
今日は「長編ディズニーアニメーション」を公開順に評論していく「ディズニー総チェック」をします。
今回取り上げる作品は2000年公開「ダイナソー」です!

この作品のポイント
- 冒頭10分をどう評価するのか?
「実験として?」「映画として?」という、そもそも論。 - 物語の本質は「ライオン・キング」の派生といえる。
- ”惜しい”作品である。
目次
「ダイナソー」について
基本データ
基本データ
- 公開 2000年
- 監督 エリック・レイトン/ラルフ・ゾンダグ
- 脚本 ジョン・ハリソン/ロバート・ネルソン・ジェイコブス
- 声の出演 D・B・スウィーニー ほか
日本語吹き替えで主役「アラダー」演じるのは、袴田吉彦さんです
あらすじ
勇気と信じる心、そして希望を頼りに困難に立ち向かう恐竜の仲間たちの冒険を、特殊効果を駆使しアクション満載で描いた作品。
6500万年前、卵の時に巣からさらわれたイグアノドンのアラダーは、陽気なジーニーや優しいプリオたちキツネザル一家に育てられる。
しかし突然の巨大隕石の衝突により、アラダーたちは安全な場所“命の大地”を目指し他の恐竜の群れに加わることに。
その道中で、年老いたブラキオサウルスのベイリーンや、スティラコサウルスのイーマ、活発なイグアノドンのニーラと友達になる。
食糧危機やカルノタウルスの攻撃から身を守るために、全員が一致団結しなければならないなか、アラダーは群れのリーダーであるクローンと衝突してしまい…。
ディズニープラスより引用
普通の映画ではない、その点は留意すべし!!

2000年時点での「ディズニー」の新技術への適応実験
今作は「2000年」時点で「ディズニー」が現状どこまで「新技術」である「CGアニメーション」を扱えるかを試す作品だと言える。
この時点で「ピクサー」は「トイ・ストーリー(1995年)」の成功を足がかりに「バグズ・ライフ(1998年)」「トイ・ストーリー2(1999年)」
など、「CGアニメーション映画」の可能性を拡張し、そしてそれが一般的に広がりを見せていた時期であった。
さらにはジェフェリー・カッツェンバーグ率いる「ドリーム・ワークス」も2001年に「シュレック」を発表するので、この時期は特に「新技術」である「CGアニメーション」への注目度は高い時期だったと言える。
こうした時勢の流れを受けて、ここまで「白雪姫(1937年)」からアニメ業界をリードしてきた「ディズニー」もいよいよ「CGアニメーション」制作に乗り出す。
そのために制作したのが「ダイナソー」だ。
現状ディズニーは「CGアニメーション」をどこまで操ることができるのか?
こうした技術的な部分を試す側面がある今作品。
今作品を制作するために「ディズニー」は「ザ・シークレット・ラボ」を立ち上げる。
これは、いよいよ「デジタル化」に向けて本腰を入れる、ディズニーは相当な気合で今作の制作に臨んだことの現れだ。
だけど先にオチだけ言うと、この「ザ・シークレット・ラボ」は2年余で閉鎖という憂い目にあう。
これが何をか言わんとするや・・・。
ということで、まずこの「ダイナソー」という作品は2000年時点で「ディズニー」がどこまで「新技術」である「CGアニメーション」に適応できるのか?
それを試す「実験」という側面があるということを念頭に置かなければならないのだ。
冒頭の10分間をどう評価する?
ということで、「ダイナソー」が通常のアニメ映画とは違う、「実験的側面」をもつ作品であるということは、前述した通り。
そのある意味象徴とも言える冒頭のシーンから、今作を紐解いていきたい。
物語は「卵」の中からもうすぐ生まれようとしている存在。
その視点から始まる。
これは言うまでもなく主人公である「イグアノドン」の「アラダー」の視点だ。
しかし今作はここから冒頭の約10分間は、この「卵」が孵化することなく、恐竜の手を次々に渡っていく様子が描かれる。
ここで描かれるのは、CGを駆使して作り出された6500万年前「白亜紀」の様子だ。
このシーンは、ディズニーの「ここまで出来ました!」という、まさに実験の成果を表すためのシーンと言っても過言ではない。
基本的に「卵」が様々な場所をめぐり、その土地々々の様子や恐竜の姿を描く、いわば「イメージ映像」のような展開が続く。
実質、物語は停滞していると言っても過言ではないのだ。
この10分間を「実験」の結果発表といえば、それでいいのかも知れない。
だけど、こと「映画」としては、正直疑問に感じる展開だ。
というのも、最も映画に観客を引き込む為に重要な10分間。
今作品はみすみす、その時間を、手放しているとも言えるのだ。
もちろん今作を「実験」だと割り切るならそれでいい。
だが、当時も今も、この作品を見る観客は当たり前だが、今作を「映画」しかも、「ディズニー映画」として見ているのだ。
こうした冒頭の10分間で観客を物語に引き込むことができなかったのは、大きなつまづきだったように思える。
そう思うと2019年に「超実写版」という謳い文句で公開された「ライオン・キング」はテンポ間がよかった。
ちなみにこの「ライオン・キング」もまた2019年の時点で「CGアニメーション」の限界に挑戦する、ある意味で「ディズニー」の現状の力を推し量る「実験」だったのだ。
この作品は冒頭「サークル・オブ・ライフ」の楽曲にあわせて、「プライド・ランド」の動物や情景。
それらがリアルに描かれるものの、きちんと「シンバ」誕生という物語を同時に展開している。
つまり冒頭の10分を、これみよがしな「実験発表」の時間にしていない。
きちんと映画として見せる工夫がしてあるのだ。
ぶっちゃけた話、これが映画としては、普通の作りなんですけどね。
そしてこの「ダイナソー」はキツネザル一家と出会ってから、ようやく、ディズニー的な「しゃべる動物」という存在が登場してから、物語は本格的に動き出していく。

