
さて、本日は「PIXAR作品」を公開順に鑑賞・評論をしていく【PIXAR総チェック】
今回は「PIXAR作品」としては通算4作品目となる『モンスターズ・インク』を評論していきたいと思います!
この作品のポイント
- 開始の瞬間に、技術の進化が描かれる!
- 本質は「エネルギー論」をめぐる話。
- ちらつく「ディズニー」と「PIXAR」の関係性
目次
『モンスターズ・インク』について
基本データ
基本データ
- 公開 2001年
- 監督 ピート・ドクター
- 共同監督 デヴィッド・シルヴァーマン/リー・アンクリッチ
- 脚本 ダン・ガーソン/アンドリュー・スタントン
- 原案 ピート・ドクター/ジル・カルトン
ジェフ・ピジョン/ラルフ・エグルストン - 声の出演 ジョン・グッドマン/ビリー・クリスタル ほか
あらすじ
愛すべきサリーと、彼の賢い相棒マイク・ワゾウスキは、モンスター・シティで悲鳴を集めるモンスターズ株式会社の最恐チーム。
ある日突然、人間の女の子ブーがモンスターの世界に迷い込んできてしまう。
だが子供たちを驚かせていたはずのモンスターのほうが、子供たちを怖がっていた。
サリーとマイクはこっそりブーを人間界に戻そうとするが…。
ディズニープラスより引用
見せつけられる「進化」
今作の評論では、あえて「映画の内容」うんぬんは掘り下げないでいきたい。
というのも、内容が素晴らしいということは、「多くの方々」がすでに語っているし、今回の評論では「そこは当然」のものとして、進めていきたいと思う。


リアリティーラインのコントロール
今作は冒頭から「ピクサー」の技術革新が目を引く。
物語としては、新人モンスターたちが、「ロープレ研修」をしているシーンから始まる。
ここは映画的に、今作の特殊な世界観をタイトに説明するシーンでもある。
まず第一に「子供の悲鳴」を集めて、この「モンスター世界」の電力源としていること。
第二に、しかしモンスターが子供を恐れていることだ。
これが、この世界の特殊性で「面白さ」の一つだ。
まずそれをきちんと手際よく描いている時点で掴みは上々というわけだが・・・。
しかし、この一連のシーンではすでに「ピクサー」の凄まじい技術が見え隠れしている、それは「CG技術」の圧倒的向上だ。
まず目を引くのは「モンスター」たちの質感表現だ。
色とりどり、個性豊かな彼らの体。
特に主人公であるサリーの毛並み表現は言わずもがな、マイクの質感やランドールの表皮表現。
わずか10年足らずで『トイ・ストーリー』からは比較にならない程の進化を遂げているのだ。
しかし、それ以上に素晴らしいと感じたのは「人間描写」だ。
この冒頭で描かれるのは、ロープレ用の子供を模した人形だ。
つまり作り物の「人間」だと言える。
思い出して欲しいのは、『トイ・ストーリー』での「人間描写」だ。
この頃は技術的にまだまだ「CG」による表現はレベルが低く、正直今の水準で見ると、かなり際どいシーンが多くあった。
それこそアンディ、シドの表現方法も「作り物」である感覚が非常に強かったのだ。
しかし、今作はその点をある意味で逆手に取る。
それは「作り物らしい子供」=「人形」と、「ブー」という「生きている人間の子供」をきちんと描き分けているということだ。
つまり、人形はわざと「作り物らしく」
ブーはきちんと「人間の子供らしく」
リアリティーラインをきちんとコントロールしているのだ。
この描き分けが完璧に出来ている点こそ、今作の非常に素晴らしい技術革新の一つだと言えるのだ。
作中で起こる「出来事」に隠された「裏側」にせまる

驚かなくなるということ
今作の物語として重要なのは「エネルギー問題」である。
こと、全ての物語の発端はここだとも言えるのだ。
この世界のエネルギー源が「子供の悲鳴」というのは、冒頭でも示されたとおりだ。
しかし、この世界では重大な「エネルギー不足」が懸念されている。
その理由は「子供の悲鳴」が集められないというものだ。
というのも、この物語内世界でいうところの「現実」では、子供たちの「目が肥えてしまっている」という問題が浮上している。
つまり、「映画」「ゲーム」の普及で、そんじょそこらの「モンスター」の出現に動じなくなってしまったのだ。
事実この作品の「人間の子供」としての「メインキャラ」である「ブー」はサリーやマイクをみても一切動じないのだ。
今作はある意味で、そんな由々しき事態に対処するためにヴィランたちが暗躍する物語だとも言える。
実は、この「目が肥える」というのは、現実にも波及する問題なのだ。
というのも、1990年代から2000年代にかけて、映画業界では「映像革命」なる動きが出てきた。
それが「CG」技術の発展だ。
それが顕著になったのが1990年公開の『ジュラシック・パーク』だ。
