
さて今回も「ピクサー作品」を公開順に鑑賞して評論をしていく【ピクサー総チェック】
「ピクサー」としては通算7作品目となる『カーズ』
こちらを鑑賞しましたので、深掘りしていきたいな、と思います。
この作品のポイント
- 実に渋い、玄人好みの映画
- いよいよディズニーが、「ピクサー」と合流を決める歴史的瞬間
目次
『カーズ』について
基本データ
基本データ
- 公開 2006年
- 監督・脚本 ジョン・ラセター/ジョー・ランフト
- 声の出演 オーウェン・ウィルソン/ラリー・ザ・ケーブル・ガイ 他
あらすじ
天才レーサー、ライトニング・マックィーンの狙いはピストンカップ新人チャンピオン。
しかし決勝レースに向かう途中トラブルに巻き込まれルート66沿いにある"ラジエーター・スプリングス"に迷い込んでしまう。
これまで自分だけが勝つ事しか考えなかった彼だがいつのまにか住民達に家族のような温かさを感じるようになっていた。
だが、遂にレースの日がやって来た。
YouTube映画より引用
彼は決勝レースに間に合うのか?
仲間たちとの運命は?
実に渋い映画なんです!

破綻か、それとも合流か? 運命の分かれ道
と言うことで、本編について語る前に「ピクサー」と「ディズニー」の関係を軽く振り返っておきたい。
これに関しては、当サイトの『美女と野獣』の記事。
そして2000年台の「低迷期」の作品解説でも度々触れてはいるので、そちらも参照したもらいたいのだが・・・。
とにかく今作品の制作時期や公開時期は「ピクサー」は重要な決断を迫られることになるのだ。
それが「ディズニー」と袂を分つか・否か、だ。
先にディズニーの歴史を簡単に説明すると、この時期のディズニーは少なくとも「アニメ」ではボロボロの状態。
『リロ&ステッチ』は例外だが、それ以外の作品は興行的にも成功とは言い難い状況だったし、『ダイナソー』(2000年)の目的である、CGアニメで「ピクサー」に勝つという目論見は頓挫した。
そんな状況でも当時の最高経営責任者である「マイケル・アイズナー」はピクサーに強気の姿勢を見せた。
その状況に当時のピクサートップ「スティーブ・ジョブズ」も反発。
二社の契約は『カーズ』を持って破綻すると考えられていた。
しかしディズニー社内でも「アイズナーへの反乱」の声が上がる。
ウォルトの兄「ロイ・O・ディズニー」の息子「ロイ・E・ディズニー」がアイズナーからディズニーを取り戻そうと「セーブ・ザ・ディズニー運動」を先導。
アイズナーを失脚に追いやる。

結果としてディズニーはアイズナーを最高経営責任者の地位から失脚させ、「ボブ・アイガー」に全てを託した。
そしてそのボブ自身が、ピクサーのトップである「ジョン・ラセター」に「ディズニーをピクサー化したい」と告げるに至ったのだ。
今作はそんなギリギリの交渉の上で成り立った作品だと言うことは、歴史を知る意味でも頭の片隅にでも置いておいてほしい。
久々のジョン・ラセター監督作
実は今作はジョン・ラセターの個人的には思いが詰まった作品だ。
彼は1960年代から70年代初めまでを、南カリフォルニアの「車社会」の中で過ごしていた。
そもそもラセターの父親が車の整備をする仕事に就いていたこともあり、彼自身も父の職場でアルバイトをしていた経験もあった。
そのため、ラセターは大人になるとすっかり「カーマニア」になっていた。
それは「ピクサー」が軌道に乗らず、賃金が安い頃でさえも車を2代所有することにこだわるなど、変わらなかった。
そして、いざ「ピクサー」が軌道に乗ると、「車取集」は加速していくのだ。
だからこそ彼が「車」の映画を作ることは必然だったのかもしれないし、しかも自らが「監督」をするなど、その情熱は大きなものがあったのだ。
さて、実はラセターのコレクションには「廃車」された車が多くあった。
だからこそ、本質的に彼が描きたかったのは「廃車」寸前のボロ車たちだったのだ。
そして製作陣はある「廃車」と運命的な出会いをした、それが道端に打ち捨てられたボロボロの「レッカー車」だった。
それは作中で「メーター」と名付けられるのだ。
さらに魅力的なボロボロの車を見つけたラセターたちは、そこから「ラジエターター・スプリングス」の住人の姿を創造していくのだ。

