
さて、本日はいよいよBlu-rayも発売されて盛り上がっている作品をご紹介。
「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆」について語っていきたいと思います。

この作品のポイント
- 「デジモンアドベンチャー」のあるべき最終回を見事に再提示して見せた、最高の一本。
- 「デジモンアドベンチャー tri」の失敗を全て補いカバーした。
- 「子供時代」(青春)とは一体どんな時期なのか? を考えると、結末に納得しかない!
- 「Butter−Fry」の歌詞の意味を考えると見えてくる「敵」の存在理由。
音声評論配信中!!
目次
「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆」について
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 田口智久
- 脚本 大和屋暁
- 声の出演 花江夏樹/三森すずこ/細谷佳正/田村睦心/吉田仁美/榎木淳弥/池田純矢/ M・A・O ほか
あらすじ
太一とアグモンたちが出会い、デジタルワールドを冒険した夏から十年以上が経過した2010年。
世界中の“選ばれし子どもたち”は徐々にその存在が認知され、現実世界にデジモンがいる風景も珍しくなくなっていた。
太一は大学生となり、ヤマトたちもそれぞれ歩むべき道を見定め、自身の進路を進み始めていた。
そんな中、世界中の“選ばれし子どもたち”の周囲で、ある事件が起こり始める。
太一たちの前に現れたデジモンを専門に研究する学者・メノアと井村は、”エオスモン”と呼ばれるデジモンが原因だと語り、助力を求めてくる。
事件解決に向けて、太一たち選ばれし子どもたちが再び集結。
しかし、エオスモンとの戦いの中でアグモンたちの“進化”に異変が起こる。
その様子を見たメノアは、太一たちに衝撃の事実を語る。
選ばれし子どもが大人になった時、パートナーデジモンはその姿を消してしまう――。
エオスモンの脅威は、次第に太一の仲間たちにも及んでいく。
戦わなければ仲間を救えない、しかし無理な戦闘はパートナーとの別れを早めていく事に。
ずっと一緒にいると思っていた。
一番大切な存在と別れてでも戦うのか?
“選ばれし子ども”が大人になるということ――。
変えられぬ宿命を前に、太一とアグモンの”絆”が導き出す、自分たちだけの答えとは?
なぜ「デジモンアドベンチャーtri」がダメだったのか!?


まずは、その疑問に答えていこうと思います!
「tri」シリーズはココがダメ
✅行き当たりばったりの脚本
✅要素を詰め込みすぎ
(一章のころはかなり期待してました)
ここから、しばらく「デジモンtri」がダメだという前提で話が進むので、ファンの方ごめんなさい
行き当たりばったりな脚本
まずは「tri」シリーズ。
これは、劇場公開シリーズで、全6作品からなるシリーズだ。
まず指摘しなければならないのは、「全編」を通じて、「何が語りたいのか?」が全く見えてこないという致命的な弱点を持っている。
そのことは否定できない。
そして、そのすべての指摘するのは、とてもじゃないけれどシンド過ぎるので、割愛しますが。
とにかく、まず結論として6章まで見て思ったのは、このシリーズで提示した伏線などを、一応回収しようという努力は見えるんです。
ただし、それをしたことで「じゃあ、あの件は丸々なくてもよかったのでは?」
「最終的な決断がそれって言うのは、ここまでの5作品は一体なんだったんでしょう?」
というように、回収したことによって、それまでの粗が湧き出てくると言う、最悪の出来になってしまった。

風呂敷を広げるだけ広げて、そして大慌てで畳もうとする。
でも大慌てだから、それは「畳んでいるのか?」と疑問に思うほど「雑」なんですよ笑
要素を詰め込みすぎ
ちなみに僕は、この事態を招いた理由。
それは「3章」で「リブート」という設定を盛り込んだことに尽きると思います。

もう一度、デジモンと子供たちの「友情」を描きなおしたかったんでしょう・・・。
でも考えてください。
残り「3章」で、しかも「ホメオスタシス」「ユグドラシル」「ロイヤルナイツ」
ここまで色々話を広げたんです。
流石に、それは無茶だし、アニメ版では1年という長期に渡って描いたからこそ、そこに深みが出たんですよ。
で、作り手は「芽衣子」と「メイクーモン」という新しいキャラを用意してたんです。
本来ならば、この新キャラが「友情」を深めていく様子こそしっかり描く。
そこから太一やアグモンたちと交流をする様子を描く。
芽衣子、メイクーモンを通じて、太一たちの歩んできた道のりを透けて見せる、そうすることもできたはずなんです。
そうすれば「メイクーモン」を「倒さねばならない」ことに「選ばれし子供」たちが葛藤をする理由にも深みができたんです。
でも実際は「メイクーモン」は物語の半分は「敵」状態。
みていても「こいつは敵だ」という風にしか思えないし、さっさと倒せよ・・・って思えたり。
なんかもうね、物語にのれないいですよ・・・。

