
今回は「ディズニー」ぽいけど、実は「ディズニー」ではない作品として有名な『アナスタシア』を評論したいと思います。
ちなみに、この作品を制作した「20世紀フォックス」はディズニーに買収されたので、今ではこの作品は広義の意味で「ディズニー作品」の一つになってます。
この作品のポイント
- 主人公とヴィランの対関係がおもしろい
- 虚実を混ぜ、工夫された作劇
目次
『アナスタシア』について
作品情報
基本データ
- 公開 1997年
- 監督 ドン・ブルース/ゲイリー・ゴールドマン
- 脚本 スーザン・ゴーシャー/ブルース・グレアム
ボブ・ツディカー/ノニ・ホワイト - 声の出演 メグ・ライアン/ジョン・キューザック
あらすじ
ロシア、ロマノフ王朝の皇女アナスタシアは、宮殿で幸せに満ちた日々を送っていた。
そんなある日、邪悪な魔法使いラスプーチンが、アナスタシアと家族たちに呪いをかける。
やがて勃発したロシア革命の混乱の中、アナスタシアはひとり取り残されてしまう。
Googleより引用
見過ごせない逸品!!

なぜディズニー作品っぽいのか?
1997年に「20世紀フォックス」が会社として初めて制作した「アニメ」作品だ。
もっというと、1956年ロシア出身の「アナトール・リトヴァク」が制作した『追想』という作品のリメイク作品でもある。
ちなみに、この『追想』はマルセル・モーレットによる1955年の戯曲『アナスタシア』の映画化作品でもある。
なので、今回評論する1997年版の『アナスタシア』は完全オリジナル作品ではない。
ただ今回評論する『アナスタシア』を見た方はわかるだろうが、「ミュージカル」作品であること。
「魔法」が登場するなど、一番フィクション度合いの高い仕上がりになっているのも特徴だ。
さて、そんな今作だが、全く知識のない人にこの作品を見せると、大多数が「ディズニー作品」と勘違いするほどに「ディズニーっぽい」作品になっている。

広義の意味で言えば、今この作品は「ディズニー作品」だと言える
今回はそんな「なぞ」から作品を紐解いていきたいと思う。
とはいっても、その答えは至ってシンプルだ。
監督の「ドン・ブルース」
彼はかつて「ウォルト・ディズニー」の再来と目されたアニメーターだ。
1971年に「ディズニー」に入社後『眠れるの森の美女』『王様の剣』『くまのプーさん 完全保存版』『ビアンカの大冒険』『きつねと猟犬』などを手掛け、ディズニーのアニメ部門の中枢を担っていた人物だ。
そんな彼が『きつねと猟犬』を手がけた後、ディズニーの上層部と対立。
彼は社内のアニメーターを率いてディズニーを離脱してしまう。
結果、ディズニーは完全な「暗黒期」を迎えることになる。
この作品の次に公開されるのが『コルドロン』と言えば、わかる人にはわかる「ヤバみ」だろう。
その後、ブルースはヒット作などを制作するが人気作家として長続きしなかった。
今作『アナスタシア』以降は特筆すべき作品を制作することなく、映画界の表舞台を去った。

『アナスタシア』は第70回アカデミー賞主題歌賞と音楽賞にノミネートされるなど、一定の評価は得ている。
ちなみに70回はちょうど『タイタニック』が賞レースをほぼ独占している時期
おそらく彼が、この作品以降表舞台から去る、その裏でディズニーが、1989年『リトル・マーメイド』以降約10年続く「黄金期」なのは皮肉なことだとも言える。
ということで、なぜ『アナスタシア』が「ディズニー作品」に酷似しているのか?
それは監督ドン・ブルースは完全にディズニーのイズムを継承した人間だったからだ。
むしろ、彼の功績を振り返ると、誰よりもそのイズムを強く継承しているとさえ言える。
そんな人物が制作したのが『アナスタシア』なのだ。
時代・舞台が確定している中での「プリンセス」もの
今作品最大の特徴は「舞台」「時代」が完全にはっきりしている舞台での「プリンセス」ものだという点だ。
今作が公開された1997年代では、ディズニーに限らず、基本的に「プリンセスもの」のフォーマットしては「昔々あるところに」という始まりをする。
今作はそこが他のジャンル作品とはっきりと一線を画している。
後にディズニーが2009年『プリンセスと魔法のキス』で第一次世界大戦の後を舞台にしているのだが、それよりも先に1997年に『アナスタシア』はロシア「ロマノフ朝」末期。
もっというと1917年の「ロシア革命」を舞台にしている。

