
今回は、各方面で話題になってる作品を取り上げます。
ということで、今日は「ミッドナイトスワン」についてです。

今作のポイント
- 草彅剛/服部樹咲の圧倒的存在感。
- 後半の展開に賛否あり、個人的には肯定派。
- 「寄る辺なさ」が胸をえぐる。

目次
「ミッドナイトスワン」について
基本データ
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 内田英治
- 脚本 内田英治
- 出演者 草彅剛/服部樹咲 ほか
あらすじ
新宿のニューハーフショークラブのステージに立っては金を稼ぐトランスジェンダーの凪沙(草なぎ剛)は、養育費を当て込んで育児放棄された少女・一果を預かる。
セクシャルマイノリティーとして生きてきた凪沙は、社会の片隅に追いやられる毎日を送ってきた一果と接するうちに、今まで抱いたことのない感情が生まれていることに気付く。
Yahoo映画より抜粋
特筆すべきは主役の2人!

そこにいる。という実在感
今作品は無数の切り口がある作品だと思います。
そして、”特に後半”のある展開には「賛否両論」巻き起こっているのをSNSなどでも目にしますが、それより先に、この映画最大の「素晴らしい点」を上げなければならない。
それが「草彅剛」と「服部樹咲(新人)」の演技・存在感だ。
これを抜きにこの映画を語るワケにはいかない。
というか、内容云々の賛否はあっても、この2人の演技。
これはこの作品を見た誰しもが、称賛せざるを得ないのではないだろうか?
個人的には、「凪沙」が最初にスクリーンに映し出された時から、この世界のどこかに、彼女の存在があるのではないか?
と引き込まれた。
役者、草彅剛の真骨頂が見れて、本当ビビりましたね。

という実在感の凄さはぜひスクリーンで!!
深掘りポイント
個人的に草彅剛のすごさを感じたのは、凪沙が就職活動をして(おそらく倉庫作業)、仕事についたシーンだ。
いつもの我々の見ている「草彅剛」に近いのは、こちらのはずなのに、違和感を感じてしまう。
その変貌に「悲しさ」すら透けて見える。
完全に「草彅剛」と「凪沙」という存在が切り離された瞬間だ。
この瞬間に、我々は役者としての草彅剛の凄みを目にする。
そしてもう1人の主役、「一果」の最悪な境遇。
荒れた環境ですっかり心を閉ざしている感じなど、これもまぁ新人とは思えぬ圧倒的な実在感でした。
あと、バレエのスキル。
正直、バレエの「うまい・へた」は分かりませんが、ただ、この作品を見ている間は、彼女にその才能が十二分にある。
という点にキチンとリアリティがあって、ラストはもうね・・・、感動しましたよ!
これらの理由から、ボク的には、この時点でこの映画。
好意的に受け取らざるを得ない。
というのが正直なところ・・・・。
まぁ、この2人の演者のスキルだけで十分見る価値あり。
と言わざるを得ないんですよね。
だから、まぁとにかく「いくか迷ってる」って人は絶対行った方がいい映画だし、「いい映画」だということは保証しますから、ぜひ行っていただきたいんですよね!!
ポイント
✅まずボクなりの総評として「絶対必見」というのは間違いなし。
✅「草彅剛」の演者として、もしかしたら「ベストアクト」かもしれない、他にこの役をこなせる人はいない!!
少しだけチラついた不安も、思い過ごし
少しだけ、ボクがそもそも、この「草彅剛がトランスジェンダー」を演じる。
ということを聞いた際に抱いた不安があったことを告白しておく。
というのも、ボクはずっと「SMAP」を見てきた世代の1人だ。
今でも「SMAP」以上のアイドル・アーティストは、日本にはいないと思っているし、個人的には「最後の国民的スター」だというくらいに思っている。
そんな彼らは器用にもコントなどもこなしていたのだが、ボクの中では「女性の姿をする草彅剛」という絵面に、少しだけバラエティー感が出てしまうのでは!?
という危惧を抱いていた。
ただ、これに関しては完全にボクが間違っていましたね。
こんなこと言ってるとファンの方々に「なめんなよ!」って怒られそうですけど。
もしもボクみたいに「不安」だと思っていても、それは思い過ごしになりますから、繰り返しですが、見て欲しいなぁ。

寄る辺なき者を救うのは?

