
さて今回は、2021年最注目の作品と言っても過言ではない一本。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を深堀りしていきたいと思います!!

この作品のポイント
- そもそも「エヴァンゲリオン」という作品の、本質とは?
- これまでのシリーズと「碇シンジ」の立ち位置が大きく異る。
- なぜ、この答えにたどり着いたのか?
目次
「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」
基本データ
基本データ
- 公開 2021年
- 監督 庵野秀明(総監督) 鶴巻和哉 中山勝一 前田真宏
- 脚本 庵野秀明
- 原作 庵野秀明
- 製作総指 庵野秀明 緒方智幸
- 声の出演 緒方恵美 林原めぐみ 宮村優子
あらすじ
エヴァがついに完結する。
2007年から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズとして再起動し、『:序』『:破』『:Q』の3作を公開してきた。
その最新作、第4部『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の劇場公開が決定。人の本質とは何か?
人は何のために生きるのか?エヴァのテーマは、いつの時代にも通じる普遍的な核を持っている。
シンジ、レイ、アスカ、マリ、個性にあふれたキャラクターたちが、人造人間エヴァンゲリオンに搭乗し、それぞれの生き方を模索する。
人と世界の再生を視野に入れた壮大な世界観と細部まで作り込まれた緻密な設定、デジタル技術を駆使した最新映像が次々と登場し、美しいデザインと色彩、情感あふれる表現が心に刺さる。スピーディーで濃密、一度観たら病みつきになるその語り口は、興行収入80億円超えの大作『シン・ゴジラ』も記憶に新しい庵野秀明総監督による独特の境地。
その庵野総監督がアニメーションのフィールドで創作の原点に立ち返り、新たな構想と心境によって2012年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』以後、封印されてきた物語の続きを語る。
1995年にTVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』でアニメファンのみならず、アーティストや学者までを巻き込んで社会現象を起こした初出から、実に25年――その間、常にエポックメイキングであり続けたエヴァの、新たな姿を見届けよう。
公式サイトより引用
そもそも「エヴァンゲリオン」の語りたいこと

他者を拒絶するのか、受け入れるのか
そもそも僕は「エヴァンゲリオン」という作品は「難解」ではないと考えている。
「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年〜1996年)、いわゆる「TV版」
そして、そのTV版の「第25話」「第26話」を新規で作成し直した、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」(1997年)(「旧劇場版」)
そして、今回の「シン・エヴァンゲリオン」を含む、全四作から構成される「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」
これらは、確かに一見すると、「難解なSF用語」「宗教用語」「独自用語」独特の「編集」や「画面構成」
世界観の飛躍演出など、確かに「難解」そうに見えるのは、仕方がない。
だが、物語の本質は全て主人公「碇シンジ」という他者との心の交流を恐れる、不器用な少年が、どの作品でも最終的には「他者との共存か拒絶」を選択し、ジャッジする物語といえる。
「TV版」では「他者のいる世界」の再構築を望み、シンジが再び世界に「受け入れられる」物語だと言える。
(有名な「おめでとう」エンディングだ)
「旧劇」でも「他者のいる世界」の再構築を望むものの、シンジはアスカに「気持ち悪い」と言われ、世界に「拒絶される」物語だと言える。
(有名な「気持ち悪い」エンディング)
確かにシンジがこの「世界の再構築」を望むにあたって「ネルフ」や「ゼーレ」の真意異なる「人類補完計画」
「ガフの扉」などなど、色々な「難解」な用語は飛び出すので、難しく考えてしまうのはわかる。
だが「エヴァンゲリオン」という作品は、本質的には「碇シンジ」が物語の出来事を通じて「他者の存在」を望むのか? 否か?