実際の風景に、まるで本物と見紛うほどのクオリティの恐竜が現れ、スクリーンを埋め尽くす。
それは、まさに「ありえない映像」の「具現化」だったのだ。

この作品の公開以降、「CG」を駆使した映像で、今まで描くことのできなかった「映像」を描くことができるようになったのだ。
ある種「ピクサー」の作品もこの「CG技術革命」によって生まれたものだ。
今まで「アニメ」とは「手描き」だと思われていたところに「CG」を用いて「アニメ」を作る。
不可能と思えたことをやってのけてきたのが「ピクサー」なのだ。
しかし、「人間の目」というのは不思議なもので、「当時は新鮮で感動した」ものだとしても、徐々に慣れてしまうのだ。
つまり「恐竜」が「映像化」されたりすることを「当たり前」だと思ってしまう、つまり「驚かなくなるのだ」
余談だが、現代は、どんな派手な映像でも「CG」だと言われてしまう時代だ。 だからこそ、「トム・クルーズ」は「生身」「実際」にやることに挑戦しているとも言える。
この「モンスターワールド」が抱える問題、つまり「驚かなくなる」ことに対する意識というのは、実は現実の「映画界」が現在進行系で直面していることなのだ。
そしてそれは、まさしく「ピクサー」が毎回ぶち当たる課題だとも言えるのだ。
だからこそ、「映像」で「驚かせる」ために、毎度「ピクサー」は「技術の進歩」を観客に見せられる題材を選定しているといえる。
ちなみに、ご存知のとおり、今作は「驚かなくなる」こと、それによって発生したエネルギー問題は、とある「代替案」で乗り越えることになる。
次はその「変化」の裏側を見ていこう。
エネルギー源の変化で起きたこと
今作でサリーと、マイクがブーを人間界に送り返そうと右往左往する中で、何度かブーの感情の変化で「電気」が急激に強くなる描写がある。
これは、おそらくブー(人間)の感情がダイレクトにエネルギーに変換されたからこそ起こる現象だ。
今作のすべての問題が解決した後、「モンスターズ・インク」という会社は「エネルギー」の回収法を改めるという結末になる。
それが「笑い」を「電気エネルギー」に変換するということだ。
なのでモンスターたちは、これまでと全く違うアプローチで子供と接する事となる。
その結果、サリーとマイクの立場が逆転するのだ。
いや、それに加えて、今作で「驚かせる」という点では、評価されなかったモンスターたちが、大活躍することになるのだ。
これには2つのメッセージが隠されているのではないか?
1つ目は、「社会」で必要・評価される人材は、「環境」が変われば異なるということだ。
つまるところ、その人の「良さ」を活かせる場所は、それぞれにある。
今「社会で評価」されている人間も、実は「社会の構造」の変化で、いくらでも「逆転」されることはある。
そして、その「逆」も然りということだ。
今作ではマイクという若干サリーの影に隠れがちな存在が、「お笑い」という方向では「天賦の才能」を持っており、最終的には会社のエースになる。
逆にサリーは、今までの表舞台から、裏方に活躍の場を移して、こちらもうまくやっていることが描かれるのだ。
つまり「環境」が変われば「活躍の場」「活躍の度合い」も大きく変化することを、今作は実は描いているとも言える。
しかし、このメッセージには、もう一つの意味があるのかも知れない・・・。
それが2点目だ。
つまり「社会」が変われば、「活躍」出来る人材は変化する、それは「アニメ業界」にも当てはまるというメッセージだ。
もっとわかりやすくいうと、「ディズニー」と「ピクサー」の関係性の暗喩だとも見て取れるのだ。
1990年代はアニメ業界は「ディズニー」が絶対王者として君臨していた。
いや、1937年の『白雪姫』以降ずっと「天下」を取り続けた存在なのだ。
しかし、時代が移ろうにつれ、徐々に「技術革命」が起こる。
それが一つの形になるのが1995年『トイ・ストーリー』の公開だろう。
ここで一気に世間は「CGアニメ」に注目をすることになる。
そして、その技術に目を奪われ、一般的に認知されるようになるのだ。
しかし、それでもまだ「アニメ業界」では「ディズニー」と「ピクサー」の関係は親分子分だ。
過去の「ピクサー総チェック」で評した『バグズ・ライフ』でも、実はこの関係が示唆されていると指摘した。
だが、そこから『トイ・ストーリー2』の大ヒット、そして同時に訪れる「ディズニーブランドの低迷」
これらが重なり、ついに2000年代は親分子分の関係に逆転現象が起こるのだ。
すなわちこれは、「CGアニメ」という「アニメ」の常識の変化によって、従来「アニメはディズニーを中心にしている」という価値観が崩れたことを意味するのだ。
「PIXAR」の台頭で、世界の常識とも思われてきた、この価値観が崩れたことを、この展開で暗喩しているのではないだろうか?