これは推論も入るが、おそらくラセターたちが今作で描きたかったのは「ラジエーター・スプリングス」の住人たちで、その彼らを魅力的に描くために「ライトニング・マックイーン」と言う傲岸不遜な若者のキャラを作り上げたのかも知れない。
実際に製作陣は「ルート66」を取材し、町に立ち寄っては住人の話をリスニングして、この町を魅力的に作り上げていったのだ。
なのでマックイーンの傲岸不遜なキャラクターと、ピカピカのレースカーと言う姿は、実はこの「ラジエーター・スプリングス」との対比で、そこの住人をより際立たせるためのキャラクター造形だったのだ。
このように元々「車好き」のラセターが、自ら監督をするほど、この映画は彼の大好きだった「車」への愛で満ち溢れているのだ。
非常に渋い作劇と、かわいいキャラクターの両立
この作品を要約するならば「オイルの匂い」「土埃」「砂煙」と非常に「泥臭い」作品だと言える。
言葉を選ばず言えば「地味な作品」だとも言えるのだ。
調子に乗った若造が、ひょんなことから廃村になった地を訪れる。
そこで出会った住人との交流で「大切なもの」とは何かを学び、最後には「尊い」決断をする。
これを人間たちが演じる(マックイーンを普通にレーサーとして人間にする)などをしても、この作品は成立するし、確実にみんなの心を鷲掴みするだろう。
マイケル・J・フォックスの『ドク・ハリウッド』的な話しと言えば、わかる人にはわかるかも知れない。
冷静に考えてデフォルメされた車たちの物語という、どう考えても「子供向け」な今作だが、実はその根っこのテーマ性は非常に「渋くて」「深い」のだ。
そのため実はかなり特殊な作品だといえる。
ちなみに僕個人的には「車の擬人化」をいう世界観ではなく、世界を「車化」していると言いたい。
例えば「機関車トーマス」のように人間もいないと言えばわかりやすいだろうか?
この世界観は徹頭徹尾「車化世界」を描いているのだ。
これを冷静に考えて「面白い」ものとして世に出している「ピクサー」の構成力には感服するしかないと言ったところ。
ポイント
ちなみに『カーズ2』では、どちらかといえば「子供っぽいキャラ」を全面に押し出しているので、実は作品のイメージはガラリと変わるのも特徴。
その理由は『カーズ2』の評論でしたいと思います。
この作品の面白さは、構図にあると断言したい。
「スピード効率」を求める象徴の「レースカー」であるマックイーン。
古き良きアメリカ「車文化」を象徴のはずだった「ルート66」の「ラジエータ・スプリングス」
この「象徴」が「高速道路」と言う「スピード」の効率化の産物で地図から消えるほどに寂れたと言うこと。
そこに再び「スピード効率」の産物であるマックイーンがやってくるという点だ。
物語の冒頭は「ルーキー」ながら「天才的」なレースセンスで「ピストン・カップ」シーズン最終レース「ダイナコ400」のレースの模様が描かれる。
これは「総チェック中」に何度も述べてきたが、今作での「ピクサー」の技術的挑戦の一つに「CGで描く重量感」の表現がある。
CGと言う技術では、ここまで、それでも工夫をして「重量感」
つまり「重たいものを重たく見せる」ことは出来ていたが、今作はそれらの比ではなく、この表現が素晴らしいものになっている。
それのみならず、重たいものが高速で走るとどうなるのか?
と言うレースシーンにもこだわりが詰まっているのも特徴だ。
さらにはマックイーンの車体の反射する様子など、何気ないシーンだが、当時の技術演算では「ワンフレーム=24分の1秒」の描写に17時間かかっているのだ。
そう考えるとあの冒頭の一連のシーンは、技術的に途方もない時間と人の手が入っているのだ。
そんな「キラキラした」車体に映る景色描写のリアリティ追求と、今作はやはり「オンボロ車」の描写にもこだわっている。
車体のサビの質感や、薄汚れかたの追求もさることながら、舗装だれていない道の動く描写にも余念がないのも特徴だ。
このように「車」をメインにするということで今作はさまざまな試行錯誤が施されているからこそ、この世界観に説得力が生まれているのだ。
メモ
ちなみの元々キャラクターの顔、その中でも「目」をフロントガラスにしたのは「目は魂の窓」だからと言うことで、これがキャラクターに愛嬌を持たせる最大の要因になった。
当初はヘッドライトを目にしようとしたが、それだと人間味が出ずに「蛇」に見えたと言うのも要因の一つだ。
尊いものとは?
さて、この映画では先ほども述べたように「効率化の極みであるレースマシン」が「非効率な車文化」の街にやってきて成長する物語である。
最初はレースで勝つことだけに執着し、それだけを目指していたマックイーン。
彼が田舎で人情・風土に触れて変化していくことを描く。
そして彼が切り捨ててきた友人を手に入れる物語なのだ。
実はこの作品「レース」を最初と最後の大見せ場に使ってはいるが、実際にはこの「勝敗」すらもこの作品では重視されない。
勝利至上主義チックとマックイーンは最初は同じ思考の持ち主で、キングや、「ラジエータ・スプリングス」で出会うハドソンの言葉の意味を理解していなかった。
しかしその意味を理解し、真の意味で「尊敬される生き方」「勝利より大事な生き方」を学ぶことになり、最後には「全てを捨てて行動をする」のだ。
その結果自分の生写しだったチックが、人々から「軽蔑」されていくのは、もしかしたらマックイーンのたどる末路だったのかも知れない。
ある意味で「古き良きアメリカ」にあった「勝利」よりも「尊きもの」を重視するという考え。
今日的な「病的な成功主義的思想」への実は注意喚起や、「正解」を出すことが「全て」と言う考えへの忠告のメッセージにもなっている。

