
さて、本日は新作映画を鑑賞してきましたので、その感想を語りたいと思います。
ということで、取り上げるのは「泣く子はいねぇが」です!
この作品のポイント
- 「なまはげ」は「父」になる通過儀礼として大切。
- いつまでも「父」になれない男の足掻き。
それすらも愛おしい。
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どちらも併せて楽しんでください!
目次
「泣く子はいねぇが」について
基本データ
基本データ
- 公開 2020年
- 監督/脚本 佐藤快磨
- 出演 仲野太賀/吉岡里帆/柳葉敏郎
あらすじ
笑って、泣いて、叫んで。 彼の出した答えが、あなたの胸に突き刺さる――。
たすくは、娘が生まれ喜びの中にいた。一方、妻・ことねは、子供じみて、父になる覚悟が見えないたすくに苛立っていた。
大晦日の夜、たすくはことねに「酒を飲まずに早く帰る」と約束を交わし、地元の伝統行事「ナマハゲ」に例年通り参加する。
しかし結果、酒を断ることができずに泥酔したたすくは、溜め込んだ鬱憤を晴らすように「ナマハゲ」の面をつけたまま全裸で男鹿の街へ走り出す。
そしてその姿をテレビで全国放送されてしまうのだった――。
それから2年の月日が流れ、たすくは東京にいた。
ことねには愛想をつかされ、地元にも到底いられず、逃げるように上京したものの、そこにも居場所は見つからず、くすぶった生活を送っていた。
そんな矢先、親友の志波からことねの近況を聞く。
ことねと娘への強い想いを再認識したたすくは、ようやく自らの愚行と向き合い、地元に戻る決意をする。
だが、現実はそう容易いものではなかった…。
果たしてたすくは、自分の“生きる道”、“居場所”を見つけることができるのか?
公式サイトより抜粋
「たすく」の心情もわかってしまう

「たすく」の失態
この作品のメインテーマは「父になるとは?」だ。
ちなみにこのテーマだが、やはり脳裏に是枝裕和監督作品「そして父になる」を思い浮かべる方も少なくないだろう。

このテーマはある意味で「男」に生まれた者が「必ず」思い悩むことではないか?
もちろん、それは「女性」でもそうだ。
だけど、一応自分、「男」なので、今日はその目線で語りますね!
ということで、とにかく今作の「たすく」は妻の「ことね」から見ると非常に頼りない存在だ。
ヘラヘラして、子ども時代を引きずって、おおよそ「父」らしいとは言えない。
恐らく結婚して「夫婦」という段階では気にならない、「優柔不断さ」「決断力」のなさ。
いざ、子どもができてしまうと、どうしてもそれが、ことねには、目についてしまうのだ。
その際たるものが「なまはげ」に参加するということだ。
これは後述するが、この伝統行事は、子どものために行われていると思われているが、実はもう一つ「大きな意味」を持つ。
それは「男」が「父」になる「通過儀礼」というものだ。
ただ、たすくは例年通り「なまはげ」に参加する。
「酒を呑まずに早めに帰る」
これは、打ち上げに参加せず、家族で年越しをしたいという約束だ。

これ、男目線だと「付き合い」「同調圧力」など、言い訳してしまいそうになる。
だけど、逆の視点から見れば、「断るくらいできるでしょ?」
そう思われるのも、これは想像するに容易だ。
ただ、たすくの肩を持つと、「なまはげ」のなり手が減っているのも事実で、彼には「伝統」を守るという、ある種の使命感もあったのだろう。
ということは容易にこれも想像できる。
ちょっと言わせて!!
ていうか、これ持論ですけど。
「こういうの(飲み会)、途中で抜けると悪い」って思いがちですが、別に抜けたところで他人はそんなこと気にもしないですけどね・・・。
でも、これは「昭和的」というか、そういうのを「チクチク」言われた時代のことを、みんなが引きずってるだけですよね?

