
昨年話題になった「JOKER」についてもっと知りたい。
そこのアナタ。
この記事を読んで「JOKER 」についてもっと詳しくなりませんか?
この記事を読むと
- 「JOKER 」に詳しくなる
- 鑑賞時の違和感を解消できる
- この作品が「必見」な理由がわかる!
また「JOKER」が見たくなること間違いなし!
目次
「JOKER」について
基本データ
- 公開 2019年
- 監督 ドット・フィリップス
- 脚本 ドット・フィリップス/スコット・シルヴァー
- 出演者 ホアキン・フェニックス/ロバート・デ・ニーロ/ザジー・ビーツ 他
▼あらすじ▼
売れないコメディアンのアーサ・フレックが暴漢に遭遇したのは
「ゴッサム・シティ」の通りをピエロ姿でさまよっていた時だった。社会から見捨てられたアーサーは徐々に狂気への坂を転落していき
「JOKER 」DVDパッケージより抜粋
やがて「ジョーカー」という悪のカリスマに変貌を遂げる。
さてここから「JOKER」についてネタバレもしつつ、切り込んでいくよ!
「ジョーカー」という巨塔に挑む

ヒース・レジャーのジョーカーという存在
まず、この作品の評価と直接は関係しないのだが、この作品がなぜ公開前から話題になっていたのか?
その点に触れなければならない。
それは2008年公開の「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督作)にて「ジョーカー」を演じたヒース・レジャーの演技。
これが世界中で絶賛されたという前提がある。
ヒースはジョーカーを演じるためにホテルに一人きりで閉じこもるなど、異常なほどの熱意で役作りをし、撮影に望んだ。
そして、そのことも手伝ってか、ヒースは撮影後、薬の併用摂取による急性薬物中毒で亡くなっしまった。
そのこともあり彼の演じたの「ジョーカー」は、ヒース・レジャーの「死」という出来事があり、もはや超えることができないと思われていた。
一人の人間が身を滅ぼして作った「ジョーカー」
その存在感は「命がけ」ということもあり、圧倒的な魅力と狂気に満ちていた
実際その後、ジャレット・レトが「スーサイド・スクワッド」で演じたジョーカー。
これは作品自体の評判も低く、そしてジョーカーもやはり世間では「ヒース超えは厳しい」という評価になってしまった。
1人の人間が身を滅ぼし作り上げたジョーカー。それを主役にする。
果たしてどんなものに仕上がるのか?
そういう「期待」「不安」が入り混じる中での本作公開となった。
ポイント
✅「ヒース・レジャー」の「ジョーカー」という遥かに高いハードルに挑む作品である!
ホアキン版ジョーカーの圧倒的存在感
この前提で、ではホアキン版ジョーカーは一体どうなのか?
結論から言うと、これまた「すごい」ジョーカーが生まれてしまった。と言うほかない。
ホアキン演じるアーサー(ジョーカー)の体の痩せ具合。
1日の食事はりんごひとつ。と言う気合いで、80kgから60kg以下にまで絞り込んで撮影に挑んだだけあり、彼の上半身裸のあばらの浮き出かたなど。
本当に恐ろしいまでのリアリティに溢れている。
ちなみにこれは、アーサーが精神疾患の為に服用している薬の副作用で「痩せてしまう」と言うこと。
それを実際に体現しているのだ。
この現実感が、その設定の部分にも説得力を持たせているのだ。
第92回アカデミー賞主演男優賞獲得も納得だね
ポイント
✅圧倒的役作りで「肉体的=現実的」な説得力を持たせ、当初の不安を一蹴した「ホアキン・フェニックス」
ジョーカーという存在を生み出したのは一体誰だ?

世界の中心から爪弾きにされたアーサー
主人公のアーサー(後のジョーカー)は社会から爪弾きにされた存在である。
彼は、人前で笑うという精神障害、妄想癖に苦しんでいる。
それなのに、周囲の人間は彼を避け、関わりを持とうとしない。
病気であり、彼には一切の悪気がないにも関わらず、それだけで社会から阻害されてしまっているのだ。
もし身近なにこういう人がいたらどういう反応をしてしまうのか?
僕はそれを考えるともう寒気がしました。
間違いなく彼に冷たい表情を向けてしまうと。
普通とは何か?
それはあくまで世間の決める規範である。
でも、その規範に当てはまらない人間は社会から疎外されて、仕方ないと言えるのか?
普通ではない人間はどうすれば良いのか?
