
さて、またまた「新作映画」を見てきました!
ということで「サンドラの小さな家」について、今日は語っていきたいとおもいます。
この作品のポイント
- 「DV」「シングルマザーの貧困」という、問題点に切り込む作品。
- 「親権争い」「DIYでの家造り」など、困難に立ち向かう姿を描く。
- 公式HPの言うように、「ケン・ローチ」作品を彷彿とさせられる。
/#サンドラの小さな家 🏡
— ロングライド|映画配給 (@longride_movie) April 2, 2021
公開中🕊🕊
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家も人生も、自分たちの手で建て直す。
『マンマ・ミーア!』監督が贈る
生きづらい世界で 助けあって生きる人々を描く
希望と奮闘の物語。
サンドラの勇気を、お近くの劇場でぜひ、ご覧ください👷♀️🌈https://t.co/K3V8mtgA8Y#DIY #メハル pic.twitter.com/6SHNKYkV7a
目次
「サンドラの小さな家」について
基本データ
基本データ
- 公開 2021年
- 監督 フィリダ・ロイド
- 脚本 クレア・ダン/マルコム・キャンベル
- 出演者 クレア・ダン/ハリエット・ウォーカー/コンリース・ヒル ほか
あらすじ
シングルマザーのサンドラ(クレア・ダン)は、虐待をする夫のもとから2人の幼い娘と共に逃げ出したが、公営住宅には長い順番待ち、ホテルでの仮住まいの生活から抜け出せない。
ある日、娘の寝る前のベッドサイドストーリーからヒントを得て、手頃な家を自分で建てようというアイデアを思いつく。
土地、資金、人材……
足りないものだらけで途方に暮れていたサンドラだったが、土地と資金の提供を申し出てくれた雇い主のペギー(ハリエット・ウォルター)、偶然出会った建設業者のエイド(コンリース・ヒル)、仕事仲間やその友人たち。少しずつ仲間を増やし、一軒の小さな家を作っていく。
しかし、束縛の強い元夫の妨害にあい・・・。
サンドラは自分の人生を再建することができるのだろうか?
映画『サンドラの小さな家』公式サイトより引用
なぜ「被害者」が「貧困」に陥るのか??

両親のいない「サンドラ」/両親のいる「ゲイリー」
今回の作品で顕著なのは、主人公「サンドラ」は一貫して「被害者」であるということだ。
冒頭「シーア」の『Chandelier」でサンドラとエマ、モリー姉妹が踊るという非常に素晴らしい時間が描かれる。
しかし、悲劇はいきなり訪れる。
サンドラは夫「ゲイリー」から、日常的に暴力を振るわれていたが、その日の「DV」はいつもよりも酷いものだった。
その結果、顔面から流血。
手を踏みつけられ負傷してしまうシーンが痛々しく描かれるのだ。
そしてサンドラは、夫から逃れ「ホテル」で仮住まいすることになる。
しかし現実は厳しい。
彼女には両親はおらず、金銭的援助をしてくれる存在がいないのだ。
だが、子どもたちが通う学校や、自信の職場からも、遠方の「ホテル」を用意され、日々の送迎のガソリン代も馬鹿にならない。
公営住宅への引っ越しを希望するも、順番は遥かに先、入居の見通しは一切立たない。
そんな大変な状況でサンドラは苦しんでいく。
だが一方「元夫」は、実家家族に支えられ、不自由ない生活をしている。
そして、週末にはエマ、モリーを実家に招き入れ、彼女たちに様々なものを買い与えているのだ。
しかもこの、ゲイリー家族。
特に彼の父親は、サンドラに対して「家庭内の喧嘩を表沙汰にした」と、息子を諌めるどころか、彼女を攻めるありさま。
この理不尽っぷりには、見ていて腹がたった。
だが、ゲイリーの母は、内心サンドラに同情している表情を浮かべる。
これは後に分ることだが、ゲイリーの両親もまた、夫が妻に暴力をふるっている。
そのため、義理の娘で、同じ立場で苦しむサンドラを「救う」ことが出来ずにもどかしい思いを抱えているのだ。
このように、まず「経済面」で本来「加害者」であるゲイリーは何不自由なく生きていて、「被害者」であるサンドラは非常に苦しい生活を余儀なくされる。
現実の不条理さがありありと描かれるのだ。
ならば、自力で家を作ろう
このように徹底的に「理不尽」な目にあうサンドラ。
彼女は滞在しているホテルでも、他の客と一緒になってはいけない。
そうフロント係に言われるなど、どこにいても「理不尽」な目にあう。
そんな中で、自作で「家を作る」ことを考えつくのだ。
そして彼女が清掃係をしている「ペギー」はその事を知り、サンドラに裏庭の土地を贈るのだ。
こうして土地を手に入れたサンドラだが、建築のノウハウは一切ない。
しかし、ひょんなことからであったエイドに協力を取り付け、さらに知人に手伝いを頼み、「素人集団」で「家造り」をスタートさせるのだ。
この辺りの「DIY」してるな!