ただ、結局たすくは「二つの約束」を破ってしまう。
中抜けせず、そして泥酔する。
さらに、全裸に「なまはげ」フェイスというトンデモナイ格好で、町を全力疾走。
その姿を、お茶の間に晒すという失態を犯してしまう。
このおおよそ「父」とは言えない、「大人」とも呼べない失態で、たすくは離婚し、全てを失う。
そして誰もこの失態を知らない東京へ逃げるように出ていくのだ。
そこから、この物語は「たすく」がもう一度秋田に戻り、「ことね」そして娘の「凪」と、家族としてやり直そうと努力する姿が描かれる。
信頼回復に努めるも、手段がやはり「幼稚」
さて、物語は再び秋田に帰還した、たすくが、もう一度ことね・凪と「家族」としてやり直そうと奮闘する姿が描かれる。
しかし、ここで彼は、大きな問題に直面する。
それは、ことねに対する「慰謝料」「養育費」という問題だ。
彼女は娘のために、苦手なお酒を我慢しながら、水商売でなんとか生きていこうとしている。
たすくは逃げるように向かった東京で、これまた自堕落な生活をしていた。
二人には大きな溝があった。
この時点で彼は気づくべきだった。
もう「やり直し」は不可能だということを。
しかし彼は、それさえ払えば、全て元どおりになると、盲信的に信じるようになるのだ。
そこから取る手段が、なんともまぁ「幼稚的」
必死なのだが、それでもどこか「無責任」というね。
海の幸をの密漁し、そしてバイトのような仕事。
その際描かれる彼の、これまた「無責任」な行動、仕草。
とても必死には見えない。
でも、これが彼なりの誠意であり、必死なのだ。
ただ何度も繰り返すが、この直視したくない現実を突きつけられた、そこからも逃避したい。
楽観視したい。
そういう気持ちにならないと、果たして言えるのだろうか?
このシーンも非常に身につまされてしまう。
しかし彼の奮闘も虚しく、ことねは他の男性と再婚をする。
その決意が硬いことを、たすくは突きつけられてしまうのだ。
「なまはげ」を通じての「ケジメ」
全てが失われることに気づいたたすく。
彼の無力感が最も際立つのは娘のお遊戯会だ。
もう長年彼は娘と会っていない。
そこでお遊戯会を見ても、彼には誰が娘かすらもわからないのだ。
これで「父親」と言えるのか?
彼は決心をする、それは「諦める」
言い換えるなら「ケジメ」とも言える。
さて、これは前述もしたが、「なまはげ」には一つの大きな意味がある。
それは子どもに対してだけではない。
「男」が「父」になる通過儀礼として、そうした側面も持ち合わせているのだ。
深掘りポイント
「なまはげ」
基本的には子どもに「いい子にしないと、なまはげがくる」という。
ある種の恐怖体験を植えつけて、悪い行動をすると、「なまはげがくるよ」と、その体験の恐怖を思い出させることによって躾をする。
ただ、もう一つ、怖がる子どもに父が「大丈夫だよ」と安心させることで、子どもを守る姿を見せる。
そのことで、「男」が「父親」であると「自覚」させるという側面を持つ。

彼らから凪を守るために行動しなければならなかったのだ
これまで「全裸なまはげ」という醜態を晒したたすくは、当然「なまはげ実行委員会」からも目の敵にされた。
彼のせいで伝統が潰える危機的状況にもなっていたのだ。
そのため彼は友人と協力し、父の遺した「面」を被り、非公式に「なまはげ」に変身。
実行委員会の手から逃れ、なんとかことね達のいる家に辿り着く。
そして彼は自ら「なまはげ」として凪の前にたち、ことねの再婚相手の通過儀礼を、彼自身が手助けするのだ。
「泣く子はいねぇが」
この言葉で泣き叫ぶ凪。
面越しの再会、でもそれは永遠の別れ。
言葉では凪を威嚇しながら、でもその面の奥には、大きな悲しみを抱えるたすく。
永遠に続けばいい、でもこれは「別れ」でもある。
彼自身が、凪の親になる「男」を「父」へと変える手助けをする。
ここで物語は幕を下ろす。
「父」になれない「たすく」が、凪を新しく「父」になる「男」に託したのだ。
これが彼のできる、最初で最後の「父」としての役割だったのだ。
ここまで無様にここまで足掻いた「たすく」の最後の決意。
自分の魂の片割れともいうべき家族を、新しい家族に託す。
その方法も非常に無様だった。
でも、そういう生き方しかできない男の、無様にも足掻く。
そして、全く無意味な、でも彼の行動に、ぼくはやはり深く感動させられてしまった。
「命」の責任