6章で太一が復帰後「よし倒す」と「即決」してるところとか、
「えっ何で?」ってビックリしましたね
という風に、やることなすこと、うまくいかなかった「tri」
流石に、ここまでくると、僕のテンション的に「えー、まだ続きやんの?」
と、結構気持ちも萎えてしまっていたんです。

じゃあ、今回の作品はどうだったんですか?
ということで、ここから本題。
「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆」をみて、僕がどう思ったのか・・・。について語っていきたいと思います。
素晴らしい「デジモンシリーズ」の幕引き

理想的な「物語の締め括り」とは?
「デジモンアドベンチャー」はデジモンと呼ばれる存在と、「選ばれし子供」が冒険し、成長を描いた作品だ。
デジモンとは「選ばれし子供たち」の「子供期」を象徴する存在だ。
近しい存在として、例えば「ドラえもん」における、のび太とドラえもんの関係性がある。
もう一つ例を挙げるならば、「くまのプーさん」における、クリストファー・ロビンとプーの関係性にも類似性を見出せる。
さらに「トイ・ストーリー」におけるアンディとおもちゃたち、にも共通点を見出すことができる。
これらに共通することは「子供期」の終わりを迎える時。
子供たちは、「子供期の象徴である存在」と「別れる」ことで、大人への階段を一歩踏み出す点にある。
「ドラえもん」に関しては、正確には「別れ」は明確に描かれていないが、ドラえもん、のび太は「別れる」運命にあることは提示されている。
つまり、「子供期」の象徴たる存在との決別こそが、子供たちの成長に不可欠な「成長」の糧であるということだ。
それは作り手も重々理解していたはずだ。
だからこそ、「デジモンアドベンチャー」いわゆる「無印」と呼ばれるストーリーのラストは、やはり「別れ」を描いている。
これは僕ら世代なら同意してくれると思うが、最後に電車に乗り。
そしてミミの帽子が風に舞い上がり「無限大な夢のあとの♪」という主題歌「Butter−Fly」が流れる伝説の最終回。
あの瞬間が最も感動的なのは言うまでもないが、あのシーンが感動的なのは、ただ「別れ」が寂しいというだけではない。
「デジモン」と別れることで、また一つ「選ばれし子供たち」が成長したということも込みで感動させられるのだ。
ちなみに「別れ」で成長するのは、僕らの実人生においても、起こり得ることだ。
「卒業」「転職」とか、人生において「別れ」が「成長」に繋がる、それは普遍的なことなのだ。
つまり、元々「デジモンアドベンチャー」という作品は、考えられる中で最も理想的で完璧な最終回を描いていたのだ。
逆にいうと、この物語の締め括りは「コレしかない」とも言える。
しかし、その後「デジモン」というコンテンツの人気はさらに拡大。
細田守監督によって歴史に残る作品と言ってもいいでしょう「劇場版 デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」の公開。
さらに続編「デジモンアドベンチャー02」が制作されることになった。
この続編を作ったことで、デジモンと「選ばれし子供」たちがまた再会をする。
そして、その関係性は未来永劫続いていくものである。としてシリーズは続いていくことになるのだ。
その流れで先ほど酷評した「tri」シリーズなども作られた。

ここで重要なのは「02」での最終回で25年後を描いたことだ。
そこではずっとパートナーデジモンと「選ばれし子供」が共にいる世界が描かれ、その後に制作された「tri」シリーズでも基本的にそこに行き着く物語だという前提で展開された。(そうはなってないんだけど笑)
いわば「ずっと子供時代の象徴」と共にいるということが「良き」ことと描いてしまったのだ。
それを前提としているために「tri」ではデジモンと「選ばれし子供」が基本的には「共に」いる。
だからこそ生じる「悩み」などを「成長」の「種」にする。
そのことで物語を転がそうとした。(それがうまくいってない)
例えば「戦う」ことが生み出す「悲惨な惨劇」に対する悩み。
そもそも「戦う」ことで自分の人生が奪われていくという「ヒーロー」の在り方論的アプローチですね。ただそれがうまくいかなかった。
だからこそ、今作の物語は、そこから再度「別れ」を描くのだ。
厳し言い方をすれば「子供時代の象徴とずっと一緒にいる」そのことが、本当に「良きことなのか?」という問いかけてくるのだ。
「別れ」へ向かって突き進む物語
だからこそ今作品は「別れ」へという結末に向かい、思い切りのいい舵取りをしている。
まず「tri」の話をほとんど踏まえない。
あれだけ戦いを嫌った太一が結構ノリノリで戦うとか、そもそも「tri」で「究極進化」できるようになったデジモンももその姿を見せることはない。

