
さて今日も「ディズニー総チェック」をやっていきます。
今回は、超人気タイトル「美女と野獣」について語りたいと思います!

この作品のポイント
- 「眠れる森の美女」の反省を活かす点。
- 言わずもがな作品クオリティは「文句なし」
- 今作が良すぎるあまりに、気づかれなかったテーマ的「危うさ」
- 露呈しなかった「ミス」の代償は大きかった。
目次
「美女と野獣」について
基本データ
チェックリスト
- 公開 1991年
- 監督 ゲーリー・トゥルースデイル/カーク・ワイズ
- 脚本 リンダ・ウールヴァートン
- 原作 J・L・ド・ボーモン夫人版 『美女と野獣』
- 声の出演 ペイジ・オハラ/ロビー・ベンソン
あらすじ
勇敢でしっかり者のベルと一緒に人生最大の冒険に旅立とう!
父親を救出しに向かったベルは、ミステリアスな野獣が住む魔法の城にとらわれてしまう…。
魅力的なキャラクターに彩られた、時代を超えて愛される物語。
ディズニー史上屈指の名作アニメーション映画。
ディズニープラスより引用
とにかく「美しい」作劇を心がけた作品

「眠れる森の美女」からの反省点
今作品の特徴はとにかく「美しい」作品だ。
ストーリー性もさることながら、とにかく「映像美」に長けているといえる。
この「美しさ」をテーマに、過去「ディズニー」は「眠れる森の美女」を制作しているが、明らかに「美女と野獣」はこの時の反省点を活かしている。
「眠れる森の美女」の反省点
- メインキャラとモブキャラの明らかな描き分け(モブキャラの着色などの非現実さ)
- 作品世界の城下町などの、ハリボテ感
「抽象的」「おとぎ話的」な世界観を作ろうというアプローチをした「眠れる森の美女」
だが「ウォルト」はこの作りに不満を口にしていた。
そして公開当時は批評家から評価されず、「視覚的魅力しかない」と言われた。
(後年、再評価されたのだが・・・。)
というのも「美女と野獣」の冒頭、まず「王子」が「野獣」に魔法の力で変身させられてしまったという点を描き、そこから今作のヒロイン「ベル」の紹介とも言えるシークエンスに突入する。
ここで「朝の風景」という「ボンジュール♪」という掛け合いの楽しい、「ディズニーらしい」楽曲にあわせてベルの人となりが語られていく。
ここでベルのことを歌う人々は、イキイキ・ノビノビと歌い、「人間的魅力」に満ちている。
「眠れる森の美女」の「無機質な人々描写」と、明らかに違う展開を冒頭から仕掛けてくる今作。
さらに、ここから邪推だが、この「朝の風景」は基本的には周囲の人間のする「ベルの噂話」でもあり、近所の人々のする「井戸端会議」だとも言える。
つまり、「井戸端会議」をする、「噂話」が好きという点に「人間らしさ」を託しているとも言えるのだ。

さらにこの「朝の情景」のシーンが巧みなのは、「ベルがどんな人物なのか?」という点。
そしてメインキャラクターである「ガストン」「ル・フゥ」という「敵役」の人物設定も描ききっている点があげられる。
この「ミュージカル」で必要な情報を全て提供する、これもまた「ディズニーらしい」作劇だと言える。
ということで、まずこの冒頭の「朝の情景」で「人間らしい」モブキャラの登場で「眠れる森の美女」と反省点を改善。
さらに、ベル、ガストン、ル・フゥの人物紹介を一気にやってしまう。
ここで一気に我々は物語に引き込まれてしまうのだ。
ダメ男の「Once Again」
世の中には「Once Againモノ」というジャンル(?)がある。
人生を諦めた男の再起話であったり、過去の罪から立ち直る姿を描く物語だったり、こうしたジャンルの作品はこの世界に多く存在する。

