
さて、今日はおそらく自分が一番苦手であろうジャンルの映画をみてきました。
ということで今回取り上げるのは「思い、思われ、ふり、ふられ」です。

今作品のポイント
- 実は「恋愛映画」ではない。
- 「恋愛」の先にある「人生の選択」という点に踏み込んだ作品。
- 前後編で、映画の作りがガラリと変わる。
目次
「思い、思われ、ふり、ふられ」について
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 三木孝浩
- 脚本 三木孝浩/米内山陽子
- 原作 咲坂伊緒 『思い、思われ、ふり、ふられ』
- 出演 浜辺美波/北村匠海/福本莉子/赤楚衛二 ほか
このキャストで「赤楚衛二」に注目してしまうのは「特撮好き」の性・・・笑
あらすじ
明るく社交的な【朱里】(浜辺美波)
内向的でうつむきがちな【由奈】(福本莉子)
クールな【理央】(北村匠海)
爽やかで天然な【和臣】(赤楚衛二)偶然出会ったタイプの全く違う4人は、同じマンションに住み同じ学校に通う高校1年生。
親同士の再婚で「家族」となり、朱里に言えない恋心を抱える理央。
そんな理央に憧れるけど自分に自信が持てない由奈。
和臣に惹かれていき、自分の感情に戸惑う朱里。
ある秘密を目撃してしまい自分の気持ちに蓋をしてしまう和臣。
一人の告白をきっかけにそれぞれの感情は複雑に絡み合い、相手を思えば思うほどすれ違ってしまう。
4人の切なすぎる《片想い》の行方は——
思い、思われ、ふり、ふられ 公式サイトより抜粋
「#ふりふらふりふり」しましょう!!
前後編で全く別の印象を受けた作品

作品全体の総評
まず個人的なことで申し訳ないんですが・・・。
僕はどうしてもこういう映画、少女漫画原作の映画が好きじゃないんですよ。

ただ、今作品をみて「あぁやっぱり”食わず嫌い”はダメだな」と、改めて自分の思考回路というか、思いこみで判断するのはよくない。
そう思わされてしまいましたね。
昨年もそれで「ぐうの音」も出ないほどにやられた作品があったにもかかわらずですよ笑
というのも、昨年の「殺さない彼と、死なない彼女」と同じように、この作品。
僕が「苦手」だと思っていた、いわゆる「恋愛要素」は実はテーマとしてはメインではないんですよね。
むしろ、その「恋愛」を通じて、各々が「どの道を選ぶのか?」という、普遍的なテーマが全体を通じて、うまく描けていたと思います。
そして、この映画には最大の特徴があって、それは「前半と後半」で演出面、テーマが大きくガラリと変わっている、それが最大の特徴だと言える。
ある意味でこの「前後半」の緩急で観客に訴えかける作品だと言ってもいいかもしれない。
ポイント
✅「前半・後半」でガラリと映画全体の印象が変わった。
✅「前半」の甘々展開も、実は後半との「緩急」として重要。(前半で脱落しないでね)
とはいえ「前半」はかなりキツイ
まずこの作品の前半では、「恋愛」というのが全面的に描かれる。
義理の姉弟である「朱里」「理央」の禁断の恋愛模様。
そして、「朱里」の友人で「理央」に恋心を抱く「由奈」
「朱里」を好きになる「和臣」
全員が複雑に入り組んだ関係の中で「好きな人」ができるという、至極面倒臭い関係での「恋模様」が描かれる。
詳しくいえばキリがないので、省略しますが。
これらは全て「片思い」だし、その「片思い」している相手には、それぞれ「思い人」がいるという、もうね勘弁して欲しい状況なわけですよ。
そしてこの前半部。
それぞれのキャラが、自分の思っていることを「心の声」「モノローグ」として声に出してしまう。
なんともまぁ、非現実的な、もっというと鼻持ちならない演出をするんですよ。
この時点で、もう心が折れるというか・・・。
というのも、最初に理央、朱里、由奈のシーン。
モノローグなしで、理央が朱里を好きだっていうのは、わかるようにちゃんと演技で見えたし、きちんと演者の演技レベルの高さが「映画的」な見せ方としてうまくいっている。
のにもかかわらず「理央君は朱里ちゃんが好きなんだ」みたいなモノローグ・・・。

と本気で舌打ちしました
ある意味で「漫画の実写化」といえば忠実なんだろうけれど、それでも「映画」として見ると不細工な演出がこの前半は随所に散りばめられており、それにイライラさせられる。
ただし、これも全編を見終わると、実は「必要」な要素なんですよね。
ポイント
✅「前半」のキラキラ恋愛展開がすごくシンドい。
✅だだし、映画全体を通してみると、この「シンドい”要素”」が重要な「緩急」として効いてくる。