そして「02」最終回で明確化された「25年後」そこでは「パートナー」とずっと一緒という、ある意味で「なあなあ」展開へ繋げるという要素を捨てている。
(そもそも、この設定が「デジモン」の続編にかなりの縛りを作っている要因)
そういう風に思い切ったことで今作品は「別れ」という要素を、「大人」になるための通過儀礼として描くこと特化していると言える。
そして、今作品の敵が「別れ」を否定する存在だというのも特徴だ。
ちなみにこの「別れ」の否定する、敵はこれまでも何人か登場している。
例えば「02」では「及川」というデジモンを持つことのできない男の「悲しみ」が悲劇を生む。
「tri」でもうまくいってないが「姫川」の行動の根底には、別れたパートナーとの再会という動機がある。
このように実は「別れ」を否定する存在が「敵」であるなど、これは今までのシリーズでも取られていた手法ではある。
「子供」と「大人」の線引き
今回は「デジモン」という世界観に、1つの大きなルールが追加されている。
それは「大人になるとパートナーデジモンが消える」ということ。
つまり「選ばれし『子供』」ではない時点でパートナーデジモンの必要性は失われるということだ。
理屈としてはこうだ。
「子供」には無限の可能性がある。つまり将来への「夢」への希望が豊富にある。
その力を使いデジモンは「進化」していた。
だが「成長」し「大人」になる。
その時点で未来への希望は、いずれはなくなる。
つまりこれは「子供時代」とは無限の可能性が広がる頃。
それが徐々に「成長」し「大人」になると、その「可能性」の広がりは閉じいく。
そうなることで「子供時代の象徴」である「デジモン」との「別れ」は「不可避」であるということだ。
深掘りポイント!!
子供の頃は「まだ〇〇になりたい」という「将来の姿」「夢」を無邪気に想像できるし、その「夢」を叶えることは可能だ。
だが、大人になると、その「夢」を叶えることは徐々に難しくなる。
自分の「将来」「未来」がある程度形作らてしまうからだ。
この作品と似たアプローチをしているのが、
今年このブログでも扱っている
「ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語」だ。
【映画記事】「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」が傑作すぎるので解説します
ちなみに「大人」になるということがどういうことなのか?
どこに線引きがあるのかを考えると。「成人」「20歳」という、法的な線引きができるかもしれない。
その視点から見ると、今作での太一の家の描写。
冷蔵庫には「缶ビール」
ベッドの下にAV。
バイト先がパチンコのホールということ。ちなみにバイトの同僚が喫煙している姿。
ヤマトとの会食でもビールにホルモン(ホルモンは年齢制限ないけどビールとの相性最高やん)に舌鼓をうつ姿が描かれている。
「飲酒」「喫煙」「ギャンブル」「性」
これらは当然「子供」にはすることが許されておらず、「大人」にならなければ(つまり「成人」)できないことだ。
このように今作では、「年齢」で線引きされた線を、超えなければできないことをしている描写が多い。
もしも「大人」というものが「法的線引き」で決められることであるのなら、太一、ヤマトは「大人」なのだ。
それはすなわち、「法的線引き」という視点から見ても、太一・ヤマトは「デジモン」と別れることは決定的だということだ。
戦う、それは「別れ」
つまり「大人」になる決意
そんな「大人になるということ」を突きつけてくる今作品。
敵である「メノア」はある意味で「大人になることを否定」しようとする存在だ。
彼女は、学校ではイジメられ、パートナーデジモン「モルフォモン」しか友達がいなかった。
その後、学校で勉強を重ね、飛び級で大学に入学する。
自立した「人間」として生きていける。そう思った矢先「モルフォモン」が消える。
ここで、もう一つの大人の条件として「経済的」「社会的」自立。それも「大人」になる。ということだと描かれる。

そこも見るのも非常に興味深い!!
唐突に訪れたモルフォモンとの別れに、メノアは悲しみに暮れ、こんな悲しい思いを誰にもさせたくないと、「選ばれし子供」と「パートナー」を永遠に一緒に生きることのできる「ネバーランド」を創造する。
そしてどんどん「選ばれし子供」を閉じ込めていく。
「悲しみ」からの「解放」
メノアは、それを声たかに叫ぶ。
これは我々観客への一種のメッセージではないだろうか?
「デジモン」と別れずにずっと「愛してくれ」という。
しかし当然これはただの現実逃避だ。
02組はなぜ罠に絡めとられなかったのか?

