
ということで「ディズニー総チェック」をやっていきます。
今日は”誰もが知る傑作!”
「シンデレラ」について語っていきたいと思います。
この作品のポイント
- これは、まさしく「ディズニーにとっても、”シンデレラストーリー”」である。
- 面白さは「前半のドレス作り」にこそある!!
- 後半は、まさしく「シンデレラストーリー」

目次
「シンデレラ」について
基本データ
基本データ
- 公開 1950年
- 監督 ウィルフレッド・ジャクソン/ハミルトン・ラスク/クライド・ジェロニミ
- 脚本 ビル・ピート/テッド・シアーズ/ホーマー・ブライトマン/ケン・アンダーソン ほか
- 原作 シャルル・ペロー『シンデレラ』
- 声の出演 アイリーン・ウッズ/ウィリアム・ピップス ほか
- 吹き替え 鈴木より子/風雅なおと ほか
あらすじ
ウォルト・ディズニーの「シンデレラ」は世界で最も有名な童話に基づく物語。胸をうつストーリーと、心に響く音楽、壮大なアニメーション、魅力的なキャラクターたちが、世代を超えて人々を魅了してきた。
妖精のおばあさんが「ビビディ・バビディ・ブー」という呪文とともに魔法の杖を一振りすると、たちまちカボチャは壮麗な馬車に、そしてシンデレラのボロボロの服は光り輝くドレスに変わり、シンデレラはあこがれの宮廷舞踏会に出かけていく。
しかし夢のような時間は、深夜12時になった途端、魔法が解けて終わってしまう。
勇敢なネズミの友だちジャックとガスの助けと、足にぴったりと合うガラスの靴のおかげで、シンデレラの物語は最高のハッピーエンドを迎える。
「ディズニープラス」より引用
全人類一般教養的に知ってる作品だと思うので、説明不要ですよね
大逆転の一打となるか!?

窮地のディズニー
はじめに、ここまでの「総チェック」の大まかな流れの復習をしておく。

1937年に「世界初の長編アニメーション」作品として生まれた「白雪姫」
それを継続する形での「ピノキオ」
「音楽をアニメで表現する」という難題に挑んだ「ファンタジア」
「できるだけ節約して作る」ということを心がけた「ダンボ」
「動物達だけの作品」として生まれた「バンビ」
そこから戦争が始まり、十分な製作費を確保できな時期になり作られた作品群、いわゆる「オムニバス期」
「ラテン・アメリカの旅」から「イカボードとトード氏」までの6作品が作られた。
という流れになっている。
これは各評論でも指摘したが、ディズニーは「白雪姫」以降の「ピノキオ」から「バンビ」は「ヒットした」とは言い難い状態が続いていた。
もちろん、それぞれの作品は現代では「名作」と言われているし、それは否定しない。
ただ、こと「興行」という面では失敗が続いていた。
事実として「白雪姫」で稼いだ巨万の利益を、ほぼ吐き出してしまっていた状態に陥るという事態になったのだ。
なぜ”こんなことに!?”
- 「製作費」をかけすぎ。
- 「ヒット」しない。
これでは「巨万の利益」を失うのも無理はない。
そして戦時下で生まれた「オムニバス群」
これらも「面白くない」とまでは言わないが・・・。(いや、正直にいうと「面白くない作品」の比率が高い)
これらも「興行」では厳しい結果になるのも無理はない。
というのも納得の作品を「粗製濫造」していたのだ。
そんな状況が長く続いたからこそ、ディズニーは窮地に追い込まれていた。
そんな状況で「大逆転ホームラン」を打つために作られたのが「シンデレラ」なのだ!
ディズニーを救う「特大ホームラン」
この世界には「シンデレラ」から派生した言葉が多く存在する。
その中に「シンデレラ・ストーリー」というものがある。
シンデレラ・ストーリー
シンデレラの話を元に、惨めな境遇から、ちょっとしたことがきっかけで成功をつかんだ人を「シンデレラ」、出世譚を「シンデレラ・ストーリー」と呼ぶようになった。
更に派生語として「シンデレラガール」「シンデレラボーイ」等がある。

逆境に苦しむ自分たちを「シンデレラ」の物語、彼女の境遇に擬えて制作された今作品。
全てを賭けた大勝負にディズニーは勝利したのだ。
つまり「ディズニー」にとって、この作品をヒットさせたこと、それ自体が「シンデレラストーリー」だと言えるのだ。
もしも、この作品が生まれなければ、今の「ディズニー」は存在しなかったのかもしれない。
そういう意味で生前「ウォルト・ディズニー」も最も好きな作品に「シンデレラ」を上げている。
これは、自分の境遇を「シンデレラ」に重ねていたからに違いないだろう。
このことから、「シンデレラ」は「ディズニー」を語る上で欠かせない「最重要作品」であると言える。
「シンデレラ」の面白さとは?

