
長編ディズニー映画を公開順に評していく「ディズニー総チェック」
今回は「ムーラン」について語っていきたいと思います!

この作品のポイント
- 実は前作「ヘラクレス」と真逆の作品である。
- 何をしても上手くいかないムーラン、彼女の強みとは?
- 実は同様の悩みを抱える者達の存在。
目次
「ムーラン」について
基本データ
基本データ
- 公開 1998年
- 監督 バリー・クック トニー・バンクロフト
- 脚本 リタ・シャオ クリストファー・サンダース フィリップ・ラゼブニク
レイモンド・シンガー ユージニア・ボストウィック=シンガー - 声の出演 ミン・ナ B・D・ウォン ほか
あらすじ
賢いムーランは、父親の代わりに男性兵士“ピン”に扮して中国軍に加わり、古いしきたりに縛られた社会の中で果敢に自分の力を証明する。
へんてこな守護竜ムーシューや幸運のこおろぎクリキーの力を借り、仲間や勇敢なシャン隊長に認めてもらおうと奮闘する。
クライマックスは王宮のてっぺんで繰り広げられる最終決戦だ。
ムーランの家族の誇り、そして皇帝と国の運命は、ムーランの手に握られている。
ディズニープラスより引用
真の自分を求める物語

前作と、真逆の要素
「総チェック」の醍醐味である、公開順に見てきた事による発見が今回もあった。
それは、前作の主人公であるヘラクレスと、今作の主人公ムーランは、ある種「力」について悩んでいる点だ。
ヘラクレスは「力があり過ぎる」ことを悩み、ムーランは軍に入隊後「力の無さ」を悩むのだ。
そして両作品に共通するのは、それを如何に乗り越えるのか? が描かれること。
さらに、その先にある結末も似通っている点だ。
よくムーランを「プリンセス」の1人と数えることもあるが、個人的にはこれは同意しかねる。
理由は、「ムーラン」という作品は「英雄譚」という側面があるからだ。
こうした理由で、僕はムーランを「ディズニー初、女性英雄(ヒーロー)」だと考えている。
そして今回は、この前提で話を進めていこうと思う。
この作品は、彼女が如何に「英雄」となるのかを描いた作品だ。
そのために、彼女がいかなる困難に直面し、そして乗り越えるのか?
そこを中心として、今回は深堀り解説していきたい。
「家父長制」を良しとする、価値観に馴染めない
今作は冒頭、「フン族」率いる「シャン・ユー」が「万里の長城」を超え進行。
その報告を受けた「皇帝」が、統治下の村に「召集令状」を出し、「予備軍」の組織を指示するところから始まる。

日本では「古墳時代」から「飛鳥時代」の頃
ここで「米一粒で、天秤が傾く」という皇帝のセリフに起因して、米を食べているムーランに場面が切り替わるのだが、「同じモチーフ」を起因して、カットが移る。
そのため、今回の「フン族」の進軍に、ムーランが多大な影響を及ぼす「米一粒」であることが、我々にシーンの移り変わりのみで説明される。
この手際良い描写で、我々は一気に作品世界に引き込まれることになる。
だが、そんな「米一粒」となるはずのムーランは、どちらかといえばドジっ娘といえる。
彼女は「ファ家」の名誉のため、両親の為に、「良家」に嫁げるように「見合い」に参加することになる。
そこで歌唱される「家に名誉」という楽曲。
ちなみにこの楽曲で歌われる歌詞は、まさに東アジアの「家父長制」を象徴するかのような歌詞になっている。
殿方が望むのは
無口、従順、働き者、育ちがよく、おしとやか
みんなの誉れです
(中略)
うまくいくように、ご先祖様見守って
家の名汚さず、父さんの面目立つように
(中略)
親に名誉を、家族に名誉を、家に名誉を、みんなに名誉を
もたらしたまえ
「家に名誉を」より抜粋
現代の価値観から見れば、批判されそうな価値観だが、今作では皆が必死に「みんなの誉れ」になるように、歌詞の通りに振る舞おうとする。
当時の時代では、やはり「家父長制」が当たり前の時代。
女性に生まれたからには、「良家」との「良縁」を手にして、家のために尽くす。
そして結婚後は、今度は旦那や家のために尽くす事が「よし」とされていた時代だ。
ムーランは、父「ファ・ズー」の面目、一族の面目を保とうと努力はしたが、それは儚くも散る。
「女性らしく振る舞えない」ことに悩み、深く傷つくのだ。
そして傷つき、意気消沈した彼女は、「リフレクション」を歌う。
ここで、彼女は化粧した自分が自分でない悩み、本当の自分を見失う苦しみを吐露するのだ。
今作では、この「家父長制」の支配する世界で、「良き女性」として振る舞えないムーラン。
このままでは「家に誉れ」をもたらすことなど到底出来ない彼女が、全く別の方法で「家に誉れ」をもたらすことが描かれる。
そのことを描くことで「女性とはこうあるべき」という間違った指針をいつまでも持っていてはいけない、という時代批評の側面を今作は持っているのだ。
今度は「男として」もダメの烙印
この作品の時代における、「良き女性像」を体現出来ない悩みをもつムーランは”ピン”と名乗り、足の負傷を抱えた父に変わって、「男装」し軍隊に参加することになる。
ここでもムーラン=ピンは、訓練に参加しても足手まとい。
(当然、女性だから体力・筋力で劣るのは、やむを得ない)
トラブルづくしなど。
いいところがまるで無いのだ。
このトレーニングシーンで歌われる「闘志を燃やせ!」
この歌詞にもあるように、ピンは隊長であるシャンに「女にも劣る」「臆病者・弱虫」と言われ、「俺が鍛えてやる」と鍛えられるも上手くいかない。
そして、ついに「隊」を追放されかけるのだ。
だがピンは諦めない。
実はこの「闘志を燃やせ!」ではピンが生き残るヒントが提示されていたのだ。
それが「裏をかく戦術・知恵」だ。
ピンはおもりを柱に括り付けるという工夫で、誰も成し遂げられなかった「柱上り」を完走するのだ。
ここで重要なのは「筋力・体力」で劣るピンの強みはなにか? という点だ。
それは「頭を使う、知恵」だ。
つまりピンは、みんなに劣る点を「工夫」で乗り越えることになるのだ。
そして、こうした努力が認められ、ピンは少しずつ隊で認められるようになっていく。

