
さて、今日も話題の映画について語っていきます。
ということで、今回取り上げるのは「浅田家!」
この作品のポイント
- 実際の「浅田政志」の苦悩と、そこに重なる「嵐」の「二宮和也」
- 震災という大きな現実に「写真を撮る意義」を見失う。
それでも、最後に「意義」を再確認する。
ちなみに「嵐」全体像についてはこちらに別途評論記事を上げてますので、こちらもどうぞ。
目次
「浅田家!」について
基本データ
基本データ
- 公開 2020年
- 監督 中野量太
- 脚本 中野量太/菅野友恵
- 原案 浅田政志『浅田家』『アルバムのチカラ』
- 出演者 二宮和也/妻夫木聡/風吹ジュン
あらすじ
幼いころ、写真好きの父からカメラを譲ってもらった政志(二宮和也)は、昔から写真を撮るのが大好きだった。
そんな彼が、家族全員を巻き込んで、消防士、レーサー、ヒーロー、大食い選手権……。
それぞれが“なりたかった職業”“やってみたかったこと”をテーマにコスプレし、その姿を撮影したユニークすぎる《家族写真》が、なんと写真界の芥川賞・木村伊兵衛写真賞を受賞!受賞をきっかけに日本中の家族から撮影依頼を受け、写真家としてようやく軌道に乗り始めたとき、東日本大震災が起こる――。
かつて撮影した家族の安否を確かめるために向かった被災地で、政志が目にしたのは、家族や家を失った人々の姿だった。
「家族ってなんだろう?」
「写真家の自分にできることは何だろう?」
シャッターを切ることができず、自問自答をくり返す政志だったが、ある時、津波で泥だらけになった写真を一枚一枚洗って、家族の元に返すボランティア活動に励む人々と出会う。彼らと共に《写真洗浄》を続け、そこで写真を見つけ嬉しそうに帰っていく人々の笑顔に触れることで、次第に《写真の持つチカラ》を信じられるようになる。
そんな時、一人の少女が現れる。
「浅田家!」公式サイトより抜粋
「私も家族写真を撮って欲しい!」
それは、津波で父親を失った少女の願いだった――。
原案作品
「2つのアルバム」を通じて、描かれることとは?

「家族」というものが希薄になった時代、だからこそ評価された
この作品は実話ベースの作品である。
原案は実在の写真家。
「浅田政志」の2冊の写真集「浅田家」そして「アルバムのチカラ」となっている。
基本的には、前半が浅田政志が「浅田家」という写真集で世に評価されるまでを描き。
後半で「東日本大震災」での「写真返還ボランティア」(アルバムのチカラ)での活動を描く。という作りになっている。
まずは「前半」では政志が「自ら撮りたいものを見つける」のがテーマになっている。
写真学校で「高い評価」をされながら、実家に帰った後、「撮りたいもの」が見つからず、腑抜け状態になった政志。
彼が「家族」を題材とすることを決める過程。
そして実際に、作品作りをする様子をユーモラスに描く前半。
さながら毎回、実家に帰ってきては「一悶着」を起こす「男はつらいよ」のようなドタバタコメディーの様相で描かれる。
その作品が、初めは世に評価されなかったが、時を経て写真家にとって最大の権威である「木村伊兵衛写真賞」を受賞する。
そしてその後、政志は多くの「家族」の「家族写真」を撮るために全国を回る。
こうして、自らの「写真」を使って、何を表現したいのか?
という大義名分を見つけた政志。
つまり、「写真を撮る意義」を見つけることができたのだ。
深掘りポイント!
なぜ、「浅田家」が写真界の権威ある賞「木村伊兵衛写真賞」を取れたのか?作中でも政志が一度、作品を持ち込んだ出版社で言われた「所詮、家族写真」
と言われていたが、それは事実だ。
ではなぜ「家族写真」が受賞することができたのか?
それは2008年という時代から推察することができる。
昨今は「個食」「孤食」など言われることも多い「家族のつながり」が希薄になった。と言われて久しい時代だ。
そういう時代だからこそ「家族」を題材にした写真に、人々は魅了されたのではないだろうか?
つまり、我々が、内心薄々求めていた「暖かい家族」という欲望を、この写真集は満たしてくれた。
だからこそ評価されたのではないだろうか?