「思い、思われ、ふり、ふられ」という「恋愛」の結果を描く作品ではない
でこの作品は「全編」を通じて「恋模様」は描いて入るが、「片思い」の一旦の結果。
それ自体は前半部で語り尽くしているのが特徴だと言える。
理央、朱里のキスシーンなど、見所として今作品を語る上で強調させられていたシーンは、つまりCMで流れる「これが見所ですよ」というようなシーンは、大体前半で出し尽くされる。
ていうか、この映画。
浜辺美波、北村匠海、「君の膵臓を食べたい」コンビ作品。
と強調されてるけど、実際はそうじゃない。
これ「アニメ版」のCMをみて思って、観賞後に原作を調べてみたら、その疑問は確信に変わったんですが、やはり「朱里」よりも「由奈」が主役ですよね、この話。
ということで、浜辺美波・北村匠海。
集客のためにこの2人を「メイン」だと謳ってはいますが、実はこれは大きなミスリードでもあるわけですよ。
だから逆に「この2人」を見たい。
そう思った方は、これちょっと消化不良になってしまってるかもしれないですね。
話を戻しますが、とにかく今作品の見所と思しきシーンは全て前半で片付く。
つまり「思い、思われ、ふり、ふられ」というそれぞれが、それぞれの「恋愛」で何を決断したのか、そしてその結果が一旦は「前半」で全て描き切られるのだ。
じゃあこの作品は「何を描きたいのか?」
それは、この恋愛の結果を受けた、それぞれが「自分の人生の選択」をする。その様子を描くのだ。
ある意味で前半部では、フィクション的すぎる人間関係。
ある意味で「ファンタジー」のような、それこそキラキラした、理想化された「青春」をしつこく描いた上で、後半は「我々の実人生にも起こり得る”人生の決断”」を描く。
この作品は「思い、思われ、ふり、ふられ」という「恋愛の結果」を描くのではないのだ。
「思い、思われ、ふり、ふられ」という経験をした、それぞれが、その結果を受けて、「どう生きるのか?」という決断の物語へと、実は大きく方向転換していくのだ。
ポイント
✅「浜辺美波」「北村匠海」コンビ作品と思っていくと、これが大きなミスリード。
✅「思い、思われ」の結果を描くというよりも、この「恋愛」の結果を受けた、それぞれが、それぞれに「決断」をする物語である。
「ここではないどこか」とは?
今作品で仕切りに語られる「ここではないどこか」
それは今いる場所から、地理的に移動して見える景色・場所ではない。
その「どこか」とはむしろ、「大人へと成長した、その上で見える景色」のことだ。つまり心持ち、気持ちの変化によって、今いる場所も全く違って見えるのだ。
奇しくも今週に評した「デジモンアドベンチャ LAST EVOLUTION 絆」でも語った、「何をもって”大人”とするのか?」という問題提起が、この作品でも見事に当てはまるのだ。
例えば由奈は理央に恋をした。
だがそれ自体は一度は儚く夢破れ、そして涙にくれる。
だけど勇気を持って「告白」するという、今まで出来なかったことを通じて彼女は前を向いて歩けるようになったのだ。
「思い」「ふられ」という、その結果が決して叶わずとも、それが彼女を「ここではないどこか」に連れ出した。
由奈をふった理央もそうだ。
前述したように由奈を「ふり」
そしてずっと「思い」を巡らせ、義理の姉となった朱里に告白をする。
だけどそれが「ふられ」たこと。
それで、彼は一種の「叶わぬ恋」という彼をずっと縛り付けていた「呪い」から解放された。
本当に自分が「誰を好きなのか」
別の人を好きになるという、これもまた「新しい景色」に辿りつくことになる。
これは朱里と和臣にも当てはまる。
この2人は互いに「思い」あっているのにもかかわらず、様々なすれ違いでその思いは叶わない。
ちなみにこの作品で要所要所で出てくる一本の映画「アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜」
この映画で語られるのはもちろん「恋愛」もそうだが、「人生をよりよく生きる」という面も強調され描かれている。
この映画が「朱里と和臣の関係性を象徴している」と言っても過言ではない。
ついでに映画というと理央と和臣が意気投合するキッカケになるのが「マッドマックス 怒りのデスロード」
ここで「吹き替え派、字幕派?」で2人が声を揃えて「字幕派」と答えたのは、ある意味で「忖度がねぇなー」と思いました。

ってこのシーンちょっと笑ったんですけど
ちなみにテレビでもオンエアされるので是非チェックですね!