「美女と野獣」もこうした「Once Againモノ」というジャンルの作品と言っても過言ではない。
粗暴でワガママ、乱暴者である王子が、見窄らしい老婆を無下にした、その「罪」で「野獣」にされるという「罰」を与えられる今作品。
それを「解く」ためには「真実の愛を知り、愛される」という条件を与えられるが、自身の醜い姿に絶望し、すっかり人生を諦めている。
そこでベルと出会い、再起する物語だと言える。
つまり今作の肝は「どれほど醜い姿」でも、人に真心込めて接し、人を愛する。
そうすることで「醜い姿でも受け入れてくれる」存在を見つける。
そのためには、野獣自身が改心しなければならない。
まさに今作は「野獣のOnce Againモノ」という作劇だと言える。
実は、この点が大きな原作との変更点だ。
原作では、どちらかというと成長すべき人物として設定されているのはベルの方である。
醜い姿の野獣を見て、外見だけではない、重要なのは中身だ、という教訓をベルを通じて読者に学ばせる作りになっている。
そして話の展開も随所に異なる点も見受けられる。
原作版のストーリー
父の身代わりに野獣の元で人質になる、最初は反発するが、2人は惹かれ合う。
だが父の体調が気がかりになり、家に戻る。
ここまでは同じだが、原作では2人の姉が登場し、城でのベルと野獣の裕福な生活の実態を聞き、嫉妬にかられベルを拘束。
当初「一週間で戻る」とベルと野獣は約束していたが、間に合わず。
ベルは10日が過ぎた頃、野獣が死にかけていることを知り、何とか城に帰る。
「これで幸せに死ぬことができる」と告げる野獣に「いいえ、あなたはわたしの夫になるのです」とベルが叫ぶと野獣は本来の姿に戻る。
いくつかの諸説があるが、基本的に「原作」はこうした流れの作品になっている。
そして実はウォルトは、この原作に忠実に今作の「アニメ化」を計画していたが頓挫。
もし実現していたなら「ベル」は「白雪姫」「シンデレラ」同様、他人から嫉妬され、貶められるヒロイン象として描かれていただろう。
そして、随分味わいの違う作品に仕上がっていたのではないだろうか?
新技術の投入で「圧倒的に美しい」ダンスシーン
今作最大のハイライトは惹かれ合う2人が「Beauty and the Beast 」に合わせて、ダンスホールで踊るシーンだ。
ここのシーンに作品制作地当時、まだ無名だった「ピクサー」が技術協力をしている。
「ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!」から協力体制にあった「ピクサー」と「ディズニー」
特にディズニーの当時のCEO「マイケル・アイズナー」とアニメ制作を指揮していた「ジェフリー・カッツェンバーグ」
彼らは、従来の手間のがかかる、インクによる作画から、新技術の導入で、手間とコストをカットしようとしていた。
そこで導入されたのが「CAPS」という新技術である。
この技術のおかげで「リトル・マーメイド」や「ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!」の作画。
そして「美女と野獣」でのダンスシーンでの「作画の質」は大きくレベルアップすることになった。
このように「新しい技術」を導入して、「アニメ制作」の方法論を変化させてきたことは、これまでのディズニーの歴史を振り返ると幾度も繰り返されてきたことだ。
そしてそんな「新技術」でダンスシーンでのフロア全体のロマンティクなムードなど、まさに「美しい」としか言いようのない世界が作り出されたのだ。
ある意味で「美しい作品」という狙いが最大限に活かされたシーンだとも言える。
そして見た者の記憶にしっかり刻み込まれる名シーンだと言っても過言ではないだろう。
ガストンと野獣の共通点/相違点
そして作品は、最終的にガストンと野獣の対立という局面に向かっていく。
彼らは基本的に人間としての「性質」は同じものを持っていると言える。
というのもどちらも身勝手で粗暴・傲慢。
恐らく野獣も元々の姿の時、ガストンのように「自分が世界で一番だ」と、うぬぼれていたのかも知れない。
では、2人の違いは何なのか?
2人を分けたものは何か?
それが「罰を受けた時間」ではないだろうか。
ガストンはとはいえ「わがまま」「うぬぼれ」「傲慢」を周りに理解され、言うなれば「イエスマン」に周りを囲まれていた。
そして、それを今日まで貫き通してきた。
野獣はどうだ、「罰」を受け、自身の醜い姿に絶望し、そして長年を過ごしてきた。
ベルの父に対する態度や、ベルに対する態度も最初は確かに「傲慢」だったが、それでも彼は、自分自身の「わがまま」「うぬぼれ」「傲慢さ」に内申薄々うんざりするかのような表情を見せる。
それは「このままではいけない」という気持ちが芽生えているということだ。

