
今日も「アカデミー賞」作品部門にノミネートされている作品をご紹介。
下馬評も高く、大本命と言われている「ノマドランド」を徹底評論していきます!

この作品のポイント
- 明確な物語性は無い、ただ「情景」で物語が語られる。
- 「フィクション」と「リアル」が共存する作品。
- 「ヴァン」での車中生活の「過酷」さが際立つ作劇。
ただ、それでも、そういう生活に「憧れさせられる」部分もある。 - 同時に安易な「ノマド」憧れの警告の側面もある。
- 2度訪れる「脱ノマド」への道。
「ファーン」の答えは?
目次
「ノマドランド」について
基本データ
基本データ
- 公開 2020年(米)、2021年(日本)
- 監督 クロエ・ジャオ
- 脚本 クロエ・ジャオ
- 原作 ジェシカ・ブルーダー『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』(春秋社)
- 出演者 フランシス・マクドーマンド/デヴィッド・ストラザーン/リンダ・メイ/シャーリーン・スワンキー
あらすじ
企業の破たんと共に、長年住み慣れたネバタ州の住居も失ったファーンは、キャンピングカーに亡き夫との思い出を詰め込んで、〈現代のノマド=遊牧民〉として、季節労働の現場を渡り歩く。
その日、その日を懸命に乗り越えながら、往く先々で出会うノマドたちとの心の交流と共に、誇りを持った彼女の自由な旅は続いていく──。
「ノマドランド」公式サイトより引用
⠀
— サーチライト・ピクチャーズ (@SearchlightJPN) March 22, 2021
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情景が物語る作品

経済破綻により生まれた「ノマド」(遊牧民)
この作品の主人公「ファーン」は2008年の「リーマンショック」に端を発す「経済危機」により、街の工場が閉鎖。
その結果、企業城下町であった街ごと放棄せざるを得なくなり、「車上生活者」つまり「ノマド」になったことが描かれる。
倉庫に預けた亡き夫と暮らした頃の家財道具を車に積み込み、彼女の「遊牧」は始まるのだ。
そしてファーンは、各地を「短期間の職」を求めて移動していくことになる。
そこで出会った、自らと同じ境遇の者たちと、心の交流を深めていくのが今作だ。
基本的に物語はこれだけだ。
そこで出会った仲間たちとの交流、そして各地を移動する。
その繰り返しで、ファーンの心の機微が丁寧に描かれるのだ。
今作の「ノマド」というのは、現代日本でも意味する「ノマドワーカー」のように若者ではない。
最近では日本でも「ヴァン生活」「車中泊生活」されている方もいるようですが、それらのメイン年齢とも異なる。
この作品の「ノマド」たちは「高齢者」なのだ。
こうした「高齢者」の方々も、今作では「経済破綻」に端を発する「不景気」で家を手放さざるを得なくなり、「ハウスレス」「車中泊生活」をしている。
今作ではそんな「高齢者ノマド」とファーンが出会うのだが、そこでファーンと親しくなる「ボブ」「リンダ」「スワンキー」は役者ではなく、現実に「ノマド」をしている方々だというのだから驚きだ。
そういう意味では今作は「フィクション」でありながら、でも実際の「ヴァン」の中の様子や生活の様子は、限りなく「リアル」に近い。
つまり「フィクション」と「ノンフィクション」の両立をしている作品だとも言えるのだ。
だからこそ、この作品には「真に迫る」ものがある。
画面から伝わるのは「映像情報」だけではない、カメラは、そこに確かに存在する「現実」を切り取っているのだ。
だからこそ、今作の臨場感に圧倒されてしまう。
そういう意味では、間違いなく「映画館」で見るべきタイプの作品であることは間違いない。
後年「TV」や「タブレット」で見ると、魅力が大きく半減するタイプの作品だとも言えるのだ。
「ノマド」の過酷さ、それでも何故か「憧れる」
先程から言うように、今作は「ロードムービー」とも言える。
職を求めて移動をし、そこで出会う「ノマド」たちとファーンは交流を深める。
前述したとおり、これ以上の物語はないのだ。
「砂漠の集い」というボブが主催の「ノマド」生活者の交流会でのひととき。
車上生活の「厳しさ」をファーンに教えるスワンキーとの友情。
同じ職場で働いたリンダ、そして「ノマド」という特性上、二度と会えない寂しさ。
「ノマド」をやめるデヴィットとの交流。
それらが、ファーンに小さな変化をもたらしていく。
そこには、小さな幸せも描かれている。