その選択を最後に迫る物語であると言えるのだ。
そしてさらに、重要なのは「難解」である「用語」の数々を、全てを正しく理解する必要はないのだ。
なぜなら、それを「理解すること」ことは、物語の本質を見極める上では必須ではないのだ。
あくまで、「考察」の余地だと言える。
つまりこれらの「用語」は、キチンと物語に没入していることさえ出来れば、全てスルーして問題ない。
物語の最終的な理解度には、ほとんど影響しないのだ。
ただ、「エヴァンゲリオン」というシリーズは、やはりこの「考察」が楽しい側面もあるのは事実だ。
だが、僕は必要以上に「考察」という側面だけが「注目」されてしまい、「エヴァンゲリオン」というシリーズが一見さんには厳しいイメージを与えている一因になっていると考える。
「用語」が出ると聞き漏らすまいと必死になる、そのせいで、物語本来の「いいたいこと」が見えにくいものになっているのだ。
世界の再構築は再び描かれるのだが
さて「エヴァンゲリオン」という作品で、毎回「最終的」に描かれるのは「碇シンジ」の「他者を望む、望まぬ」という判断の物語。
ひいては、その選択で「世界を再構築する物語」である。
そのことは、理解していただいたと思う。
今回の「シン・エヴァンゲリオン」も基本的にはこの、シンジが判断し、どのように「世界を再構築」するのか?、を決断する。
という物語であり、これまでのシリーズと描かれるものは同じだと言える。
そこに「シン・エヴァンゲリオン」独自の「専門用語」「SF用語」は提示されるものの、作中で起きている出来事は、根っこの部分では過去シリーズと共通しているとも言えるのだ。
さて、ここで少しだけ前作にあたる「ヱヴァンゲリヲンQ」について語る必要がある。
「ヱヴァンゲリヲン:Q」について
この「エヴァQ」は、これまでの「TV版」「旧劇場版」と比べても異質の作品だった。
これまで舞台となるのは、架空の2015年。
描かれるのは「使途」と呼ばれる敵と「汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン」に搭乗する「14歳」の少年少女の物語だった。
それもそのはず「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」は「TV版」「旧劇場版」のリメイクという要素が大いに強かったのだ。
「ヱヴァンゲリヲン:序」はほとんど「TV版」を踏襲。
続編の「ヱヴァンゲリヲン:破」も、ほぼ踏襲しつつ、新しいキャラクターの登場など、少し独自路線に進もうとした。
だが、基本の構成は大きく逸脱無いものとなっていた。
だが「ヱヴァンゲリヲン:Q」は、そこから大きく物語の流れが変わった。
今までの「TV版」や「新劇場版」の世界から「14年」が経ってしまっていること。
主人公「碇シンジ」は「エヴァQ」の冒頭で「14年間」の睡眠から目覚める。
つまり「14年の間に、世界で起きていること」を全く知らない状態で物語が始まるのだ。
我々はこのシンジの視点で、前作と大きく様変わりした世界。
「14年後」の世界を体験することとなる。
外見が大きく変化した仲間たち。
エヴァパイロットの仲間であるアスカは、見た目こそ変わらない(エヴァの呪い)が「14年」という月日を経験し、精神は「大人」になっている。
そして、シンジが引き起こした事態で「世界は破滅寸前」に陥っていることを、シンジとともに文字通り「振り回される」形で情報として提示され、物語が進む。
そしてシンジは、自責の念に駆られ、自分の「起こしたこと」を「無かったこと」にするために「世界を再構築しようとする」

つまり、この「ヱヴァンゲリヲン:Q」では、これまでの「エヴァンゲリオンシリーズ」では「最後」に行われる「世界の書き換え」という行為にまで辿り着こうとするに至る。
だが、唯一この作品では「世界の書き換え」を行うことが出来ないという結末が待っているのだ。
この「エヴァンゲリオン:Q」という作品は実は「物語」としては、いくつかの「ナゾ」が解ける側面はあるものの、話そのものは、実質前には進んでいないといえる。
結局「自責の念」がさらに増幅したシンジは「生きる気力」を失い、破滅寸前の世界を彷徨うという結末を迎えるのだ。
この作劇ということもあり、2012年の公開当時「賛否」が分かれ、多くのファン・観客の間でも物議を醸すこととなる。
そして、あまりにも「救われない展開」に、この後「シリーズ」をどう締めくくるのか?