そして元々の「知的」な事に全く価値を見いださないガストン。
彼はベルが読書をすることに理解を示さないし、それを無駄だと考えている。
明らかにガストンは「男尊女卑」というのを全面に押し出した旧態依然とした態度を崩さない男でもある。
野獣は逆にその面に関しては寛容的で、ベルに「本を読むことをすすめる」
この「読書」というものに対して、明らかに「男尊女卑」という思考を持つガストンが、野獣に敗れるというのは、明らかに「ポリティカリコレクトネス」という時代の背景に配慮しているとも言える。
映画を見る上で覚えておきたい、現代の考え方!
ポリティカル・コレクトネス( political correctness/略称:PC、ポリコレ)
- 性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立とされる言葉や表現を使用することを指す。
「政治的妥当性」「政治的公正」「政治的適正」「政治的正当性」「政治的正義」などの訳語も使われる。 - 日本でも「スチュワーデス」を「キャビンアテンダント」などと言い換えるなど、理解が進みつつある。
- 「ハリウッド大作」などでも、配慮した作品制作が当たり前になっている。
ウィキペディアより一部抜粋/引用
ただし「ポリコレ」という観点でいうと、実はベルの「フェミニズムとしての性格付け」が単に「読書好き」としか定義されていない。
そして彼女が「父」のために行動するという、結局「旧態依然」のヒロイン像から抜け出せてないと、現代では批判されている。
ただし、この「1990年代」で目配せをしているということには、一定の評価を個人的にはしてもいいと思うし、ガストンを打ち破る、つまり「男尊女卑思考」を最後には打ち砕くというのには、一定の意義があったと考えている。

ということで、少々話が飛躍したが、ガストンを打ち破り、ベルと野獣が結ばれ「真実の愛」で「真の姿」を取り戻す。
最後の最後まで「美しく」その様子を描ききった今作品。
作劇としてもタイトに語られ、そしてなんと言っても「いい作品」「美しい作品」を見た。
つまり映画一本の満足度としては「高い体験」ができる、そういう点では、やはり類稀無い傑作だと言える。
それは結果にも現れており、「アナと雪の女王」「アナと雪の女王2」の制作まで「ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ」の制作作品では、世界興行収入でトップという結果を残した今作品。
まさに「ディズニー復活」「黄金期到来」を完全に決定付ける一本になった。
それは間違いない。
ということで、まずは今作品が素晴らしい作品であった。
その点を揺るがない前提として、この作品の「闇」の部分をココから深堀りしていきたい。
「美女と野獣」の「構造的欠陥」に気づいていたのは、一体誰か??

完璧だからこそ見抜けない、この作品の「欠点」
この作品はとにかく「美しい」作品だと言える。
だからこそ実は、この物語性に隠されている「欠点」が浮き彫りになりにくいのだ。
そもそもこの作品「人を見かけで判断した」王子が魔法にかけられて「野獣」にされた件を解決する物語だ。
そして、魔法の解ける条件は「王子が人を愛し人に愛されることを学び、『真実の愛』を見つける」ことだ。
つまり王子は「人を見かけで判断した」ことについての「罰」を受けたというわけだ。
だが、最終的に「王子が愛する」「王子を愛する」のは「美しいベル」だ。
実はここに、若干の矛盾を感じる物語性を帯びているのだ。
ただ、今作はこの微妙な「矛盾」を覆い隠すだけの魅力に満ちている。
ある意味で力技でここを押し通したのだ。