それはなぜか??
これは「大輔」たちは「02」のラストで「成長」の素晴らしさを「成長を否定する子供」に説き明かしたからだ。
ここの一点において「02」は「デジモンアドベンチャー」を超えていると断言する。
「デジモンアドベンチャー組」は「また次にゲートが開いたら帰る」と一度はデジタルワールドに残るという選択をしている。
それはすなわち、無邪気な子供時代を、その象徴であるデジモンと過ごすことの選択に他ならない。つまり「成長」の否定を一度はしているのだ。
しかし前述したように、「02」組はそもそも「成長」を肯定している。
だからこそ彼らは誰一人、その罠にかからない。
長年の「02」支持者としてここは本当に溜飲が下がった。

太一・ヤマトはみんなの救済と、アグモン・ガブモンとの日々を天秤にかける。
ここで「戦う」つまり「進化」するというのは決定的な「大人」の階段を登ることを意味するからだ。
だが「メノア」のやり方はどうしても認められない。
そして2人は「戦う」ことを選ぶ。
このことでアグモン・ガブモンは新しい姿、すなわち「最後の進化」をする。
この姿になることで、ついに決定的な別れから逃れられなくなる。
この「自ら決断」することが「大人」だ。という視点は、実は「tri」からも描かれていた。
「能動的に行動するのが子供」
「選択して自ら未来を決めるのが大人」
太一・ヤマトは自分で「戦う」そして「みんなを助ける」
その未来を選ぶことを決断する。
「tri」では、そこがうまく描けず、結局「そうしなければならない、だからそうする」という所で止まってしまっていたのだが、今回は違う。きちんと「選択」をさせるのだ。

そしてついに、太一・アグモン、ヤマト・ガブモンは戦いに勝利する。
不可避な「別れ」
しかし、それこそが「相応しい結末」
戦いの勝利。
それはすなわち「メノア」の目論見である「永遠に子供」でいられる世界を否定すること。
それは「大人」になるため「別れ」をも成長の糧とする、運命を選んだということだ。
このことで、「選ばれし子供」は必ずデジモンと「別れる」ことになる、それも同時に決定されてしまう
そして太一とヤマトですら回避することができないのだ。
今作品、太一とヤマトはアグモン・ガブモンを失い幕をおろす。
そしていずれは全ての「選ばれし子供」がそうなるのだ。
エンドロール。写真に写る「選ばれし子供」の横にデジモンがいるのか・・・。
それをよく見て欲しい。
そしてまだ横にいる「子供」にもいずれは「別れ」がくる。
しかしその「別れ」は単に悲しいだけではない。
その「別れ」を踏まえて踏み出せる「未来」もあるのだ。
そしてそれはここまで「デジモン」を愛していた僕らに対するメッセージでもある。
「別れる」それが「成長」になるという。
今作品が描いた「別れ」
それはすなわち「デジモンアドベンチャー」最終回で描いた「別れ」で最後にもう一つ「成長」するという点に立ち返る。やはり「デジモンアドベンチャー」のラストとして相応しい物だったと僕は感じる。
続編を作ったことで生じた「成長の糧としての『別れ』」が無き事にされた。
しかしそれではダメなのだ。
作り手もそこを再び「別れ」を「描く」ことから、逃れられなくなったのではないだろうか。
これは元々「少年たちが異世界に行き、そこで出会う異形の生物と心通わせ、冒険し、『別れ』、『成長』する物語」だからだ。
そして「別れ」が太一・ヤマトに新しい目標を生み出したのだ。
だからこそこの結末を描いた、作り手の手腕を僕は本当に評価したい。
長年のファン歓喜のシーンも満載!

過去作へのリスペクト
ちなみに今作品。
「デジモンアドベンチャー」はもちろんのこと、前日譚の「劇場版デジモンアドベンチャー」と「ぼくらのウォーゲーム」に対するリスペクトにも満ちている。
冒頭で戦う「パロットモン」
これは前日譚のオマージュだし、グレイモンとの戦闘はそれを今のクオリティにまでアップデートしている。

その後「エオスモン」との一度目の戦闘。
参加が太一、ヤマト、タケル、光子郎、しかも描線がオレンジなのは「細田守」の「ぼくらのウォーゲーム」へのリスペクトだ。
ちなみにここも、戦闘描写を今の水準のクオリティまで引き上げている。
「エオスモン」の高速移動に対する「オメガモン」の動き。
ここは本当に「ぼくらのウォーゲーム」の現代的アップデートで本当に素晴らしい。

