
今日は「SNS」や「映画好き」の間で、話題になっている作品を鑑賞してきました!
ということで、「アルプススタンドのはしの方」について今日は語りたいと思います。
この作品の”ポイント”
- 今起きている「しょうがない」ということに対して考えさせられる作品であること。
- なぜ人は「応援」をするのか?
その答えについて考えさせられる。 - 野球がテーマだが「球場」の「グラウンドレベル」は一切映らない。
にも関わらず「戦局」がわかる、「映画としての巧みさ」
ということで、今日もお付き合いくださいな!
目次
「アルプススタンドのはしの方」について
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 城定秀夫
- 脚本 奥村徹也
- 原作 籔博晶(兵庫県立東播磨高等学校演劇部)
- 出演 小野莉奈/平井亜門/西本まりん/中村守里/黒木ひかり/目次立樹 ほか
作品について
この作品は元々、「兵庫県立東播磨高等学校演劇部」の顧問教諭を務めた「籔博晶」によって作られた戯曲。
同部により2016年に初演される。
2017年の第63回全国高等学校演劇大会にて最優秀賞を受賞した作品です。
あらすじ
夏の甲子園1回戦に出場している母校の応援のため、演劇部員の安田と田宮は野球のルールも知らずにスタンドにやって来た。
そこに遅れて、元野球部員の藤野がやって来る。訳あって互いに妙に気を遣う安田と田宮。
応援スタンドには帰宅部の宮下の姿もあった。
成績優秀な宮下は吹奏楽部部長の久住に成績で学年1位の座を明け渡してしまったばかりだった。
それぞれが思いを抱えながら、試合は1点を争う展開へと突入していく。
映画COMより抜粋
「ド共感」させられた作品

僕の実体験
最初に僕はこの作品に対して、ものすごく「実体験」というか、思い入れてしまうシーンがありまして、まずね”その件”について言わせてくださいよ!
というのも、僕、まさに「あすは」「藤野」「ひかる」「宮下」
この4人のように「アルプススタンド」の「端の方」にいたんですよ。
今では「いい思い出」だけど、高校一年生の時。
うちの高校が「甲子園」に出場して、当然のように「一回戦」から「全校応援」という行事があった。
で、本当に「あすは」と「ひかる」のように僕も「なんで夏休みにこんなとこまで・・・」
とか「野球部は偉そう」とか言ってたんですよ。

で、最初はそんなふうに「応援意識」も低く試合を見てたんです。
でも最後には、今作品のように「劇的な意識の変化」とかはなかった。
だが、延長戦で勝利したときは「やっぱり夢中になっていた」「勝って欲しいと思っていた」
そのことを思い出したりしてましたね。
そのとき、どうして「自分は苦手な野球部連中」を「応援」してたのか?
この映画を見なければ、多分その理由を、「試合展開の面白さ」とか「野球のゲーム性」からきた感情として理由づけていたんだろう。
でも、それは「違った」ということを今作は教えてくれた。
ポイント
✅高校一年の自分を思い出す、「共感」というか「過去を覗く」かのような既視感。
✅どうして「苦手」な「野球部」を応戦していたのか? その理由に気づくことができた作品。
「頑張っている」だから、その姿を「応援したくなる」
さて、「どうして応援したのか?」
この問いかけに対する答えは至って「シンプル」だ。
それは「頑張っているからだ」
ただそれだけだ。
当時は「苦手」という感情があって、そこを素直に答えることができなかったが、今ならそれをストレートにいうことができる。
「あいつらは頑張っているんだ」って。
もしも読者の中に元高校球児や、野球部の知り合いがいた方々なら、わかるだろう。
彼らの練習量は正直、異常だ。

でもその量をこなして、でも「甲子園」には、全ての人間がいくことはできない。
その狭き門目指して、多くの人間が夢破れる。
その過程で競争に負ける者もいる。
でも、少なくとも彼らはみんな「頑張っている」
少なくとも、高校時代の鬱屈した自分よりも”確実”にだ。
「頑張っている人」を応援する理由。
当時はマジで「苦手」という感情が前面に出過ぎて、そこを素直に考えることができなかった。
だが、今作を見て、当時を振り返ることで、それに対する答えはシンプルだということに気づいたのだ。
「頑張っている姿」ただ、それを応援していたのだ。
ただそれだけだったのだと。
ポイント
✅「応援」した理由はシンプル。ただ、彼らが「頑張っていた」からだ。
「仕方がない」「しょうがない」と言われた者たち

