
今回はハリソン・フォード演じる考古学者インディ・ジョーンズの冒険を描くアドベンチャー映画の金字塔「インディ・ジョーンズ」シリーズの第5作目。
『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』
前作から15年。
一作目が1981年公開なので、42年続いたシリーズ一応の完結作という位置付けの今作ですが、さて果たしてどうだったのか・・・。
これからつらつらと感想を語りたいと思います。
あらすじ
考古学者で冒険家のインディ・ジョーンズの前にヘレナという女性が現れ、インディが若き日に発見した伝説の秘宝「運命のダイヤル」の話を持ち掛ける。
それは人類の歴史を変える力を持つとされる究極の秘宝であり、その「運命のダイヤル」を巡ってインディは、因縁の宿敵である元ナチスの科学者フォラーを相手に、全世界を股にかけた争奪戦を繰り広げることとなる。
基本データ
基本データ
- 公開 2023年
- 監督 ジェームズ・マンゴールド
- 脚本 ジェズ・バターワース/ジョン=ヘンリー・バターワース/ジェームズ・マンゴールド
- 出演者 ハリソン・フォード/フィービー・ウォーラー=ブリッジ 他
目次
”老いる”ということとは!?
生々しい時間経過
今作は主人公インディ・ジョーンズが”老いた”ことをテーマに描かれている。
そこに乗れるか乗れないかで今作品への評価が大きく分かれているのだ。
今作の冒頭、1944年のインディが描かれる。
この場面のインディは恐らく40代、まだまだ彼が若く、冒険と時にアクシデント、ナチスとの戦いに巻き込まれている場面を描く。

この当時のナチスとの戦いで、今作のマクガフィンとなる「アンティキティラのダイヤル=運命のダイヤル」を手にいれるのだ。
そこから一転し、今作における現代に時代は飛ぶ。
時は1969年。
アポロ11号の月面着陸に湧き返る世間。
そしてベトナム戦争への反戦のデモ、インディの住むアパートの近隣住民はロックンロールへ興じるなど時代の移り変わりを描いている。
インディは物語開示時点で定年退職寸前の70歳。
かつて世界中で財宝をめぐり冒険していた頃の面影はすっかり失われている。
そしてどうやら、前作でよりを戻したマリオンと離婚協議中、そして息子のマットは亡くなってしまったことが明かされる。
一度は人生における幸せを「全て」手に入れたインディ。
だが、彼はここまでの間に、それを失ってしまうのだ。
そのショックで人生を通して情熱を注いだ考古学にも関心が薄れつつあるし、まして発掘調査には行かない。
人生もいよいよ黄昏時。
かつての活力もなく、ただ”時間”が過ぎていき、世界と切り離された悲しい老人となっている。
ここで作品で驚かされるのは、インディの”老い”つまり演じるハリソン・フォードの”老い”とも言えるが、それを隠さずに見せる手法だ。
その”老い”の生々しさは、痛々しくも見えてくる。
そんな彼がヘレナ・ショーと出会い、かつて手に入れた「アンキティティラのダイヤル」を巡ってまたも世界を駆け回ることになる。
それをナチスの残党が追いかけるという、シリーズお馴染みの展開が繰り広げられていく。
ただ、このインディらしいストーリーも、やはり”老い”というものを随所に感じさせるものになっている。
冒頭の40代のインディのアクションは、それこそ『最後の聖戦』などを彷彿とさせる、パワフルさに溢れた展開だった。
それをきちんと見せたからこそ現在の彼のアクションは非常に鈍重にも見える。
例えばよくあるシーンのひとつとして絶壁を登るというシーン。
このシリーズでは幾度となくあったが、今作では老骨に鞭を打っていることを、彼が自分の言葉で発する。
そこで語られる身体中の傷の話。
だが、そこでその傷の話をしている時の彼は、必死なのにどこか楽しそうになるのだ。
思えば再び冒険に出る時、かつての仲間サラーにも「もう冒険の日々はない」と悲しそうに告げたていた。
だが、そんな人生の黄昏時の彼の目に再び光を灯すのは、冒険と考古学の探究だったのだ。
インディの苦悩と再起
そんな彼の最大の苦悩が今作はクライマックスで描かれる。
ナチスの残党であり、今作のメインヴィラン、ユルゲン・フォラー。
彼が狙っていた「ダイヤル」は「時間の裂け目を計測」つまり「タイプスリップ」を可能にするアルキメデスの残した代物だったことが明らかになる。
ここで今作のテーマである”時間”が浮き彫りになる。
もちろん物語としてのギミックでもあるのだが、今作はここまで”老いる”という、ある種の「時間経過」を描いていた。
”老いる”とは何か?
ー生きていく上で「時間が経過」すること、と言い換えることも可能だろうー
それは、人生の無限の可能性が狭まっていくことだ。
例えば近いテーマを扱った『デジモンアドベンチャ LAST EVOLUTION 絆』の時にも同じことを述べたがここでもう一度語っておく。
「成長」つまり「老い」と言えるが、人間は時間の経過につれて徐々に無限の可能性が閉じていくことだと言える。
生まれたての頃には「無限の可能性」があるのに、例えば今の自分に果たして「無限の可能性」があるのか。
時間の経過で、残酷にも「無限の可能性」も閉じていくのだ。
それは今作のインディにも当てはまる。
冒頭にも述べたが、インディは70歳を超え、ついに人生の幕引きの方法を考える世代になってきていた。
しかも過去情熱を賭した「考古学」への情熱も薄れつつある。
そして1969年という時代はある意味で「過去」に目を向けるよりも、「未来」へ目をむける人間の方が遥かに多くなっているのだ。
そんな彼が冒険で「目を光らせていく」過程が今作で描かれていた。
その旅の果てに起きた「奇跡」とも呼べる体験。
自分がずっと研究してきたことの「全て」が見える瞬間、そこに留まろうと思い悩むことは、必然でもある。
なぜなら潰えたはずの無限の可能性がの扉がここで、再び開いたからだ。
この悩みを「インディらしくない」という声もある。
彼はそんなことで悩みはしないと。
しかし、今作のインディは先程から述べているように前4作と比べて”老いている”のだ。
何度もいうが、自分の全てを一旦失っている状態なのだ。
そんな彼の状態だからこそ、彼の中に「揺らぎ」が生じる。
人生の最終局面で、まさに「夢にまで見た」そんな世界を見せられて、迷わない人間はいない。
それはインディとて例外ではないということだ。
今作は、ある意味で老いた男の葛藤を描き切ることに終始しており、それがまさに最後に描かれているというわけだ。
ただ、最終的に彼は共に冒険をしたヘレナの手によって連れ戻される。
個人的にはラスト、彼の身を案じたマリオンたちが彼を見舞いに来るシーンは非常に感動的だった。
インディをインディたらしめていたのは、まさに「考古学」を追い求めている姿なのだ。
マリオンが彼の元を離れたのは、息子を失い絶望し、全てを捨てた彼を見たくないという心理だった。
失ったものは元には戻らない、だがそれでも人生を賭けるに値するものを再び見つめ直し、彼は家族を取り戻した。
自分から何もかも剥ぎ取られたとしても、最後に残ったもの、それがインディにとって「考古学」だったのだ。
今作は、人生の黄昏時の彼が、最後に残った情熱を注ぐべきものを見つけ直す物語でもある。
おそらく彼は死ぬまで「考古学」にロマンを抱いき生き続ける。
それがインディ・ジョーンズなのだ。
最終作でもう一度ここに着地する。
個人的には素晴らしい最終作だったいうほかはない。