そこで、史実とは流れこそ違うが、ニコライ2世が殺害される「ロシア革命」が起こる。
騒動の最中、アナスタシアは逃げ遅れ列車から転落し、全ての記憶を失うのだ。
ちなみに史実では「革命」ではニコライ2世、及び家族は殺されず、エカテリンブルクに幽閉された。
その後、ニコライ2世やアナスタシアを含めた家族全員が1918年の7月11日に殺害されている。
しかし、このあまりの残酷な仕打ちにロシア国内では「実はアナスタシアは生きているのでは?」という根も葉もない噂話の広まり。
ソ連も政治基盤がきちんと確立されるまで、あえて「生存しているのでは?」と偽情報を流していたりした。
実際に「私はアナスタシアだ」と名乗る偽物「アンナ・アンダーソン」が出現するなど、さまざまな出来事が起きた。
今作はそんな「アナスタシア生存説」や「アンナ・アンダーソン」の出来事を織り交ぜて描かれているのも特徴だ。
特に「アンナ・アンダーソン」の話は、いわゆる「アナスタシア」をモチーフにした作品に多大な影響を与えているし、今作に関していうと、まるで原作にしているのか?
と思わせるほどに、この事件をうまく物語に落とし込んでいるのだ。
考えられた構成
ということで、そろそろ『アナスタシア』本編の話をしたいと思う。
この作品は確かに「ディズニー的」な要素は多い。
例えばヴィランである「ラスプーチン」が「奇妙奇天烈」な「魔法」のような力を使う点だ。
さらに立ち位置も「憎めないヴィラン」というポジションをとっている。
そして、しゃべるコウモリ「バルトーク」が、いわゆる敵側でありながらギャグ・コメディを演じていたりする。