「球場」で描かれるが「試合展開」を直接描写しない作品
ちなみに前述したように、今作品は元々「舞台演劇」だ。
だからこそ、元々の「東播磨高校演劇部」が行った舞台では、この「あすは」「藤野」「宮下」「ひかる」
この4人以外の登場人物はいない。
当然、野球の試合に関しては「セリフ」以外では描写されない。
全て「アルプススタンドのはしの方」で起きた、4人の物語として描かれる。
だからこそ、この作品を映画という媒体に「表現」の場を移したとて、「球場」の「グラウンドレベル」での試合展開などは、一切描かれることはないのだ。
だが、そこを今作品はうまく描けている。
ちゃんと、元々が「舞台演劇」であるということも納得させる作品になっているのだ。
最初は、野球のルールに明るくない「あすは」「ひかる」の「犠牲フライ」をめぐるやりとりなどで、笑わせる。
そして元野球部の「藤野」を登場させて、彼の口から状況を2人に説明する。
「フライ」で外野が捕球、アウトが1つ入る。
でも「なぜか得点が入る」 確かに「野球のルール」をわかっていないと、意味がわからない「犠牲フライ」の概念。
僕が感心したのは、このやりとりで、今の状況が「表裏」なのか、とか「塁の埋まりかた」「ボールカウント」など、試合状況を把握しやすかったことだ。
さらに音響面もこの展開のわかりやすさを助けている面もうまい。
「東入間高校」(主人公たちの高校)の攻撃時、「4番の園田」登場曲。
「TRAINーTRAIN」の吹奏楽部の演奏の大きさで、チャンスか否かを表現している。
このように、「アルプススタンドのはしの方」という限定空間で描かれる今作品。
今作は「試合展開」をわかりやすくする工夫が随所にされているのが、特徴だと言えるだろう。
ポイント
✅「限定空間」で描かれる、それが成立するのは「セリフ」「音響」などの工夫あってこそ!
皆が報われるわけではない
ようやく、今作の話に入るが、今作では冒頭、あすはが肩を叩かれ「しょうがない」と言われるシーンから幕を開ける。
この「しょうがない」というのを巡って「あすは」「ひかる」「藤野」「宮下」の心情がグラウンドで行われる試合の展開に合わせて「変化」していく様子を今作は描いている。
4人はそれぞれに「しょうがない」や「蟠り 」を抱えている。
安田あすは
「あすは」は演劇部として「関東大会」への出場権を得た。
だが、部員である「ひかる」の「インフルエンザ」という理由で、上演をできず、夢破れている。
その彼女に「インフルエンザ」だからという理由で、顧問が「しょうがない」と告げていたのが冒頭のシーンだ。
田宮ひかる
「ひかる」はそのこともあり、ずっと「あすは」に気を遣っている。
藤野富士夫
「藤野」は元野球部でピッチャーだが、「エースで4番」という「園田」がいるので「試合には出れない」
だからこそ、野球をやめて「別の道で努力」することを選んでいる。
「園田」という人物がいる。試合に出れないのは「しょうがない」と。
宮下恵
「宮下」は「運動も人付き合いもできない」だから「勉強」を頑張っている。
彼女は「園田」に思いを寄せるが、園田は、「吹奏楽部長」でいわゆる「スクールカースト」でも上位の「久住」と付き合っていた。
そのことを知り、体調を崩すまでショックを受ける。
このように、4人は「報われなかった思い」を抱えていた。
その彼らの目の前で繰り広げられるのは、「甲子園出場」という「報われた者たち」の姿だ。
だからこそ、その姿をきちんと直視できない。
「応援」する気持ちにはなれないのだ。
ポイント
✅「夢破れた者」には「眩しすぎるグラウンド」
その「思いを変える」展開
だが、それはあくまで「グラウンド」に出ている者たちだ。
アルプスで声を枯らす「野球部員」の姿。
どうしてそんなにも必死になれるのか?
それが特に「あすは」にはわからないのだ。
そんな中で徐々に相手の強打に「園田」が崩れかける。
そして迎えた絶体絶命のピンチ。
相手の「4番」は「センバツ」で「5ホーマー」この試合でも「1ホーマー」を打った怪物だ。
豆知識
「センバツ」の一大会における、本塁打記録は「3本」が最多。
清原和博、松井秀喜など錚々たる顔ぶれですが、それを上回っている怪物です。