ここからはネタバレも含みますので注意!!
傷ついた魂を補い合う
この作品は「寄る辺なき魂」の交流が描かれている。
凪沙はトランスジェンダーで、深夜にニューハーフクラブでのショーに出演するなどして、食いつないでいる。
週に一度高額な「ホルモン注射」を射ち、暮らしも裕福だとは言えない状況に陥っている。
クラブにいけば自分と同じ境遇の人間がいる。
だけど、そこを離れれば凪沙は心を開ける人間はいないのだ。
母親と電話をするシーン。
この世界で最も、「心の拠り所」になるはずの母にも、自分の「セクシャリティー」の悩みを話せずにいることが描写される。
話は前後するが、凪沙は働く場所も(女性として)ない。
一度就職活動をする場面もあるが、居場所が見つからないのだ。
凪沙が女性として生きているけるのは「真夜中」だけなのだ。
そこに「詫びしさ」を我々は感じる。
そんな凪沙の家に転がり込んで来る一果。
彼女も彼女で「寄る辺ない存在」だ。
シングルマザーの母は毎晩酔い潰れては、一果と向き合おうとせず、暴言・暴力をふるう。
ちなみにこの部分は凪沙とも重なる。
おそらく凪沙は幾度となく「性の悩み」を母に打ち上げようとしたが、全く言い出せる空気ではなかっただろうし、そういう意味では「心」から分かりあえてはいなかったのだろう。
一果は「心の拠り所」とは言えない母親をもち、彼女はそのストレスから自分の腕を噛む自傷を行っている。
そんな2人が同居することになる。
環境が変われど、一果からすれば母親も凪沙も変わらない。
自分に雑用を押し付けているだけ、そして自分には全く興味を持たない。
そこに心の交流は一切ないのだ。
だが、それが一転する。
それは一果が傷ついている、それを凪沙が目にした時だ。
違法バイトがバレてしまい、自分に性的な目的で近づいた客に攻撃してしまう。
そして友達に、結果としては裏切られてしまうこと。(「りん」は自分が悪いと言ったのにも関わらず)
その姿を見て凪沙は、「これは自分と同じだ」と思ったに違いない。
描かれてはいないが、きっと凪沙も「裏切られ」「傷ついた」ことがあるのだろう。
だからこそ、彼女の境遇を一番理解できたし、抱きしめることができたのだ。
「うちらみたいなのは、ずっと1人で生きなければならない」
「強く生きなければならない」
そう告げるのだが、これは慰めであり、そして非常に残酷な言葉でもあるのだ。
「寄る辺なきもの」はずっと「1人」だから「強くないといけない」
好きで、そう生まれたのではない、そこに生まれたのではない。
でも「生まれたしまった」ことに関しては、誰も手を差し伸べてくれない。
世界は冷たい。
そのことを知った2人だからこそ、互いに少しずつ理解しあえたのだ。
ポイント
✅2人は「心の拠り所」を持っていない。非常に「寄る辺なき存在」
✅だからこそ「助け合える」のだ。
白鳥に憧れて
この物語はバレエが凪沙と一果を繋ぐ。
ちなみにこの作品でバレエは「白鳥」という演目に絞られるのだが。
2人は共に「白鳥」になろうとする。
だが凪沙は、いや凪沙たちの心情はどちらかというと「醜いアヒルの子」の仲間外れにされる「アヒル」だ。
しかも凪沙の場合、その正体は「白鳥」ではないのだ。
凪沙は、自分が本当に属するべきセクシャリティーである「女性」になれない。
心は女性なのに体は違う。
当然男性にもなれない。
社会では、どう生きていようとも疎外感を覚えてしまうのだ。
だからこそ「醜アヒルの子」のように締め出されてしまう。
そしてこの物語本来の救いであるはずの「本当は白鳥」だという夢のような結末も待っていないのだ。
かたや一果は「白鳥」になれる素質を持っていた。
その素質で周囲と少しずつわかり合っていく一果。
凪沙が彼女を応援するのは必然なのだ。
それは「一果こそ、自分が憧れていた、アヒルの中から”白鳥”になる存在」だったからだ。
この作品の構成のうまい点は「最初と最後」の流れが全く同じだという点だ。
長い黒髪の人物がトレンチコートを羽織り、町を歩く。
そして更衣室でそれを脱ぎ、メイクアップする。
物語の冒頭では、凪沙が「白鳥」としてショーに出演しているシーンに始まり。
最後は一果が世界の舞台で「白鳥」としてその才能を轟かせるシーンで終わる。
当然見ている人間の視線の熱さも違えば、舞台の価値も違う。
でも2人にとってはこれは当価値なのだ。
一果を救ったのは「白鳥に憧れた凪沙」だったし、凪沙を救ったのは、そんな自分すらも包み込んでくれる「白鳥」だったのだ。
彼女の頭に巻かれたのは凪沙の形見だ。
2人は最後に「白鳥」になれたのだ。
ポイント
✅「白鳥」に憧れた2人の、行き着く先に感動せざるを得ない。
✅物語の構成も巧みである!
作品をめぐる賛否について