その問いかけは本作で随所に散りばめられている。
アーサーは世間から必要とされず、疎外され追い詰められ、社会の底辺にいる。
彼の底辺での暮らし、世間からの阻害。
この物語は彼を序盤からどんどん追い詰めていく、そして我々に問いかける。
「ジョーカーという存在を作ったのは一体誰だ?」と。
ポイント
✅「我々」がもしかしたら、「ジョーカー」を産むのでは? と序盤から今作品はずっと問いかけている。
必要とされることの喜び
そこから中盤、地下鉄で彼が初めて犯す殺人。
本当は殺す気はなかったのかもしれない。
でも笑ってしまう発作が故にリンチされ、そのことを説明しようとしても聞き入れられない。
助けようとした女性にさえ薄気味悪がられ、庇ってもらえない。
そして自分の身を守る為に発砲してしまう。
印象的なのはその後、必死に逃げた先での彼のダンスシーンだ。
今まで抑圧されていた「思い」などが爆発し、フラストレーションが発散され、解き放たれた喜びにも見えるその姿。
彼は「人殺し」で「喜び」を覚えてしまったのだ。
ちなみにあのダンスはホアキンのアドリブなんだって!
最初は後悔に苛まれていたアーサー。
だが、世間は、上流階級の人間を殺した英雄だとして、彼のことを祭り上げてしまう。
そのことでアーサーは初めて人から必要とされる喜びを得てしまう。
殺人という本来人間がもっとも行ってはならない禁忌を犯す。
そのことへの賞賛。
誰からも相手にされず、世間から疎まれ、蔑まれる「承認欲求」を満たせない彼が浴びる、初めての賞賛。
再び映画は問いかける「ジョーカーを産んだのは誰だ?」と。
ポイント
✅「認められない者」が「殺人」という、最悪な好意を「称賛」され、徐々に狂っていく。
✅「殺人」を称賛する「市民」の声。
微かに抱いた淡い希望
今作品ではアーサーは自分の本当の父親であるかも知れない人物「トーマス・ウェイン」の元を訪れる。
「ウェイン」と言えば「バットマンシリーズ」では欠かせない名前ですね!!
ここに関しては、あとで「別の視点」からも見るよ
母ペニーは昔トーマスのもとで働いていたメイドであった。
そしてそこで密かにトーマスと関係を結び「アーサー」を身籠るも、世間体の為に別れたという話を聞かされる。
アーサーはここで微かな希望を抱く。
「父親ならば必要としてくれるのではないか?」と。
しかしこれは打ち砕かれる。
そして作中でアーサーが、淡い恋心を抱く、アパートの隣人ソフィー。
ソフィーとアーサーは、ここまでいくつかの場面で交流を深めていた。
傷心のアーサーは、ソフィーにすがろうとするも、それまでの思い出は全て、自分自身の妄想の出来事だったと知るのだ。
アーサーは現実と妄想の境が無くなっていたんだ
アーサーは微かに抱いた淡い希望、恋心も失われるのだ。
そして、本来自分をもっとも愛してくれると思っていた母親の真実が明るみになる。
自分をこれまで苦しめてきた障害。
これが実はペニーの恋人からの虐待によるものだった。
そしてペニーはアーサーを守ろうとせず、それを見ていただけだったということを知るのだ。
何もかも奪われてアーサーは絶望する。
そして一つの真理に辿り着く。
「自分の人生は悲劇ではなく喜劇だ」と。
そしてペニーを殺害するのだ。
ポイント
✅自分の苦しみの原因である「障害」は、実は「母親」が原因だったという事実。
✅微かな希望すら失うアーサー。
「自分の人生は悲劇ではなく喜劇だ」

アーサーがジョーカに転身する際に発したこのセリフ。
喜劇王チャップリンの名台詞からインスパイアされているのは、ご存知の方も多いはず。
ここに少し注目したい。
「人生はクロースアップで見ると悲劇だが、
チャップリンの発言より
ロングショットで見ると喜劇だ」
アーサーの人生をアーサー視点から見ると、つまり本人からすれば、これは「悲劇」というほかない。
我々観客もアーサー視点で繰り広げられる物語を見ているので、これをやはり「悲劇的な物語だ」と思わずにいられない。
しかし、例えばこれを全く赤の他人が見ればどうだろう?
アーサーのいう、自分たちのことを全く存在していないように振舞う人たちが見ればどうだろう?
序盤の悪ガキたちに逃げられるシーン。
アーサーが信じていた「夢物語」な希望。
そして、コメディアンを目指そうと努力している姿。
もしも僕らがアーサーのような存在を全く知らないと仮定すればどうだろう?
彼を遠目から見る。
その視点でこの出来事を見た我々は、きっと笑ってしまうのではないか?