では、何故この矛盾が生じたのか?
それがまさに「原作」からの改変だ。
前述したが、原作では「ベル」視点で「見た目よりも中身」という教訓を描く作劇になっているのだが、今作ではそれを「野獣」視点で描く方向にアレンジしている。
つまり原作では「醜い男」の本質にベルが気づくことで、彼を愛し、そして彼もまたベルを愛するようになる。
そこから「人間」というのは「見た目」ではなく「中身」なんだよ、というのを伝えたい作品になっている。
だけど今作は、「野獣」が「美しい女性」を愛して、愛される。
実は今作の伝えたいテーマが実際のところ、この改変で有耶無耶にされ、そして決して小さくない矛盾を孕んでしまったのだ。
これを解決する手段は一つしか無い。
つまるところ、本質的にこの作劇で「王子・野獣」を成長をさせるには、実は「ベル」を「野獣」に置き換えなければならないのだ。
つまり「王子と野獣」にして初めて、このテーマは成立するのだ。
だが繰り返すが、今作はそんな「大きな矛盾」すらも飲み込む、圧倒的作劇でそれを見えなくしている。
それが一番の凄さだし、感服すらする。
復讐劇。ディズニー殺しの剣を振るう「カッツェンバーグ」
さて、そんな「美女と野獣」
この作品は、大ヒットし「ディズニー復活」「黄金期到来」を世界に宣言するに相応しい評価をされた。
そんな「黄金期」を支えた2人の人物がいる。
1984年に「ディズニー社CEO」の座についた「マイケル・アイズナー」と、そんな彼にフックアップされる形でディズニーにやってきた、「アニメーション部門最高責任者」の「ジェフリー・カッツェンバーグ」だ。
彼らは元々経営不振にあえいでいた「パラマウント映画社」を再生させ、その手腕を買われディズニーにやってきた。
そんな彼らの起用は早々に功を奏し「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」「ライオン・キング」と次々に大ヒット作を連発。
「黄金期」到来に多大な貢献をすることになる。
だが1994年。
2人は対立。結果、カッツェンバーグはディズニーを去ることになる。
そして彼は旧友「スティーブン・スピルバーグ」とともに「ドリームワークスSKG」を設立し、同社の「アニメ部門」の責任者となる。
そして2000年代ディズニーに立ちふさがる強敵となるのだ・・・。
さて、そんなカッツェンバーグは「ディズニー」のアニメ部門の最高責任者だったわけだが、ここで一つ疑問が浮かぶ。
彼は「美女と野獣」の「欠点」そして、そこを突き崩された際に露呈する「危険性」という部分に、気づいていたのではないか?
いや、確実に気づいていたはずだ。
だからこそ彼は「ディズニー殺しの剣」もっというと「美女と野獣殺しの剣」を作ることができたのではないだろうか。
彼が2001年に生み出した作品「シュレック」はいわば「アンチディズニー」を象徴する作品だ。
この作品を見た方はわかるが、この作品一見すると粗暴な「シュレック」という怪物が「フィオナ姫」と恋をする、完全に構造は「美女と野獣」だ。
だが、実は一捻り加えられており、フィオナの正体は「怪物」だ。
つまり「怪物同士」の恋模様を描いている作品だと言える。
この作劇は先程指摘した「美女と野獣」の矛盾点を消して、さらに先に進む、完全な上位互換作品だとも言える。
しかもご丁寧に「プリンス=フォークアード」の「顔」を醜く描いている。
これは「ディズニープリンセスもの」で少しずつ露呈していた「結局、大切なのは顔では?」という点を浮き彫りにしているとも言える。
この点は「野獣」が恋する相手が「美女」という「美女と野獣」の問題点をうまく、顕在化させている
さらに「白雪姫」を始めとする「おとぎ話」の住人を登場させるなど、明らかに過剰なまでに「ディズニー」を意識した作劇になっている。

そして「シュレック」は、この2001年新設された「アカデミー賞長編アニメーション部門」の最初の受賞作として高い評価を受ける。
ディズニーが喉から手が出るほど欲しかった賞を掻っさらい、見事に「リベンジ」をカッツェンバーグは果たしたのだ。

それを、うまくすくい取った、だからこその大ヒットと「アカデミー賞」受賞といえる
この効果は絶大で、「アンチプリンセス」「アンチ美女と野獣」「アンチディズニー」という側面をもった「シュレック」が世界的評価をされたことで、2000年代、ディズニーは完膚なきまでに叩きのめされるのだ。
そして「低迷期」を迎えることになる。
実に約10年間、この不信は続き、「プリンセスと魔法のキス」まで「プリンセスもの」を封印せざるを得ない状況に陥ったのだ。
低迷期の作品一覧
38 ファンタジア2000(Fantasia 2000)2000年
39 ダイナソー(Dinosaur)2000年
40 ラマになった王様(The Emperor's New Groove)2000年
41 アトランティス 失われた帝国(Atlantis: The Lost Empire)2001年
42 リロ・アンド・スティッチ(Lilo & Stitch )2002年
43 トレジャー・プラネット(Treasure Planet)2002年
44 ブラザー・ベア(Brother Bear)2003年
45 ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか農場を救え(!Home on the Range)2004年
46 チキン・リトル(Chicken Little)2005年
47 ルイスと未来泥棒(Meet the Robinsons)2007年
48 ボルト(Bolt)2008年
49 プリンセスと魔法のキス(The Princess and the Frog)2009年
このように「シュレック」という外部からの「ディズニー批評」その中で最も強烈な一撃を食らったことで、当然「プリンセスもの」を安易に作れる状況では無くなったディズニー。
そんな一撃を見舞ったのが、かつての「美女と野獣」制作の責任者というのは、なんとも皮肉なことだ。
そして2000年代は、ディズニー外部の動きも活発化。
「スター・ウォーズ(プリクエル)」(1990年〜2005年)
「ハリー・ポッターシリーズ」(2001年〜2011年)
「ロード・オブ・ザ・リング3部作」(2001年〜2003年)など、人気シリーズの開始が相次いだことも見逃せない。
さらにアニメ業界に目を向けると、「長編アニメーション部門」を「シュレック」に続いて獲得するのが「千と千尋の神隠し(2002年獲得)」
2003年「ファイティング・ニモ」、2004年「Mr.インクレディブル」(当時のピクサーとディズニーは協力関係にはあるが、ライバル社でもある)
完全にアニメ業界でもディズニーは他社に圧倒され、2000年代ただの一度とて、「長編アニメーション部門」獲得はならなかった。
こうして世界の映画業界、エンタメ作品業界からディズニーは完全に遅れを取ることになる。
そして当時ディズニーは、自社の過去の名作に続編を作るという、自分で自分の過去に泥を塗るという、暴挙を犯し続けていた。