昔イチロー選手が「正解だけを辿りゴールについても、深み」がでないと、言っていたことを個人的には思い出した。
「回り道が結局人生を豊かにする」
「回り道が、実は成功への近道だった」
このようなことは往々にしてあるが、皆、目先のものに捉われて、それらをおざなりにする。
その無駄と思える行為が人生に「深み」をもたらすのだと言うことを、この作品は示しているのだ。
マックイーンは「勝利」より尊いものを手にすることで、みんなから尊敬されるキングから、その地位と称賛を譲り受けることになる。
ただ勝利しただけでは得ることのできない「大切なもの」
そして、「大切な場所」をマックイーンは「回り道・遠回り」で手に入れたのだ。
今作は効率化された考え方では手に入れることの出来ない、尊きものを手に入れる物語なのだ。
ハドソンと言う伝説
さて最後にハドソンというキャラについても語っておこう。
ちなみにこの映画だと、間違いなく「ハドソン」推しです。
このキャラは、レーサーで一時代を築き上げたのだが、クラッシュによる負傷で引退して「ラジエーター・スプリングス」で正体を偽り「隠居」している。
マックイーンに道路の舗装などを命じたり、荒地でのレース勝負をしたり、図らずも彼の成長に寄与するのだ。
そんな彼が「みんなから忘れられた」こと、そのことに憤りを感じて表に姿を見せようとしないのだが、結局は彼がピットクルーとして最終レースに登場するシーンに大きな感動がある。
確かにルーキーがもてはやされ、ベテランやイ引退選手は忘れ去られる。
しかし、それでもカメラにとらえたハドソンの映像でファンが歓喜するシーン。
彼は忘れられてなどいなかった。
むしろこの表舞台に出る瞬間を待ち焦がれられていたのだと。
この彼が表舞台に戻るシーンにも、僕は大きな感動をした。
この展開で諦めかけたマックイーンが覚醒するって、普通に激アツだよって!

おそらく彼が愛されたのは「キング」と同じく偉大なレーサーだったからなのだろう。
だからこそ、彼の弟子であるマックイーンが「偉大な行動」をしたのもきちんと理由があるのだ。
今作を振り返って
ざっくり、一言解説!
地味・渋い・最高!
ここまで渋いけど、キャラはかわいい、この見事なギャップ!
まとめ
今作を因数分解をすると、「子供向けキャラ」「渋い物語」と言う相反する要素が、なぜかマッチしているといういう出来になっている。
このテーマならば実写でも重厚ないいものになりそうだが、きちんと「車化された世界」で作品が成立しているのは見事だと言うほかない。
メモ
ちなみに『カーズ2』はどちらかというと「キャラ映画」的に作られており、『クロスロード』でテイストをもどしたともいえる。そう言う意味で実はシリーズを通じて一貫性が乏しく見え、作品毎の評価が割れるタイプのシリーズであるとも言える。
そして物語も「成功」に捉われて周りを切り捨てること、「回り道」をすることで人生の豊かさを得ることができるなど、学びに満ち溢れている。
そこに寄与したのはやはり「ピクサー」の技術力だ。
今回はCGの弱点である「重いものを重く描く」ことに彼らは力を注ぎ、技術的ブレイクスルーを果たしたのだ。
そしてやはり「ピクサー」と言うブランド名を世界に轟かせて、いよいよ「ディズニー」は彼らとの合流を望み、今の形になった。
このように今作は内容も素晴らしいが、その裏で起きた「巨大組織」の問題に注目するのも非常に面白いので、おすすめである。
まとめ
- 渋く・地味なテーマと、かわいいキャラの融合
- 成功にとらわれる世界へのアンチテーゼ