という感じは、ここまで作品に立ち込めていた、モヤモヤ感のようなものを、全て取っ払ってくれる非常に楽しい展開にもなっている。
そしてサンドラにとって、過去から逃れる意味でも大きな「意義」を成していくのだ。
しかし、今作はそう甘くない。
サンドラは娘をゲイリーと面会させる度に、「DV」を受けた心の傷に苦しめられる。
そして末娘のモリーも、「父に会いたくない」とダダをこねるようになっていくのだ。
ここでもゲイリーの自分勝手さが目に余る。
「自分は、カウンセリングを受けている」
「もう、DVはしない」
「やり直そう」
彼は、サンドラの「心の傷」を見ようとせず、自分は「変わった」ことだけを主張するのだ。
だが、言葉の端々や、行動を見るに「絶対にまた繰り返す」というのを予感をさせられる。
そして、それは確信に変わる。
モリーがダダをこね、「面会出来ない」とサンドラがゲイリーに伝えた際に言い放った「糞女」という言葉だ。
結局、彼は何一つ「更生」してなかったのだ。
実は、これは後に分ることなのだが、モリーは、ゲイリーがサンドラを殴るところを目撃していて、それで「心に傷」を抱えているのだ。
それを知ると、「面会拒否」はある種「正しい」ことだと言えるのだが、さらなる「理不尽」がサンドラを襲うのだ。
親権争いで苦境に立たされる
突然サンドラに「裁判」の申し出が送られてくる。
それはゲイリー側からで、「面会拒否」および「エマの怪我」の件で、サンドラから「親権」を奪おうと画策されたものだった。
実はエマは、家の建築中に不注意で負傷してしまう。
ここで、さんざん「アナ雪」という話題がずっと出ていたが、そういう回収の仕方をするのか、と関心させられたりもしたが。
このケガをゲイリーたちに不審がられてはいけないと、「ホテルでころんだ」ということにしようとエマには言いつけるのだが、恐らくきつい問答をされたのだろう、エマは全てをゲイリーに話してしまうのだ。
そのことでサンドラは3つの「訴え」を起こされてしまうのだ。
①モリーの「面会拒絶」
②エマのケガの虚偽報告
③「家」を建築してるにも関わらず、「公営住宅」への引っ越し希望を取り下げていない
この3つを争点にされ、サンドラは「親権」を奪われる寸前まで追い込まれるのだ。
理由としてはまず「面会拒絶」だが、ゲイリーは「養育費」を支払っている、つまり「親としての責務」を果たしている。
にもかかわらず、「面会拒絶」は「権利侵害」だと訴えられるのだ。
2つ目に「ケガ」をした件だが、「家を建築」していることがゲイリーにバレると、トラブルになるだろうということで「ホテルでころんだ」ことにしてやり過ごそうとした。
だが、事実がバレて「虚偽報告」だと追求されてしまう。
3つ目に「公的書類」への虚偽記入だ。