ちなみにこの2008年、世間では「亀田三兄弟」がいた。
希薄になった「家族」という絆を前面に押し出すこと(「巨人の星」的な面もあるが)で、絶大的な人気を得ていた。
このことも無関係ではないだろう。
そんな「家族」という、昨今の時代には希薄になってしまった、しかし「大切」なものに目を向ける写真集が評価されることは、ある意味で「時代」にあっていた。
だからこそ、彼に「家族写真」を撮ってもらいたいという依頼が殺到したのだ。
何もかもが失われた「3月11日」
2011年の3月11日に起きた「東日本大震災」
日本の歴史においても、ここまで甚大な被害をもたらした震災はない。
この作品もそこに向かって進んでいく。
我々は「歴史」としてそれを知っているので、そこが近づいてくる。
そのことを知っている分だけ苦しくなってくる。
最初の依頼を受け「家族写真」撮影のために東北へ向かう政志。
そこで目に映る道路標識は、三陸海岸の「野津町」だ。
綺麗な海岸沿いの道路を走る政志。
そして路地を左折し、建築されたばかりの新居を訪れ、「佐伯家」の写真を撮る。
政志にとっては「最初の家族写真」撮影だ。
そこで娘の小学校入学を祝う家族。
そこには「幸せ」が広がっていた。
しかし、三陸海岸の「野津町」が後にどうなるのか?
それを知っている我々は、胸をえぐられた気持ちにさせられる。
そしてこの作品は、震災後、「佐伯家」を案じた政志が再度この町を訪れる際、全く同じ場所、カットでシーンを構成している。
その景色の変わりよう・・・。
折れ曲がった「道路標識」
そしてウィンカーを出して左折した、その先にあるのは、見渡す限りの瓦礫の山。
我々もテレビで目撃した「東日本大震災」という目を背けたくなる現実が広がっていたのだ。
さて、ここから物語は一転する。
これまで「家族」というものを題材にしてきた政志。
だが避難所で、その「家族」を失った悲しみを持つ者たちを見ることで、心が揺れ動くのだ。
それが最も顕著になるのが父の誕生日に実家に戻ってきた場面だ。
兄夫婦に息子が生まれ、そして父の誕生日を祝う。
幸せな「家族」が目の前にいる。
それは今までの日常では、「当たり前」だった景色だ。
でも、政志が目にしてきた東北ではそれを失うこと、その「悲しみ」が今なお続いている。
そのギャップに愕然としている、そのため政志の心はここにあらず。
昨日までの写真洗浄のボランティアをしていた風景と、この実家が同じ世界とは思えないほどのギャップが広がっていたのだ。
そして政志は、「家族」の写真を撮るということに、大きな疑問を抱くのだ。
(この点は、あとで詳しく解説)
それでも「政志」にできることとは?
この作品の後半の見せ場は、震災で父を失った「莉子」の願いである「家族写真」をとって欲しいという願いを叶えることだ。
内田家の写真のなかで、父の写真が見つからない。
その現実に対して、彼女の現実を認めたくない。そんな思いが口をついたわがまま。
当然それは「撮れない」と政志は告げる。
だが、政志はある気づきで、彼女のその願いを叶えることになる。
今作品では実は、その伏線が冒頭から張られていたのだ。
「なぜ、父の写真はないのか?」
それは、ずっと父は、家族の写真を撮り続けていたからなのだ。
それは政志の子供の頃の記憶にも繋がる。
政志の父との「写真を通じての思い出」が、結果「父を失った莉子」の願いを叶えることになるのだ。
それは一度見失いかけた「写真を撮る意義」を再び政志に取り戻させたのだ。
あまりの現実に、何もかもはぎ取られた。
それでも政志にできることは何か?
それは「写真を撮る」ことなのだ。
だからこそ、「内田家」の写真。
そこに「父」の姿はなくとも、でもそのカメラを見つめる家族の先に「父」はいたのだ。

そして、写真洗浄ボランティアをおえ、時間軸が冒頭の場面に戻ってきて、最後はやはり「浅田家」らしく幕をおろす。
ということで、今作品、見た方ならわかると思うが「作劇として素晴らしい」
この点は、誰も否定できないのではないだろうか?