ただし、吹き替えです・・・(AKIRAはそんなに悪くないんだけどなぁ)
ちなみに後述するが、この「マッドマックス」も描いているのは「支配」からの脱却だ。
そういう意味では理央、和臣の「親に支配された」という境遇に対する、抑圧された環境から抜け出したい。
そういう欲求が実は具現化しているとも言える。

ずっと繰り返しているように、今作品は「恋愛」の結果如何をメインに据えるのではなく、その「恋愛」を通じて、それぞれが今の世界に対する「見方」を変える。
それぞれが抱いた「思い、思われ、ふり、ふられ」という出来事、その出来事の先にある景色を描いているのだ。
その結果、4人は「例え地理的に場所は変わらずとも、今いる世界が変わって見える」
つまり「ここではないどこか」にたどり着いたのだ。
それはすなわち、自分で下した重要な決断。その結果なのだ。
そしてその「決断」をする。
そのこと自体が「大人」への階段を一つ上がるということにも繋がる。
だからこそこの作品も「決断をして、大人になる」その過程を描いていると言えるのだ。
ポイント
✅「ここではないどこか」とは、重要な決断の末、例えそれが叶わずとも、勇気を出して行動した。その結果が見せてくれる景色なのだ。
人生の選択
今作品は由奈以外が全員「特殊な環境の親」という存在の保護下にある。
それが故に「自分でどう生きたいのか?」
その主張が出来ないという共通項を持っている。
由奈はそれを見守り、時にその決断に寄与する役割を持っている。
だからこそこの物語では彼女こそが「主役」である正当な理由でもあるのだ。
理央と朱里は「親同士の再婚で義理の家族」となった、それが故に、元々は「好きどうし」だったにも関わらず、「家族の為に」それを押し隠すことにした。
理央だけは切り替えられずに、引きずってはいましたが。
この映画の問題点
ただしこの映画の物足りない、大きな「マイネスポイント」があるので指摘しておく。
それは何故、朱里がここまで「家族を壊せない」と「家族」というものに固執していたのか? という理由が全く描かれないことだ。
この朱里の母親。何度も再婚を繰り返し。
そして理央という、彼女が一度は恋をした相手の親と再婚したり、明らかに子供を不幸な目にばかり合わせている。
そして最後には「離婚」をほのめかすなど、明らかにヤバイ。
にも関わらず、ここまで朱里が「家族「というものに固執した。
その理由は描いて然るべきだ。
何度も「家族」が壊れてきた。だからこそ今回は「壊したくない」ということなのか・・・。
何にせよ、ここは大きな今作のマイナスポイントだ。
この部分をしっかり描けば彼女の最後の決断。
その本質が「家族のため」という、というある種の自己犠牲的な決断から、それも含めて「夢を叶える為」というポジティブなものに変化するのが、より感動的にもなったのに・・・。
ちなみにこの問題点は朱里を物語の軸に据えたことにより生じた問題だとも言える。
だからこそ、「アニメ版」ではおそらくこの点は「マイナス」にはなり得ない可能性もあるので、ここは次回アニメ版評論時に詳しく深掘りする
そして和臣も実は親に気を使う人生を送っている。
兄が大学を中退し、役者を志す。
自分の人生を生きる、親から見れば「自分勝手な生き方」をしていて、それに親が怒りを表している。
だからこそ、和臣は親の気持ちを汲み取り、自分は「親に満足」してもらう為に生きなければならない。
とそう思い込み、自分が本当にしたいことを押し隠して生きている。
彼がどこで「嘘つく時」のクセを見せて、それをやめるのか、そこにも注目!!