「相手がすごい」だから「打たれる」「負ける」のは「しょうがない」と「あすは」はいう。
だが、それでいいのか?
そうだとして諦められるのか?
園田はなんとかマウンドで、怪物相手にピッチングを続けている。
そんな必死になっている彼に「しょうがない」というのはやめてと宮下はいう。
その姿に藤野も、声援を送る。
徐々に4人の中で考えが変わり始める、「それでも立ち向かう」その姿が、そうさせるのだ。
けっして皆が「中心になる」「夢を叶える」そんなことはあり得ない。
「諦める者」「夢破れる者」
絶対に出てきてしまう。
実際には後者の方が多数だ。
だけど、それでも「応援」するのは、自分のことのように「思い入れてしまう」
それは、彼が「必死」だからだ。
このように、試合展開を何度もいうが、きちんと見せないが、その展開と共に4人の変化をうまくこの作品は描いているのだ。
ポイント
✅ピンチの展開、それでも”必死”に立ち向かう姿に、アルプスのはしにいる人間は心動かされる。
「送りバント」の意味
「野球」における「送りバント」
そのピンチをなんとか凌いだ「裏」の攻撃。
ここで代打に出てくる「矢野」
彼は「藤野」と真逆の選択をした人間だ。
「圧倒的ヘタクソ」「でも練習は一生懸命」
藤野からすれば、試合には出れない。なのになぜ練習するのか?
彼にはそれがわからない。
でも心のどこかでは「矢野を羨ましい」と思っていた。
彼の「諦めない」姿を直視できていなかった。
そんな彼が決める「送りバント」
「送りバント」というのは「究極の自己犠牲」だ。自分は「出塁」できず、ランナーを進塁させる行為。
それを決めて矢野は喜ぶ。
藤野も彼の姿に心動かされ、「ヘタクソ」が決めたバントに称賛を送る。
だが、「あすは」にはその「喜び」の意味がわからない。
「演劇大会」の特殊なレギュレーション
繰り返すが「あすは」には「送りバント」の「喜び」の意味がわからない。
でも実は、この「送りバント」の「喜び」「悲しみ」を一番知っているのは、他ならぬ「あすは」だ。
実は「あすは」たち「演劇部」の大会レギュレーション。
これが、「究極の送りバント」精神でできている。
というのも、この作品で説明される「高校演劇大会」について。
僕は今作で初めて知ったのだが、「予選」「関東大会」は秋に終了。
全国大会は「翌年の夏」に開催されるのだ。
つまり3年生の最後は「関東大会」まで。
そこまで勝ち抜いても「全国大会」は下の世代が出場することになるのだ。
ある意味でこれは「送りバント」だ。3年生は、下の学年に「次の大会切符」を与えて引退をする。
野球部の姿を見て「あすは」は「全国に出れない」「もう大会には出ない」
そう思っていたが、考えを改めていく。
「送りバント」でもいいじゃないか。
次につなげる、そのためにもう一度最後に「演劇」をしよう。と決めるのだ。
それは「他ならぬ」「矢野」の「送りバント」がそうさせたのだ。
このように「送りバント」
このプレーを「野球における意味合い」と、「演劇大会」における「意味合い」の比喩として扱う。
この巧みさにも惚れ惚れさせられた。
ポイント
✅「送りバント」ひとつに込められた、意味。
脇のキャラも魅力的
今作は4人の他にも「脇のキャラ」も魅力的だ。
「熱血教師」である英語教師の「厚木」
彼は「応援をしろ」と必死になっている。
最初は「本当にうざい」
でも、最後には彼も彼で、夢破れていて、それでも「必死に応援」をしている。
そのことがわかり、彼の真っ直ぐさ、最初はウザかったはずなのに、最後には感動させられてしまっている。
吹奏楽部部長の「久住」もそうだ。
野球部のエース「園田」と付き合っていて、成績も優秀。友達、下級生からも慕われる。
「スクールカースト」のテッペンであり、中心だ。
そして「アルプスのはし」にいる、特に「宮下」から見れば、正直、鼻持ちならない存在だ。
でもそんな「久住」がいう。
「中心」には「中心」の辛さがある。
また「試合に必死」な「園田」から連絡がこない、そのことに寂しさを抱えている。
一種の「恋敵」である宮下と久住のエール交換。
ここも名シーン認定だ。
そして久住の取り巻き。
一瞬、久住に対して苛立ちを募らせるが、こいつらが一番「悔しそう」という。
最初は「素直」になれなかった、そんな2人にも最後は思い入れてしまう。
この作品の凄さは。
登場人物のうちの”誰かに”我々は自己の姿を投影してしまう。という点だ。
「はしのほうにいるのか」「応援の中心にいるのか」「グラウンドにいる」「矢野のように生きる」「園田のように生きる」
その中の「誰であってもいいのだ」
それぞれの「生き方」に最後は「寄り添ってくれる」そんな作品なのだ。
ポイント
✅今作のどこかに「自分」がいる。
「コロナ禍」でおきた「しょうがない」

