
今回は軽めの映画感想記事を上げたいと思います。
ということで、『クレッシェンド 音楽の架け橋』について語っていきましょう!
作品のポイント
- 甘くない現実を描き出す。
- それでも微かな希望のあるラストが素晴らしい。
あらすじ
長く紛争の続くイスラエルとパレスチナから集った若者たちがオーケストラを結成し、コンサートに向けて対立を乗り越えていく姿を、実在する楽団をモデルに描いたヒューマンドラマ。
世界的に名の知られる指揮者のエドゥアルト・スポルクは、紛争中のイスラエルとパレスチナから若者たちを集めてオーケストラを編成し、平和を祈ってコンサートを開くというプロジェクトに参加する。
オーケストラには、オーディションを勝ち抜き、家族の反対や軍の検問を乗り越え、音楽家になるチャンスをつかんだ20数人の若者たちが集まったが、彼らもまた、激しくぶつかり合ってしまう。
そこでスポルクは、コンサートまでの21日間、彼らを合宿に連れ出す。
寝食を共にし、互いの音に耳を傾け、経験を語り合うことで、少しずつ心をひとつにしていくオーケストラの若者たち。
しかし、コンサート前日にある事件が起こる。
世界的指揮者のダニエル・バレンボイムが、米文学者のエドワード・サイードととともに1999年に設立し、イスラエルと、対立するアラブ諸国から集まった若者たちで結成された「ウェスト=イースタン・ディバン管弦楽団」をモデルに描いた。
若者たちを導くスポルク役を「ありがとう、トニ・エルドマン」のペーター・シモニスチェクが演じる。
映画COM より引用
根深すぎる問題がテーマ
まずはこの作品は、先ほども言ったように「パレスチナ・イスラエル問題」と言う、世界で最も解決が難しいとされる地域が舞台だ。
今作は、その地で生きている若者たちを集めて、相互理解の第一歩として「オーケストラ」を組織して、「平和」の一歩となる「コンサート」を開こうとする過程を描いている物語だ。
しかしこの地域の問題は非常に根深いものがあり、とてもこの枠では説明できないので、さわりしか説明できないが「宗教の問題」だったり、そもそも第一次世界大戦での列強国イギリスによる無責任な外交だったり、その後建国された「イスラエル」の存在。
そして、そのイスラエルがパレスチナ地域をほぼ手中に収めようとした「第三次中東戦争」の結果だったり、それに反発するパレスチナ地域の人々の怒り・・・。
とにかく、この地域には世界で最も困難な問題が山積みになっているのだ。
ちなみに今作の監督である「ドロール・ザハヴィ」はイスラエル「テルアビヴ」出身で、子供の頃からこの問題に関心を持ち続けていたとのこと。
そして今作を作るにあたって、実際にイスラエル・パレスチナからスタッフ・キャストを集めたのだ。
作中ではイスラエル組、パレスチナ組とに分かれて、最初から殺伐とした雰囲気となっていたが、現実でもキャスト・スタッフたちは、どこかぎこちない状態だったそうだ。
(もちろん作中ほど酷くはなかったそうだが)
そのため作品を作る上でも両陣営の間でディスカッションやリハーサルを繰り返して、少しずつ心を開いていく必要があったのだ。
まさにこの現実での取り組みは、作中でも繰り広げられていく。
つまり、作中で行われる両陣営の歩み寄りの過程は、程度こそ違うが、現実に今作品を作り上げるスタッフ間で行われたものと近いと言えるのだ。
そんな「相互理解」を夢みる監督を持ってしても、「今作で描かれる”合同オーケストラ”は実現できるのか?」、という質問には「夢物語だ」と答えているのだ。
乗り越えられない「確執」を描く
さて、普通ならばこうした設定を持つ作品をどう仕上げるのか? それを考えてほしい。
大体は、監督のいうように「夢物語」を実現する。
つまり今作でいう「コンサート」を開催し成功する、そんな風に描きそうなものだ。
だが、今作はそうはならない。
この壁を何度も乗り越えようとするのだが、それでも根深い「憎しみ・わだかまり」が影を落とすのだ。
パレスチナ側のレイラとイスラエル側のロン。
二人はこのオーケストラの中心人物ではあるが、互いに拒絶しあい、それでも成功の為に壁を乗り越えようとする。