そこに注目が集まることになる。
そして「シン・エヴァンゲリオン」公開にまで9年という時間を費やすに至るのだ。(コロナ禍での公開延期も相まって)
この間のことは後述したい。
ここで何故、延々と「エヴァQ」の話を何故したのか?
その点に触れていきたい。
答えは、毎シリーズ毎に行われてきた「碇シンジ」による「世界の再構築」という選択肢を、この「新劇場版」では一度、手段として否定しているという点だ。
というのも「碇シンジによる世界の再構築」は、非常に「個人的」な思惑から毎回行われてきた。
「エヴァQ」でも、「自分の壊した世界をもとに戻したい」
それは、非常に「前向き」とも取れる行動原理だが、本当は「自分の罪から逃れたい」という「後ろ向き」な理由で行おうとした。
つまりこの「新劇場版」の世界では「自分本位の動機で、世界の再構築」は許さない。
前作はそのことを描くに特化した作品だったのだ。
そして今回も結果行われる「碇シンジ」による「世界の再構築」
今回はこれまでのシリーズとは違い、動機が非常に「前向き」なものに変化しているのだ。
これが「シン・エヴァンゲリオン」最大の特徴だと言える。
そして、今作はなぜ「シンジ」が前向きになるのか?
その点を丁寧に描く作品だと言えるのだ。
再び立ち上がる「碇シンジ」
まず「シン・エヴァンゲリオン」は物語開始時の、マリのド派手なアクションシーンで始まるが、そこから静かな展開になっていく。
前作の絶望的展開で「生きる気力」を無くしたシンジは「崩壊した世界」を彷徨うことになる。
そして、僅かな人類の生き残りが集まる集落「第三村」にたどり着く。
そこではかつてのシンジの「クラスメイト」が大人になり、必死に悲惨な現実を生きていた。
トウジ、ケンスケは精神的にボロボロのシンジを優しく迎える。
そして共に来た「アヤナミ・レイ(仮称)」もまた村人に親切に迎え入れられることになる。
この「大人」との対面が、シンジの精神の再生に大きく寄与することになる。
というのも、これまでの「エヴァンゲリオンシリーズ」で大人は何人も出てくるが、それぞれが「ネルフ」「ゼーレ」というある種の「特殊な組織」に存在する大人だった。
つまり、何かしら「腹に一物」抱えている、「特殊な事情を抱える大人」だったと言えるのだ。
だがトウジやケンスケはある種、そのしがらみもない、つまり「普通の大人」だと言える。
(もちろん絶望的状況を生きてきているので「普通」と言い切るのも語弊があるのだが)
レイ(仮称)に「世界のこと」を教えるのも、「普通の大人」たちだ。
そして、「世界のことを知り」変わっていくレイ(仮称)がシンジの再生に大きく関わることになる。
このように、かつてのシリーズのように「しがらみ」を抱えた大人とは違う、「普通の大人」との交流で徐々に変わっていくシンジやレイ(仮称)。
彼らに関わる「大人」の「違い」というのが、シンジの行動動機を前向きなものに変化させるのだ。
彼ら「普通のおとなたち」は「シンジ」の起こした「災い」を恨んでいる。
だが、結果そうしなければ、どの道「人類は滅んだ」ことも知っている。
避けられない「災い」の結果に悲しんでいるが、だが必死に「崩壊した世界」を生きることで、例え「最悪な世界」でも「ここにある幸せ」にも感謝しているのだ。
そうした光景を目にすることで、シンジは「この世界を守る」為に、自分のできることを「しよう」と決意するのである。
シンジの変化が、全てを変える

再び行われる「人類補完計画」
ここから「ヴィレ」に参加したシンジたちは「ネルフ」との最終決戦に挑むことになる。
そこでも「難解なエヴァ用語」が乱立されるのだが、ここでも描かれるのは「結局は世界の再構築」についてだ。
今作で明確な敵として立ちはだかる「碇ゲンドウ」は、亡くなった妻「ユイ」との再会のために「アディショナル・インパクト」「フォース・インパクト」を起こそうとする。
シンジたち「ヴィレ」はこの計画阻止の為に決戦を仕掛けることになるのだ。
今作のややこしいポイント

「碇ゲンドウ」と「ゼーレ」の言う「人類補完計画」は主に下記の手段で成し遂げようとしていた。
「使徒」に勝利→「セカンド・インパクト」で「海の浄化」、「サード・インパクト」で「大地の浄化」→その上で「フォース・インパクト」
大まかにはやろうとしてることは、同じ。
だが、ゲンドウは「アディショナル・インパクト」を「セカンド」「サード」の後に挟みこむことを狙っていた。
ただ結果、「アディショナル」が起これば「フォース・インパクト」が誘発されるから、結果「同じ」ことといえる。
人類は「一つの生命体」として進化を遂げるが、それは限りなく「破滅」に近いのだ。
*じゃあ「アナザーインパクト」は何?