序盤・中盤を彩る「ジャック」の存在
最初に元もないことを指摘しておくと、この作品が語りたいことは至ってシンプルだ。
誰もが同情を誘うほど、酷い境遇で生きる少女が、ある日「魔法使い」に助けられ、舞踏会に行く。
そして王子に見初められ、幸せを掴む。
要約するとこれだけの話だ。

製作陣はこの「シンデレラ」の物語を「できるだけシンプル」に描くことにした。
なので序盤の「継母」そして連れ子の「アナスタシア」「ドリゼラ」がやってくるまで、そして父の死。
サクッとナレーション込みで処理しているのだ。
「なぜ、継母がきつくシンデレラをいじめるのか?」
そんな理由は一切描かれない、そのためシンデレラの境遇の「不遇さ」が極まっているのだ。
それはある意味で「天災」のような、逃れられないものであるかのように見える。
だからこそ、我々はすぐに彼女に感情移入してしまうのだ。
そして彼女の不遇の1日が序盤は描かれる。
そこで、この物語が暗くなりすぎないように、ある種の息抜き要素としてネズミの「ジャック」「ガス」のお間抜けコンビの活躍が描かれる。
ここが序盤の楽しさだ。

まさにアニメーションでしか描けないドタバタシーンの数々。
特に飼い猫のルシファーとの戦いの日々は、非常にハラハラさせられる。
個人的に「うまい」と思ったのは「ドレス」を作りをする「ジャック」たちの一生懸命さが描かれている点だ。
序盤から中盤までは、実は「シンデレラ」は「酷い目」にあっているという描写はあるが、話の中心はジャック達なのだ。
そんな彼らの努力の結晶であり、シンデレラへの感謝の気持ちで作られたドレス。
それを継母達に破られる。
この辛さは、「単純にドレスを破かれた」というだけではない。
ジャック達の努力を踏みにじった行為でもある。
そのため「許すまじ!!」と、我々見ている側は感情移入してしまうのだ。
最初にも述べたが「シンデレラ」という話の本筋は至ってシンプルだ。
「不遇な少女が、魔法にかけられ、舞踏会に行く。王子に見初められ、ガラスの靴を落とす。結果いろいろあってハッポーエンド」になる。
おそらく誰もが「シンデレラってどんなお話?」
と聞かれると、このように中盤以降の要素を多めに説明をするはずだ。
序盤は「シンデレラがイジメられる」だけという、そのままやれば陰険さが際立つ物語にもなりそうだが、この作品はうまくそこを補えている。
それのみならず、ジャック達の努力を描いたからこそ、余計に「継母」たちの仕打ちの酷さが際立つ。
そして我々は、シンデレラを応援せずにはいられなくなるのだ。
お約束の大逆転
個人的に「シンデレラ」を見て驚いたのは、シンデレラが「フェアリー・ゴットマザー」から魔法をかけられ、そして舞踏会に参加する。
そこからの展開スピードの早さだ。
王子とのダンスなど、念願の夢が叶う!! というシーンにも関わらず、ここは至ってシンプル。
めちゃくちゃペース配分が早い。
ここも個人的には「作り手の工夫」なのではないだろうか?
というのも、この時間。
シンデレラにとって、日々の苦しみから解放された、「あまりにも短く、そして夢のような時間」なのだ。
彼女にとって、心ときめき、うっとりするような時間。
それは「矢の如く過ぎ去る」
このシーンは、そんな彼女の心情と呼応するように、「短く描くこと」で「夢のような時間感覚」を描いているのだ。
ちなみに「ガラスの靴」が脱げるあまりにも有名なシーン。
これも、「靴が脱げる」シーンというのを序盤に描くことで、伏線のように描かれているのだ。

そして最後の見せ場「誰が、ガラスの靴を履けるのか?」という一大イベント。
これ自分はずっと「サイズが近い人なら、何人もいるくね?」と思ってましたが、作中で王様が「履ける人はとりあえず連れてこい、そして王子と対面させればいい」と。
なるほど、それなら「効率的!」と納得しました。