「男」でも「女」でもなく「ムーラン」として「認められる」
今作で中盤ピンは負傷し、正体がバレてしまい「規律違反」として、ムーランは隊を追放されてしまう。
だが、彼女だけは「フン族」が生きていることを知り、その魔の手が密かに「都」に迫っていることを知り、シャン隊長を追う。
だが、全く信じてもらえずにムーランは叫ぶのだ「ピンなら信じてくれたのに」と。
本来なら「ピン」「ムーラン」は同一人物だし、1人の人間として一度は友情・信頼を深めたからこそ、その言葉は信じるに値するハズだ。
だが、シャンは「ピン」は信頼できても「ムーラン」は信用できないのだ。
当然、性別を偽っていたのだから、仕方のないこととはいえ、それでも彼女の必死な言葉に耳を貸そうとしなかった。
そして王宮での「フン族」討伐のセレモニーの最中、シャン・ユーはまんまと皇帝を拉致することに成功するのだ。
固く閉ざされた門の前に立ちふさがるシャン隊一同。
だがムーランだけは違った、柱に布を巻き付けて侵入しようとするのだ。
そこにヤオ、チェン、リーは仲間としてムーランの作戦に同調する。
そしてシャンもムーランを再び認めることになるのだ。
そこで、トレーニングシーンで使われた「闘志を燃やせ!」がワンフレーズのみ歌唱される。
「裏をかく戦術・知恵」
最初にピンが認められた時を皆が思い出すのだ。
この楽曲の一部だけを使用して、再び「信頼」を勝ち得たという演出は丁寧だ。
たったワンフレーズだが、十二分にムーランが信用を勝ち得る、そのことを上手く歌を使って描いている。
この辺りの演出は非常に丁寧だ!!
そして、「工夫」と「勇気」でついにムーランはシャン・ユー討伐の功労者として、「皇帝」や国中の人々に認められるのだ。
ここで描かれるのは、「女らしく」「男らしく」という言葉に翻弄されたムーランが、初めて1人の人間「ムーラン」として認められる瞬間でもあるのだ。
この作品でムーランは「女らしく」「男らしく」という一般的な「性別」のイメージを押し付けられ、翻弄される。
そんな中で、本当の自分を見失うのだが、最後に彼女は「ムーラン」という1人の人間としてのアイデンティティを手に入れることになる。
ここまで何度も「鏡、水面」に「反射=リフレクション」する自分の姿に、確固たる自身を持てなかったムーラン。
だが最後には彼女は1人の人間として認められ、そして故郷に帰っていくのだ。
そして父ファ・ズーが冒頭で述べたように、「最後の一輪が美しい」という言葉通り、シャンとのロマンスの予感を感じさせて幕を下ろすのだ。
偽りの姿を「真実」に・・・。

偽りの姿を持つ者
今作はムーランの他にも「偽り」の姿を持つ存在がいる。
まずは守護竜の「ムーシュー」だ。
今作でのコミカルな演技は印象に残っている方も多いのではないだろうか?