それについては考えたくありませんが(笑)
「サードインパクト」までの「浄化」することが目的の「インパクト」では無いということ。
つまり「世界の書き換え」を意図する「インパクト」の総称が「アナザーインパクト」ってことですよね?

そして、それは理解せずとも、話の筋は理解できます
しかし「ネルフ」は一枚上手で「ヴィレ」は追い込まれるのだが、そこからシンジがもう一度「エヴァンゲリオン初号機」に乗り、父の陰謀を阻止するために立ち上がるのだ。
ここでシンジは、過去の自分の「落とし前」の為に戦うと決意するが、実はこの「言葉」こそ大きな鍵になっている。
まず「新劇場版」の流れで見ると、シンジが「エヴァンゲリオン:破」「エヴァンゲリオン:Q」で起こした「過ち」の「落とし前」という意味になる。
これは間違いない。
ただし、今回はもっと広義の意味で「落とし前」という言葉が意味を持つのだ。
それが父であり、敵である「碇ゲンドウ」の存在だ。
今回シンジはゲンドウの「エヴァ13号機」と戦い、そこで「父の真意」を知る。
ココがポイント
初号機と13号機の対決シーンで、特に「第3新東京市」のCGが妙にショボいのは、
庵野秀明による「ウルトラマン」などの「ミニチュア・特撮」シーンへのリスペクトだと言える。
ミサトの家で戦ったり、このシーンはホント面白かったです!
シンジはずっと「父」に拒絶されていたと感じており、そのせいで「苦手意識」を抱えていた。
だが、戦いの中で「父」の心を知り、「父」もまた自分と同じように「他者」を拒絶する、つまり自分と変わらぬ「闇」を抱えていたことを知るのだ。
そしてこの「父」の身勝手な思想による「世界の再構築」は、まさしく「エヴァQ」でシンジが行おうとしたこと。
さらに、これまでの「エヴァシリーズ」でシンジが行ってきた行為と何ら変わらぬのだ。
つまり、この「落とし前」という言葉には、これまでの「エヴァシリーズ」で「碇シンジ」の行った「世界の再構築」に対する「落とし前」という意味を付け加わっているのだ。
これは、過去全シリーズで「碇シンジ」の行ったことを「碇ゲンドウ」に託しているとも言える。
そして、シンジは自らの「過去」と対立し、それに打ち勝つ。
そして、それは「碇ゲンドウ」の視点から見れば、「シンジ」は「自分と同じ悩み」を持つ男の理想化された姿だとも言えるのだ。
つまりこの「対立」に3つの意味合いが描かれるのだ。
一つ目が「父と子」の対立。
二つ目に、過去シリーズにおける「碇シンジ」の成れの果てである「ゲンドウ」との対立。
三つ目に「ゲンドウ」の立場から見れば、実は「シンジ」は「理想化された自分」、つまり「自分」との対立と言える。
つまりこの「碇シンジ」と「碇ゲンドウ」の対立には、多くの意味合いが含まれているのである。
このように、今作はきちんとした「世界の再構築」という事柄に、明確な「対立軸」を用意したと言えるのだ。
これは今までの「エヴァシリーズ」では初の試みだ。
これまでは全て「世界の再構築」に関しては「碇シンジ」の「心理」での葛藤でのみ語られてきた。
その分、物語が非常に飲み込みづらいものになっていた。
だが、「シン・エヴァンゲリオン」はここに「碇シンジ」と「碇ゲンドウ」という対立軸をキチンと明記した。
だからこそ、作劇としても「父」を乗り越える「子」という、非常に明確な物語性を帯びているのだ。

目指す「エヴァンゲリオン」無き世界とは?