何をバカなことを信じている。
コメディアンなんかになれるわけがない、と。
アーサーは自分自身の境遇を遠目に見る決意をした、それがジョーカーになるということだ。
全て「冗談」
そう嘯いて生きていくことを決意するのだ。
ジョーカーの誕生
アーサーはマレー・フランクリンという人気司会者のショー番組に呼ばれることを夢見ていた。
彼は自身の妄想の世界でマレーに「父親」の姿を求めていたのだ。
だが、そんなマレーはアーサーを番組で彼の映像を流し、バカにして笑い者にする。
そしてさらに彼を「ネタに」番組を盛り上げようとアーサーを番組に招く。
前述したようにマレーはアーサーのことなど知らない
だからこそ彼を「喜劇」として見ているんだ
ジョーカーとして現れたアーサーは怒りを胸に番組出演する。
そして突然殺人の告白をするのであった。
マレーはアーサーに説教をする。「倫理的におかしい」と。
だがアーサーはこれまでの経験で障害があるにも関わらず、蔑まれ、社会の底辺に追い込まれた自分。
もしも倫理的な価値観があるのならば、なぜ自分がここまで追い詰められなければならないのか?
そういう「倫理」とかいうものが実は虚像でしかないと訴える。
そして自信を「笑いもの」にした怒りをぶつける。
マレーは「正しい」ことをアーサーに言う、だけどもうアーサーにはそれが綺麗事にしか聞こえなくなっているんだ
アーサーは「自分の人生は『悲劇』ではなく『喜劇』だ」と言い切り生放送でマレーを射殺する。
彼はこうして「ジョーカー」として生まれ変わってしまうのだ。
またも映画は我々に問いかける「誰がジョーカーを作り出したのか?」と。
ポイント
✅「倫理的価値観」が正しく機能しているなら、自分はこんな目には合わないと主張するアーサー。
✅「何が正しい」か、それらは「自分が決める」と、「ジョーカー」へと変貌する。
必要とされるのは「アーサー」ではない「ジョーカー」だ
そして彼を「ジョーカー」を「必要」としている人々がいる。
「倫理なるものが機能するならば、なぜ我々はこんなにも苦しいのか」と喘ぐ貧困層だ。
マレーを射殺を知った人々は、上流階層の人間を殺した「道化」を支持する声をあげる。
そしてそれは「殺人」という行為をしたアーサーに向けられた声だ。
つまりアーサーは殺人をすること、それだけが唯一社会から必要とされる、認められる行為なのだ。
最低な行為をしたアーサーであるのに、僕はこのアーサーに同情しているし、感情移入してしまっている。
そして、映画は訴えてくるのだ、我々の倫理観に、鋭く、その居心地の悪さたるや
そしてラスト、暴徒と化したデモ隊の前で「ジョーカー」は初めて万雷の拍手喝采を浴びる。
ジョーカーを生み出したのは一体なんだ?
鋭くまたも映画は問いかけてくる。
しかし、あくまでこの声は「アーサー」ではなく「殺人道化」である「ジョーカー」に向けられている声である。それも見逃せない。
彼は「アーサー」としては、やはり「必要とされていない」
「ジョーカ」として必要とされているんだ。そのことも理解しておかなければならない。
ポイント
✅「殺人」を称賛する市民。
✅「必要とされる」のは「ジョーカー」であり「アーサー」ではない。
悲しい「レット・イット・ゴー」に注目
僕が今作で印象的なシーンを1つあげると、ジョーカーとして階段を降るシーンだ。
彼が「ジョーカー」として街に出ていくまさにその時。
彼がこれからやろうすることは褒められたものではない。
だが、我々は複雑な思いでこのシーンを見る事になる。
ずっと抑圧されていた彼が階段で踊りながら水を蹴り上げる、CM等でも流れる印象的なシーン。
それはまるで「アナ雪」でのエルサのまさしく「ありのままで=レット・イット・ゴー」のシーンのような喜びさえ感じてしまうのだ。
あの瞬間彼は、人生最大の喜び。
偽らずに生きることを叶える。
だからこそ最低なのに、なぜか泣いてしまっている自分がいるのだ。
残酷シーンだが笑える演出も
そうそう、アーサーがランドルを殺害するシーンは今作品で最も残酷なシーンだ。
だがその後の顛末は不謹慎にも笑えてしまう。
小人症のゲイリーが扉のロックを外せずに飛び跳ねるシーン。ここから逃げ出したいと必死なのだが、そこはあまりにも不憫で笑えてしまう。
ブラックジョークというか、不謹慎ギャグ的というか。
だがこのシーンも先ほどのチャップリンの言葉で説明することができる。
アーサーが主人公の物語を見ている我々にとってはゲイリーの「悲劇的体験」それが「喜劇」に見えているということなのだ。
まさに「喜劇」と「悲劇」は視点の差、紙一重だということに他ならないのだ。
作品を見ていて生じる違和感

信用できない語り部であると言う事
この作品を見ていると、所々、「これ本当?」と感じるシーンも多々ある。
もちろん”意図”しての事だよ!