彼は「ファ家」の「守り神」だったが、先代を守ることが出来ず、その座から引きずり降ろされ、「目覚ましかかり」に降格してしまったのだ。
そこで彼は「守り神」の地位に返り咲く為にムーランに嘘をつき、彼女に「戦」で手柄を取らせようとするのだ。
だが、基本的にドジなムーシュー。
ムーランの為に色々なアドバイスをするが、どれもトラブルを誘発する。
この一連のシーンは全て笑えるシーンとしても上等な仕上がりだ。
しかしムーランの正体がバレて追放され、またも自分を見失い意気消沈する姿を見て、ムーシューもまた、自分が「守り神」ではないことを告白する。
ここまで、ムーシューは口にはしなかったが「姿を偽り奮闘するムーラン」
その姿にムーシューは自分を重ねていたのだ。
だからこそ、彼もついに自分の「嘘」を告白するのだ。
そしてこのシーンでもう一匹も「偽りの姿」だったことを告白する。
それがコオロギ「クリキー」だ。
彼は、ムーランの祖母に「幸運のお守り」として飼われ、そしてムーランに手渡されたのだ。
だが実際に彼には「幸運」を授ける力はない。
そのことを涙ながらに告白するのだ。
ここでムーラン一同は、全員がある種「偽りの姿」を持っていることが明らかになる。
だが結果全員は力をあわせシャン・ユーに勝利、一行は全員が「偽りの姿」をある意味で「真実の姿」に変えることになるのだ。
そして忘れてはいけないのは、シャン隊長もまた「偽り」の姿を持っていた存在とも言える。
彼の父は「大将軍」で、そんな父に認めてもらいたいと、シャンは、立派な「シャン隊長象」を作り上げる。
だが、それがたたって自信過剰な面も見え隠れするのだ。
そんな彼もまた、隊員を信頼し「虚勢」だった隊長象に一歩ずつ近づいていく。
「人は、他人によく見られたい」がために「嘘をつく」「見栄を張る」ことがある。
今作は、そんな人間の「弱さ」のようなものに触れながら、その「弱さ」を、自ら認め、そこから必死に行動することの尊さを我々に伝えてくれるのだ。
自分の弱さを認め、もがいた、そのことで、ムーランたちは「理想」としていた結果にたどり着くことになるのだ。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!!
嘘をついた後が大切!!
個人的に「ムーラン」(アニメ版)は過小評価されてると思ってる!
もっと評価されるべき!!!
まとめ
今作の「ムーラン=ピン」は「女らしさ」「男らしさ」ということに悩み、苦しむ。
そして自分の「本当の姿」を見失ってしまうのだ。
「反射=リフレクション」する自分が、本当の自分に見えない。
それは彼女が、周りに「認められていない」ことと大きく関係してくる。
だが、彼女は「工夫」という知恵を使い、そしてシャン達から信頼を勝ち得て、最終的には大手柄を打ち立てるのだ。
そして彼女は初めて「女・男」としてでなく「ムーラン」という1人の人間として「認められる」ことになる。
それは、ようやく本当の自分を周囲に「認められた」ことを意味しているともいえるのだ。
それはムーシューやクリキー、シャン隊長もそうだ。
彼らには「理想」とする姿がある、本当の自分はそんな「姿」とは程遠い。
だからこそ「虚勢」をはり、その「姿」に自分が達しているのだと「嘘」をつくのだ。
(シャンにも、もう少しこの点の掘り下げが欲しかったところではある)
だが、最終的にその「嘘」を認める。
「弱さ」を認めることで、彼らは「理想」の姿に近づいていくのだ。
だからこそ彼らはムーランと深く理解しあえたし、信頼出来たとも言えるのだ。
このように今作は「ジェンダー論」として「男らしさ」「女らしさ」という点の批評的側面を持つ。
さらに「嘘」「虚勢」をついたとしても、そのことを「認める」ことで、本当の「理想」に近づけるという、人生の教訓を示した作品なのだ。
まとめ
- 「男」「女」の世界。そのどちらでも認められない「ムーラン=ピン」
- そんな彼女が「1人の人間」として「認められる」物語である。
- 主な登場人物は、皆「嘘」を抱え、それを「認める」ことで、「理想」にたどり着くのだ。
今回も読了ありがとうございました。
次回は「ターザン」でお会いしましょう!
おまけ

アニメ、漫画で見る中国史
かなりどうでもいいトピックなので、ここは読み飛ばしても構いませんが・・・。
最近「キングダム」(作:原泰久)にハマってまして、この辺りの時代背景を整理しておくと、楽しみ方も増えるのではないか?
そう思い、中国史を少しだけ、勉強したいと思います。
西暦 | 中国 | 日本 |
紀元前770年〜紀元前221年 | 春秋戦国時代(『キングダム』) ➡「秦国」による「中華統一」 |
縄文時代〜弥生時代 |
紀元前206年〜220年 | 前漢・後漢時代 | 弥生時代(吉野ヶ里遺跡) |
220年〜280年 | 三国時代(『三国志』) | 弥生時代〜古墳時代(卑弥呼が魏に使いを送るのが239年頃) |
304年〜439年 | 五胡十六国時代➡「北魏」の河北統一 | 古墳時代 |
439年〜589年 | 南北朝時代(南北に王朝が並立)「ムーラン」はこの頃の「北魏」の物語とされている |
古墳時代〜飛鳥時代(「聖徳太子」の誕生が574年) |
つまり「ムーラン」の物語は、だいたい「聖徳太子」がいた頃と考えると、どれほど古い時代を描いた作品か分かっていただけたと思う。
漫画「キングダム」の時代から「ムーラン」まで約600年ほど経過しているのも驚いた。
改めて中国の歴史の長さを思い知らされる、ちょっとしたお勉強のトピックでした!!