現実とリンクする公開時期
さて、今作について語る上でもう一つ重要な点がある。
それは「現実におきた”しょうがない”」だ。
今年は「野球」でいうと「センバツ」「選手権」
球児の夢である「甲子園」がない。
それは「野球」以外の「全ての部活」でもそうだ。
「インターハイの中止」など、そこを目標にしていた彼らのことを考えると、なんとも心苦しい思いになる。
今作冒頭で「あすは」が「どうして”甲子園”には全校応援なのか」「野球部の特別扱い」について文句を言っていた。
だが、こと「コロナ禍」では全ての部活が「全国」という夢を奪われしまった。
「戦わず」「夢破れた」のだ。
それら全てを「コロナだから”しょうがない”」
果たしてその言葉で片付けてしまっていいのか?
現実として、確かに「大会をする」
そのことでの「感染拡大」のリスクはある、正直「止むを得ない」
でも「しょうがない」という言葉で、そんな言葉で終わらせてしまっていいのか?
今作を見ていてそんな思いに駆られてしまった。

今。現実に起きてしまっている「しょうがない」
そのことを、そんな言葉で片付けてしまっていいのか。
少なくとも、僕はそのことで落ち込んでいる人々に「しょうがない」なんて言葉をかけることは出来なくなってしまった。
明確な答えがあるわけではない、そもそも解決策なんてあるのか?
そう言われると閉口せざるを得ない。
でも僕は、ここで「夢破れた者」
その人生に、この先に「幸せ」があるように「応援」したいと思わずにはいられない。
ポイント
✅この「甲子園」のない夏。「夢破れ者」を思い、この作品を見なければならに。そう感じた。
観賞後におきた驚きの展開(追記)
この作品の観賞後にツイートした、何気ない投稿。
この投稿に、なんと関西の甲子園中継でおなじみの「西浦達雄さん」から反応を頂くという、まさかの展開に・・・。
その後、なんと映画制作会社のプロデューサーが「西浦さん」と交流。
キッカケなんて、恐れ多くて言えませんが、でも自分の発言で「ミスター甲子園」と「制作会社」が交わるという。
「映画好き名利」に尽きる体験をしてしまいました!!
自分の好きな作品を、「自分の言葉」で人にオススメして、それに誰かが反応をくれる。
繰り返しになりますが、「映画好き名利」につきます!!
いやー「幸せ」な体験でした。
「西浦達雄さん」の「甲子園」を彩る名曲は「Apple music」にて配信されてますので、ぜひ聴いてください。
ちなみに、西浦さん、関西人はおなじみの「ホテルニューアワジ」の、あの印象的フレーズを歌われている方でもあります。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
今だからこそ、見なければならない「作品」!!
この「甲子園」のない夏、今だから見るべき!!
非常に元気になれる主題歌「青すぎる空」もぜひお聴きくださいね!
まとめ
今作品で僕は「高校一年」の自分を思い出した。あの時の感情の揺れ動きを思い出した。
今ならもっと、「素直」になれるのだろうか?
そして、今作の登場キャラの中に、きっと我々がいる。
それは「はしの方」「グラウンド」「マウンド」
どこにいるのか、それはわからない。
もしかしたら未来の「矢野」なのかもしれない。(だったらいいなぁ笑)
でも、あのどこかに「我々がいる」
そう感じずにはいられなかった。
そして作品としても「グラウンド」を映さずに試合展開をわかりやすく提示。
それに合わせてキャラクターの心情を変化させる。
その手腕の確かさよ。
この時点で作品として、僕にとっては「忘れられない」作品になってしまった。
そして「コロナ禍」で「夢破れた者」
彼らにこそ、頑張ってきた彼らに、ささやかな「エール」を送りたい。
そして素晴らしい「未来」が待っていること。
そのことを願わずにはいられない。
まとめ
- 非常に「構成巧み」な作品である。
- 登場人物の誰かに「感情移入」してしまう。
- この「夏」だからこそ、見るべき作品。
ということで、読了ありがとうございます!
また次の機会にお会いしましょう!!