だが、作品を見ていると終始「明日もわからぬ生活」への不安と、「車上生活の過酷」さが我々に突き刺さる。
アメリカという広大な土地。
当然、整備された「車中泊可」の場所も用意されていない。
こういう言い方では、怒られるかも知れないが、あえて批判覚悟で言わせてほしい。
今作の「ノマド生活」は「キャンプ」みたいな「楽しい」ものではない、挑戦でもない、生きるための「手段」なのだ。
(もちろん、日本でも過酷な「車上生活者」もいるだろうが)
車がパンク・故障すれば「命取り」だし、デビットのように「病気」になれば、近くに人がいなければ、確実に「死ぬ」
当然土地も広大な分、ガソリン補給一つでも気をつけなければならない。
いくら寒くても「暖房」を使うのも、燃費を考えると、使うわけにいかない。
実際にファーンは寒波の中で「布団」を何重にも重ねて凌いでいた、
そして「トイレ事情」もまた過酷だ。
コンビニが、日本のように当然数キロおきにあるわけではない。
実際今作は、ファーンの放尿シーンが冒頭で描かれ、中盤にも社内で下痢を催す様子が描かれる。
まさに「トイレ事情」も「ノマド」にとっては死活問題なのだ。
さらに「公共浴場」のような施設も無いので、シャワーで身体を清潔に保つのも困難。
現代の「コロナ禍」を考えれば、それこそパンデミックを起こせば、一瞬で感染拡大し、取り返しのつかない事態になることは容易に想像できる。
そもそも論「移動」した先に「仕事」がある保証もないのだ。
今作を見て、「ノマド」生活に憧れることなど到底出来ない・・・はずだ。
だが、それでも今作の「ノマド」たちの生き方には「憧れ」を抱いてしまうのも否定できない。
それは、登場人物たちが「心のまま」に生きているからだ。
印象的なのは「スワンキー」のエピソードだ。
彼女は「ガン」を患い、余命半年余り。
その少ない人生を「ベッド」の上で「死を待つ」生き方はできない。
「社会性」のようなものに縛られたくない。
見たい場所・行きたい場所にたどり着くことこそが重要だ、とファーンに告げる。
これは、我々の人生にも当てはまる。
我々もこの先「何十年」生きられる保証などない。
その事を潜在的に理解しているからこそ、「心のまま」に生きるスワンキーの生き方に共感してしまうかれではないか?
そんな事を考えさせられてしまった。
「ノマド」をやめる者・やめない者
今作では、ファーンへ「定住」への誘いが2度ある。
一度は家族である妹からの誘いだ。
そして二度目はデビットからの誘いである。
まず一度目だが、車の修理代調達のために、ファーンは妹の家へ足を運ぶことになる。
そこで妹家族と再会することになる。
そして、妹はファーンに、彼女が早くに家をでたこと、ずっと会えなかったことの寂しさをぶつけ、彼女に「一緒に暮らそう」と提案する。
二度目は「ノマド」仲間であり、息子からの誘いで「ノマド」をやめたデビットの誘いだ。
彼はファーンに恋心を抱いていて、彼女に「一緒に暮らそう」と、再婚の申し込みをするのだ。
この作品で2度ファーンは「定住への誘い」をうけるのだが、どちらの提案に対してもファーンの心は揺れ動くのだ。
しかし結局は、その提案を断ることになる。
まず妹からの誘いだ。
心揺らぐファーンだが、妹家族の心無い「儲け話」にうんざりし、反論をする。
ファーンにとって、金銭的に苦しい人々を「ローン」に縛り付けて、自らの儲けとする「不動産」に、心底嫌気がさすのだ。
それは彼女が、ある意味で「リーマン・ショック」本質的には「サブプライム住宅ローン」問題により引き起こされた「金融危機」で全てを失った。
そのことへの怒りをもっていることの現れだ。
そして、こうしたある意味で「雲の上」で起きた「天変地異」のような出来事に、人生を狂わされた人々を見てきたファーンは、やはりそのことが許せないのだ。
だからこそ、彼女は、その誘いを断ることしか出来なかった。
次にデビットからの誘いだ。
「ノマド」をやめ、そして息子家族と暮らすことを決めた彼の車。
ビニールシートが貼られ、タイヤもパンクしたまま。
随分動かしていない形跡が描かかれ、完全にデビットは「ノマド」をやめたことが語られる。

それが放置されている、つまり完全に「ノマド」をやめたことを意味している
この2人は旅先での交流や、ファーンの大事なお皿をデビットが不注意で割るなど、今作の中では特に深く交流をしている。
そんな中でデビットはファーンに恋をしていた。
ファーンも彼に「好意」は少なからずあったはずだ、でも、それは「ノマドのデビット」に対してだ。