そこでも継母や、アナスタシア、ドリゼラのあまりにも「品がない」行動。
ここで重要なのは、継母も「品よく」は取り繕ってはいるものの、「大公」はその薄っぺらな人間性をキチンと見抜いているということだ。
そして、そのことに気づいていない継母の「哀れさ」をここで改めて描いている。
基本的にこの作品で、継母やアナスタシア、ドリゼラには同情の余地はない。
そして分かり合う余地すらもない。
シンデレラにとって、彼女たちは「如何ともし難い天災」のような存在として描いている。
そんな継母に部屋に閉じ込められたシンデレラが、ジャック達の助けを借り大公の前に姿を現す。
彼女の立ち居振る舞いを見て、大公は、身なりすら汚いものの、彼女こそが「探していた女性」つまり王子の心惹かれた相手であることを確信するのだ。
いくら「綺麗さ」を取り繕っても(アナスタシア、ドリゼラは取り繕えてすらいないが)、「内面から滲み出る美しさ」がなければ、それは見せかけと見抜かれてしまう。
これは、この作品が伝えたい教訓の一つであろう。
「いくら外見を取り繕うとも、内面の醜さは隠すことが出来ない」のだ。
深掘りポイント
ちなみにこの「シンデレラ」
「グリム版」だと、アナスタシア、ドリゼラは「ガラスの靴」を履くために自ら踵、爪先を切断していたりするなど常軌を逸している。
そして、結婚式当日、媚び諂い、おこぼれ頂戴しようとする姉妹は目玉をくり抜かれ、そして両足を切断の刑を受け、それをシンデレラが「満面の笑み」で見て完結する。
「ディズニーは童話を無害化している」という批判があるのは常々だが、この「グリム版」をそのままやる選択肢は無いでしょ・・・。
というか、ディズニーが世界の童話を「独自解釈」で描くことこそに意味があるのでは無いか?
知識として「原作はこんな話ですよ・・・」と、ある種の「トリビア的知識」として広がっていれば、それでいい。と僕個人としては思うのだが、皆さんはどうなんでしょうか?
そして、めでたく「ガラスの靴」の持ち主であると認められたシンデレラ。
彼女は王子と結ばれ、いつまでも「幸せに暮らすのでした」
という形でこの「御伽噺」は締め括られる。
深掘りポイント
ちなみに僕は、「白雪姫評」で「お城があまりにも”黄泉の国”チックすぎる」という指摘をしました。
これは、今作にも当てはまるのですが、これに対する回答をここで述べておこう。
それは、白雪姫、シンデレラ。
両人のとって「お城での生活」「王子と結ばれる」ことは、夢であり、そしてそれは「手の届かない」ものだと思っていた。
つまり、「現世では叶えようも無い夢」だと考えていたのでは無いか?
だからこそ、彼女達の目には「お城」が「この世のもの」と思えぬほど美化されていた。
だからこそ「黄泉の国チック」に描かれていた。
これが、今のところ僕なりの独自解釈です。
ただね、「信じれば叶う」というディズニーの「メインテーマ」であり「主題名文」の典型的な物語である今作品。
これを言っちゃ元も子もないが、「妖精に助けられる」という点において、結局「運じゃん」って(笑)、言いたい自分がいることは否定できない。
もちろん「信じていたからこそ、妖精に見出された」のだけれども。
他力本願であるということは、これは自分の中でどうしても否定することが、出来ない。
ちなみに「実写版」は「アニメ版」に肉付けする形で「継母」に同情ずべき理由を描いており、継母に対しても一定の「理解ができる」作りになっている。
これはある種「対立」の時代に近づきつつあった、2015年当時の情勢を鑑みて、「他人の行動にも、実は理由がある」
「相手を理解しようとする心づもり」を解いた、これはこれで、時代に即したアップデートだとも言えるのでは無いだろうか。

今作品を振り返って
ざっくり一言解説!!
追い込まれた窮地、特大ホームランを狙って打った!!
ここで、この「シンデレラ」を生み出せたディズニーの底力。
恐るべし・・・。
まとめ
そうそう、今作品は「ビビディ・バビディ・ブー」が「アカデミー楽曲賞」にノミネートされるなど、音楽面も評価された。
このことから、やはり人気の「ディズニー作品」は「楽曲」のキャッチーさも重要な要素になっているのが見て取れる。
やはり「楽曲の魅力」もディズニー作品の大きな魅力なのだ。
そして、個人的な話だが「総チェック」をしてきて、「バンビ」以降の残念作品時期を乗り越えてきたからこそ、この作品が非常に楽しめたのかもしれない。
「シンデレラ」を単独で鑑賞したり、「残念期」を飛ばして見たら、この感動はなかった。
これはある意味で、当時のディズニー作品を見てきた人々との感覚ともリンクする。
ある意味で当時の人々の心情を擬似的に味わったと言っても過言では無いだろう!
「オムニバス群」の後に見る「シンデレラ」は格別だ。

そして、今や誰もが知る今作だが、楽しめる工夫が随所にされているのも特徴だ。
特にネズミの「ジャック」「ガス」のコンビのコメディシーンなど、前半の特に見せ場の起こりにくい時間を、キチンと彼らの活躍で補っている。
そして彼らの頑張りの結晶である「ドレス」を破かれるシーンで、より継母達を「許すまじ」と、キチンと嫌わせてくれる作りになっているのもお見事だ。
さらに本来時間をとって描くべき「舞踏会」シーンもサクッと描かれている。
これは、シンデレラの心情である、「一瞬で過ぎ去る、夢のような時間感覚」
表現として、見ている我々と、その感覚を共有する機能を果たしている。
この辺りも非常に工夫されていると感じた。
ということで、やはりディズニー代表作品として、「よくできた作品」だと言えるし、当たり前だけど「ヒット」するのも納得しました。
まとめ
- 「オムニバス群」と比べるのも失礼なほど「よくできた作品」
- ディズニー復活の狼煙となった作品。
- 単純な物語の骨格を、工夫して魅力的に仕上げている。
ということで、今日も読了ありがとうございます!
また「総チェック」でお会いしましょう!!