
さて映画業界的にいうと「アカデミー賞」のノミネート作品がどんどん公開されるこの時期、「どの作品が賞を取るのか?」を考えるのが楽しい時期だったりします。
ということで今回は、もちろん「賞レース」でも注目間違いない作品『バビロン』を鑑賞してきたので、こちらの紹介をしたいと思います。
この作品のポイント
- 1920年の倫理観とは?
- 歴史の変化で失われてしまったもの
- それでも残ること
目次
『バビロン』について
基本データ
基本データ
- 公開 2023年
- 監督・脚本 デイミアン・チャゼル
- 出演者 ブラッド・ピット/マーゴット・ロビー ほか
あらすじ
1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。
サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。
会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。
恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。
マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。
しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。
果たして3人の夢が迎える結末は…?
公式サイトより引用
狂気と変化のハリウッド

1920年代のモラル
この映画の舞台である1920年代のハリウッドは、劇中でも描かれるがかなり倫理観・モラルが崩れた時代だ。
我々がエクストリームと感じることの大半がこの時代にはすでにあったのだ。
1918年に第一次世界大戦が終結し、アメリカは繁栄の時代に突入する。
とにかくイケイケどんどんを具現化した時代なのだ。
この時代のことを歴史的に「狂乱の1920年代」というが、まさにそうだ。
この頃には、いわゆるキリスト教の教義・宗教的なモラルが支配的でなくなり、人間の欲望が剥き出しになった。
しかも、所得税という制度自体はあったが、収入の7%程度に留まっており、金持ちは今とは比較にならないほどの金持ちだったのだ。
今作の主人公の一人ジャック・コンラッドはサイレント映画界のトップスターだ。
そしてとんでもない程に富を持っている。
彼が主催する酒池肉林のパーティ、これは圧倒的財力があってこそできることだ。
この冒頭の酒池肉林のパーティがおよそ30分、まさに狂ったテンションでスクリーンを支配する。
ドラッグ・セックス・特殊な性癖披露、この冒頭のシーンで至る所で局部が丸出し、欲望剥き出しで描かれる。
完全にモラルもない狂乱の坩堝なのだ。
驚きなのは冒頭、この酒池肉林のパーティーに本物の像を連れてくるシーンだ。
ことの顛末も本当に酷いのも見ものだ。
とにかく下品に狂った熱狂が映画全体を支配していく、この一連のシーンを見るだけでも価値がある。
さて、この映画のタイトル『バビロン』は古代オリエント世界において、奴隷制度で栄えた古代都市だ。
その都市は旧約聖書で「退廃した快楽都市」とされているが、この作品の冒頭はそんな「バビロン」を描きつつ、その時代が過ぎ去っていく悲しみを丁寧に描くことになる。
スーパースターの男、スーパースターになる女
この映画の主人公は4人いるが、とりあえず二人に注目したい。
ジャック・コンラッドとネリー・ラロイだ。
ちなみにこの作品、基本的にはフィクションだが、それぞれに元になった実在の人物もいる。
ジャックは元々サイレント映画界のトップスターで、あまりある栄光を手に入れた男だ。
そんな彼自身も映画自体の変化を望んでおり、時代の変化つまり「無声映画」から「トーキー映画」への変化を望んでいる。
そもそも1920年代というのは「無声映画」
つまり映像だけがスクリーンに流れ、状況説明は俳優の表情や、字幕での説明で「映画」が成立していた。
ちなみに日本では「無声映画」に「活弁師」がそのシーンの説明や、セリフをその場で吹き込んだりもしていた。
そこから徐々に役者の音声を流す技術が発達してきた時代だ。
もう一人の主人公であるネリーもそうだ。
彼女は非常に貧しい階層出身だが、一発逆転を夢見て映画業界に殴り込みに来た。
そのあまりにもイキイキと、しかし狂気を宿した圧倒的なカリスマ性で、彼女は一気に映画界のスターに上り詰めるのだ。
冒頭の酒池肉林のパーティも、凄まじくイカれているが、その中でもネリーは一際輝いている。
これは役者マーゴット・ロビーの魅力がまさに爆発している瞬間ではないだろうか?
ちなみにこの二人が映画を撮影しているシーンがカットバックで同時進行されるが、そこでカメラの故障や、アクシデントの連続。
ここをハイテンションで一気に見せるあたりで、映画人たちが映画撮影に注ぐ情熱はもちろん、そこにやはりいきすぎた狂気を孕んでいることが描かれている。
この一連のシーンで映画評論家高橋ヨシキさんは「この時代の映画作りをまるで稚拙なものとして描いているのには到底納得ができないと」言われていて、この辺りは頭の片隅においておいた方がいいのかもしれない。
こうしてこの作品は二人の役者が映画業界で高みに上り詰めるのを描く。
それとともに映画も勢いを増していく。
だが、時代の流れに彼らはすぐに置いてけぼりを喰らうのだった。
技術革新が彼らを過去の人にしたのだ。
トーキー時代の到来
先ほども言ったが今作は「無声」から「トーキー」へと映画のあり方が変化していく時代を描いている。
「無声」の頃、役者は表情とリアクションで演技していたのが、今度は声の演技も必要となってくるのだ。
つまり、また別の能力「声の演技」を要求されることになる。
ジャックとネリーはこの壁にぶち当たるのだ。
ジャックは表情、佇まいで魅せる男だった。
ネリーは無音ながら、何かがこちらに聞こえてきそうな存在感をスクリーンで魅せる役者だった。
しかし「声」がそこに加わると、途端にチープに見られてしまうのだ。
ジャックは声が妙に高いことで、シリアスなシーンなのに、まるで「ギャグ映画」のシーンであるかのように観客に笑われてしまう。
ネリーも話し方が貧困層出身であることが露呈して「品がないこと」また「声質がガサついている」ということで、映画に起用されることが少なくなるのだ。
もう一つに理由としては映画が性的描写、グロ描写などに規制「ヘイズコード」を制定したこともある。
このある意味で「生まれながら」のどうしようも変えることのできない壁に彼らはぶち当たり、時代に取り残されてしまうのだ。
しかしこの「トーキー」だからこそ輝いた人物も出てくる。
それがマニー・トレス、シドニー・パーマーだ。
マニーは映画冒頭でパーティに像を運び入れる役目を担い、ジャックの目に止まり映画界に足を踏み入れる。
シドニーは元々雇われのジャズトランペッターで、彼も冒頭のパーティにいたが、その後腕を買われて映画業界にやってくる。
マニーは徐々に映画のクリエイターとして才能を開花させ、シドニーたち演奏家を映画の主役に抜擢することで、彼らは一気に映画界の中心に成り上がっていく。
彼らもまた「映画」に情熱を捧げ「成功」を手にするも、様々な現実にぶち当たり挫折していくことになる。
特にマニーの人生に大きな影響をもたらすジェームズの存在感たるや。
演者トビー・マグワイアの表情がたまらないので、ここは注目だ。
この作品は4人の主人公の群像劇だが、彼らそれぞれが「成功」から「転落」をしていき、そして悲劇に見舞われるのだ。
デイミアン・チャゼルの描きたいこととは?