後半の展開について
この作品で大きな論点となるのは「後半」の展開ではなかろうか?
まず個人的な意見を述べておくと、ボクは「この展開も肯定」したい。
ちなみに論点は以下のようなものがある。
- 「凪沙」の死の展開
- この展開で「トランス ジェンダー」という題材を「感動ポルノ」として描いているように見える。
というのも、この作品普通ならば、ここで「大団円」だろうというシーンから、事態が急変するのだ。
それは「一果」のバレエコンクールと、それに呼応するように挿入される、友達の「りん」のバレエシーンとその顛末だ。
この作品において「りん」は、一果にないものを全て持っている「真反対」の存在と言える。
お金持ちの両親と不自由ない生活。
一見すると「幸せ」そのもののような生き方をしているりん。
でも彼女も実は、きちんと親からの愛を受けてはいないのだ。

りんの突然の自殺。
これはある意味で、抑圧されたりんの親への抵抗だとも取れるのだが、それを聞いた一果は茫然自失となる。
そこで、この映画。普通に考えると凪沙が慰めるべきなのだが、それをするのは一度は一果を捨てた実母なのだ。
そこに、ショックを覚えた凪沙はタイで性転換手術を受けるのだ。
ちなみにこれまで彼女がそれをしなかったのは、「お金がない」と言いながらも、心のどこかで「母親」に気を遣っていた部分もあるのかもしれない。
ただ、先ほどのシーンで自分は何もできなかった、そのことに自分自身ショックを受けた凪沙は、自分を変えなけらばならないと思ったのだろう。
この手術シーンでは本来であれば描かなくても成立するカメラワークなど、いくらでも出来そうなものだが、あえて凪沙の肉体から一部を切除するシーンを見せれる範囲で描いている。
こうして心身共に「女性」になった凪沙。
彼女は田舎に戻り塞ぎ込んでいる一果と再び暮らすために実家に戻ることになる。
ここまで誰にも言えなかった「トランスジェンダー」だったこと、そして「女性」になったことをカミングアウトする凪沙。
だが、ここでついに母からも拒絶され、そして「化物」と罵られ、そして一果を取り戻せなかった凪沙は1人東京に戻るのだ。
その後、手術した部分から出血をして、動けない状態になった凪沙と一果は数年の年月を経て再開するのだが・・・。
ここで「死の展開」に納得できないという声もあったりするが、この意見には全く同意できない。
さらに「性転換手術」が原因で死ぬというのは、あらぬ誤解を産むという意見も見受けられるが、ここにもボクは同意することはできない。
そもそもこの原因は、自暴自棄になった凪沙の行動からきたものであるというのは、セリフでも説明されている。
要はこの一連の流れ、凪沙は「女性」になった。
これは心身共にという意味だが、それでもなお、周囲の人間は自分に理解を示さない。
むしろ、今までよりも酷い言葉を投げかけられる。
そして一果も結果として、自分についてきてくれなかった。
そのことに対するショックから、術後に必要なケアをしなかったからだ。
つまり死因となる原因は手術そのものではなく、あくまで凪沙の行動の結果なのである。
深掘りポイント
作り手は一果が踊れなくなった際に、実母は動かず、凪沙が飛び出していき、そして彼女が再び踊る。
という大団円でこの物語を締めくくることも、出来たはずだ。
むしろ、こちらの方が、わかりやすい感動は生まれるだろう。
だがそうはしなかった。
それは、どうしてだろうか?
答えは「今の社会」では、例え「心身ともに性が一致したとして」
「なりたい自分になれたから」と言って、それを誰しもが、受け入れる段階にまで社会が成熟していないからだ。
そのことに対して、作り手は大きな問題意識を抱いていたからこそ。
現実の問題を描かねばならないという思いがあったからこそ、凪沙が他者に「受け入れられず」絶望する展開になったのではないだろうか?
凪沙は、ずっとなりたかった自分になれた。
それでも他人に受け入れられないというショックがそれを招いたのだ。
そして、この他人の変化を受け入れられない。そういう気持ちを我々は抱いてはしまわないだろうか?
それを素直に受け入れられると言えるのか?
このシーンはそんな我々の社会に対する痛烈なメッセージなのだ。
だからこそこのシーンで語られることに、ボクは非常に胸をえぐられてしまった。
ポイント
✅なりたい自分になったのに、受け入れられない。それが凪沙を自暴自棄にさせた。
✅この一連のシーンは、我々にそれを許容できる器はあるのか? と痛烈に尋ねているのだ。
欲しかったのは「何気ない言葉」
この物語で凪沙が欲しかったものはなんなのだろう?
それはバレエの先生がかけた何気ない一言「お母さん」だ。
先生は何気なく凪沙を「お母さん」(一果の母親という意味で)と声かけた。
それまで、好奇の目にさらされたり、どう呼べばいいのかわからないそぶりを見せる人物が多いなかでかけられた、一言。
この言葉に凪沙は喜んだ。
自分を女性である。それも自然にそう呼んでくれることに。