ただ、ボクは、ある一点、つまり「二宮和也」という存在に主役を演じさせたこと。
そこに大きな意義があったと思っているので、その点についてこの後、論じていきたいと思う。
「嵐」の「二宮和也」だからこそ「意味」がある

「嵐」であることへの「迷い」
さて、ボクはここまで「作品の内容」について語ってきたが、個人的に伝えたいことは別にある。
それが「嵐」の「二宮和也」が「浅田政志」を演じたこと。
それに大きな意味があるという点だ。
この作品の後半で「浅田政志」が感じた苦悩。
つまり「家族」というものを失った人々が多くいる現実で、自分が再び「家族写真」を撮ることへの迷いを描いている。
突然の出来事と、自分がしてきたこれまでの「活動」
そのギャップに「こんなことしてて良いのか?」という迷い。
最も顕著になるのが、前述もした、一度父の誕生日に政志が実家に帰ってくるシーンだ。
これが「3月11日」に、おそらく「嵐」の「二宮和也」たちが感じた苦悩と重なるのではないだろうか?
つまり、この打ちひしがれるような現実で、自分が「アイドル」「嵐」である。
このまま自分たちがそういう活動を行うこと、そこに迷いが生じたのではないだろうか?
全てが「当たり前」に存在する現実。
そこでこそ、自分たちの活動に意義がある。
だけど、現実に起きた悲惨な光景を見てしまい、そこにはもう「当たり前」の現実はない。
この現実と、そして「アイドル」であるということにギャップを抱かないわけがないのだ。
ただ、それでも人々には「アイドル」「嵐」が必要なのだ。
それは、人々の心を鼓舞する存在として、人々の心を支える存在としてだ。
そんな自分たちの活動意義を、二宮さんも絶対に感じたはずだ。
そして実際に、被災地の知事たちからは、このような声も上がっている。
福島県の内堀雅雄知事は「これまで被災地でのイベントなどで多くの被災者に元気を与えてくれた。」と述べた。(産経新聞より抜粋)

だからこそ、現実の浅田政志が感じた苦悩と、二宮和也が感じたであろう苦悩。
その姿が重なるのだ。
同じ苦悩をした者。
だからこそ、この作品は、二宮和也が浅田政志を演じなければならないのだ。
そこに大きな意味が、間違いなくあるのだ。
今作を振り返って
ざっくり一言解説!!
誰にでもオススメできる、優秀な作品!!
丁寧に作られた、見応えある作品!
まとめ
今作品は非常に見応えある優秀な作品だ。
後半は特にずしりとくる展開なのだが、最後は「明るく」「希望」のある物語として締め括られる。
作品を見ていて感じる、実に「浅田家」らしい幕引きをするのだ。
改めて「家族」という共同体の「暖かみ」を再確認させらた。
逆にいうと、その存在を無慈悲にも奪われる、その悲しみは言葉では言い尽くせない。
あの震災はまだ終わっていないのだ。
ということも、また「明るい」幕引きのなかに感じてしまう。
そんな痛みを癒せるのが「写真」であり「アイドル」なのかもしれない。
そういう意味で何度も繰り返すが「二宮和也」が「浅田政志」を演じたこと、ここにやはり大きな意味を感じずにはいられない。
さらに本作は脇を固める役者陣も最高だ。
黒木華さん演じる「若菜」の健気さは胸キュン必至だろう。
妻夫木さん演じる兄も、「自由奔放」な弟を時に叱咤し激励する。
そんな器の大きさを感じられる。
菅田将暉さんの、ボランティアでの「地味さ」
さすがカメレオン役者!
というだけあって完全に存在感を消しているのも、本当に見事だった。
などなど、当たり前だが役者の演技の最高さ。
などなど、一つの映画としてやはりクオリティは高いし、非常に優秀な作品だったと言わざるを得ない。
その点は映画を見ればわかることなので、もしも映画を見ずにこの記事を読んでいる、そこのアナタ!
間違いなく、万人にオススメできる作品なので、ぜひ劇場で見てくださいね!!
まとめ
- クオリティの高さは間違いない作品。
- 「二宮和也」が「浅田政志」を演じる。
そこに大きな意味があった作品だと言える。
ということで、今日も読了ありがとうございます!
また、近々お会いしましょう!!