと推測)、今以上に「男尊女卑」が社会として当たり前だった時代。
それ以上にインディアンの集落での女性軽視に憤慨してみせたり、実はウェンディにとっては「子ども時代の象徴」である「ネバー・ランド」は明らかに異質な世界にしか見えないのだ。
これは前作でのアリスが「ふしぎの国」を訪れて体験したことと見事に重なる。
実際に「理想」だと信じてきた世界に放り込まれた時、それに喜ぶのではなく、それに「拒否感」を示す。
それを2作品連続で描いていること、そこは非常に興味深い点でもある。
いつか「夢」から、卒業しなければならない。それを描く「ディズニー」
先程から「理想的世界」に実際にいくと、それは「理想」でもなんでもない、そのことを「理想」と信じていた事に、ある意味で愕然とする。
そうしたテーマが「アリス」から引き続き描かれていると述べてきた。
興味深いのは、それを「夢」の象徴である「ディズニー」が描いているということだ。
意地悪な言い方になるが、いつまでも「夢」を見てはいけない。「大人」になりなさい。
ということが描かれているとも言える今作。
これは今の「ディズニー」が我々に与えているイメージとは真逆だ。
個人的には現代の「ディズニー」は「永遠に夢」を見続けさせる存在だ。
この作品の公開から2年後世界最初の「ディズニーランド」がアナハイムでオープンされる。
その後、現実に出来た「夢の国」は世界に広がっていった。
ある意味でこの「夢」という点の解釈が、段々と歴史を重ねていく毎に拡大解釈されていったのではないだろうか?
個人的には、元々の解釈としてディズニーは「夢」つまり「子どもの見る夢想」とは、いつしか距離を置かねばならない。
だが、それを時折思い出す、童心に帰ることにこそ意味があると考えていたのではないか。
つまりそれは「ピータ・パン」の最後に雲影の形をした「海賊船」をロンドンの空に見たダーリング氏に象徴されている。
彼もまた子どもの頃、「ピーター・パン」を信じていた、その時「夢見た」ことを思い出したのだ。
そしてその事を懐かしむ、その事にこそ「意味がある」のだ。

ある意味で「ディズニーランド」とは、そこに足を踏み入れた瞬間、誰もが「子どもの夢想」を思い出す、そんな場なのだ。
いつまでも「夢見る」のではない、そこに来て「夢を思い出す」
ウォルト・ディズニーはそう考えていたのではないか?
そう考えると、彼が今の「ディズニー」を見て「どう感じるのか」そこにはものすごく興味が湧く。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
「夢」からは卒業しなければならない。でも「忘れる必要」はない。
「思い出す」ことに意味がある!!
「アリス」と続けてみることで、描きたかった「テーマ」が見えてきた!!
まとめ
今作は非常にアニメのクオリティーも高い。
さすが「ナイン・オールドメン」最後の勢揃い作品というだけあって、どこをとっても、今のアニメに目の肥えた観客にも十分魅せられる作品だと言える。
フック船長、スミーのおバカコンビ、そしてチクタクワニのコミカルさは今作でも屈指の楽しいシーンだ。
原作では、フックは食い殺されていることを考えると、少し考えさせられるが・・・。
また嫉妬に狂うティンカー・ベルも可愛いんだけど、それでも危うい部分が目立つ存在だ。
ある意味で、これもウェンディにとって、恐ろしい「女の実体」を最初に体験することになるので、そういう意味でも彼女を大人にする存在だと言える。
ただ今作は「総チェック」という流れで見ているからこそ気づけた、「アリス」との共通点という非常に興味深い点から見れたのが新鮮だった。
子どもの「理想郷」はある意味で「ディストピア」的でもある。
その事に気づいて、自らその考えから卒業をして、そして「大人になる」というのを2作品連続で描いているのは非常に興味深い。
でも子ども期を「忘れる」のではなく、時折「思い出す」
そのことこそが、実は最も大切である、そういう意味で、ウォルトが「ディズニーランド」建設に込めた願いも、また透けて見えるのだ。
いつまでも「夢見る」のではない、いつまでも「夢見た頃」を忘れない。
そんな思いの詰まった作品だったのではないだろうか。
まとめ
- 「夢」を見続けるのではない、「夢」見た頃を忘れない(思い出す)ことこそ大切なのだ。
というわけで、今回も読了ありがとうございました!
また次回の「総チェック」も読んでください!!