ここまでアーサーについて、思い入れたっぷりに話したが、この作品はそんな物語にいくつかの「違和感」を覚えるように作られている。
それはどうしてか?
答えはシンプルだ「ジョーカー」だからだ。
今作品を批判する声として「ジョーカーは感情移入できない存在だからいい」
と言う声が聞かれたが、僕はそれに対して反論をしたい。
この作品での違和感、それは、この物語それ自体が、彼の語る壮大な「ジョーク」であるかも知れない。そう示唆するための物なのだ。
つまり、「そもそも感情移入をさせられたこの物語」
それ自体の信用性をワザと損わせる、そしてジョーカーの異常性を断片的に際立たせているのだ。
例えば「トーマス」に殴られた後のアーサー。
シーンの繋がりで違和感が生じた方も多いと思う、そしてその後の冷蔵庫に隠れると言う行為。
明らかに警察から逃げようとしているようにしか見えない。
明らかにパトカーの光、そして音が聞こえている
そもそも彼自体が「虚実」曖昧に認識している。
その上でアーサーに感情移入していても、どこか「彼を信用できない」と思っている自分がいる。
最後のカウンセリングで笑いがこみ上げるシーン。
ここで彼が何を思いついたのか?
彼は少なくとも自分の目で「ウェイン夫婦」の死を目撃したわけではないのだ。
今までの話を全て嘘として作り上げていた、その上で、後に「バットマン」となるブルースとの妄想をしたのか?
真実は定かではないが、そう考えられるように「違和感」を持つように描かれているのだ。
そして「どうせ理解できないさ」と告げ、カウンセラーを殺害していると言う点。
その後まるで喜劇のように「追いかけっこ」をして物語が締め括られるあたり、本当はどうだったのか?
つまりこれは「ジョーカー」のついた嘘かも知れないから、信用し過ぎたらダメよ。てな具合だ。
これでジョーカーに対する、彼のやはり理解できない存在感というのも僕は守れているし配慮されていると思う。
ポイント
✅物語全体に漂う「不自然さ」それこそが「ジョーカー」を完全には信用できなくさせている。
✅この作品の物語。それすらも「ジョーカー」の「冗談」なのかもしれない。というバランスになっている。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!
笑う前にちょっと一呼吸!
笑う前に、相手はのことも少しでも思いやる
それが必要だ!
まとめ
この映画について考えていると僕は、随所に彼が「ジョーカー」にならない可能性も示唆していると思う。
バスでの子供の親が、「ありがとう」といったらどうだったか?
トーマスがアーサーにかける言葉がもう少し優しければどうだったか?
警察が彼の障害を「ピエロとしての演技だと言わなければ」どうだったのか?
それら全ての返答が最悪なものとなった結果が「ジョーカー」を産んだのだ。
だが「アーサー」を目の前にして、僕は「ならない可能性」の行動をできたのだろうか?
今作品はとにかく我々にとって居心地の悪い問いかけを繰り返す。
「ジョーカー」を作るのは「お前たちかも知れない」と。
さらに、最後の暴動シーンで、自分があの場にいると、ヒエラルキーの上に立つ者のいう「倫理」「正義」「正しさ」みたいなものを全て破壊したい。
そういう衝動に駆られてしまうかも知れない。
初めはそれなりに訴えや、何かしらの正義感を持っての行動なのかも知れない。
だけど破壊活動をすることに楽しみを見出し、暴走すする心理もわかる。
実際に何かしらの街の公共の物、他人の財産など、無茶苦茶に壊していいってなれば、それは絶対楽しいに決まってるはずだ。
このように今作は、色々考えてしまう分鑑賞後クラクラになるほど疲れてしまう。
しかも繰り返しになるが「アーサー」「ジョーカー」の語る、物語を果たして信用して良いのか?
と疑わせる作りも、「なんとまぁジョーカーらしい」ことか・・・。
ただそんな物語を、面白い映画として確立している。
その凄さが際立っているのだ。
やはり「狂気の傑作」というに相応しい作品である。
この記事を読んだあとにまた鑑賞してもらえれば、色々もっと考えたくなるのは間違いないですよ!
まとめ
- 「誰がジョーカーを産んだのか?」その問いかけに考えさせられる。
- 物語全体の信頼度をあえて下げさせ、やはり「ジョーカー」の「信用できなさ」もキチンと描いている。
というわけで、今日も読了お疲れ様でした
また次回お会いしましょう!
「ジョーカー」で連想した歌を貼っておきますね