今作のクライマックスは「シンジ」が「何を望み」、「世界を再構築」するかだ。
今までは「自分本位」で「世界の再構築」を行ってきたシンジ。
「他者を望む、望まぬ」というのも、結局は「自分」の中での「独りよがり」の選択に過ぎないのだ。
だが、シンジは今作で「エヴァンゲリオン無き世界」を望む。
それは、「エヴァ」が存在することで、不幸になった「人間」の「救済」を意味するのだ。
これは、シンジ=神児(神の子)が、他者を「救済」する、非常に宗教的側面もある。
ここで、明確に「エヴァンゲリオン」の世界観は「全て」が「つながっていたこと」が明らかになる。
これまでの「救済」はそもそも、シンジが「自分を救う」行為でしかなかった。
だからこそ、なんど「世界を再構築」したとて、世界はループし続けたのだ。
だが、ついに「他者」を「救済」するためにシンジが行動することで「ループ」が止まるのだ。
それは「式波・アスカ・ラングレー」「渚カヲル」「綾波レイ」を「救済」することにもなる。
彼らは「全てのエヴァシリーズ」で碇シンジを導く存在、つまり「エヴァ無き世界」では、その役目は「無い」のだ。
だからこそ「シン・エヴァンゲリオン」では、シンジは彼らに「役目から解き放たれろ」と諭すのだ。
「式波・アスカ・ラングレー」は過去作の「惣流・アスカ・ラングレー」と共に救済され、「シンジ」ではない存在と結ばれる「道」を選ぶことを許される。
「渚カヲル」は、過去のシリーズすべての「記憶を引き継ぎ」いつの間にか「自分の幸せは”シンジの幸せ”にすること」と考え、行動し続けた。
だが、どうしても「成功」しない。
それをシンジは「間違っている」と否定し、「カヲルにはカヲルの幸せ」を求める「道」を進んでほしいと願うのだ。
そして「シンジ」が「自立」出来ることを知ったカヲルは、自身の「幸せ」を探しにいくことになる。
「綾波レイ」もまた、「碇シンジ」を導く存在としての役目を放棄する「道」があることを知る。
つまり「シンジ」が望む「エヴァンゲリオン無き世界」では、「役目」のないキャラクターに、別の道を与えることで、シンジは「無限ループ」から脱することになるのだ。
それは、これまでのシリーズでシンジは3人に「導かれる」存在だったが、逆に「導く」存在に変わったことを意味するのだ。
だからこそ、今作は「エヴァンゲリオン」の無き世界で、シンジとマリが結ばれたことが示唆される。
それも必然なのだ。

マリはこれまでのシリーズでは登場しておらず、イレギュラーの存在だ。
過去作での「しがらみ」がない。
だからこそ、シンジを「ゴルゴダオブジェクト」から「救出」することが出来たのではないか?