この3人の共通点は「親」というものに「自分の人生を委ねている」もしくは「委ねられている」と思い込んでいるという点だ。
ただし先ほどから繰り返すが、この物語は「恋愛」というものを通じて、この「委ねられた」こと、そこから脱却を目指す物語だ。
それは「恋愛」というもの、その中でも「告白」ということは、それ自体が自分の心の欲求。
「好きだ」という感情に素直になることでしか、なし得ない行動なわけだ。
この「告白」というのと、自分の「夢」や「やりたいこと」その道筋への「決断」というのは、実は「将来」への欲求だと言えるし、本質的には、同じものだと言える。
「”これ”をしたい、だから”こうしたい”」という感情を口にする、そのことで自分の人生を歩む決意を彼らはそれぞれにするワケだが、それが出来るのは、一度「恋愛」における「告白」を勇気を持って行動に移したからなのだ。
だからこそ、彼らにとってこの「告白」の可否が重要なのではなく、その過程を勇気を振り絞り行動した、そのことが重要なのだ。
その勇気を振り絞った結果、彼らは最後に朝焼けを見つめる。
「ここではないどこか」にようやく辿り着くのだ。
ポイント
✅勇気を振り絞る「告白」という過程、勇気を出してその決断をしたことが、自分の人生の「決断」をする「勇気」になった。
後半部の演出は「映画的」
先ほど「前半部」のいわゆる「恋の鞘当て」を中心にしていた際の演出が、心の声を全てモノローグとして描いているのがダメだと指摘したが、「後半部」の「人生の選択」というのがメインとして描かれる際には、この「心の声演出」が大きく減っている。
これは前半が「理想化された青春」というある意味でファンタジーを描いていたが、後半が「人生の決断」という普遍的、我々に身近な出来事を描いているからだ。
つまりテーマが大きく変化するに合わせて、実は演出面も大きく「緩急」をつけていたというワケだ。
ここから察するに作り手はおそらく、「恋愛」というので集客をしつつ、本質的に伝えたいのは「人生の選択」の重要性だったのではないだろうか?
だからこそ、僕はこの作品がどんどん尻上がり的に刺さってきてしまった。
つまりこれは「見なければ発見できなかった」ことだ。
ということで若い子の「惚れた腫れた」なんか知らないよって思ってしまう層には届き辛いが、見ればやはり、この普遍的なテーマに大きく心を動かされることは間違いないだろう。
マーケティング上「恋愛」映画だと推すのは仕方ないが、この作品が「恋愛」というもの以上に「人生の決断」という普遍性を持っている作品であるということだけは、声を大にして主張したい。
ポイント
✅演出面も「前後半」で大きく描き分けられている。
✅登場人物が「恋愛」という狭い世界から、現実という「広い世界」に出てきたとも言える。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
青春ってめんどくせー!!
その面倒くささ込みで「愛おしい」と思えるくらいには歳を取ったなぁ・・・。
まとめ
ということで最初は「ミスったなぁ」と乗れない気持ちで見てましたが、後半になるにつれ尻上がりに心に刺さってきたこの作品。
何度も言いますが、やはり「見てみるまではわからない」
何度もそう言ってきましたが、それでもやっぱり「思い込み」に支配されている。
あぁ何と愚かなことかと、また自分の認識を変えなければいけないと、思わされる一本になりました。
そしてアニメ版が非常に楽しみで仕方ないと、これまた新しい楽しみをくれた映画になってしまいました。
そして「大人」になるということ、それは「この先の人生をそう生きるのか?」それを「決める」ことだ。
そのことをこの映画を見にきた若者たちが感じてくれれば、こんなに素晴らしいことはないのではないか?
そして、こうして「決断」をして傷つきながらも成長する若者を見て「がんばれ」と思えるぐらいに、自分が成熟したことをこの作品を通じてしみじみと感じた。
まとめ
- 「恋愛」を通じて、それぞれが成長する姿にエールを送りたくなる作品。
- 「人生の決断」をする、それこそが「大人」になるというメッセージだと教えてくれる作品。
ということで、読了ありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう!!