最初は差別的発言を繰り返すロンと堪えるレイラという関係だが、中盤以降逆にレイラが「あいつらを信用するな」と友人のオマルに忠告するなど、互いに心からは信用できない。
その思いは変わることがないのだ。
しかも名前もわからない端役の中の数人も、何度か繰り返される「憎しみを乗り越えるのか?」という問いかけに「できない」と答えているのも印象に残る。
そう、それほどまでにこの道のりは困難なのだ。
この中で唯一心から信用しあい、愛し合うのがオマルとシーラだ。
両陣営に分かれて顔を見合いながら、罵り合うシーンでも二人はこの状況に恐怖心を覚えて涙しているのも印象的だった。
この二人は、確かにさまざまな遺恨を胸には抱えているが、惹かれ合うことでそれを乗り越えているのだ。
しかしこの二人の関係は両陣営にとって、やはり喜ばしいことではない。
シーラはオマルと駆け落ちという選択をする。
それが悲劇につながるのだ。
そしてコンサートは政治的判断で中止に追い込まれる。
作中の登場人物が言うように、この試みは「SF」でしかないのだ。
そしてここでもお互いに抱えた思いを爆発させて、両陣営はいざこざを起こしてしまう。
このどうしようもない状況でクライマックスに作品は突入していく。
一縷の望みが見える「ボレロ」
さてこの作品最大の肝はこの「クライマックス」だと言っても過言ではない。
流れとしては「オマルの死」が飛行場の待合室で報道され、今まで「パレスチナ」に差別的だったロンが「バイオリン」を弾き出す。
それに呼応されて「イスラエル側」の人間が「パレスチナ人オマル」への哀悼として「ボレロ」の演奏の輪を広げていくのだ。
それに応える形で、レイラたちも演奏を始める。
この構図こそ見事だ。
このシーンでは、両陣営はガラスの壁で阻まれている。
今までの作中で描かれていたように、陣営関係なく並び立っている構図とはまるで違う。
そもそもコンサートように観客の方を向く並び方をするわけでもない。
お互いに顔を見合っての演奏なのだ。
実はこの構図こそが相互理解に最も大事だったのかも知れない。
言葉というコミュニケーションでは「相互理解」には「限界」があった。
そしてその方法では「限界」は超えることはできなかった。
だけど、「音楽」という一つの「もの」を作り上げている、そしてそれを互いの顔を見ながら行う。
その行為こそが「相互理解」の鍵だったのではないだろうか?
それは、まさしく「遺恨」の起こした悲劇で起きた「死」への怒り、つまりこのままではいけないという思いも含んでいるのだ。
お互いの旋律が「溶け合い」「混じり合う」「ボレロ」の演奏。
互いの表情が見えて、そこにどんな「思い」を持っているのか?
それを互いに理解し合う瞬間がやってきたのだ。
それは「コンサート会場」で「コンサート」を開演するよりも、何よりも価値のある瞬間だったのだ。
互いに音色を聞き合い、顔を合わせる。
そして一つの「ボレロ」の音色を作り上げていく。
これこそが「相互理解」の小さな一歩だったのだ。
この面と向き合い「ボレロ」を演奏するこのシーンこそ今作最大の白眉だと言えるのだ。
「それでも」と足掻く意味
最後に監督の言葉を借りて評論を締めようと思う。
重要なのは、なぜこのコンサートが現実ではなくSFなのか、そのことを話し合うきっかけに本作がなるという事です。
そしてこの映画は明確なメッセージを伝えています。
我々はありのままの現実をただ映しだすのではなく、前進するためには何が出来たのか?
そのことを映画を通して問いかけているのです。
確かに、簡単に「平和の一歩に向けて、コンサート大成功」というような物語でない。
むしろそれを実現する「壁」の高さが、あまりに高いことを我々は身を持って知らされた。
それはこの地に住む監督が一番よくわかっていることなのだ。
「そう簡単ではない」
だけど「それでも」と足掻く。
「それでも」と現実に向かっていく、そんな小さな一歩が必要なのだ。
そんなことを教えてくれる『クレッシェンド 音楽の架け橋』
非常におすすめの一本ですので、ぜひ劇場でご覧ください。