そもそも、「素人集団」でホントに家を建築できる保証はない、リスクヘッジで彼女は「家族を守るため」「補助を受けるため」に虚偽の申請をした。
完成後には早々に取り下げる気だった。
だが、確かに現状「虚偽」の申請をしたのは事実だと咎められる。
こうして一気にサンドラは「信用できない嘘つき」というレッテルを貼られ、絶望してしまう。
だが冷静に考えると、この構図事態が「理不尽極まりない」
そもそも「モリー」の「面会拒絶」は、彼女がゲイリーに会いたくないからで、原因は彼の「DV」を目撃しているからだ。
そんな心の傷を追わせたのは、他ならぬゲイリーなのだ。
さらに、「ケガ」の件も、確かに虚偽の報告をしたが、キチンと手当もした。
確かに、この「ケガの真相」が、「申請書類」への虚偽になることも関連しているのだが、全ては「娘のため」を思っての行動なのだ。
そして、ずっと「ホテル」で仮住まいしていると、どんどん「支払う金額」も増えていく。
どうしようもない状況に追い込まれ、サンドラはそれでも「娘」のために一番心身を削り、尽くしている。
それでも「親権」を奪われる危機に陥るのは、どうみても「理不尽」なのだ。
ていうか、事の発端はすべてゲイリーがサンドラに、日常的に「DV」をしていたことなのだ。
そもそも、サンドラは「被害者」なのだ。
だけど、その事に着目されずに、「面会拒絶」「養育費」云々というので、彼女が追い詰められる。
この状況に、なんと現実は理不尽なことか?
どんどん怒りが掻き立てられてしまうのだ。
全てはうまくいくかのように・・・。
なんとか、サンドラはゲイリー側の訴えを退け、「親権」を持ち続けることになり、そして「家」も完成。
ここまで、終始「理不尽」を描き続けていた今作だが、終盤、ようやく「一筋の光」が見えてくる。
これで「終わり」かと思いきや、あらぬ方向に物語は転がっていく。
ゲイリーは彼女の新築を放火。
サンドラは家を一夜にして失ってしまうのだ。
この「すべてが上手くいく」と思った矢先に「全て失う」展開は、先日評した「ミナリ」にも通ずる。
これもまた、現実があまりにも「理不尽」だということを描いている。
最終的に失意のサンドラは再び立ち上がり、エマ、モリーと共に「再び家造り」に挑むという場面で幕をおろすことになる。
今作の特徴は、このようにサンドラに過酷すぎる「仕打ち」を繰り返すことだ。
一瞬見えた光も、すぐに失われる。
今作を見ていて感じるのは、「なぜ?」という感情だ。
なんども繰り返すが、サンドラは「本来被害者」で、そもそもゲイリーが「DV」をしなければ、こんな事にはならなかったはずだ。
序盤の「1人になったからこそ、貧困に陥る展開」、中盤の「親権争い」
なぜ、こんなにも「被害者」が追い詰められる社会になっているのか?
