
今回は久しぶりに「新作映画」の評論です!
ということで今日は、細田守さんの新作映画『竜とそばかすの姫」を見てきましたので、早速深堀り解説していきたいと思います!
今作のポイント
- 細田守の総決算!!
- 作り手は、ネット・SNSが悪いものではない、それ以上に「人間を良くする」と信じている!
- 今の「現実」と「ネット」の複雑な関わりが、物語を複雑にしている。
目次
『竜とそばかすの姫』について
基本データ
基本データ
- 公開 2021年
- 監督・脚本・原作 細田守
- 声の出演 中村佳穂/成田凌/染谷将太 ほか
あらすじ
50億人がすれ違う
美しくも残酷な仮想世界。
ベルの歌声は世界を変える――
自然豊かな高知の田舎に住む17歳の女子高校生・内藤鈴(すず)は、幼い頃に母を事故で亡くし、父と二人暮らし。
母と一緒に歌うことが何よりも大好きだったすずは、その死をきっかけに歌うことができなくなっていた。曲を作ることだけが生きる糧となっていたある日、親友に誘われ、全世界で50億人以上が集うインターネット上の仮想世界<U(ユー)>に参加することに。
<U>では、「As(アズ)」と呼ばれる自分の分身を作り、まったく別の人生を生きることができる。
歌えないはずのすずだったが、「ベル」と名付けたAsとしては自然と歌うことができた。
ベルの歌は瞬く間に話題となり、歌姫として世界中の人気者になっていく。数億のAsが集うベルの大規模コンサートの日。
突如、轟音とともにベルの前に現れたのは、「竜」と呼ばれる謎の存在だった。乱暴で傲慢な竜によりコンサートは無茶苦茶に。
そんな竜が抱える大きな傷の秘密を知りたいと近づくベル。
一方、竜もまた、ベルの優しい歌声に少しずつ心を開いていく。やがて世界中で巻き起こる、竜の正体探し(アンベイル)。
<U>の秩序を乱すものとして、正義を名乗るAsたちは竜を執拗に追いかけ始める。
<U>と現実世界の双方で誹謗中傷があふれ、竜を二つの世界から排除しようという動きが加速する中、ベルは竜を探し出しその心を救いたいと願うが――。現実世界の片隅に生きるすずの声は、たった一人の「誰か」に届くのか。
公式サイトより引用
二つの世界がひとつになる時、奇跡が生まれる。
インターネットの可能性を信じる男、細田守

細田守の足跡
細田守という映画監督は「インターネット世界」の可能性を信じている人だ。
彼はそのキャリアで何度も「インターネット」を題材にした作品を制作してきた。
そもそも、キャリアの最初期に作り上げた作品『劇場版デジモンアドベンチャー』(TV版『デジモン・アドベンチャー』の前日談にあたる)
この作品では、「デジタル空間」のデータであるはずの「デジモン」と、「選ばれし子供」の最初のファーストコンタクトを描いた。
時代はまだ1999年。
「インターネット」が普及しきってない、そんなタイミングで「ネット世界」の可能性を拡大解釈をした作品を制作していたのだ。
ただこの時点では、細田守さんの名前は世に知られていなかった。
その後、彼のキャリアを決定づけ、「細田守」という名を世界に知らしめる作品が公開される。
それが2000年に公開された『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』だ。
ネット世界で「デジモン」が引き起こす事件。
それが現実に波及してくる展開。
タイムリミット要素。
たった40分の作品だが、どこをとってもエンタメ満載だった『ぼくらのウォーゲーム!』
細田守は世間から高い評価を受けることになるのだ。
ちなみにこの『ぼくらのウォーゲーム!』は公開当時、「東映まんがまつり」の一環で『ワンピース』劇場版一作目と同時上映だった。
当時、『ワンピース』が圧倒的に知名度も高く、多くの観客は『ワンピース』目当てだったが、そうした層も『デジモン』の圧倒的な魅力に引き込まれたのだ。
なので『ぼくらのウォーゲーム!』は度々話題になることはあるが(細田守作品の原点として)、『ワンピース』は、余り触れられないことからも、どちらが評価されているのか?
