
今回は「ピクサー」の27作品目となる長編アニメーション映画最新作『マイ・エレメント』
こちらの作品を鑑賞してきたので、感想を語っていきたいと思います。
目次
『マイ・エレメント』について
基本データ
基本データ
- 公開 2023年 🇯🇵8月4日
- 監督 ピーター・ソーン
- 脚本 ジョン・ホバーグ/キャット・リッケル/ブレンダ・シュエ
- 製作総指揮 ピート・ドクター
- 出演者 リーア・ルイス/マムドゥ・アチー ほか
あらすじ
“もしも”火・水・土・風のエレメントたちが暮らす世界があったら…?
『トイ・ストーリー』の“おもちゃの世界”、『モンスターズ・インク』の“モンスターの世界”、『ファインディング・ニモ』の“海の中の世界”、『インサイド・ヘッド』の“頭の中の世界”、『リメンバー・ミー』の“死者の世界”など、ユニークでイマジネーションあふれる[もしもの世界]を舞台に数々の感動的な物語を観客に贈り届けてきたディズニー&ピクサーの最新作は、 “エレメントの世界”を描いた『マイ・エレメント』。
火・水・土・風のエレメント(元素)が共に暮らす都市エレメント・シティを舞台に、だれも知らないイマジネーションあふれる色鮮やかな世界での奇跡の出会い、予想もできない驚きと感動の物語が始まる。
ふたりの距離は近くて、遠い。 正反対のふたりが起こす、奇跡の化学反応。
本作の主人公は“火のエレメント”エンバーと“水のエレメント”ウェイド。
様々なエレメントたちが共に暮らすエレメント・シティで、アツくなりやすくて家族思いな火の女の子エンバーと涙もろくて心やさしい水の青年ウェイドは性格だけでなく、その気になればお互いを消せる(!?)性質を持ち、全てが正反対の意外なふたり。
正反対のふたりの出会いは“エレメントの世界”にどんな化学反応を起こすのか?
公式サイトより引用
韓国系アメリカ人監督の語る「私小説」
ピクサーはそもそも、「これ面白いのか?」という題材をアニメにした時に輝く。
彼らの最初の作品『トイ・ストーリー』も元々「動くおもちゃ映画が面白い」なんて周囲から思われていなかったはずだ。
そもそも1995年当時「3D CGアニメ」なんて、どこの馬の骨の技術かと思われていたもので作品を作る、前代未聞のことだった。
そこから約30年。
ピクサーは毎回作品の企画を聞くたびに「それどうなん?」という題材で作品制作をしている。
喋る虫映画、怪物映画、魚映画、人面車映画。
最近ではレッサーパンダに変身する女の子映画、半魚人映画、人間の魂の映画・・・。
今となっては、面白いと言われているが、それでも毎回「なにそれ」という題材で映画を制作しているのだ。
基本的にピクサー映画は「それどうなん?」という疑問の気持ちで劇場に行き、「面白かった」と毎回唸らせてくれるのが最大の魅力だ。
そう考えると昨年の『ライトイヤー』(2022年)は、題材が面白そうだったが故に失敗したのかも知れない。
今回の『マイ・エレメント』は火・水・木・風の四大元素の恋物語であると発表され、例に漏れず「それどうなん?」と思った方が多いはずだ。
つまり、これぞ「ピクサーらしい」題材だったと言わざるを得ない。
まず結論を言うと、やはり「面白い」映画だったと言わざるを得ない。
そしてピクサーにおいて「それどうなん?」と言われる映画は面白い。
そのことを証明する結果になったと言える。
しかしこの作品が特徴的なのは、非常に「私小説」的な作品であると言うことだ。
今作の監督ピーター・ソーンは韓国系移民のアメリカ人だ。
彼の両親は80年代にアメリカに移民としてやってきて、実際にコンビニを経営していたのだ。
これは物語冒頭のエンバーの両親バーニー、シンダーが故郷を離れ「エレメントシティ」に移り住んできたこと、その後「ファイアプレイス」経営と全く同じ流れだ。
さらにピーターは祖母や仲間内に「韓国系と結婚してほしい」と同ルーツをも人との結婚を勧められたり、自分の将来も「こうしろ、ああしろ」と言われてきた。
それは今作の主人公エンバーにそっくりそのまま当てはまる。
ピクサーの凄みはこの「個人的な話」を「エンターテイメント」に昇華させていくところだ。
「何が売れそうか」とマーケティング的な思考で映画を制作せず、ある意味で計算を度外視して作品を作る。
ここに自由な発想が組み合わさることで、ピクサーは「それどうなん?」と思われる題材をエンタメにしていくのだ。
ただ、ピクサーの過去の作品をよく考えれば、初期作品は技術面での制限はあり題材は制限されていたが、『トイ・ストーリー』はジョン・ラセターの「おもちゃ愛」から生まれている。
例えば『カーズ』もラセターの車好きから来ている。
実はたいていのピクサー作品は「監督の個人的な話」がエンタメに進化しているのだと言える。
逆に『ライトイヤー』に関して言うと、設定が設定だけに、「誰かの個人的な話」ではなかったことが、もしかすると敗因だったのかもしれない。
どストレートな恋愛映画
今作のもう一つの特徴は、どストレートな「恋愛映画」であることだ。
今作の世界では火と水、土と風。
4つの元素が生活する世界が舞台だ。
中でも火と水は相性が最悪、そんな中で火のエンバーと水のウェイドが恋をする、いわゆる禁断の恋型の恋愛映画になっている。
エンバーは先ほど述べたように移民二世。
不自由ない暮らしはしているが、それでも下町に住んでいる。
方やウェイドは「エレメント・シティ」の中でも高級タワーマンション暮らしのおぼっちゃま。
経済格差があることも描かれる。
ちなみにこの世界をアメリカと見立てた際、ウェイドは裕福な白人の子供と言える。
そう考えるとウェイド達水のエレメントは、なぜあんなにも感情を露わにし、ふれあいが多いのか?