彼と「屋根の下」で安定した生活を彼女は想像できないのだ。
亡き夫のこと、自分を「ノマド」に追いやった、自分の力では及ばぬ出来事に翻弄されたこと。
彼女は二度と、何かに大切なものを「奪われたくない」のだ。
だからこそ、誘いには乗れないし、彼女は黙ってデビットの元を去る。
ただ、ここでファーンはデビットの生き方を否定することはしない。
実際に「安住の地」で生きることを、一瞬でも彼女は考えたはずだ。
それでも「ノマド」を彼女は選ぶのだ。
重要なのは、ファーンは自分の生き方に「確固たる自信」があるわけではない。
心の奥底では「間違っている」と思っているのかも知れない。
ましてやデビットを「ひよりやがって」と否定はしていない。
ただ、「心の声」に従い彼女は「ノマド」を選び「旅」に出るのだ。
そして「海」にたどり着く。
どこまでも続く水平線、しかし荒天。
これは、確かに「自由」だが、その生き方は「厳しい」ということを物語っているのだ。
「さよなら」の意味
「ノマド」とは「遊牧民」
「安住の地」を持たず、居住場所を変えながら旅をする存在だ。
つまり、「縛り付けるもの」のない存在だといえる。
ポイント
「ノマド」の日本での意味合い。
日本では「自由な生き方」「何にも縛られない」という、ある意味で「企業」に「縛り付けられる生き方」の反対する意味で、非常に「好意的」な意味合いが強い言葉だ。
しかし本質的には、「すべての責任が、”自分”にある」
つまり、最も厳しい生き方でもある、そのことが見落とされている気がする・・・。
だが、この作品を見ていると、本当に「ノマド」たちは「何にも、縛られていない」のか?
それを深く考えさせられてしまう。
というのもこの作品でファーンを始めとする登場人物皆が、「大切なものを無くした」
そのために「ノマド」になったことが示唆される。
ファーンもそうだ。
「最愛の夫」と死別したことに、深い悲しみを感じ続けている。
だからこそ、本来「自動車泊生活」に必要のない家財道具などを倉庫に預け、保管していたのだ。
それは、つまり「過去に縛られている」ことに他ならないのではないし、「思い出に縛られている」ことと同義だと言えるのだ。
この作品で最後に、ファーンはボブと再会する。
そこで、彼は息子が自殺したことをファーンに告げる。
そして、彼自身もまた「過去に縛られている」ことを告白するのだ。
だけど同時に彼は「ノマド」にとっての「GOOD BAY」の意味をファーンに告げる。
それは「さよなら」ではない、「また、どこか出会おう」というものなのだ。
この生活には「別れはない」
つまり、この言葉こそファーンが最も欲しかった言葉なのだ。
「ノマド」である限り「別れはない」
そして、最愛の人は「心の中にいる」
いつか、その人と「再会」できる希望があるのだ、とボブは告げる。
だからこそ、最後に彼女は倉庫にしまっていた思い出の品を全て処分し、廃墟と化した、かつての家にたどり着く。
この「思い出」に縛られている限り「さよなら」は「さよなら」でしかない。
その「思い出」に一区切りつけることで、ようやく「さよなら」は「また、会おう」という意味に変化するのだ。
だからこそ、最後には、これまでと変わらぬ生活をファーンは続けるのだ。
ここまで同じ状況であっても「過酷」さが際立っていた。
だが、ここにきた彼女を「縛っていたもの」は消えたのだ。
だからこそ、少しだけ「希望」のようなものが画面から伝わってくる。
そして、物語は締めくくられるのだ。
確かに「憧れる」生活だが・・・。
この作品を見て最後に思って事を述べておきたい。
それはファーンたち「ノマド」の生活は、やはりどこまでも「過酷」だし、「自由」というものとは程遠い。
もちろん、今作の「ノマド」の方々の生き方に感銘を受ける点はいくつもある。
「誇り」を貫く姿に「美しさ」すら感じた。
特にスワンキーの行く末は感動的であった。
彼女は最後の場所を自ら選んだのだ。
ずっと「憧れていた場所」で本懐を遂げ死ぬことが出来たのだ。

だからこそ、この生活を安易に僕は「肯定」する気持ちにはなれなかった。
何度目かの繰り返しになるが、今作で描かれる「ノマド生活者」は「キャンプ」の延長線上や「セーフティー・ネット」の上に成り立つ「車中生活者」ではない。

元々は「そうならざるをえなかった」のだ
広大な「アメリカ」の国土。
圧倒的な不自由さ。
現実の不条理さ。
それらが「ノマド」たちの肩に重くのしかかるのだ。
それでも彼らがこの生活をやめないのはなぜか?