それは、お分かりいただけるのではないだろうか?

ただ、おそらく一般的にその名前が広く知られる様になるのは、やはり2006年の『時をかける少女』だ。
この2006年は夏アニメ映画激戦で『ゲド戦記』『ブレイブ・ストーリー』と、かなりの上映規模が用意され、宣伝をされた長編アニメが公開された。
今となっては信じられないが『時をかける少女』は、かなり上映規模も小さく、全く注目されていなかったのだ。
だが、蓋を開けてみれば、『時をかける少女』は後年にまで語り継がれる名作アニメの一本になった。
そして、「細田守」という名前は広く一般的にも知られるようになったのだ。
そして2009年に、実質『ぼくらのウォーゲーム!』のリメイクであり、『竜とそばかすの姫』にも多大な影響を及ぼす『サマーウォーズ』の公開。
これで完全に一般客も「細田守」と聞けば映画館に足を運ぶ、ヒットメーカーの地位を確立したといえる。
その後もコンスタントに作品を公開。
- 2012年 『おおかみこどもの雨と雪』
- 2015年 『バケモノの子』
- 2018年 『未来のミライ』
この3つの作品には、個人的に言いたいことはあるが、それでも公開の度に作品は大ヒットをしてきた。
つまり現状、名前で観客を呼べるという地位に上り詰めたといえるのだ。
さて、とりあえずざっと、「細田守」の足跡をたどってきたので、ここからいよいよ今作の評論に入っていきたい。
ネガティブではなく、ポジティブに「インターネット」「SNS」を捉える!
今作は「U」と呼ばれる「仮想空間」が一般的に普及しているという世界観になっている。
これは『サマーウォーズ』でも描かれた、仮想空間「OZ」とそっくりな世界観だ。
ご丁寧に、冒頭の「U」の説明は、「OZ」のシーンをセルフオマージュしている。
そして多くの人間が、この「U」で活動するための「アバター」「As」を所有しているのも共通の設定だ。
だが「OZ」と「U」設定は似ているが、違いもある。
それは「身体的感触・感覚」までも体験できるようになっている点だ。
これは、現実に仮想空間というものに対して、例えば「VR技術」の発展などで、2009年のときよりも現実の技術がより進歩している。
そうした点も反映されてのことだろう。
その仮想空間で圧倒的な人気を誇る歌姫「ベル(BELLE)」の圧巻のライブシーンで今作は幕を開ける。
だが彼女の「As」の正体は、日本の高知県の田舎に住む、なんてことない女子高生「内藤鈴」だ。
その現実の彼女のシーンになった途端、日本の田舎の風景が美しく描写されていく。
近未来仮想世界のSF描写と、古き良き日本の田舎の風景。
この画面のギャップも今作の見どころだ。
そして、物語は、すずがなぜ「ベル」になったのか?
そんな経緯が語られていく。
そこで彼女の母の死が描かれる。
それが原因で、母と歌うことが大好きだったのに、鈴がトラウマで歌えなくなったこと。
歌おうとすると嘔吐すること、父娘の関係が希薄になるなど、彼女の精神が追い詰められていることが描かれていく。
ここで彼女を救うのは「U」という仮想世界だ。
物語の冒頭で、「ここでは、なりたい自分になれる」「人生をやり直せる」とアナウンスが流れる。
彼女はまさしく、一度壊れた心を「U」で回復させることになるのだ。
そこでは現実の境遇は一切表には出ない。
全てをリセットして、全く別の自分を作り出すことができるのだ。
この世界観での「U」は高度な仮想現実だが、そこでは実質「人生をやり直す」ことに他ならないのだ。
仮想空間で彼女は「歌」を歌うことで、過去のトラウマ。
つまり母の死を少しずつ受け入れ再生していくことになるのだ。
そこから急にフォロワーが急増し、鈴は一躍インフルエンサーになり戸惑う。
その姿は、現実の「SNS」社会でも往々にしてあることだ。
ここから「インフルエンサー」になったが故の苦労も描かれていく。
そこでいい味を出しているのが、鈴の親友ヒロちゃんだ。
鈴をプロデュースする手腕や、ちょくちょく発せられる毒舌など、ナイス相棒キャラだ。

ここで重要なのは、今作品では鈴の心の傷。
「歌えない」ことを、真実の自分ではない姿になれる、なんにでもなれる「仮想空間」が癒やしてくれたということだ。
これは現実でもあることではないか?