さらにアナスタシアに懐いて、最後まで旅のお供をする犬「プーカ」も所謂、ディズニー的動物キャラデフォルメがされている。
そして、作劇がミュージカル仕立てという点もまた「ディズニーっぽさ」を感じる要素となっている。
このように、ぱっと見はやはり「ディズニー」っぽい作品であることは否定できない。
だが、今作はアナスタシアの決断。
このアナスタシアの冒険の先の結末こそ、1997年時点での「プリンセスもの」としては非常に革新的であったと言える。
これは総チェックでも述べたが、ディズニーは1999年以降、「ピクサー」と合併してジョン・ラセターがCCO就任まで「低迷期」を迎える。
しかもこの時期は一町一番地である「プリンセスもの」を制作していない時期でもある。
おそらくその理由としては旧態依然とした「女性観」が世間としては受け入れられなくなったという背景もある。
つまり、ただ単に女性は男性に認められてこその幸せという価値観は、時代の発展と共に疑問が生じることになったのだ。
今作品は中盤までは、過去の記憶を失ったアナスタシアが、過去の微かな記憶にある家族を探す物語だといえる。
つまり、「本当の自分の家族」を求める話だ。
冒頭の事件以来、身寄なく孤児院で育てられたアナスタシア。
彼女はアーニャと名乗ることになり、院を出る歳にになっていた。
そしてディミトリ、ウラジミールと出会い彼らの詐欺の計画に乗ることになる。
この計画とは、マリー皇太后が「革命」以来ずっとアナスタシアを探していて、彼女を見つけたものに賞金を与えるという話を利用したものだ。
ディミトリ、ウラジミールはアーニャを「アナスタシア」に仕立て上げることで、一儲け企んでいたのだ。
皇太后のいるパリを目指すため一同はロシアを離れ、ドイツを経由しパリを目指すことになる。
この旅の道中、死んだと思われていた「ラスプーチン」が実は生きており、ロマノフ家の血筋を根絶やしにするために、罠・攻撃を仕掛けてくる。
それを乗り越えるにつれてアーニャとディミトリは惹かれ合うようになる。
この作品が秀逸なのは、アーニャは最後に実の家族よりも「愛」を選ぶ点だ。
つまり「プリンセス」になるのではなく、自分の意志でディミトリとの「未来」を選ぶ。
この選択も、当時の「プリンセスものかくあるべき」という常識から考えれば、時代の先取りをしているとも言える。
だが、それ以上に、この決断が実に構図として上手くできている。
ぶっちゃけ、ディミトリがアーニャに嫁げば、全部丸く収まる気もしなくはないが、そこは目を瞑るとして、なぜ構図として素晴らしいのか?
それはこの作品のヴィラン「ラスプーチン」とアーニャの関係性だ。
過去と未来
今作のヴィラン「ラスプーチン」
彼は実在の人物で、奇怪な見た目から「怪僧」などと呼ばれている。
彼を「ロシアの偉大なラブマシーンだ」と称して「Boney M.」が、1978年に「怪僧ラスプーチン(Rasputin)」をリリースして大ヒット。
この独特な楽曲は昨今では「TikTok」で大流行していて、耳にした人も多いかも知れない。
その元ネタの人物が「ラスプーチン」だ。
今作では彼は「ロマノフ家」を恨み、復讐をするために「ロシア革命」を先導し、アーニャたちの家族を殺した張本人だ。
さらに死してなお、ゾンビのように生きながらえており、アーニャを殺して、血筋を断絶させようとまで、恨みと募らせている。
アーニャにとっては宿命の相手ともいうべき存在だ。
だが、史実では、むしろアナスタシアは彼を信用している。
「親愛なる、大切な、唯一の友人」
「私はまたあなたに会いたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。いつもママにあなたがいつ来るのか聞きます。・・・とても優しくしてくれる、いつも親愛なるあなたのことを考えています」
アナスタシアの手紙より引用
アナスタシアは、上記のような手紙をラスプーチンに送るほどにまで、彼に心酔していた。
そしてラスプーチンの暗殺後の葬儀にも参加をしている。

ただし、当然今作ではそういった設定は全て廃されており、ラスプーチンはヴィランとしての位置付けだ。
さらにラスプーチンは「過去」つまり「ロマノフ」への恨みを抱き続け、復讐に燃える存在として描かれている。
これは「過去」に縛られた男だとも言い換え可能だ。
さて、この「過去」に縛られる、そういう意味で、主人公アーニャもまた同じだ。
彼女は過去の記憶がなく、ただ薄ぼんやりとした記憶の中の家族を追い求めている。
しかし、作品では前述したがアーニャは、この過去を選ぶことはしない。
つまりロマノフ王朝のアナスタシアに戻る決断をせず、別の「未来」
ディミトリとの「未来」を選ぶのだ。
一方ヴィランのラスプーチンは最期まで「ロマノフ家」の全滅に執念を燃やしていて、それはやはり「過去の恨み」が根底にあるのだが、彼は「過去」に囚われ破滅をする。
つまりアーニャもラスプーチンも「過去」に縛られていたという点では共通するのだが、その「過去」とどのように「折り合い」をつけるのか?
それが主人公とヴィランの行く末にも関わってくるようになるのだ。
つまり、ラスプーチンはアーニャのダークサイドなのだ。
そして執着で身を滅ぼすという意味ではラスプーチンは見事なまでに「ヴィラン」としての役目を果たしているのだ。
ただし、今作ではラスプーチンが「ロマノフ家」ひいては、ニコライ2世に裏切られたとは言ってはいるが、具体的なエピソードが描かれず、せっかくの対比構造がうまく描けていないという点は、残念なポイントだ。
そこがしっかり描けていれば、もっと今作は良くなったはずだとも言える。
ただし、主人公とヴィランの対立構造などは、割と考えられてもいるので、映画の構成として非常にうまいと思わされた。
最後に悪いところも指摘!
さて、ここまで『アナスタシア』のいいところを上げてきたが、最後に悪い点も指摘しておく。
先ほども言ったがラスプーチンの「行動原理」
これが、あまりにも不明瞭な点は指摘せざるを得ない。
例えば史実のように、皇帝夫妻にが「神秘主義」に傾倒していく過程で、ラスプーチンに出会う。
だが、周囲に「ペテン師」だと疑惑をもたれ、遠ざけられてしまう。
それを逆恨みしての行動として描くなど、深掘りのしようはいくらでもあったはずだ。
この深掘りが薄い分、なぜゾンビになっても、彼が「ロマノフ家」に執着するのか、ボケてしまう。
しかも「過去の執着」は主人公の決断とは対になるべきなので、ここがボケていると、この結末のカタルシスもボケてしまうのだ。
ただ、なまじこれが「史実ベース」
しかも、彼自身の歴史的評価において、我々が知るイメージは、政治的対立者のつけたものもある。
実際彼は「平和主義者」であったし「捏造」の部分も多い。
そもそも、史実ではレーニンの起こした革命だ。
それを、全てラスプーチンになすりつけている感も否めない。
だからこそ、具体的な行動原理を描くことは、余計な「批判・反感」を招くかも知れないという、配慮によるところとも取れるので、仕方ないかとも思う。