そして数年ぶりに一果と再開した凪沙。
すっかりボロボロな姿になってしまうが、一果はそっと凪沙に寄り添う。
ここで想像させられるのは、凪沙はもう、誰にも寄り添ってもらえない状態になっていたということだ。
でもこうして、また自分に寄り添ってくれる存在と再開できた。
そして最期に「海に行きたい」と願うのだ。
しきりに語られてきた「凪沙」の苦悩の始まり。
それは「海」で、なぜ自分は海パンを履いているのか? という疑問。
それ以来海に行かなかったが、最期に見た海岸で子供の頃の自分が「スクール水着」で海で遊んでいる姿をみる。
自分の着るべきものを着る。
そんな当たり前ができなかったことから始まった苦悩の日々だったが、最期にはそれを夢幻ながら、本当の自分をそこに見出す。
そして自分がなりたかった白鳥を演じる一果の舞を見てゆっくり目を閉じるのだ。
欲しかったのは「当たり前」を「当たり前」にできる日々だったのだ。
この悲しい幕引きもある意味で、我々に対する問題提起なのかもしれない。
ポイント
✅当たり前のことが出来ない、そんな辛さが最後まで描かれる。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
凪沙という人物の実在感のすごさ、これだけで見る価値あり!!
もちろん見所は多いですが、でもこれがこの作品最大の見所!!
まとめ
本論では書ききれなかったが、この作品は水川あさみ演じる一果の実母の「クズ」っぷりのうまさなど、とにかく芸達者が集まっており、終始目の離せない作品になっている。
「寄る辺ない者」が必死に手を伸ばしてわかりあおうとする姿、でもそれでも「今の日本社会」では乗り越えられない「壁」があること。
それを隠さずにきちんと描いたことをボクは評価したい。
もちろん展開にいくつかの「予想外」はあった。
特に「りん」の最期は呆気に取られてしまった。
だが、考えれば「りん」も実は「寄る辺ない」存在だったし、彼女は生きがいだった「バレエ」すら失った。
もしかすれば一番救いのない存在だったのかもしれない。
そう考えれば、あの展開も、確かに映画内では飛躍しすぎにも見えるが、その決断をしたことに対して伏線がしっかりあったのだ。

予想外で言えば一果の実母、彼女は最後の方はまともな生活を送るようになっていたのかな?
迎えにきた際の「私は変わった」というのは本当だったのかな?
という疑問はあるにはあったりもする。
追記
この点だが、ツイッターなどで意見をいただき「変わった」とボクも思うようになりました。
ただ、やはり凪沙と一果。
2人の不器用ながら、互いに愛を深め合う姿に、やはり心惹かれてしまう。
どの要素をどれだけ褒めても最終的には、ここを褒めたくて仕方ないというのが本音である。
そしてボクは後半の展開も、「それでも乗り越えられない壁がある」という今の世界の問題点を描くという意味では間違いなく必要だったと思うし、むしろこれは現実なのだと思わされてしまう。
改めて「ありのままで」ひとりひとりが生きられる世界のために何ができるのか?
それを我々は考えなければならないのかもしれない。
まとめ
- 後半の展開は、それぞれに意味があるのではないか?
- 全ての人間が「ありのまま」生きられる世界に近づけなければならない。
- 繰り返しになるが「草彅剛」の演技を見る、それだけで十二分に価値ある作品!!
読了ありがとうございました。
また次回の記事でお会いしましょう!!