現実では言えないことも、SNSでは発信できる。
自分を知らない人とつながるからこそ、全く新しい自分を出すことができる。
確かに昨今「SNS」への批判も多い。
だけど、それと同じ、いやそれよりも多くのポジティブな面もあるはずだ。
今作はまずそこをキチンと描いていく。
「仮想空間」と「現実」
そして物語は「竜」というアバターが「鈴=ベル」のライブに乱入から大きく動き出していく。
最初は暴れる「竜」に共感できなかった「鈴=ベル」だが、徐々に彼の秘密を追っていくことで、彼女は「竜」のことをもっと知りたいと願うようになる。
ここでこの作品は「竜」を追いかける「ベル」(仮想空間)
鈴と幼馴染の忍、学校のアイドル、ルカちゃんの恋の鞘当てが同時に進行していく。(現実空間)
今作は、通常ならば展開として「ベル」「竜」の恋にシフトしそうなものだが、そうはならない。
ただ、「ベル=鈴」は「竜」が自分と同じ「傷」を負う者だと、だからこそ「助け」になりたいと願っているのだ。
逆にこの辺りが「賛否」別れる要因なのかもしれない。
つまり物語が軸を失っているというか、どうしたいのか分かんないと言うか・・・。
ただ、とはいえ「ベル」と「竜」の心の交流のシーンは、展開もほぼほぼ『美女と野獣』をなぞる。
「薔薇」をキーアイテムにしてきた時は「そこまでするか」と関心させられたりもしましたね!
そして極めつけは「Beauty&Beast」のようなダンスフロアシーン。
ここで完全に「ディズニー色」を全面に打ち出す辺り、臆面もなく好感すら持てましたね!
この獣と人間の交流は『おおかみこどもの雨と雪』とか『バケモノの子』などで培ったものだといえる。
この心の交流が描かれてから今作は、また大きく物語の進行方向が変化していく。
それは「仮想空間」にはびこる、つまり現実でも起こりうる「SNS」「インターネット」「匿名掲示板」での「誹謗中傷」の数々だ。
ネット世界で巻き起こる「竜」に対する批判。
だれも彼の真意を知ろうとせずに、行動を批判し、そして炎上していく。
これはまさに現実に起こり得るいわゆる「SNS」などのネガティブな部分だ。
しかも丁寧に、いかにも「ネット住人」を揶揄するかのようなコメント読み上げのおまけ付きだ。
ここで、この作品は「ネット」世界のネガティブな面を前面に描いていく。
そしてさらに厄介な「自分が正義」だと信じている「ビジランテ=自警団」的存在まで現れたりするのだ。
彼らはなまじ行動力がある分厄介で、自分たちが「正しい」と信じているので、そのやり方は無茶苦茶だ。
しかもこの「U」という世界では、こうした「警察もどき」「警察気取り」の行為は認められていない。
だけど、すごく厄介なことに「自分たちが正しい」と信じているからこそ、それを「正当」なものとして肯定し行動する。
これも現実にあることだ。
このように中盤以降はこうした「ネット」の「ネガティブ」な面を描いていくのだ。
「ありのまま」だからこそ
今作は最終的に鈴が「ベル」の仮面を脱ぎ捨てることで、現実における「竜」本人を救うことになる。
ここまで「仮面」をかぶっていたからこそ、彼女は歌を取り戻し、人生を取り戻していた。
それはある意味で彼女の心の支えであり、大切なものだった。
それを捨てなければ彼女は「竜」を救うことができない。
鈴がベルであると信じてもらうために彼女は、「仮想空間」に真実の姿を晒すことになる。
ここで彼女は「母」の真意を知る。
