
今回も劇場で公開されている新作映画評論をしていきたいと思います。
ということで、先週の『NOPE』に引き続き、観客の賛否がパックリ分かれるであろう作品『LAMB』
この作品を深掘りしていこうと思います。
ポイント
- ホラーではなくシュール
- 語られるのは「雄大な自然」での不思議な物語
- あまりのラストに唖然!
目次
『LAMB』について
基本データ
基本データ
- 公開 2022年
- 監督・脚本 ヴァルディミール・ヨハンソン
- 脚本 ショーン
- 出演 ノオミ・ラパス/ヒルミル・スナイル・グズナソン
あらすじ
山間に住む羊飼いの夫婦イングヴァルとマリア。
ある日、二人が羊の出産に立ち会うと、羊ではない何かが産まれてくる。
子供を亡くしていた二人は、"アダ"と名付けその存在を育てることにする。
奇跡がもたらした"アダ"との家族生活は大きな幸せをもたらすのだが、やがて彼らを破滅へと導いていく—。
Filmarksより引用
ホラーではなく、シュールな物語

羊人間のあまりの収まりの良さ
今作はホラー映画という触れ込みだが、実際は目を背けたくなるようなシーンも少ない。
どちらかというと考えれば「おかしいだろ」と言わざるを得ない状況が、アイスランドの勇壮な自然の中で繰り広げられるのだ。
だから、ある意味で「シュール」な作品だといえる。
今作の主人公夫婦イングヴァルとマリアはそこで「食用」の「羊」を畜産していた。
そんな中で序盤は割と羊の畜産の様子を描く、日々の生活の様子が描かれる。
そこで、これも毎度のことのように、慣れた手つきで羊の出産を手伝っている最中、事件が起きる。
ある一頭の羊から生まれたのだが、「羊」なのだが「羊」ではない。
首から上だけが「羊」であとは、ほぼ人間と変わらない赤ん坊が生まれたのだ。
夫婦はその「獣人」に「アダ」と名付けて育てることにする。
まず持ってこの絵面が、本当にシュールだ。
不気味だし、身持ち悪い、でも服を着て人間の子供さながら生活をするアダ。
観客も映画を見ていると段々違和感がなくなってくるのも不思議だ。