つまり「サリー」は「ディズニー」で、「マイク」は「ピクサー」だと言えるのだ。

初期ピクサー作品の根幹にある隠れテーマだとも言える。
深堀りポイント
時代の風を読むと、
2000年代は「地球温暖化問題」が顕著になり、石油などを用いた「火力発電」よりも、
地球に優しい「エコエネルギー」への見直しという動きが出ていた時代でもある。
なので、現状の「エネルギー源」を「見直そう」という「エコロジー」視点でもあるといえる。
子供は本当は怖くない
ここまで様々な邪推などをしながら、作品に隠されたメッセージを紐解いたが、やはり今作の見どころはサリー、マイク、ブーの交流だろう。
今作の世界観では「モンスター」は「子供」の「悲鳴」を集めている。
だからこそ力関係は圧倒的に「モンスター」のほうが「上」のように見える。
しかし実際は逆で、「モンスター」は「子供」にビビっているのだ。
だからこそサリー、マイクもブーという女の子にビビり散らす。
この点が今作のギャグ演出になっている、それと同時にサリー、マイクのブーに対する意識の変化、それが最終的な感動にもつながっている。
でも、そこまでは多くの方々が語っているので、僕はもう少し「この問題」を斜めから読んでみたい。
つまり、ここからは勝手な予想です。
そもそも、この世界観で、「なぜ、モンスターは子供を恐れているのか?」という点を推測していきたい。
それは、まさに「モンスター界」を守るためではないか?
これは予想だが、「モンスター界」から「人間界」への扉は「モンスターズ・インク」という会社にしかない。
そもそもこの会社は、現社長で今作のヴィラン、ウォーターヌース(本名:ヘンリー・J・ウォーターヌース三世)の祖父が起業した会社だ。
おそらくは、この祖父が、人間の悲鳴を電力に置き換える発明と、人間界への扉を発見した。
そして、それを効率よく集めることで、会社を拡大したと思われる。
そこで、おそらく「子供は危険」「触れると死ぬ」という情報を社員及び、世間に伝えたのではないか。
その理由は「今作のような事件」つまり「モンスター」による「子供を拉致する」ことを防ぐためではないだろうか?
もしも、今作のような「拉致」によって、それも多くの子供が神隠しに合えば、確実に「人間」に「モンスター界」の存在がバレてしまう。
そうなれば、 人間とモンスター間で、戦争のような状態になることも予想される。
つまり「子供」を「危険」な存在だと思わせることによって、「人間にバレる」ことを、必要最低限のリスクに留めようとしていたのだ。
ちなみに、この世界には「子供検疫局=CDA」という組織があるが、おそらくこの組織も「リスクヘッジ」の組織なのではないか?
もっというとウォーターヌースが組織したのではないか?
なぜなら、構成する清掃員は、防護服で「子供の対応」をするが、ロズは「子供」を恐れる描写がない。
そのことから「CDA」の上層部は、構成員には「子供は危険」と教えて、上層部は常に「人間界」との必要以上の関係を持たぬように、コントロールしていたのではないか?