そのことで徐々に物語に引き込まれていくことになるのだ。
物語のテーマは「リーダー論」
今作で描かれるのは「ライオン・キング」とほとんど同じストーリーだと言える。
描かれるのは「リーダー論」だといってもいいだろう。
地球に飛来した大量の隕石落下で故郷を失うアラダーや、キツネザル一家。
彼らはとにかく「安住の地」を求めて旅に出る。
そこで恐竜の群れと出会うことになる。
彼らは皆「命の大地」を目指しており、アラダーたちもその旅に同行することになる。
だが群れのリーダーである「クローン」や部下の「ブルートン」は、老いた恐竜や、子ども恐竜を切り捨てていく。
そしてアラダーはそれに反発をするようになるのだ。
ここでのクローンたちの主張は、ある種、正しいといえる。
足手まといに付き合い、「カナタウルス」に襲われ全滅するよりも、種として生存するために、弱者を切り捨てる。
それは間違ってはいないといえる。
今作のヒロインである「ニーラ」を最初は兄「クローン」のやり方を正しいと思っていた。
(正確には、弱者を切り捨てることに納得していたワケではないのだが)
しかし、旅路の途中、クローンは「種の生存」という全体を考えて行動しているわけではない事が判明する。
それが、枯れた湖での出来事だ。
アラダーたちは枯れた湖に、まだ水があることに気づき「水」を見つける。
そして「老いたもの」「幼いもの」に水を与えようとする。
だが、我先にそこに飛びついたのはクローンだった。
彼は威嚇的態度で、他人を押しのけ、どこまでも「自己中心的」な存在である事が露呈する。
そのことで徐々にニーラは兄に不信感を抱くようになる。
そして徐々にアラダーの優しさに惹かれていくようになるのだ。
ここでクローンという存在が、どれほど惨めなことかが徐々に描かれる。
偉そうに腹心の部下である「ブルートン」に偵察を指示、しかしブルートンが一瞬怪訝そうな顔をするのにクローンは気づかない。
彼は自分が心から他者に慕われていると信じているのだ。
だが徐々にそれが崩れていく。
悲しいことにクローンはそのことに気づかないのだ。
反対に、アラダーは弱者を見捨てようとしない。
支え合い、全員でこの窮地を脱しようとするのだ。
だからこそ、アラダーたちは老いた「ベイリーン」「イーマ」たちと共に群れからはぐれてしまうのだ。
そこで傷つき群れからはぐれた、ブルートンを助け、彼と信頼関係を築くにいたり、アラダーは「優しさ」という「他者を思いやる心」で少しずつ他者に認められていくことになる。
このように今作は「弱者を切り捨てるか?」、それとも「全員で危機をのりこえようとするのか?」
皆を導くのに、どちらが「正しいのか?」が争点になっていくのだ。
つまり今作は、「リーダー論」を描いていると言えるのだ。
最期に気づく、自分の愚かさ
その後「命の大地」にはアラダーたちが先にたどり着くことになる。
洞窟を抜け、一度は道を閉ざされ、絶望するアラダーだが、今度はそんな彼が助けた「ベイリーン」や「イーマ」たちが彼を支える。
結果道が拓け、彼らは「命の大地」にたどり着くことが出来たのだ。
だが、隕石の衝突で本来のルートは固く閉ざされてしまっている。
このままではクローンたちの群れは、進むあてなく全滅してしまう。
そのためアラダーは、クローンたちの群れを追いかけるのだ。
そして、群れに追いついたアラダーは、クローンと対峙する。
頑なに閉ざされた道を進めと指示するクローン。
彼は、自分が間違っていることを認められない。
だけど力が強く、権力欲に固執していることが、ここで露呈する。
恐らくここまでの生きてきた過程で、他者を切り捨て、自分の「強さ」のみでここまで成り上がってきたであろうクローン。
その生きてきた過程でクローンは、性格がひねくれていき、傲慢化。
終盤になり、それがどんどん露呈する。
そして、自身が積み上げてきた「自信」の象徴である「群れ」が崩壊するのだ。
アラダー到着後、群れの仲間から求心力を失ったことに気づいた、クローンの表情は非常に印象深い。
彼はここにきて自分が「心から他者に慕われていない」ことを知りるのだ。
そして、彼は一番そのことを恐れていたのだと言える。
他者に「認められたい」「尊敬されたい」そんなプライドが粉々に砕かれていく。