歴史的観点を知るとアーニャに感情移入しすぎるのも・・・、うーんとなるよね
そして、「ディズニーっぽい」とは言ってきたし、力の入るところの作画はうまい。
特に「パリ」到着後のミュージカルシーンは圧巻だ。
しかし、どこが今作独自の魅力になっているか?
と言われれば、やはりオリジナリティという点では、ディズニーフォロワーの粋を出ていないとも言える。
なまじクオリティが高い分、「でもディズニーじゃない」という違和感が生じている。
ここはもう少し、キャラクターデザインなどを工夫して補う必要があったのかも知れない。
結局ドン・ブルースがこの後、アニメ業界で活躍できなかったのは、彼独自の魅力が詰まったアニメを作ることが出来なかった点は多いにあるのではないか?
あまりにも「ディズニー」と見紛うほどのクオリティのアニメが、なまじ作れてしまったからこそ、生じた「違和感」
もっと言えば「贋作」的な見え方。
これらが、ドン・ブルースのキャリアにとって足枷になったのかも知れない。
今作品を振り返って
ざっくり一言解説!
これはこれで、必見な逸品!!
見応えはバッチリ!
まとめ
今作品は、ドン・ブルースがディズニーを退社した際のアニメーターと共に作り上げた作品だ。
だからこそ「ディズニーっぽさ」が全面に打ち出された作品でもある。
だが、アーニャの決断。
つまり、自分がずっと「求めていたもの」
それ以上に大切なものを見つけ、それを選ぶというのは、ある意味で後年の「ディズニープリンセスもの」が描くものと一致している。
つまり1997年時点で、時代を先取りしていたとも言える。
しかし、今作後のドン・ブルースのアニメ界での活躍がないというのは、やはり「ディズニーらしさ」
つまり、なまじクオリティの高い「ディズニーらしい作品」を作れてしまうからこそ、彼独自の色が出せずに埋もれてしまったのが理由かも知れない。
そこを考えると、彼と同じ時期にディズニーを離れた「ジョン・ラセター」「ティム・バートン」は、やはり「独自色」がある。
おそらく、なまじ「ディズニー」らしさを強く引き継いしまったが故に、彼はその後、アニメーターとしての活躍の場を失ったのではないか?
「ディズニー」で活躍していたからこそ、その「過去の経験」にドン・ブルースは食い潰されたのかも知れない・・・。
まとめ
- 1997年時点で、ディズニーの先取りをする結末を提示
- ドン・ブルースのこれ以降のキャリアを考えると、複雑な心境になる