ちなみに今作は山奥での生活描いている分、この夫婦とアダ、そして中盤から登場するインクヴァルの弟ペートゥルという限定的な人物しか登場しない。
最初はペートゥルはアダの姿を見て不気味に思い「あれは人間ではない」として、殺そうとする。
だが、一緒に行動にするにつれて、徐々に思い直していく。
そして最終的にはその存在を認めることになる。
なので今作は、はっきりとアダという存在に違和感を抱く人物。
非常に少なくなっている、いや、いないというのが特徴だ。
この限定的な思考しか存在しない世界で、アダという羊人間に、我々も徐々に引き込まれていくのだ。
物語は、実にシンプル
今作は基本的に「アダ」という存在を育てる夫婦の物語だ。
正直映画として、1時間46分もかけて語られる内容なのか?
と聞かれると、それほど内容は詰まってはいない。
先ほども言ったが、アダという奇妙な存在と生活する夫婦。
時折彼らと生活する犬と猫が「何かの存在」を感じ取ったり、嫌な予感を想起させるシーンが随所に組み込まれてはいる。
しかしアダが何かを起こしたりすることはない。
このあまりに奇妙な獣人は人間の子供よりも純真無垢に生きているのだ。
奇妙に何かを想起させながら、それでも平和な日々が、雄大な自然の中で流れていく。
このバランス感覚に乗れるか、乗れないか?
正直好みがはっきりと分かれるポイントだといえる。
しかし、それでもはっきりと物語が動く瞬間。
その一連のシーンには一気に我々は引き込まれてしまうのも特徴だ。
特に物語の中盤アダを出産した母羊。
ずっとアダを探してなのか、納屋を出て鳴き声を上げているシーンが描かれるのだが、ここでの部屋の窓から中を見つめるその視線がいかに気持ち悪いこと。
ちなみに今作は冒頭から、随所に「羊」をあまりにも「不気味」に見せる工夫もされている。
特に羊の「角」と「目」よく見ると非常に悪魔的でもある、そのビジュアルに、背筋がぞくっとする感覚を随所に見せてくる。
さて、この母羊の件だが、母マリアは何かを感じ取り射殺してしまうのだ。
この出来事が最終的には回り回って因果応報のように彼女に降りかかるのだが、それは最終盤まで起こらない。
そこから、マリア、インクヴァル、ペートゥルの三人の人間の物語が主として描かれる。
おそらくマリアと、ペートゥルの過去に何かあったのか匂わせる描写。
そしてぺートゥルがアダを見て、最初は殺そうとするが、情が映ってしまう一連の流れ。
圧倒的な他者として、この違和感を持っていたはずの人物ペートゥル。
彼がアダに感情移入してしまう流れも、違和感こみで我々が受け入れられるように自然に描かれている。
このように、何かを描こうとしながらも、全てが描かれず。
ただ違和感だけが、どんどん蓄積されていく。
そして、それが最後の瞬間に爆発するのだ。
そんな馬鹿な!!/恐怖の対象とは?
今作は違和感に違和感を重ねて、最後の大事件。
その正体があまりにも唖然とさせられる。
インクヴァルは突然銃殺され、アダは連れ去られるのだが、連れ去る者の正体。
これには唖然とさせられた。
筋骨隆々の全裸。
でも顔が羊の獣人。
完全にシュールを突き詰めた存在が、最後に映画の全てを掻っ攫っていくのだ。
そしてアダと夫を失ったマリアの絶望的な表情で今作は幕を閉じる。
この映画、一体何が言いたいのか?
これで終わり?
観客の頭に「???」が浮かぶのだが、実はこの映画ずっと、あるテーマを描いている。
それが人間のエゴだ。
特に主人公のマリアは親から子供を勝手に奪い、あろうことか、その親を殺している。
その理由はアダが半分が人間の姿をしていたからだ。
もしも完全な羊の赤ん坊なら、そもそもこんなこと起こりもしない。
羊相手だからこそ、この「エグみ」がある意味で軽く描かれてはいるが、仮にこれが対人で起きているならば、こんなに非道なことはない。
今作はそんな彼女の行動に対して、因果応報のよう全てを奪うのだ。
そして、これは「畜産」というものに対しても疑問を投げかけているのではないか?
そもそも「畜産」という行為が元々持っている「一方的性」つまり、命を一方的に消費する行動とも言い換え可能なこの行為。
これぞ人間の「エゴ」の象徴とも言えるわけで、そう言った意味合いもまた、含まれていると読み解くことも可能だ。
そして、最終的に人獣に全てを奪われるマリアという構図は、確かに主人公が「酷い目に遭う」という「ホラー」のように見える。
だが、そもそも「アダ」を育ててからの彼女の異常な行動にこそ「怖み」が詰め込まれている今作。
マリアは「特別なものを授かった」という高揚感。
そして、二人の間に昔授かったが、失われた子供「アダ」
その「アダ」に羊人間「アダ」を一方的に重ねている。

それらが、ある意味で気持ち悪いくらいの愛情として今作では描かれている。
それを強調するのが「アダ」のやはり羊人間の姿だ。
普通に感情移入することは映画内では可能だが、「もしも現実に」と考えれば考えるほどに、「あり得ない」と思ってしまう。
今作で我々の多くは羊男よりも、マリアにこそ恐怖を覚えるのだ。
今作を振りかえって
ざっくり一言解説
面白いが、人は選ぶタイプの作品
考察の余地を楽しめる方にはおすすめ!
まとめ
今作の内容だけを語るのに1時間46分は必要ない。
正直、内容だけならば1時間もあれば語ることは可能だ。
だが、今作はまずは映画館のスクリーンで映し出される雄大な自然、畜産の様子などをじっくり味わうことも大切だ。
アダを授かり、家族として順風満帆の日々を送る家族。
それこそ雄大な自然で、生活謳歌する日々。
しかし、ここでも不穏な空気は描かれつつ、実はマリアのアダへの愛情が非常に「薄気味悪く」描かれるのも特徴だ。
我々は何か起こるのでは?という恐怖プラス、マリアの思考への恐怖も感じるのだ。
だが、最終的に彼女は一方的に全てを奪われる。
実はこのショックを描くのに、この時間的スケールは必要だったといえる。
この「一方的」という点を深堀すると。
そもそも「畜産」という「命を奪う」行為にも「一方性」はある。
今作が割と丁寧に「畜産」の様子を描いているのには、実は意味があったのだ。
想像を超える異形の存在に全てを奪われるラスト。
これはまさに「因果応報」としか言いようのないラストシーンなのだ。
もちろん「神話的」な何かを軸に語ることもできるだろうが、僕はもっと単純に「一方的」な愛の「歪んだ恐怖」
それが、一方的に「奪われる恐怖」という二つを軸に今作深掘りした。

皆さんは、どう読みときますか??
まとめ
- どう読みとくのか?
考えるのが楽しい映画! - 「一方的」が今作のテーマではないだろうか?