「父」になるということ、とは?
この作品は冒頭でも話したように「是枝裕和」が関わった作品でもある。
「佐藤快磨」監督の脚本を読み、世界観に惚れ込み、この作品制作の実現のために支援したということだ。
なぜ、この作品に彼は惚れ込んだのか?
それは、おそらく「父」になるというテーマを、是枝監督も繰り返し語っているからだ。
このテーマ自体を映画で表現することを重視しているからだと言える。
思えば「そして父になる」はもちろん「万引き家族」でもそのことは描かれていた。
特に「万引き家族」でリリー・フランキー演じる治の行動は、やはり子どもじみていたし、その行動には「責任感」というものは介在していなかった。
彼も「父」になれなかったのだ。
そんな「父」になることを描く「泣く子はいねぇが」の脚本を読んで、制作を是枝裕和監督が支援したのは、彼のフィルモグラフィーを見れば、それは当然でしょ、と納得をせざるを得ない。
深掘りポイント
「父になる」とはどういうことなのか?
ある意味でぼくは「命の責任」を持つ。
この覚悟の有無だと考えている。
これは女性も同じだと思うし、別に「父になる」ってことに限った話ではないでしょう。

自分に「命」の責任を取れるのか?
「命」に幸せな「人生」を送らせてやることができるのか?
「子」は「親」を選べない。
そこに対して「できるかな?」という不安半分の気持ちではダメだと、ぼくなんか思ったりしてます。
もちろん、そこに「迷うこと」はあったとしても、それでもやはり「強い意志」は不可欠だ。
この考えが別に絶対だ、なんてぼくも思っていませんが・・・。
だけど、昨今「虐待」「育児放棄」など、本当に「覚悟」があったのか?
と思わずにはいられない、悲惨な事件も多く起きている。
今一度、「命の責任」について、考えなければならないのではないだろうか?
ただ、今作品でのたすくは、既に「命」を育てるため、生きなければならない立場だ。
そこでフラフラしているのは、ことねならずともイライラしてしまう。
それは間違いない。

それでも「迷う」ことは気持ち的には理解できもするんですけどね・・・。
ただ、この作品は「父になる」こと。
そのことを「迷って」そして「足掻く」その姿をきちんと、見捨てずに描く。
現実問題、誰もがちゃんとした「父」にはなれない。
そういう人間も、この世界にはいるのだ。
そのこともまた、認める。
ある意味で「優しさ」にあふれている。
そして、これもまた「人生」なのだ。
そのことを丁寧に描いた作品だったと言える。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
「覚悟」を持って「命」と向き合う。これは当たり前。
でも、それができない人間もいる。
そこを「見捨てない」作品だった!
まとめ
無様に「父」になれない男の姿を描いた今作品。
最後に「なまはげ」を通じて、たすくは凪を「新しい父」に託す。
その決断は、非常に重いものだっただろう。
だけど、これが無様に必死に足掻いた男の精一杯の「父」としての仕事だったのだ。
この、どうしようもない男。
今作は、その姿を「見捨てず」描いていた。
いくら「覚悟した」とはいえ、誰もが必ず迷うであろう「父になること」
その誰もが持つ「迷い」に突き刺ささる作品だったのではないか?
世の中にはとはいえ、それでも「覚悟」できない人間もいる。
それは「無責任」とも言える。
だけど、それでも、そんな人間にすら寄り添う今作品。
まさに「フィクション」だからこそ描けるのだ。
こうはなりたくない。
でも、世界には、どうしようもない、でも、それでも必死に生きる者がいる。
そんな人間に寄り添う作品だったのではないだろうか?
まとめ
- 世界には、とはいえ「覚悟」できない人間もいる。
そんな人間を見捨てない作品。 - 「なまはげ」に込められる意味を深く考えさせる作品。
ということで、今日も読了お疲れ様です!
また次回の記事でお会いしましょう!!