そんな存在であるマリが、最後にシンジと文字通り「エヴァンゲリオン無き世界」つまり「現実=実写」に飛び出していくのだ。
この演出が、その「世界」の到来を我々に、強く印象づける。
「福音」無き世界
そもそも「エヴァンゲリオン」とは宗教用語で「福音」を意味し、「神の言葉」と言い換える事ができる。
「神の言葉」とは、ある意味で「線路」だと言える。
「こうすればいい」「こうするのが良い」という、ある意味で「良く」生きるための「線路」なのだ。
今作でシンジの掲げる「エヴァンゲリオン無き世界」とは「”福音”無き世界」と言うことが出来る。
今まではアスカ、レイ、カヲルという存在に導かれたシンジが、文字通り「エヴァンゲリオン」の物語という「線路」を走り続けていた。
3人は「シンジ」を走らせるための「線路」という要素を持っている。
だが、前述した通り「救済」とをすることで、3人はその役目から「解放」される。
それは「線路」の消滅を意味する。
つまり「シンジ」は3人を「線路」の役目から「解放」することで、自らも「福音」の示す物語のループから「解放」されるのだ。
深堀りポイント
だからこそ、シンジとゲンドウが対立のシーンで、ゲンドウが「電車」から降りるのには意味がある。
ゲンドウとは、「過去シリーズのシンジ」という側面があるのは前述したとおり。
「過去シリーズのシンジ」は「電車」を降りることが出来ずに、「無限ループ」に陥っている。
だが、今回ゲンドウが「電車」から降りるのは、「過去シリーズのシンジ」が「無限ループ」から脱したことを意味する。
だからこそ、最後のシーンでシンジとマリが「電車」に乗らず、駅から出てくるのは、この世界には「福音」つまり「線路」が無いことを意味しているのだ。
つまり「エヴァンゲリオン」が完全に終わったことを示していると言える。
庵野秀明の変化

一度は「うつ」にまで追い込まれる
「エヴァンゲリオン」の生みの親である「庵野秀明」は「エヴァQ」の公開後「うつ病」になってしまう。
恐らく、この「エヴァ」という作品が彼自身の、ある種「人生」の縮図とも呼べるべき構造を持っているが故のことだろう。
ここまで「他者との共存、拒絶」というテーマを描き続け、恐らく彼自身の中で「何が正解か?」わからないまま、作品を作り続けたからだろう。
だからこそ「エヴァ」では毎回、シンジが「他者のいる世界」を望むのだが、結局それは「幸せなことなのか?」それを、我々に突きつける締めくくりがされる。
これは「庵野秀明」という人間が、「他者との共存は必要」と考えながらも、でも「それが正しいのか」その答えに自分自身も迷い続けている証拠だ。
そんな心理状況で生み出された「ヱヴァンゲリヲン:Q」
正直なところ「意味不明さ」が際立つ作劇だと、前述したが、これが「意図的」であるかは疑問だ。
ボロボロの精神で、なんとか行きあたりばったりで作り上げた可能性のほうが高い。
なので彼は「2012年」の同作公開後「壊れた」と自分で語っている。
2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。
明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。
自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。
2014年初頭。ようやくスタジオに戻る事が出来ました。
それから、1年以上かけた心のリハビリにより徐々にアニメの仕事に戻っています。
庵野秀明インタビューより抜粋(2015年)
そんな彼が再生出来たのは「外部」の「大人」との邂逅にあるのではないだろうか?
2013年公開作品の「宮崎駿」の作品「風立ちぬ」に主演声優として参加。(もともと「庵野秀明」は「ジブリ」で才能を開花させた、そして宮崎は庵野の「師」である)
そこで、多くの刺激をもらい、1人の人間を「演じきる」ことが、ある種「自分を見つめ直す」時間になったのではないか?