そんな惨めな彼でさえもアラダーは見捨てない。
クローンに襲いかかるカナタウルスにも立ち向かうのだ。
アラダーは敵対した者にも、救いの手を差し伸べる。

なぜならアラダーは、キツネザルに救われて生きてきた過去を持つからだ。
彼が生きているのは、他者から「救いの手」を差し出されたからなのだ。
だからこそ、アラダーもまた、敵であろうと「救いの手」を差し出す。
だからアラダーは他者に慕われていくのだ。
恐らくクローンは最期に、本当に他者から慕われるリーダー像に気づいたのだろう。
最期にニーラや群れの仲間たちがアラダーを慕っていった理由がわかったのだ。
そう思うと、最期にそれに気づけたのは彼にとって幸せだったともいえるし、それが最期の時だったのは彼にとって不幸だったと言える。
その後物語としては、「ライオン・キング」と同じく、アラダーとニーラが子どもを産んで、冒頭の場面にループする構造になっている。
今作は、前述したように、冒頭に「つまづき」はあったものの、映画としてはキレイな「円環構造」を成していく。
その辺りは「流石、ディズニー」としかいいようがない。
ただし、今作に「一抹の不安」が残るのは、彼らには不可避な「滅び」の運命があるからだ。
必ずこの先に訪れる「滅びの時」
その予感が示され、今作は幕をおろす。
我々に、かつて大地で繁栄した「恐竜」がいたことを忘れないで。という願いを込めながら。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
最初の10分を、もう少し工夫してれば・・・
そういう意味では「実験」と「映画」を折衷出来てれば・・・
僕にとっての「ダイナソー」ソングです!
B'z『Dinosaur』お聞きください(笑)
まとめ(リアリティラインについて)
今作は「実験」であり、「映画」である。
その点を考えると、冒頭の10分の展開は、「実験」としてはいいのだが、「映画」としては、あまりの展開のなさに物語へ没入が出来ないのが弱点だと言える。
ただしその後「キツネザル」一家の登場や、恐竜の群れに合流後の展開は、「リーダ論」に対する落とし前など、流石ディズニーといったところ。
これまでのノウハウを「CGアニメーション」でも応用してみせ、物語を語りきってくれた。
ただ、不思議なことに「1937年」公開の「白雪姫」を見た際に、「古いがすごい」という感情を抱いたが、正直「2000」年公開の「ダイナソー」には同じ感情は抱かなかった。
日進月歩で進化する「CG技術」
その黎明期の作品である今作に、正直仕方がないが「2021年」を生きている自分としては「チャチ」な部分が目についてしまった。

なぜ、こんなにも感じ方が違うのだろうか?
それは「手描きアニメ」と「リアル志向なCGアニメ」という手法で、表現したいことの「本質」が、「異なっている」ことが理由ではないだろうか?
「リアル志向」とは、我々の生きている現実表現に近づくのが目的のはずだ。
「手描きアニメ」は、そういう意味では、一種の「ファンタジー」表現といえる。
つまり、「リアリティライン」が違うのだ。
だからこそ、「現実」という明確な比較対象のある「CGアニメーション」それも「リアル志向」を目指している側面持つ今作は、技術の進歩によって「古く」「チャチ」に感じるリスクが非常に高いのだ。
そういう意味では、後年から振り返り、今作を見た際。
今作に対して「不利」な印象を持ってしまう、それも仕方の無いことだと言える。
とにかく「実験」という側面をを持っている今作。
だが、次回作はまた従来のアニメーションに戻る。
そのことを考えると、「実験」は成功だったとは言い難いのかも知れない。
もしも、従来どおり「手描きアニメ」で「ダイナソー」を制作していれば、もっと評価されていたかも知れない。
そういう意味では非常に「惜しい」作品であることは、間違いない。
まとめ
- 冒頭の展開をもっとサクッと済ませるべきだった。
- もしも「手描きアニメ」なら、より評価されたはず。
物語そのものは、良い! - そういう意味で「惜しい」というのが一番あてはまる作品!
ということで、読了ありがとうございます!
次回は「ラマになった王様」です!