当時の日本の状況
当時、「USJ」のオープン(2001年)で、「スティーブン・スピルバーグ」作品の再注目時期と重なる。
(「ジョーズ」「E・T」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ジュラシック・パーク」など)
そのため、「ディズニーアニメ」への関心が一気に薄れるなど逆風が吹く。
それが日本における「2000年代ディズニー作品」の圧倒的影の薄さにも現れている。
このように「美女と野獣」は「ディズニー最大のヒット作(当時)」として、「黄金期」到来を声高に宣言する作品となった。
だが、この作品が抱えていた「弱点」を突き崩されたことで「ディズニー」は一転、栄光の坂道を真っ逆さまに転落することになる。
そして、それを突き崩す「シュレック」を作ったのは「カッツェンバーグ」という、まさに「事実は小説より奇なり」というしかない歴史が紡がれたのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
「黄金期到来」を宣言する「絶頂期」の作品。
ただし今作が良すぎるが故、「見えなかった」問題点があった!!
そこを突き崩されて「ディズニー」は完全敗北をする。
まさに「栄光」と「衰退」のキッカケという作品。
まとめ
今作品はまさに「美しい」この一言に尽きる。
ディズニーらしさに溢れ、ストーリー・作画。
どれも半端ではないクオリティで仕上がっており、満足度は非常に高い作品だと言える。
ただ、この作品には一見すると分からない「矛盾点」も生じている。
原作と「成長」の過程を踏むキャラクターを変更している、にも関わらず「原作」と「今作」の、本来相容れない要素が混同されるなど、小さくない問題点もある。
だが凄まじいことに、この「矛盾」「問題」を今作は、圧倒的クオリティーで覆い隠している。
そして「名作」として世に送り出している。
この点は、やはり「神業」とも言うべきだ・・・。
そして「ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ」作品の中で最高の結果を出す。
それも納得の出来栄えだ。
だからこそ、この「問題」「矛盾」を突かれた際、ディズニーは一気に衰退をたどる。
「シュレック」という「ディズニー殺し」とも言える作品は、2000年代ディズニーに「プリンセスもの」制作を断念させるほどの切れ味を持っていた。
そして「衰退」の道を辿っていくディズニー。
ディズニーに「栄光」の「最高期」をもたらした今作が、外的要因で崩されることで「衰退」のキッカケにもなる。
まさに「光」と「影」を背負ってしまった「美女と野獣」
この作品を通ずる「歴史的」やり取りは、やはり今作を語る上では欠かせないと思い、今回、少しだけ「未来」の話にも踏み込んだ。
いずれにせよ、「ディズニー」にとって「歴史的一本」になったこと、それは間違いないだろう。
そして、この2000年代の「衰退期」を「如何にくぐり抜けるのか?」
それは今後の「総チェック」の楽しみにとっておこう・・・。
何にせよ、「総チェック」の時系列では、ここから「黄金期」本番。
まずはしっかりこの時期の作品を味わい尽くしていきたいと思う。
まとめ
- ハイクオリティな作品、間違いない「一本」に仕上がっている。
- ただし、「問題点」「矛盾」も生じている。
- 「美女と野獣」が崩されること=ディズニーの衰退の始まりになる・・・。
さて、今回は相当、力をいれました!
次回は「アラジン」
ここもしっかり語っていきますよ!!