そう考えると、ある意味で今作の「子供への恐れ」の減退というのは、少々危険な匂いもしてしまう。
もちろん作品内容は最高に面白い/裏側もおもしろい
と、ここまでほとんど「深堀り」「邪推」のオンパレードをしてきたが、もちろん今作の内容は非常に素晴らしいとしかいいようがない。
サリー、マイク、ブーが友情を深める過程。
雪山で、サリーに対してマイクが感情をぶつけるシーンは、痛いほどに胸に刺さる。
そしてクライマックスの、扉の倉庫内でのアクション、これは『トイ・ストーリー2』ラストの「空港」でのアクションをよりド派手にしており、「目が肥えた」方々も楽しめる工夫が随所になされている。
しかし、今作の製作の裏側の事件もまた興味深いものがある。
この作品の製作の裏で、実は『モンスターズ・インク』は「パクリ疑惑」をかけられ、裁判沙汰になるなど、実は裏側は非常にゴタゴタしていたのだ。
というのも、ロリ・マドリッド氏が自身の作品と「類似点」が多いということで「ピクサー」を相手取り「訴訟」を起こしたのだ。
結果公開予定日の前日に「公開仮差し止め命令」という危機陥る。
この作品は『ハリー・ポッターと賢者の石』『パール・ハーバー』と並んで、この年の目玉映画だったが、突如「差し止め」
そんな事になってはならないと、ディズニー・ピクサーは裁判に挑むことになる。
結果だけを言うと「ピクサー」は勝利し、この作品を世に送り出すことができた。
しかし、『モンスターズ・インク』にまつわる「訴訟」はもう一度起きた。
スタンリー・ミラー氏が、「サリーとマイク」のキャラ造形が自身の生み出したキャラクターを模倣したとして、「ピクサー」を相手取り訴訟をしたのだ。
この二度の裁判で争点になったのは、「キャラクターは真空から生まれない」という点と「どこまでが模倣になるのか」だ。
つまり、人間のアイデアとは、知らず知らず何かしらの影響をうけることは、当然ありえる。
それを「模倣」と呼ばれる基準は一体どこにあるのか?ということだ。

名前は際どいラインだとも言える
結局この二つの「訴訟」は、「芸術活動」の「アイデア」を「どこからパクリ」とするのか?/どこまでを「模倣」とするのか?
映画という芸術に対して、外部の影響を、どこまで認めるのか?
答えを出すのが難しい問いかけとなったのだ。
結局2つの裁判で「ピクサー」は「著作権侵害」など問われることはなかった。
しかし映画や、それに限らず創作という点において、少なからず生じる「他作品」からの影響。
それが一体どこまで許されるのか? という難しい問題に直面したとも言える。
ちなみにこの作品は、2001年に新設された「アカデミー賞長編アニメーション部門」を、同じモンスターネタの『シュレック』と争うことになる。
この要因は、おそらく1990年代続いた「ディズニー」の黄金期に対してのカウンターだともいえる。
つまり、『シュレック』のダークなディズニー批判が、「ディズニー」絶頂期直後ということもあり、批評家にウケたのではないだろうか?
そういう意味では「ピクサー」が完全に「アニメ業界」のトップに躍り出るのは、次作『ファインディング・ニモ』を待つことになる。
今作品をふりかえって
ざっくり一言解説!!
抜群に面白い作品!ピクサーの到達点!!
内容にはあまり触れなかったけど、レベルは非常に高い!!
まとめ
今作は様々な「変化」が描かれる。
今回は、そんな「変化」の裏側を深堀りして追いかけてみた。
特に今作における「サリー」と「マイク」の立場の変化は、この先に起こる「ディズニー」「ピクサー」の関係を、暗示しているのかも知れない。
つまり「社会構造」の変化で「評価」とは大きく変化すると言うことだ。
そして今作は「モンスター表現」こそ取り上げられがちだが、冒頭の「人形である子供」
つまり「作り物」と、「本物の人間」という描き分けができているのも見逃せない。
このように「リアリティライン」のコントロールすらも、ついに可能となった「ピクサー」は、ついにはるかな孤高へと登っていく。
今作はそんな道のりの、確かな一歩だったといえるのだ。
ちなみに、僕は今作のラスト、サリーとブーの再会を予見される描写があるが、そこであえて「ブー」を写さずに、「声」のみにする演出がこの作品を「大人な味わい」にしていると思う。
あえて全てを描かぬ、大人な味わいがるからこそ、今作は素晴らしい!
まとめ
- 今作は「変化」の物語、その裏側を深堀りするのが楽しい作品。
- 技術の進歩は、目をみはる!