さて、この作品を見た方は最終的にこの作品をどう感じるのか?
多くの方は「バットエンド」よりの見方かもしれない。
映画により人生を棒に振った者たちの姿。
あまりにも痛々しく描写されている。
だけど、それでもマニーの最後にみせる満足気な表情になぜか「多幸感」すら見てしまう。
「何か大きな歴史の一部になりたい」と願ったマニー。
それはこの映画に出てくる全ての人物がそう願っていた。
印象的なシーンでは落ちぶれたジャックにエリノアが真理を解くシーンがある。
「映画の中で役者は生き続ける」
この作品の主人公たちは「映画」に命を賭け、その狂気の世界に翻弄され、結果挫折をした者たちばかりだ。
そして最悪な悲劇的な結末を迎えた者もいる。
「夢」「成功」を得るには何かを犠牲にしなければならない。
そして時に「狂気」に身を委ねる必要もある。
これはデイミアン・チャゼルの過去作『セッション』『ラ・ラ・ランド』にも通ずるメッセージだ。
『ラ・ラ・ランド』は前者の象徴だ。
ミアとセブは互いの「夢」のために、結果として「愛」を捨てることになった。
結果『ラ・ラ・ランド』には悲しみ、バットエンド感(結果的には夢が叶っているのでハッピーのはず)が強調されていたように見える。
そして『セッション』は「狂気」の面では『バビロン』に通ずる点も多い。
結果としては『ラ・ラ・ランド』も『バビロン』も「夢」のために何かを捨てた者たちの物語だ。
なんなら『バビロン』の方が悲惨なラストを迎えているにも関わらず、なぜか多幸感があるのはなぜか?
それはあまりの「狂気」に彼らが身を委ね、彼らの思いが今の映画につながっているからだ。
(そして映画の物語があまりの狂いっぷりに、ここまで狂えるのは、幸せだろうとさえ説得力があるのも要因の一つだ)
狂ったように時代を駆け抜けた4人。
この4人だけでなく、映画業界である意味「生贄」になった人間は数知れない。
ただ、彼らの「生贄」があったからこそ映画は今日まで発展し続けたのだ。
最後に今作は様々な映画の名シーンが挿入される。
彼らの思いは「映画の歴史」として今なお受け継がれているのだ。
文字通り「大きなものの一部になった」のだ。
この映画が冒頭まさに「狂乱の20年代」を丁寧に長時間描いたのは、それもまた歴史の一部だからだ。
あの「狂乱」が今の映画界につながっているからだ。
不思議なのは、今作のあまりにも下品な冒頭のやり取り、それすらも「美しい」「ノスタルジー」な思い出に変わるのだ。
確かにこの4人はフィクションの人物だ。
だが、確かに映画の歴史にはこのように、忘れ去られてしまった人物も多い。
失われたものの上に「今の映画」が成り立っているのだ。
この「映画史」の先に「今の映画」があるという視点は、インド映画の『エンドロールのつづき』とも非常によく似ている。
このように今「映画史」というものを俯瞰し、その先に「今の映画」があるという作りの作品が多い。
これは「コロナ禍」において「映画」のあり方が大きく変化していることも要因なのではないか?
変化することで「失われることもある」
でも、それはある意味で仕方ない。
でも「失われたもの」の上に「今がある」
その「失われたありし日」のことに思い馳せることが重要だというメッセージだろう。
そして、それは我々の人生においても変わらない。
今は「失われこと」の集積の上に成り立っている。
今作はそれを「映画史」というものを物差しにしたにすぎないのだ。
まとめ
ハイテンションで駆け巡る1920年から1950年代の「映画史」を勢いよく感じる作劇に、3時間という時間はあまりにも早く過ぎ去った。
無声映画からトーキーへの過渡期。
そしてモノクロからカラーへの過渡期。
この変化において失われた物・者も多い。
この映画はどちらかといえば「失われた側」の物語だ。
だが彼らがいなければ、映画の発展もなかったのかも知れない。
そして、これからも「失われた者」は出てくる。
だからこそ、そういう先人たちの思いを少しでも思い出す。
そのための作品なのかも知れない。
確かに「バビロン」は存在していたのだ。
そしてその「狂気」は今も「映画の中に燻っている」のかも知れない・・・。