見知らぬ子を、自分の命をなげうって助けた。
鈴も「命」ではないが、だがこの「別の自分」とも言うべき、いわゆる「仮想空間」での「命」とも言うべきアバターの姿を脱ぎ捨てる。
そこまでしても、誰かを救いたい。
そのために「ありのまま」で彼女は歌うことを決意するのだ。
深堀りポイント
これは、ある意味で「匿名」で悪口を書くことに対して、「自ら顔をさらせ」という面もあるのかもしれない。
ここで偽りの姿を捨て、文字通り「ありのまま」で思いを歌に乗せる。
結果、ここまで現実空間では、つまり素の自分のままでは歌えなかった「歌」を彼女は歌うことができたのだ。
他人のために死んだ母。
そのショックで「歌」を失った鈴。
しかし、鈴は人のために行動することで、本当の自分の姿で「歌」を取り戻したのだ。
本来であれば、この時点で事件が全て解決してもおかしくはない。
例えば『ぼくらのウォーゲーム!』『サマーウォーズ』では、このネット世界で問題を解決した時点で、現実に波及した問題も解決になり幕をおろしていた。
だけど今作は違う、そこから再び現実世界でも問題を解決するために鈴が奮闘することになる。
これは考えようによっては、無駄な展開かと思われるかもしれないが、今作では必要不可欠な要素だと言える。
これは「仮想世界」も「現実」どちらも等しく存在しており、どちらかの世界で問題を解決したとて、それで終わりではない。
つまり現実的な「ネット」と「現実」の繋がりが、上述した2作品のときよりも、より深くなったことを意味しているのではないか?
全体的に「争点」がわかりにくいという批判もあるかもだが・・・
これは現実世界で「インターネット」「SNS」と「現実」がより深く関わるようになったからだとも言えるのだ。
今や「インターネット」も「SNS」も「現実」も変わらずに、「大切な世界」として存在する。
そのどちらの世界でも生きている我々は、結局どちらの世界でも「自分は自分」なのだ。
だからこそ、そのどちらの世界も影響をしあい、そして我々を良くも悪くも変化させていく。
その中で自分はどう振る舞えばいいのか?
この作品はその回答例を「ポジティブ」「ネガティブ」両方から描く、ある意味でこれまでの「細田守」の同テーマ作品の中で、一番フェアな立ち位置の作品だった。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
今回はネットを「ポジティブ」にも「ネガティブ」にも描くのが特徴だったかな!
まとめ
さて、今回は「細田守」のフィルモグラフィから、『竜とそばかすの姫』を振り返ってきた。
その中でも今作は「総決算」という面が強く、過去作のファンなら思わずニヤッとくるシーンも多かったのではないか?
まぁ少なくとも、ここ最近の作品の中では、文句なしの作品だったように感じた。
ただ、たしかに作品全体を通じて「争われる」
つまり「争点」が掴みづらいという点はある。
ただ、それは「現実」と「インターネット」「SNS」が密接に関係するからだ。
確かに「仮想空間」で自分の「仮の姿」で活動できるかもしれない。
でも、やはり「その人がその人である」
そのことは否定できないのだ。
そんな現実と密接に関わる世界で、我々がどう振る舞えばいのか?
この作品を見てそれぞれが考えていければいいのではないだろうか?
まとめ
- これまでの「細田守」作品の総決算!
- 「現実」と「ネット」「SNS」の関係が、過去の時点よりも進化しているからこその作品。