それは、欧米的文化だと言える。
一方エンバーはあまり感情を表にすることを良しとされずに生きてきた。
両親からも癇癪を人前で起こすなと、抑圧をされてきたのだ。
これはエンバーのモデルである監督のルーツである、いわゆる東アジア的な美徳だともいえる。
ある種、この作品はエンバーが恋を通じて、自分に正直生きることを選ぶ映画なのだ。
ちなみにこの作品でウェイドがエンヴァーの両親に「料理」を振る舞われるが、非常に熱くウェイドは苦しむ。
これは実は「キムチ」など辛いものの比喩だと言われていて、熱いもの・辛いものはどちらも「ホット」と表現するなど、実はこれも韓国文化的な表現だったりするのだ。
ここでウェイドは、この食べ物をスープ状にして飲み干すシーンがあるが、これを「キムチスープ」的なものを飲んだのだと言える。
そんなあらゆる意味で正反対の2人。
2人は街のトラブルと直面していく過程で仲を深めていく。
この辺りの街の異常を調査するという展開は『ズートピア』とよく似ている。
というか、この作品かなり『ズートピア』と似たカットの構図などがあり既視感を強く感じさせる。
作品テーマも「偏見」を扱うなど、非常に似通っているのも特徴だ。
腑に落ちないラスト
ただ類似点はあるものの、『ズートピア』が世界を揺るがすクライムサスペンスだった。
対して今作は、2人が基本的に事件を解決すると言う、こじんまりとした構図になっている。
そもそも今作のジャンルはあくまで「恋愛」であり、ジャンルが違うといえば当たり前だが、今作のオチに個人的には疑問を感じた。
恋愛成就に関してはもちろんロジックはしっかりしている。
要はエンバーは常に「本当の自分を隠す」女の子、それに対してウェイドは「自分の意思に正直」な男の子なわけだ。
エンバーは常に彼の姿を見て、理想を重ねていたのだ。
この積み重ねが上手いからこそ、終盤2人の関係に亀裂が入ること、それと時を同じくガラスが割れる。
このあまりにも手際良く、しかし胸抉られる描写も生きてきている。
ただ、個人的にこれらの恋愛部分の納得度が高い分、最後の落としどころに違和感がある。
これはこの映画を「恋愛映画」として見たのか、どうなのか? そこの見方の問題だと言える。
ラストで、この世界で「火」は世間から割と酷い差別を受けていた、しかし全て解決されたかのような描写がある。
特に酷い差別として、エンバー親子が「花」を見ることが出来なくなる、「火はお断り」と言う看板が出てきていた。
実際『ズートピア」でも同じことが言えるが、これは「人種差別」をエレメントという架空のファンタジーに置き換えているので、生々しさは半減している。
だが、実社会でこのような文言があれば、ギョッとさせられてしまう。
それほど根深い差別意識があったが、ラストでは「火」が他のエレメントに認められている描写がある。
もちろん理想の具現化として、これは間違いなく正しい。
ただ、なぜ分かり合えたのか?
そのロジックがあまりにも薄ぼんやりとしている。
『ズートピア』は肉食と草食動物、それもそれぞれのコミュニティから低く見積もられている2人が世界のために奮闘したことを知っているからこそ、認められ、世界が変容する。
ただ今作は、街の事件を解決することを、2人が表立って行っているわけではない。
あまりにも問題の解決が飛躍しすぎなのだ。
この作品はあくまでエンバー、ウェイドの「小さな物語」だ。
エンバーとウェイドの「小さな相互理解」がいずれ世界を変えていく、本来ならばこのオチこそが正解なはずだ。
そこに大きな理想の具現化という飛躍を持ち込んだことで、この作品が本来提示すべき未来像を描けてないのではないか?
子供向けだから「夢がある方がいい」というのは正論に聞こえる。
だが、実際の現実は簡単ではない。
相互理解の一つの手段として「恋愛」がある。
だが、「恋愛」で世界の問題を全て解決することは不可能だ。
この描写だと「恋愛」という要素に様々な問題解決の希望を託しすぎなのだ。
本当に必要なのは「小さな相互理解」の積み重ねなのだ。
つまり手段は「恋愛」だけに限らないということだ。
子供向けだからこそ、この辺りのバランス感覚はきちんとして欲しかった。
小さな相互理解、それらが重なり世界は変化する。
今のディズニーがあまり「恋愛」を全面に出さない、特に近作はその傾向が強いのは、「恋愛」とは違う「相互理解」の手段を届けようという意思なのだ。

あくまで今作はエンバー、ウェイドの相互理解とその家族の意識変容に帰結させるべきだった。
例えば「出禁」にしたウェイドの写真を取り外し、「他のエレメント歓迎」と張り紙を貼るとか、小さな変化がいずれ世界を変えていく未来への「希望」とする。
全てがこの一件(恋愛)で解決したかのような構図は、あまりにも飛躍をしすぎたと個人的に感じた。
繰り返しになるが「隣人を理解すること」など、小さな一歩を一人一人つみ重ねて世界は変わる。
あくまで「恋愛」はその一つの手段でしかないのだ。
その部分に個人的に引っ掛かりを感じた。
ただ総論として非常に良質な作品であるということは変わらないので、ぜひ劇場で見ることをおすすめしたい。