そこにあまりにも同情してしまうし、怒りすら感じてしまう。
そして、そんな彼女の苦労が「報われる」
彼女の人生の「再建」を意味する「家の完成」
だが、それも虚しく失われてしまう。
だが、それでも彼女を再び立ち上がらせるのは、他でもない「娘」だ。
エマとモリーは「燃え尽きた家の灰」を集めようとしていた。
彼女たちにとっては、これも「遊び」の延長なのかも知れないが、それでも彼女たちになりに考えての行動だ。
そんな姿を見たからこそ、サンドラは自分もまた「立ち上がらなければならない」と決意するのだ。
だが、この出来事は、かなりうがった見方も出来る。
この「放火」でゲイリーは「逮捕」されたことが知らされる。
そのことで、真にサンドラに「平穏」が訪れることになるのだ。
もしも、このまま「家が完成」したままだと、どこかでゲイリーと出会うかも・・・。
そんな恐怖をサンドラは抱いて生きていくことになったのかも知れない。
事実「ホームセンター」では、彼の姿を見て「DV」を受けていた頃の記憶がフラッシュバックしている。
そんな恐怖を少なくとも、ゲイリーが「逮捕」されたことで彼女は感じなくて済む。
そう思うと、最悪の状況でもあるが、まだ彼女にとって「救い」もある結末だと言えるのかも知れない。
だが、とにかく、今作は「現実の理不尽さ」を徹底的に突きつけてくる。
そんな作品になっている。
「メハル」という言葉。
終始、「理不尽」が支配する今作の中で、サンドラに手を差し伸べる者もいる。
それがエイドや、サンドラの仕事仲間、エイミー、そしてママ友のローザたちだ。
この作品で彼女に手を差し伸べるのは「公的」な機関ではなく、あくまで「私的な関わり」を持つ存在たちなのだ。
そんな協力者たちは、ある種サンドラと同じ「痛み」を知っている者たちだ。
言うなれば、社会から「理不尽な扱い」を受けてきた、とも言いかえることができる。
住居を不法占拠するエイミーや、エイドも「心臓の持病」を抱えており、満足な仕事ができない。
そして彼の息子フランシスは「ダウン症」なのだ。
だからこそ、彼らはサンドラを助けるのだ。
同じ「痛み」を知る存在として。
最後にフランシスがいう「メハル」という言葉が印象的だ。
これは、アイルランドに昔から伝わる精神だ。
「皆が集まって助け合い、結果自分も助けられる」ことを意味する言葉。
ある意味で「人間関係」が希薄になりつつある現代において、これは持ち続けたい精神だとも言える。
少なくとも、サンドラを助けたことで、皆は互いに「友人」となり、信頼関係を築けたことは、彼らにとってもいずれ「重要」なことになるかも知れないのだ。

だが、今作としては「家が放火」されるという結末があるので、せっかくの皆の頑張りが失われたという、ものすごい喪失感も感じてしまう。
でも、それでも最後に再び立ち上がったサンドラ。
また彼女は「家造り」を始めるのだろう、その時また、皆が彼女を助けようとするに違いない。
そんな微かな希望も、また残されているのだ。
皆の心に「メハル」の精神がある限り。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
微かに残る「希望」を見だしたくなる・・・
「救いのない物語」だけど「救い」を信じたくなる。
複雑な心境になりました。
まとめ
今作は決して「幸せ」な最後が訪れる、そういうタイプの作品ではない。
むしろ終始「理不尽さ」がサンドラを襲うのだ。
こういう、どうしようもない理不尽さを描く作劇は、たしかに「ケン・ローチ」に通ずる点も多くある。
昨年みた「家族を想うとき」でも感じた、とてつもないやるせなさを、今作でも感じた。
だけど、これが現実なのだ。
どれほど「正しく」生きたとしても、時にどうしようもない「理不尽」に人生を邪魔されることもある。
「理不尽」といえば、今作の中盤、サンドラの告白もまた「理不尽だ」
彼女は、日々ゲイリーに暴力を振るわれ、「PTSD」のように、日常でもそのショックを思い出すのだが、それでも彼女の心は「出会った頃」の彼を懐かしんでいるし、「信じよう」としているのだ。
この、過ぎ去った、懐かしき最愛の日々を、心が望む。
こうした「人間心理」もまた、非常に「理不尽」な動きをするのだ。
だけど、それでも「手を差し伸べてくれる」
そんな存在もいるのだ。
そんな「優しい」面も今作は描いてくれる。
だが今作の中では、「優しさ」の結晶は悲しすぎる顛末をたどるのが・・・。
とにかく、なんとも形容し難い作品であったことは事実だ。
こういう作品こそ、上手く語れるようになりたいが、まだまだ「修行」が足りないということだろう。
ただ一つ、確かなことは「メハル」の精神を持って生きていきたい。
そう思わされる作品だった。
まとめ
- 社会の残酷さ、「これでもか」と描く。
- 同時に「優しさ」も描かれる。
- ただし、最終的には、やはり「理不尽さ」に心を支配されてしまう。
メチャクチャ、語るのが難しい作品でした!
こういう作品こそ、語れるようにならければ(猛省)