今作では幸運にも、ファーンには「やめるチャンス」が2度も訪れる。
それは、これが「映画」だからだ。
現実を見れば、「ノマド」たちには差し出される手が、ないのではないか?
だからこそ、逆に「誇り」をもって彼らは「ノマド」を続けるしか無いのだ。
「誇り」がなければ、自分の置かれた状況に「絶望」してしまう。
そうならない為に「ノマド」は「誇り」を持ち続けいるのではないだろうか?
そんな風に僕は感じてしまった。
もちろん、現在「ノマド生活」をしている方々、その中には過酷な現実を生きている方もいるはずだ!
だからこそ、逆に僕は「ノマドランド」を見て、安易な気持ちでこの生活に「憧れ」を抱くものではないと感じた。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
安易に「ノマド生活」に憧れては、いけない!
個人的には、安易な「ノマド」憧れに対する警告でもあると感じた
まとめ
今作を見ていて「ノマド」に憧れを感じる方も多いと聞くが、僕は全く真逆の印象を受けた。
「ノマド」という言葉で想像するイメージに対して、厳しい現実を突きつける、要は安易な「ノマド」憧れに対する「忠告」と思えた。
だが、それでも今作の最後に「希望」が残るように感じるのはなぜか?
(それが鑑賞後に「憧れ」という気持ちにつながったのだと思うのだが・・・)
それは「ファーン」が「過去」に縛られなくなったからだ。
彼女は終盤まで「ノマド」ではあったが、「過去」に縛られていて、ホントの意味で「自由」ではなかったのだ。
そしてただ「さよなら」を恐れていたのだ。
だからこそボブの言葉で彼女は「過去に一区切り」をつける決意をする。
そして、彼女の中で「さよなら」の意味が変わるのだ。
だからこそ彼女は、「真」の意味で最後に「ノマド」になった。
そもそもファーンは「ノマド」に「ならざるを得なかった」
だけど、最後には、「ノマド」になったことで、彼女は「一歩前に進めた」のだ。
つまり、そこに「ポジティブ」な要素が加わるのだ。
「過去に縛られず」「さよなら」を恐れない。
そんな風に彼女が変化したから、「一縷の希望」があるように描かれるのだ。
だが、それは逆に、彼女が「戻ってこれない」
つまり「安住の地」を得るという選択肢を完全に失ってしまった、そういう風にも見えてしまった。
もちろん、これは僕の考えだ。
恐らく他の方が見れば「別の視点」でこの作品を語ることは出来るし、ぜひそういう感想を読んでみたい。
ただ、間違いなく言えるのは、見れば「ぶっ刺さる」事間違いないのだから、とにかく「映画館」で見てほしい作品だと思うので、心のそこから「オススメ」です!
まとめ
- 安易な「ノマド」憧れに対する忠告といえる作品だといえる。
- 「ファーン」にとって「一縷の希望」があるラストだが、逆に「もう戻れない」ことを示唆している。
ということで、読了お疲れさまでした!