そして、これは今作の「第三村」でのシンジ、レイとも通ずる点もある。
さらに2016年公開の「シン・ゴジラ」で「実写」という、「現実での作品」の作り。
他者との距離感を「現実」で見つめ直す機会でもあったといえるのだ。
だからこそ、最後に「シン・エヴァ」は「実写=現実」で物語が終わる、これもまた、通ずる点でもある。
このように「壊れた時間」で、庵野秀明は様々な経験をした。
その結果、シンジの行動が大きく変容したともいえるのだ。
そして、その「壊れた時間」「再生」をする時間も今作はたっぷり取られている。
約3時間の上映時間の、三分の一が「シンジ」再生までの時間だ。
つまり「シンジ」再生までの時間が膨大なのも、実は「庵野秀明」の人生の体感として必須の要素だと言えるのだ。
シンジの変化は、まさしく「庵野秀明」の心境の変化と重なる点が大いにあるのだ。
そうなれば、後は「Qから如何に物語を畳むのか」
一見すれば無理難題に思えるが、これまでの「内面との葛藤」と比べると、それは全く小さな問題だったのだ。
全てを否定しない、全てを肯定する
今作は、「エヴァ無き世界」を実現するが、それは全ての過去を「無き」ことにするのではない。
この「シン・エヴァンゲリオン」まで足掛け「25年」もの月日を費やした。
ここまで悩んだ「庵野秀明」をはじめ「スタッフ」一同。
そして、様々な要素が提示されるたびに悩んだ「我々」
当然、作中のキャラクター達。
「他者を拒絶するのか?」「それとも他者が必要か?」という問いかけ。
「他者がいるから傷つく」ことで生じる「痛み」
様々な「痛み」「悩み」に登場キャラや、制作陣は直面した。
様々な「悩み」を抱えた「道のり」があったからこそ、「シン・エヴァンゲリオン」は大団円を迎えたのだ。
つまり、この「痛みの過去」も、全て必要だったのだ。
それは「無きこと」には当然ならない。
「シン・エヴァンゲリオン」はこの、過去の「悩み」の上にしか成り立たない、「金字塔」なのだといえる。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!!
文句なしの完結編! シリーズ最高傑作!!
ここまで、期待を「いい意味で」裏切ってくれるとは・・・
まとめ
今作について、これ以上「まとめる」のは不可能なので、今回はあまり深く語りません。
ただこの「シン・エヴァンゲリオン」が生まれたことにはもう一つの意味がある。
それは「過去シリーズ」の「エヴァ」の「ダメ」だった点が、実は今作品を踏まえてみると、全て「あたかも計算づく」だったかのように「腑に落ちる」のだ。
あれほど「批判」された「エヴァQ」も、今作をみると、「あれ、めちゃ良作じゃない?」
と時制をさかのぼり、評価を上方修正したくなる方も多いのでは無いでしょうか?
あの展開で「振り回され」「絶望した」からこそ、シンジは今作で大きく成長し、それが「エヴァ無き世界」を作る結果につながる。
結果、あの展開が今作を踏まえることで「非常に意味深い」ものになっているのだ。
そして、それは「TV版」の「おめでとう」
「旧劇場版」の「気持ち悪い」という、独特のラストにも当てはまる。
今作で、これらの展開が、シンジのループした中での一つの選択だという事が明らかになる。
これらのラストは、「無駄ではなかった」むしろ、ここまで来るのに必要な要素であったということだ。
つまり「シン・エヴァンゲリオン」を見ると、今まで「エヴァシリーズ」で物議を醸したシーンが全て、別の意味を帯びるのだ。
それは「エヴァンゲリオンシリーズ」に新しい価値観を与えたと言っても過言ではない。
こうして今作は、遡って過去の「エヴァシリーズ」を新しいステージ、いうなれば「新世紀=ニュージェネシス」に引き上げたのだ。
そして、この作劇は「庵野秀明」の人生が、一度「壊れ」「再生」したからこそだ。
そういう意味では「エヴァンゲリオン」はやはり「庵野秀明」という強烈な個性の生み出した、「個人的な物語」なのだ。
なんにせよ、ここまで素晴らしい「シン・エヴァンゲリオン」が見れてよかった!!
大げさでもなんでも無く、生きててよかったー!!!!
そして「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」
まとめ
- 「エヴァ無き世界」に込められた様々な思い。
- シンジの「世界の書き換え」が初めて「内面」ではなく「外」に向く。
- ゲンドウは、過去のエヴァシリーズの「シンジ」でもある。
- 今作の作劇は「庵野秀明」の経験の賜物。
「エヴァ」に関しては、もっと深い考察をしてるかたも多いので、
ぜひ調べると、いろんな見方があって「沼」にハマるはず!!