ちなみにここでのヤマトが「出し惜しみはなしだ」とオメガモンを出すシーン。
これは「ぼくらのウォーゲーム」で最初、舐めてかかって負けたことをちゃんと学んでるってことですね。
最大にニクいのは「Butter−Fly」が敵だという点
そして「エオスモン」とのラストバトル。
そこで太一・ヤマトが他の「選ばれし子供」に攻撃されるなど、なかなかにショッキングな展開も見逃せない。
そしてここまで、ずっと「キーアイテム」だった、ヒカリのホイッスル。
ここで劇場版一作目のあのシーンまで流すとは・・・・。

本当に長年のファンには見所がたくさんあるのが、今作の特徴だ。
ちなみに僕がどうしても強く主張したいのは、敵デジモンである「エオスモン」及び「モルフォモン」
このデザインが「蝶」つまり最後の敵が「Butte−Fly」という点だ。
さらに「メノア」の作り出す「ネバーランド」
この結晶化された地形も、また俯瞰視点で見ると「蝶」の形を模している。
おそらく「デジモン」世代の方々にとって和田光司氏の楽曲
「Butter−Fly」は思い出深い楽曲ではないだろうか?
実は、この楽曲の歌詞をよく噛み締めると、
「何故『蝶=Butter−Fly』が敵なのか?」が見えてくる。
「無限大な夢のあとの何もない世の中」
「そうさ愛しい 思いも負けそうになるけど」
和田光司「Butter−Fly」より抜粋
すなわち、これは「選ばれし子供」が「デジモン」と別れる。
その後の世界で、心が悲しみで負けてしまいそう。
そう読み解くことができる。
つまり、今回の敵が「否定」したい世界なのだ。
「Stayしがちなイメージだらけの 頼りない翼でもきっと飛べるさ」
和田光司「Butter−Fly」より抜粋
ただ、「夢のあと」が、どれだけ何もない世界だとしても、それでも「デジモン」や仲間との思い出。
その思い出がどれだけ「頼りなくても」
「飛ぶこと」それこそが大切なのだ。
今作品で太一たちは、自らの意思で「飛ぶ」ことを決意した。
どんなに「辛い」ことがあっても、でも「飛ぶ」ことで未来を開くことができるのだ。
「メノア」という「Butter−Fly」を否定する相手に対して、今作品は、それでも「飛ぶ」
そのことの大切さを描いているのだ。
つまり「Butter−Fly」をポジティブに解釈すること、ネガティブに解釈すること。
その2つのぶつかり合いが、今作品のテーマなのだ。
「02」にも注目して欲しい!!
さてここから少し与太話を・・・。
もしもこの「別れ」の運命を変えることのできる存在がいるのだとすれば、それは大輔たち「02」組だと僕は思っている。
前述したが、特に大輔は「未来」は希望に満ちている。
「大人」になることも「素晴らしい」とその一点で「02」の終盤、説き明かし、子供たちを救っている。
ちなみにこの部分で僕は「02」は「無印」を超えているとも思っている。
「デジモンアドベンチャー」最終回で太一たちは、「別れ」すなわち「成長」を先送りする決断をした。
しかしそれが叶わず止む無く戻る事になる。
しかし「02」ではしっかりと「成長」こそ素晴らしいというメッセージをぶつけた。
この決断が出来た、彼らこそがこの「運命」に立ち向かう資格があるのではないだろうか?
みなさん、「無印」だけでなく「02」も改めて見てみませんか?笑
確かに完成度は「無印には劣ります」
でも終盤は本当素晴らしいので、今作品を見て「02」にも注目してもらいたい。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
デジモン世代で、今作を見ていない・・・
何やってんの!!
みんなにこの作品を見てもらうために、頑張ります!!
まとめ
今作品は、何にせよ「デジモン世代」必見であることは間違いなし!
というわけで。僕は非常に今作品は本当に感動しました。
「デジモンアドベンチャー」で描かれた完璧な結末。
そこに続編を作った事で生じた「別れ」という成長の対価の価値の低下。
それを今回改めて追求し直すという、本当に素晴らしい「最終回」だったと思います。
作り手もきっと「tri」は忸怩たる思いだったんでしょう。
そこをリベンジしたいという思いに満ちていた。
作り手の「本気」が感じられた。
これこそまさに「締め括り」としては相応しいのではないでしょうか。
本当に作り手のみなさま。最高の作品を見せてくださり「ありがとうございました!!!」
まとめ
- 元々テレビアニメ版の「最終回」こそ、このシリーズの理想的着地点。
そこに再び、物語を導く作品。 - デジモンファンならば抑えるべき作品!
ということで、今日も読了ありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう!